音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

古楽器集合

2024-08-24 21:00:00 | ルネッサンス
金曜は第15回聴き合い会でした。
これは、先日ご紹介した復刻1700年代マンドリンです。
稲田さんも来てくれました。

弾けませんよ。
ポーズだけ。
でも触ってみたらわかることもあります。
まず軽いです。
220グラム。
持っていて苦になりません。 
フレットを押さえる左手も楽に押さえられます。
モダンマンドリンは二本の弦を、しっかり押さえないといけないので、指にくっきり二本のラインが入りますが、これはぎゅっと押さえなくても音が出ます。

また、ギターに比べてネックが細いので頑張って指を広げなくても楽々どのフレットも届きます。

右手はマンドリンよりも幅狭め長めの薄いピックで弦を捉えやすくより繊細な表現ができそうです。

稲田さんが言っていたストレスフリーの意味がわかってきました。

今回は、奥田さんと私のフルート、瀬さ渡瀬さんのモダンギター、河塚さんの19世紀ギター、古楽器ビウエラの斎藤さん、高島さんの二胡。
坂田さんと早井さんのピアノと後匿名希望の歌の方、見学も来られました。

みなさん、熱意ある演奏でルネサンス音楽から、現代日本の武満徹、唱歌までバラエティ豊かでした。

ルイス・デ・ナルバエス( 1526- 1549年活躍)イタリアグラナダ生まれ、



作曲家でビウエラ奏者。
生前から高く評価されていたナルバエスは、今日ではビウエラのための多声音楽集『デルフィンの書物』で知られ、この中には最古の変奏曲も含まれています。

また、同時代のイタリア風リュート音楽をビウエラに取り入れた最古の作曲家としても知られています。

ナルバエスの生誕日や生年月日さえも正確にはわかっていません。

彼はグラナダで生まれ、現存する最古の文献によると、1526年にはフランシスコ・デ・ロス・コボス・イ・モリーナの家庭にいたといいます。

コボスは芸術のパトロンとして有名で、カール5世統治下のカスティーリャ王国の国務長官兼評論家を務めていました。

ナルバエスはパトロンが1547年に亡くなるまでバジャドリッドで暮らしましたが、1539年から1540年にかけてはメディナ・シドニア公爵に仕えていました。

この時期に、作曲家は大規模な音楽コレクション『デルフィンの書物』 (バジャドリッド、1538年)

表紙

を出版しました。

1548年までにナルバエスは王室礼拝堂の音楽家として雇われ、聖歌隊員に音楽を教えていました。

彼の同僚には有名な鍵盤楽器作曲家のアントニオ・デ・カベソンがいました。

ナルバエスとカベソンはともにスペイン摂政フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)の音楽家として雇われ、摂政の多くの旅に同行しました。
ナルバエスに関する最後の言及は、そのような旅の1つに関するもので、1549年の冬、彼は低地諸国に滞在していました。

ナルバエスは生前、特にビウエラ演奏で非常に高く評価され、4つのパートを即座に別の4つのパートの上に即興で演奏できたと伝えられています。
彼の息子アンドレスも熟練したビウエラ奏者になりました。

ナルバエスのファンタジー14番







雨の後、私は見た

2024-08-08 21:00:00 | ルネッサンス
降りそうで降らない。降っても少しだけ。
レッスンのみなさんとのご挨拶も
「暑いですね。」
「今年は異常ですね。昨年もひどいと思ったけれど、一段階上がった気がしますね。」
庭の植木も水をあげても、昼間には頭を下げてしまいます。

夕方になったら『雨降らないかな?』と待ってしまいますが今週はあまり降りません。降ってもお湿り程度。
降り過ぎるのも困りますが、そろそろ少し降っても良さそうです。

ルカ マレンツィオ(1553-1599年)

おそらくブレシア大聖堂
の礼拝堂の G. コンティーノの弟子であったと思われます。

トレントの礼拝堂でしばらく奉仕し、1578 年から 1585 年まではモデナのルイージ デステ枢機卿に仕えました。  
1588年から1589年にかけて、彼はフェルディナンド公

とロレーヌのクリスティーナの結婚式のためにメディチ家の宮廷に出席し、I.ペリやE.デ・カヴァリエリと連絡を取りながら、祝賀会の作曲に貢献しました。

この機会に彼は、マドリガルの枠内に留まりながらも、すでにフィレンツェの「リサイタル・カンタンド」(オペラの源流)を先取りした「ミューズとピエリデスの競争」と 「コンバット・ピティコ・ディ・アポロ」を作曲しました。

