音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

仏桑花の頃

2024-06-25 20:54:00 | ルネッサンス
旧宅のハイビスカスが咲いたらしいです。
旧宅の庭に詰め込んであるメダカの水槽や花の手入れをしにいって送ってくれました。
「ハイビスカス買ってたんだ。」という私はノータッチ。
夫と次男が世話しています。

ハイビスカスは熱帯の花と思っていましたが、仏桑花と言ってアオイ科フヨウ属、原産地不明だそうです。
中国南部、インド洋諸島の説もあるにはありますが…。
日本では1610年薩摩藩主島津家久(1576-1638年)

が琉球産仏桑花を徳川家康(1543-1616年)


に寄進したという記録が最古だそうです。

この辺りでは冬越しないので部屋に入れたりしますが、なかなか2年目は無理。
これはどうかな〜?

ハイビスカスがヨーロッパにいつ導入されたかを特定するのは特に困難ですが、
1678 年にはヴァン リードによって図解されています。

ヘンドリック ファン リード トット ドレイクスタインによるHortus Indicus Malabaricusの植物図

1731 年にイギリスのチェルシー薬草園に導入された痕跡も見つかりました。

イタリアの文献では 1546 年にハイビスカスについて記述されています。
新しい研究では、ハイビスカスは 13 世紀からすでにスペイン南部のムーア人(イスラム)の庭園に導入されていたと考えられます。

1820年パリ オード社


1856年Louis Benoit van Houtte(1810-1876ベルギーの園芸家)の刊行した「ヨーロッパの温室と庭園の植物誌 」のアオイ科 フヨウ属 Hibiscus marmoratus Ch.Lem ハイビスカス

19世紀以降は品種改良も盛んに行われていて、約8000種が確認されています。

スサート・ティーレマン、

スサートの正確な出生地は不明ですが、一部の学者は、彼の名前(スサトは「de Soest」、つまりゾーストの町の意)から、彼はウェストファリア(現ドイツ北西部)の同名の町、またはオランダの ゾーストの町の出身である可能性があると考えています。

彼の初期の人生についてはあまり知られていませんが、1530年頃のアントワープの記録に、書家として、また楽器奏者として活動していたことが記されています。

彼が所有していた楽器として、トランペット、フルート、テナーパイプなどが記載されています。

1543年、彼は低地諸国(ネーデルラント)で可動式楽譜活字を使用した最初の音楽出版社を設立しました。
スサートがアントワープに印刷所を設立するまで、楽譜の印刷は主にイタリア、フランス、ドイツで行われていました。

その後すぐに、ルーヴェンのペトルス・ファレシウス1世

1547 年にファレシウスが出版した『Des chansons reduictz en tabulature de lut...』の表紙
とアントワープのクリストファー・プランタン

1569年クリストファー・プランタン出版の聖書

がスサートに加わり、低地諸国は音楽出版の地域中心地となりました。

スサートは楽器事業も営んでいた可能性があり、他の出版社との提携を何度か試みたが、どれも成功しませんでした。

1561年、1564年に息子のヤコブ・スサートが出版事業を引き継いだようです。
しかし、ティールマン・スサートはまず北ホラント州のアルクマールに移り、後にスウェーデンに移りました。
彼に関する最後の記録は1570年のものもあります。

スザートは優れた作曲家でもありました。彼は、当時の典型的な模倣多声音楽のスタイルでミサ曲やモテットの曲集を数冊書き、出版しました。

また、若くて経験の浅い歌手が歌うことを特に目的としたシャンソンの曲集も 2 冊書きました。

これらは 2 声または 3 声のみで歌われます。彼の作品の中で、流通と影響力の点で最も重要なのは、
クレメンス・ノン・パパ(1510年頃 - 1515年- 1555年または1556年)の
「サウテルリーデケンス(詩篇歌)」です。 
これは、ポピュラーソングの旋律を使ってオランダ語で韻律的に詩篇を編曲したものです。
これらは 16 世紀のネーデルラントで非常に人気がありました。

スサートは器楽音楽の作曲家としても多作で、その多くは今日でも録音され演奏されています。

1551年に彼はダンス音楽集『Het derde musyck boexken ... alderhande danserye』を出版しました。これはシンプルですが芸術的な編曲の小品で構成されています。これらの小品のほとんどはダンス形式 (アルマンド、ガリアードなど) です。


1551年出版の
「ダンス音楽集第16番」から「ムーア人のロンド」この曲は現代でも人気が高く、特に編曲されて吹奏楽のナンバーの1つになっています。

動画は作曲当時の再現でネーデルラントの衣装。
フィドル、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダー四重奏、クルムホルン四重奏

クルムホルン リード楽器

コルナムソ四重奏(バロック・オーボエに近い民族楽器)

リュート、バスク太鼓(現タンバリン)

、テボナズトリ

などの古楽器で演奏されています。
SUSATO, Tielman: Danserye 1 Altniederländisches Tanzbüchlein vom Jahre 1551

ネーデルランド黄金期の音楽

2024-06-08 21:00:00 | ルネッサンス
金曜日の午後は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米のカルテットレッスンでした。

モーツァルトのフルートカルテットADur
8月の本番に向けてだいぶしまってきました。

今日はホフマイスターのフルートとヴィオラのための二重奏も見ていただきました。
6月9日里夢での「から騒ぎ」コンサートでやるので大変です。

直子先生の適確なご指導で曲が変わっていきます。私はアウフタクトで迷っているのを見抜かれました。
意思を持ってフレーズを作っていかなくては!