その後ローマに住み、オルシーニ家(1589年~1592年)とアルドブランディーニ枢機卿(1593年~1595年)に仕えました。

1595年に彼はポーランド王
ジグムント3世
の宮廷に仕えました。

1598年に彼はヴェネツィアに戻りました。彼の生涯の最後の時期に関する情報はありません。

タッソとグアリーニの友人であり、「音楽的ペトラルキズム」(イタリアのペトラルカ(1304-1374)の抒情詩に影響を受けた考えのこと)の最大の提唱者であるマレンツィオは、モンテヴェルディの直接の先祖であるマドリガルの発展における最高潮の瞬間を代表しています。

音の象徴主義(マドリガリズム)と「視覚音楽」の技巧は、彼の作品の中で、気候の描写と感覚を結びつけています。

リズムと言葉の意味に注意を払っていますが、マドリガーレがもはや詩的な形式に従属するのではなく、本質的に音楽重視になっています。

彼の音楽の特質は、長音階の範囲全体にわたる旋律の発明と、最も大胆な半音階の変化にも論理的な一貫性を持ち、ジェズアルドに見られた実験的な半音階の使用をより柔軟に展開しています。

マレンツィオの作品は、多数のマドリガーレ コレクション (5 声のマドリガーレ 9 冊、6 声のマドリガーレ 6 冊、4 声と 4 6 声のマドリガーレ 2 冊、5 声の精神的および時間的マドリガーレ 1 冊) に加えて、人気のあるヴィラネルとナポリの 3 声のアリア、そして神聖なジャンルではモテット、神聖なカンティオン、アンティフォンです。

四声のマドリガーレ
Non vidi mai dopo notturna pioggia
「夜の雨が降った後私は空に見た」

夜の雨が降った後の静かな空気の中を星が動き、
露と霜の中でより明るく燃えているのを
見るたびに、目の前に星の瞳が見える。
人生の疲れが癒される。
美しいベールの影に星を見たように。
あの日、星の美しさで空が燃え上がるのを見たように
涙を流しながらも星が輝き続けるのを見て
私は永遠に燃える。



カエルのダンス

2024-07-27 21:00:00 | ルネッサンス
金曜日、ギターのH嬢が小型の水槽を大切そうに牧野に持ってきました。

中にいたのは、クランウェルツノガエルの小夏。

金曜日から、月曜までうちでお預かりします。
H嬢は伊丹の昆虫館主催の昆虫ツアーに参加するため、小夏姫を3泊4日、生物オタクの次男が面倒を見ることになったのです。

ところが金曜日は次男夜勤。
私が見ています。

このブログを読んでくれている人たちの中には、虫やカエルが苦手な人がいるので写真は自粛。

500円玉よりちょっと大きいくらいで、黄緑色と、薄茶色のまだら模様。
日本のトノサマガエルよりは寸詰まり…つまりだるまに近いです。
かわいい💖

写真は1日1回のお水換えの時にボウルに移っていただいている時のものです。
人の手で直かに触るとやけどするらしく、スプーンでボウルにそっとお移りいただきます。

結構跳ぶらしいのでザルで蓋をしています。
大人しくてじっとしているので、心配になりますが、水を替えてキレイにした水槽に戻すと、2跳ねしました。

買ってきたコオロギを週2回やるそうですが、次は土曜日。
コオロギではなく、

乾燥餌をあげます。このうちの一粒。
餌やりたい。土曜日が待ち遠しい。
むふふ…。

ミヒャエル プレトリウス(1571-1621年)神聖ローマ帝国チューリンゲン地方クロイツブルク生まれ、神聖ローマ帝国
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領ヴォルフェンビュッテル没

トルガウやフランクフルト・アン・デア・オーダー、ツェルプストなどで学びます。

フランクフルトのマリア教会

オルガニスト

聖マリア教会のオルガン
を務めた後、1604年からヴォルフェンビュッテル宮廷
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領 国章


ヴォルフェンビュッテル宮殿
にてオルガニスト兼宮廷楽長に就任します。

1613年から1616年まで、ドレスデンのザクセン宮廷

に仕え、ヴェネツィア楽派の複合唱様式による最新のイタリア音楽を演奏しました。

ジョヴァンニ・ガブリエーリのようなヴェネツィア楽派の作品を熟知していたおかげで、プレトリウスはその後教会コンチェルト様式を発展させました。

プレトリウスの作品は、1000曲以上のコラールと賛美歌の編曲を含む9巻の曲集『シオンの音楽』(Musae Sioniae, 1605年 - 1610年)


があります。
そのほかは、ほとんどがルター派教会のための作品です。

1612 年に出版された 300 曲以上の器楽舞曲集『テルプシコレー』 (Terpsichore)
は、プレトリウスの現存する唯一の世俗音楽集です。

3巻の論文集『音楽大全』(シンタグマ・ムジクム、Syntagma musicum, 1614年 - 1620年)

パーティーガーディのページ
は、同時代の演奏習慣や楽器について詳細な説明と図解がなされ、音楽学・形態学研究や古楽演奏の分野にとって重要な文献となっています。

「テレプシコーレ」でプレトリウスがフランスの舞踊レパートリーを基に、他国の曲もいくつか加えて作曲しています。

プレトリウスは作曲ではなく編曲のみを手掛けたとされています。 

その舞曲の 1 つに「カエルのバレエ」があります。
ダンスは伝わっていませんが音楽に合わせて飛び跳ねるダンスを想像することができます。



水の妖精のいたずら

2024-07-20 20:58:00 | ルネッサンス
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米のカルテットレッスンでした。

今日は8月4日木村門下発表会最後の練習でした。
力が入ります。
直子先生の適確なご指導で音楽の流れが変わります。
私もアウフタクトの取り方、中途半端な演奏をしているとすぐに見透かされてしまいます。

まだ課題が残る中、とりあえず宿題を頂いで終了。

いつものケーキタイム。
いつものケーキ屋さんが閉店されたので、牧野で有名なれんげそうで、買ってから行きました。
1時間以上、やっぱり少し崩れてしまいました。

直子先生、初めは冷たいペットボトルの紅茶を、ケーキ時にはフォートナム&メイスンのアールグレイを入れてくださいました。

駅からの歩くので、来た時は冷たいもの練習の後はケーキに合う温かい紅茶。
この気遣いが沁みます。
来月の発表会にも俄然やる気が出てきました。…単純!

帰ろうとマンションを出たら、なんだか膝の裏が冷たい。
「あれ?」と思って下を見たら、ポタポタと水滴が、「あっ!」と思うと道路に染み…。

バッグの中に入れた水筒が何かのはずみで蓋が空いたみたい。 
家から入れてきた紅茶が、ほぼすべてバッグの中でこぼれ出しまっていました。
すぐに直子先生に電話。
「どうしたの?」
「バッグの中の水筒の蓋が空いてこぼれてしまいました。ごめんなさい。部屋の中で床を汚したかもしれません。」
「あらら…。こっちは大丈夫みたいよ。久米さんは大丈夫?」
「はい。ごめんなさい。床は大丈夫でしょうか?」もうパニックで何言ってるのか?!
家帰ってみたら、フルートはポリエチレンの気泡緩衝材で包んでいたので濡れませんでした。
楽譜もクリアケースの閉じてる方が濡れていたので無事。

こぼれた紅茶のほとんどは運の良いことにハンドタオルとエコバックが吸ってくれていました。
洗えばいいだけ。

ビニールのカードケースがずぶ濡れで紙のポイントカードが数枚ブヨブヨになっただけで、ブラのカードは乾けば実害無し…よかった。

なぜ開いたのかなぁ?今までこんなことは一度もありません。
水の精(ニンフ)のいたずらかも?
(ただの不注意)

ロレンツォ・アレグリ(1567年 - 1648年)はイタリアの作曲家で、フィレンツェのメディチ家の宮廷で活動しました。

彼は主にリュート奏者として知られ、リュートのために舞曲を作曲し、時には歌も作曲しました。

ロレンツィーノ・トデスコやテデスコと呼ばれることもあるため、ドイツ系であると考えられます。

ヘンリエッタ ラエ「水の精」1919年

「センナのニンフたち」の5つの踊り


仏桑花の頃

2024-06-25 20:54:00 | ルネッサンス
旧宅のハイビスカスが咲いたらしいです。
旧宅の庭に詰め込んであるメダカの水槽や花の手入れをしにいって送ってくれました。
「ハイビスカス買ってたんだ。」という私はノータッチ。
夫と次男が世話しています。

ハイビスカスは熱帯の花と思っていましたが、仏桑花と言ってアオイ科フヨウ属、原産地不明だそうです。
中国南部、インド洋諸島の説もあるにはありますが…。
日本では1610年薩摩藩主島津家久(1576-1638年)

が琉球産仏桑花を徳川家康(1543-1616年)


に寄進したという記録が最古だそうです。

この辺りでは冬越しないので部屋に入れたりしますが、なかなか2年目は無理。
これはどうかな〜?

ハイビスカスがヨーロッパにいつ導入されたかを特定するのは特に困難ですが、
1678 年にはヴァン リードによって図解されています。

ヘンドリック ファン リード トット ドレイクスタインによるHortus Indicus Malabaricusの植物図

1731 年にイギリスのチェルシー薬草園に導入された痕跡も見つかりました。

イタリアの文献では 1546 年にハイビスカスについて記述されています。
新しい研究では、ハイビスカスは 13 世紀からすでにスペイン南部のムーア人(イスラム)の庭園に導入されていたと考えられます。

1820年パリ オード社


1856年Louis Benoit van Houtte(1810-1876ベルギーの園芸家)の刊行した「ヨーロッパの温室と庭園の植物誌 」のアオイ科 フヨウ属 Hibiscus marmoratus Ch.Lem ハイビスカス

19世紀以降は品種改良も盛んに行われていて、約8000種が確認されています。

スサート・ティーレマン、

スサートの正確な出生地は不明ですが、一部の学者は、彼の名前(スサトは「de Soest」、つまりゾーストの町の意)から、彼はウェストファリア(現ドイツ北西部)の同名の町、またはオランダの ゾーストの町の出身である可能性があると考えています。

彼の初期の人生についてはあまり知られていませんが、1530年頃のアントワープの記録に、書家として、また楽器奏者として活動していたことが記されています。

彼が所有していた楽器として、トランペット、フルート、テナーパイプなどが記載されています。

1543年、彼は低地諸国(ネーデルラント)で可動式楽譜活字を使用した最初の音楽出版社を設立しました。
スサートがアントワープに印刷所を設立するまで、楽譜の印刷は主にイタリア、フランス、ドイツで行われていました。

その後すぐに、ルーヴェンのペトルス・ファレシウス1世

1547 年にファレシウスが出版した『Des chansons reduictz en tabulature de lut...』の表紙
とアントワープのクリストファー・プランタン

1569年クリストファー・プランタン出版の聖書

がスサートに加わり、低地諸国は音楽出版の地域中心地となりました。

スサートは楽器事業も営んでいた可能性があり、他の出版社との提携を何度か試みたが、どれも成功しませんでした。

1561年、1564年に息子のヤコブ・スサートが出版事業を引き継いだようです。
しかし、ティールマン・スサートはまず北ホラント州のアルクマールに移り、後にスウェーデンに移りました。
彼に関する最後の記録は1570年のものもあります。

スザートは優れた作曲家でもありました。彼は、当時の典型的な模倣多声音楽のスタイルでミサ曲やモテットの曲集を数冊書き、出版しました。

また、若くて経験の浅い歌手が歌うことを特に目的としたシャンソンの曲集も 2 冊書きました。

これらは 2 声または 3 声のみで歌われます。彼の作品の中で、流通と影響力の点で最も重要なのは、
クレメンス・ノン・パパ(1510年頃 - 1515年- 1555年または1556年)の
「サウテルリーデケンス(詩篇歌)」です。 
これは、ポピュラーソングの旋律を使ってオランダ語で韻律的に詩篇を編曲したものです。
これらは 16 世紀のネーデルラントで非常に人気がありました。

スサートは器楽音楽の作曲家としても多作で、その多くは今日でも録音され演奏されています。

1551年に彼はダンス音楽集『Het derde musyck boexken ... alderhande danserye』を出版しました。これはシンプルですが芸術的な編曲の小品で構成されています。これらの小品のほとんどはダンス形式 (アルマンド、ガリアードなど) です。


1551年出版の
「ダンス音楽集第16番」から「ムーア人のロンド」この曲は現代でも人気が高く、特に編曲されて吹奏楽のナンバーの1つになっています。

動画は作曲当時の再現でネーデルラントの衣装。
フィドル、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダー四重奏、クルムホルン四重奏

クルムホルン リード楽器

コルナムソ四重奏(バロック・オーボエに近い民族楽器)

リュート、バスク太鼓(現タンバリン)

、テボナズトリ

などの古楽器で演奏されています。
SUSATO, Tielman: Danserye 1 Altniederländisches Tanzbüchlein vom Jahre 1551

ネーデルランド黄金期の音楽

2024-06-08 21:00:00 | ルネッサンス
金曜日の午後は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米のカルテットレッスンでした。

モーツァルトのフルートカルテットADur
8月の本番に向けてだいぶしまってきました。

今日はホフマイスターのフルートとヴィオラのための二重奏も見ていただきました。
6月9日里夢での「から騒ぎ」コンサートでやるので大変です。

直子先生の適確なご指導で曲が変わっていきます。私はアウフタクトで迷っているのを見抜かれました。
意思を持ってフレーズを作っていかなくては!

練習後のケーキ調達先パティスリーボンが閉店。
ショックです。いつものケーキが買えません…貯めたポイントも無駄になるか?
政雄先生が調べてくださったら長居公園の近くにもう一軒あってそこに統合されたそうです。
しかし、駅の反対側で遠くなります。

今回は仕方ないのでバスクチーズで作った濃厚アイスケーキを買っていきました。

これはこれで美味しかったけれど、直子先生の大好きないちごショートケーキは無く、残念。
次はどうしよう?何か考えなくては!

この日は夜はフルートアンサンブル「エスカル」の大阪チームの「宝島」特別練習が本町スマイルズミュージックセンターでありました。
ああ、大変。でも、嬉しい。音楽で生活を満たしたい!

ヤン ミエンス モレナー
Jan Miense Molenaer
(1610-1668)ネーデルランド共和国ハールレムで生没。

オランダ黄金時代の 風俗画家で、その作風はオランダ黄金時代の絵画におけるヤン・ステーンの作品の先駆けとなりました。

彼は妻のユディト・レイスター


とスタジオを共有していました。
ユディトも風俗画家で、肖像画家、静物画家でした。

彼の風俗画には、メリーカンパニー(個人コレクション)

や二重唱(シアトル美術館)

や音楽を奏でる家族(フランス・ハルス美術館)
二重奏(個人蔵)

1635年頃(1630-1640年)芸術家とその家族の自画像
Family Making Music
など演奏者を描いたものが多いです。
ネーデルランドは、この頃スペインから独立、西インド会社を設立し、世界の海へ進出しています。

ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(Jan Pieterszoon Sweelinck,1562年4月 - 1621年10月16日 アムステルダム)デーフェンテル出身。

は、オランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与しました。

音楽家としても教育者としても、イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在です。

一族の多くは音楽家で、父・息子(ディルク・ヤンスゾーン・スウェーリンク)ともにオルガニストでした。

オランダでヤン・ヴィレムスゾーン・ロシーに学んだといわれています。

ヴェネツィアの有名な音楽理論家ツァルリーノの「和声教程」に精通していたことから、ツァルリーノにも師事したとされたことがありましたが、実際には祖国を離れたことはほとんどなかったと思われます。

スウェーリンクは、ネーデルラント鍵盤楽派の発展の頂点を占めていて、実際に対位法の複雑さや洗練においてバッハ以前の鍵盤音楽を代表するひとりです。

またフランドル楽派の末裔とも見なされ、声楽曲にも熟練した作曲家であり、250曲以上の声楽曲(シャンソン、マドリガーレ、モテット、詩篇唱)を残しました。

様式的にスウェーリンクの音楽は、ヴェネツィア時代に親しんだガブリエーリ一族の作品と同じような豊かさや複雑さ、そして空間的感覚と、イングランド鍵盤楽派の作曲家と同じような装飾や堅苦しくない形式とをまとめ上げたものとなっています。

形式上の展開において、スウェーリンクの作品は、フレスコバルディをはるかに凌いで、バッハを予期しています。

スウェーリンクは即興演奏の大家で、「アムステルダムのオルフェウス」とあだ名されたほどでした。 

鍵盤楽曲は70点以上が残っています。鍵盤楽曲に比べればより保守的な書法であるにせよ、声楽曲でさえ、リズムの著しい複雑さや、対位法の技巧の比類ない豊かさが明らかです。

教師としての影響力もありました。

門人に北ドイツ・オルガン楽派の作曲家、ヤーコプ・プレトリウスやハインリヒ・シャイデマン、パウル・ジーフェルト、ザムエル・シャイトやゴットフリート・シャイトを輩出しています。

ハンブルクの主要な4つのオルガニストのポストをスウェーリンクの弟子が占めたため、ヨハン・マッテゾンはスウェーリンクを「ハンブルクのオルガニスト製造家」と称しています。

スウェーリンクの影響は国際的であった。スウェーリンクは、ジョン・ダウランドの世界的に有名な《涙のパヴァーヌ》に基づく変奏曲を作曲し、イギリスの鍵盤楽器の作曲家ジョン・ブルは、スウェーリンクの主題による変奏曲を作曲しました。

ここから、ドーヴァー海峡をまたがって、異なる楽派どうしに密接なつながりのあったことがかいま見えてきます。

スウェーリンクは、プロテスタントが主流派となったオランダにおける数少ないカトリック教徒だったと見られていますが、門下を通じてドイツのプロテスタント音楽の隆盛に基礎を与えました。 

《「わが青春は過ぎにけり」による変奏曲》は当時のドイツ民謡を主題としています。スウェーリンクがドイツを訪ねたことがないことから、その旋律はドイツ人の弟子から教わったと言われています。

「わが青春は過ぎにけり」



バラの名前になった詩人

2024-05-03 20:54:00 | ルネッサンス
うちのピエール・ド・ロンサールが咲いてきました。
バラのアーチ全体はまだもう少しなのですが。


ピエール・ド・ロンサール(1524-1585年)フランス王国ロワール=エ=シェール県ラ・ポワソニエール生まれ、


貴族の家で末っ子として生まれました。彼の一族はドナウ川の北のルーマニア一帯の出身でした。

12歳の時、パリのコレージュ・ド・ナヴァルへ送られました。
そこで王太子フランソワ

1518- 1536年18歳没
の小姓に列せられ、次いでその弟オルレアン公シャルル
1522-1545年23歳没
に仕えました。

マドレーヌ王女
1537年結婚しますが、結核でその年に16歳で亡くなりました。
がスコットランド王ジェームズ5世と結婚した時には、彼女に付き従い、その後3年間をスコットランドで過ごしました。

1540年にフランスに帰還すると、再びオルレアン公シャルルに仕えました。

この職で彼はフランドルに派遣され、それから改めてスコットランドに派遣されました。

その後、ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ

1532-1589年プレイヤード派の詩人
の父ラザルの秘書となります。ジャン=アントワーヌは、ロンサールの友人でもあり、後には同じプレイヤード派(ギリシャ時代の文芸を規範とする詩人の一派)に加わることになります。

ロンサールの前途洋々たる外交的な職歴は、不治の難聴に見舞われたことにより、突然の中断を余儀なくされます。

そこで彼は、学問に生涯を捧げることを決意しました。

ロンサールの学び直しは7年に及びました。
そしてとうとう処女作『オード』四部集(1550年)を公刊しました。
1552年には、『恋愛詩集』と同時に『オード』第五部が出版されました。

これらの作品集は、フランス文学界に論争を巻き起こしました。

マロ派(クレマン・マロの影響を受けた一派)の首魁メラン・ド・サン=ジュレ
は、国王の前でロンサールの詩を詠み上げる時に、こき下ろす目的で滑稽に詠みました。

しかしある時、王妹マルグリット(後のサヴォイア公妃)

1523-1574年51歳没 フランソワ一世の子どもで唯一長生きしました。
が、メランの手から詩集を取り上げ、詩本来の素晴らしさを活かして詠み上げました。
詠み終わると、その詩に魅せられた大広間からは、割れんばかりの拍手喝采が沸き起こりました。

その栄光は急激でした。大衆におもねる必要も全くありませんでした。

1555年から1556年には、サヴォイア公妃マルグリットに捧げた『賛歌』を出版しました。

彼は1556年に『恋愛詩集』を完成させました。伝説では1560年にフランソワ2世

1544-1560年16歳没
と結婚したメアリー・スチュアート

1542-1567年スコットランド女王。1559年フランソワ2世と結婚。ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートは2度目の夫で、後のイングランド国王ジェームズ1世の母。
の要請で全集を編纂し、1565年には、『フランス詩法の抜粋』と同時に『哀歌、仮面舞踏会、牧歌』を出版しました。

1560年前後にはフランス王は目まぐるしく替わりましたが、ロンサールの立場が悪くなることはありませんでした。フランソワ2世の後に即位したシャルル9世

1550-1574年24歳没
もロンサールに魅せられました。

シャルル9世の死後も、ロンサールの宮廷での厚遇に変化はなかったようです。

ロンサールは多くの友に先立たれ、自身の病気は悪化していましたが、エリザベス1世を含む外国の君主たちは、彼に贈り物をすることがありました。

病状にもかかわらず、ロンサールの創作はなおも優れた水準を保ち、晩年の作品のいずれをとっても傑作でした。
1585年12月27日、ロンサールはトゥールのサン=コーム教会に葬られました。

1545年「恋人よバラを見に行こう」は、カッサンドル サルヴィアティという女性に寄せた詩です。
彼女はイタリアの銀行家の娘で15歳、ロンサールが21歳の時の出会いでした。
恋は成就しませんでした。

オードは歌われることを前提にした詩で、リュートでジェハン シヤルダヴォイン(1538-1580年フランス王国アンジュー生まれ、没地不明)が曲をつけています。

「カッサンドルへのオード」より
恋人よ、見に行こう
けさ、あけぼのの陽をうけて
紅の衣をといた、ばらの花
今宵いま、赤い衣のその襞も
あなたに似た色つやも
色おとろえていないかと。

ああ、ごらん恋人よ、
何とはかない、バラの花 
大地にむくろをさらすとは!
おおつれない自然  
この花のいのちさえ、
あしたから、ゆうべとは。

だから恋人よ、
ぼくのことばを信じるならば、
水々し、花の盛りのその齢に
摘め、摘め、あなたの若さを、
この花ににて、じきにくる老年に
あなたの美しさも褪せるのだから。 
出典:平凡社 世界名詩集大成 
オード集 ロンサール(窪田般弥・高田勇訳)より


リュートの時代

2024-04-27 21:00:00 | ルネッサンス
牧野生涯学習センターで月1回第11回聴き合い会を開催しています。
ワンコインで15分、誰でも出演できます。

今回は4月26日(土)13:00〜

古楽器のビウエラでマルコ ダル アクイラのリュートのためのリチェルカーレを演奏。
1500年代、リュートは楽器の王様でした。
ビウエラは主にイベリア半島で使われていてリュートは他の地方で使われていました。
が、今回はビウエラでリュートの曲を演奏されました。

ギター カーノのエル デリリオ、アルカスの「椿姫の主題による幻想曲」

ヴィオラとピアノでグノーの「アヴェ・マリア」

リコーダー2本とギターでまさかの竹田の子守唄

フルートももちろん。
バッハ フルートソナタBWV1030

ほら貝
などなど…。

マルコ ダル アキーラ(1480 年頃 – 1538 年以降)

ポリフォニック・リチェルカーレ(多声の模倣的な対位法、メロディのある2つの声部の曲)と呼ばれる音楽形式で知られるヴェネツィアの リュート奏者および作曲家でした。

彼はアクイラ(イタリア中部)で生まれましたが、ヴェネツィアに住み、働いていました。

彼はヴェネツィア市内の貴族の邸宅でのコンサートで頻繁に演奏し、1505 年に『Tabullatura et rasone de meter ogni canto in liuto』(タブ譜とリュートの各曲の基準と理論)
を出版しました。

マグヌス ディエフォプリチャールによって作られたリュート、1604 年、クレムスミュンスター修道院。

1505 年 3 月 11 日、ダル アクイラはまた、あらゆるリュート曲をタブ譜にスコア化するために使用できるタブ譜

ミゲル・デ・フエンジャーナ著『オルフェニカ・リラ』 (1554年)の本に掲載されているビウエラの数値タブ譜の例。赤い数字(オリジナル)はボーカルパートを示します。(ダル アクイラのものは残されていません。)

の印刷方法を開発したとして助成金を受け取りました。

助成金を求める嘆願書の中で、他の印刷方法と他の方法で楽譜を作成した音楽の輸入の禁止、および侵害に対する罰金の一部の支払いも求めました。

しかし、彼の手法を実証した印刷は現存していません。

マルコ ダル アクイラのリチェルカーレ9番。






美しきアーモンド

2024-04-18 21:06:00 | ルネッサンス
水曜は塚口t-raumでハープのレッスンでした。
21日馬車の扉でのカフェコンサートに出るのでさあ大変!
ゴセックのガボットをずっと練習していますが…。
「ファイト!」と先生はニッコリ。

後少し。頑張ります。

t-raumのナガミヒナゲシ

塚口駅近くのパン屋さんカスカードで抹茶ラテとサンドイッチ、マンデルアッケを食べて帰りました。





マンデルアッケ、ナッツ好きにはたまりません。
少し甘めですが、美味しかった。

ドイツ語でマンデル(Mandel)はアーモンド、エッケ(Ecke) は角。
アーモンドの三角。

アーモンドと桃はもともと同一の原種であったものだったそうです。
太古の地殻変動により隆起した中央アジア山脈が中東と東アジアを隔ててから、それぞれの地域で異なった進化を遂げてきました。

アーモンドの花

桃の花

桃は中国の比較的湿度の高い低地を中心に生育する様になり、アーモンドは乾燥した西アジアから中央アジアの砂漠や丘峰の斜面に、様々な品種に分かれながら自生する様になりました。

これらの初期の原種アーモンドは、天山山脈西方の山裾からチグリス・ユーフラテス河の流域にかけて更に進化を続け、小さな、とげのある木に、硬い殻に覆われた小さな苦い実をつける様になりました。

西アジアから中央アジア一帯における乾燥した暑い夏と雨が多く比較的温暖な冬を持つ地域でアーモンドはバラエティに富んだ風味を持った実をつける植物となって分布する様になりました。

アーモンドはチグリス・ユーフラテス流域からヨルダン、イスラエルといった地中海沿岸へと栽培が広がっていきました。

その後地中海に沿ってシナイ山麓からナイル川沿いのエジプトやヒッタイト(現トルコ)へと栽培が広がり、やがてアーモンドはギリシャを始めとしたヨーロッパの地中海沿岸の諸国へともたらされることになります。

ギリシャ神話でもフリュギア(現在のトルコ)で昼寝をしているゼウスから生まれた女神キュベレ(Kybele)の体の一部から熟した実をつけたアーモンドの木が生えたといわれています。

女神キュベレ
アレキサンダー大王が諸国を征服した時期(紀元前350~323年)に、アーモンドの栽培がギリシャから更に西方へと広まっていきました。

アレキサンダー大王(紀元前336-紀元前323年)

古代ローマの人たちはアーモンドのことを”グリークナッツ(ギリシャの木の実)”と呼んで親しんだといわれます。

こうしてアーモンドは温暖で多湿な冬、乾燥した穏やかな夏というヨーロッパの地中海沿岸地域の気候によく順応していき、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、トルコ、モロッコ、チュニジアなど果樹栽培の盛んな地域で、アーモンドの栽培は根付いていきました。

ギリシャやイタリアでは何世紀もの間にわたり、地中海地域の丘陵でアーモンドは生産される事となりました。

スクアルチャルーピ コーデックス(Squarcialupi Codex)写本が、1410-1420年頃に渡って作られました。

オルガニストで作曲家のアントニオ・スクアルチャルーピ(Antonio Squarcialupi 、1416 - 1480年)
が所有していた文書を元に作られたのでその名がついています。彼は編纂はしていません。

フィレンツェのトレチェント(イタリアの1300年代に起きた多声音楽文化のこと)の世俗音楽を収録したものです。

14 人の有名なイタリアの作曲家による 352 作品を、金で装飾された肖像画で紹介したものです。


フランチェスコ・ランディーニ、
バルトリーノ・ダ・パドヴァ、
ニッコロ・ダ・ペルージャ、
エギディウス、
アンドレア・ダ・フィレンツェ、
ヤコポ・ダ・ボローニャ、
ロレンツォ・ダ・フィレンツェ、
ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ、
ドナート・ダ・カッシャ、
ジョヴァンニ・ダ・カッシャ、
ヴィンチェンツォ・ダ・リミニ、
ギリエルムス・デ・フランシア

ジョバンニ ダ カッシャ(1270-1350年)(Giovanni da Cascia)
活動時期は1340年頃 - 1350年頃

は、14世紀イタリア、トレチェント音楽の初期の音楽家。
イタリアに初めて多声音楽をもたらした作曲家の一人です。

ミラノの僭主ルキーノ・ヴィスコンティ

18世紀の想像画
の宮廷に出入りし、マギステル・ピエーロやヤコポ・ダ・ボローニャとともに活動しました。

1350年頃、ヴェローナのスカラ家のマスティーノ2世の宮廷

において、ヤコポ・ダ・ボローニャ
と音楽を競い合ったという記述が残されています。

ジョヴァンニ・ダ・フィレンツェ(Giovanni da Firenze)、ヨハンネス・デ・フロレンティア( Johannes de Florentia)など幾つかの別称が知られていて、フィレンツェとの関連が深い事のではないかと思われますが、出身は現在のイタリア中央部ウンブリア州の町カッシャ(Cascia)と考えられています。

18曲のマドリガーレ(この内2曲がカノン)、スクアルチャルーピ写本(Squarcialupi Codex)、パンチャティーキ写本(Panciatichi 26)、ロッシ写本(Rossi 215)、レイナ写本(Reina Codex)等に残されています。

「猟犬も沢山、鷹もいっぱい連れて」(Chon brachi assai e chon molti spaveri)、その他に2声のマドリガーレ「美しき星」(La bella stella)は、多くの写本に残されていることから有名であったと思われます。

ジョバンニ カッシャ作曲
マドリガルのSedendo all'ombra d'una bella mandorla(美しきアーモンドが日陰に座って)



川のほとりで

2024-03-29 21:00:00 | ルネッサンス
木曜午後は京都今出川大宮の富久田先生のレッスンでした。
行きは京阪出町柳駅から、バス。

帰りは

四条駅までバス。
さすがに四条駅は人が多かったです。 コロナで空っぽだったダブルデッカーの観光バスもたくさんの人でいっぱいでした。
そしてまだ寒い上に小雨も降ってきたのに、こちらも復活。

鴨川のほとりはやっぱり、こうでなくっちゃね。

川のほとりと言えば…バビロン川のほとりで…不謹慎かな。今に繋がる暴力の応酬の発端。恋人たちの方がずっといいけど

ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ パレストリーナ(1525~1594年)教皇領パレストリーナ生まれ、教皇領ローマ没

16世紀後半ローマで活躍した教会音楽家で、ルネサンス後期最大の作曲家でポリフォニー様式の確立に貢献したと言われています。
彼の作品は非常に多数にのぼり、105曲のミサ曲、400曲以上のモテット、100曲のラテン語の宗教的作品、60曲のイタリア語の宗教的作品、90曲のイタリア語の世俗的作品、オルガン曲などを残しました。

Super flumina Babylonis(バビロ ンの流れのほとりで)は、詩編 137 編 1-2 節がテキスト、モテット集第2巻(1581年)に収録されている代表的なパレストリーナ様式の4声のモテットです。

新バビロニアの王ネブカドネザル 2 世
ネブカドネザル2世(BC642-BC562年)
によるエルサレム陥落
ホアン・デ・ラ・コルテ。
新バビロニア王国のネブガドネザル2世の軍勢に攻め込まれるエルサレム
によりバビロニア地方へ捕虜として連行された「バビロンの捕囚」の一場面を描いています。


ジェームズ・ティソ(1836-1902年)フランス
囚人の逃亡
捕囚され、連行されたユダヤの民が、故郷のシオンを思って膝をつき、涙を流すという場面です。

アーサー・ハッカー(1858-1919)イギリス バビロンの川のほとりで

わたしたちを嘲る民が
楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」
と言うが
どうして歌うことができようか
主のための歌を異教の地で。

エゼキエル書によると、ユダの捕囚民の大部分は、バビロニアにあるケバル川沿いに移住させられたとあります。

バビロ ンの流れのほとりで」
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って
わたしたちは泣いた
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた (詩篇 第137篇 1-2節)