練習後のケーキ調達先パティスリーボンが閉店。
ショックです。いつものケーキが買えません…貯めたポイントも無駄になるか?
政雄先生が調べてくださったら長居公園の近くにもう一軒あってそこに統合されたそうです。
しかし、駅の反対側で遠くなります。

今回は仕方ないのでバスクチーズで作った濃厚アイスケーキを買っていきました。

これはこれで美味しかったけれど、直子先生の大好きないちごショートケーキは無く、残念。
次はどうしよう?何か考えなくては!

この日は夜はフルートアンサンブル「エスカル」の大阪チームの「宝島」特別練習が本町スマイルズミュージックセンターでありました。
ああ、大変。でも、嬉しい。音楽で生活を満たしたい!

ヤン ミエンス モレナー
Jan Miense Molenaer
(1610-1668)ネーデルランド共和国ハールレムで生没。

オランダ黄金時代の 風俗画家で、その作風はオランダ黄金時代の絵画におけるヤン・ステーンの作品の先駆けとなりました。

彼は妻のユディト・レイスター


とスタジオを共有していました。
ユディトも風俗画家で、肖像画家、静物画家でした。

彼の風俗画には、メリーカンパニー(個人コレクション)

や二重唱(シアトル美術館)

や音楽を奏でる家族(フランス・ハルス美術館)
二重奏(個人蔵)

1635年頃(1630-1640年)芸術家とその家族の自画像
Family Making Music
など演奏者を描いたものが多いです。
ネーデルランドは、この頃スペインから独立、西インド会社を設立し、世界の海へ進出しています。

ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(Jan Pieterszoon Sweelinck,1562年4月 - 1621年10月16日 アムステルダム)デーフェンテル出身。

は、オランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与しました。

音楽家としても教育者としても、イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在です。

一族の多くは音楽家で、父・息子(ディルク・ヤンスゾーン・スウェーリンク)ともにオルガニストでした。

オランダでヤン・ヴィレムスゾーン・ロシーに学んだといわれています。

ヴェネツィアの有名な音楽理論家ツァルリーノの「和声教程」に精通していたことから、ツァルリーノにも師事したとされたことがありましたが、実際には祖国を離れたことはほとんどなかったと思われます。

スウェーリンクは、ネーデルラント鍵盤楽派の発展の頂点を占めていて、実際に対位法の複雑さや洗練においてバッハ以前の鍵盤音楽を代表するひとりです。

またフランドル楽派の末裔とも見なされ、声楽曲にも熟練した作曲家であり、250曲以上の声楽曲(シャンソン、マドリガーレ、モテット、詩篇唱)を残しました。

様式的にスウェーリンクの音楽は、ヴェネツィア時代に親しんだガブリエーリ一族の作品と同じような豊かさや複雑さ、そして空間的感覚と、イングランド鍵盤楽派の作曲家と同じような装飾や堅苦しくない形式とをまとめ上げたものとなっています。

形式上の展開において、スウェーリンクの作品は、フレスコバルディをはるかに凌いで、バッハを予期しています。

スウェーリンクは即興演奏の大家で、「アムステルダムのオルフェウス」とあだ名されたほどでした。 

鍵盤楽曲は70点以上が残っています。鍵盤楽曲に比べればより保守的な書法であるにせよ、声楽曲でさえ、リズムの著しい複雑さや、対位法の技巧の比類ない豊かさが明らかです。

教師としての影響力もありました。

門人に北ドイツ・オルガン楽派の作曲家、ヤーコプ・プレトリウスやハインリヒ・シャイデマン、パウル・ジーフェルト、ザムエル・シャイトやゴットフリート・シャイトを輩出しています。

ハンブルクの主要な4つのオルガニストのポストをスウェーリンクの弟子が占めたため、ヨハン・マッテゾンはスウェーリンクを「ハンブルクのオルガニスト製造家」と称しています。

スウェーリンクの影響は国際的であった。スウェーリンクは、ジョン・ダウランドの世界的に有名な《涙のパヴァーヌ》に基づく変奏曲を作曲し、イギリスの鍵盤楽器の作曲家ジョン・ブルは、スウェーリンクの主題による変奏曲を作曲しました。

ここから、ドーヴァー海峡をまたがって、異なる楽派どうしに密接なつながりのあったことがかいま見えてきます。

スウェーリンクは、プロテスタントが主流派となったオランダにおける数少ないカトリック教徒だったと見られていますが、門下を通じてドイツのプロテスタント音楽の隆盛に基礎を与えました。 

《「わが青春は過ぎにけり」による変奏曲》は当時のドイツ民謡を主題としています。スウェーリンクがドイツを訪ねたことがないことから、その旋律はドイツ人の弟子から教わったと言われています。

「わが青春は過ぎにけり」



バラの名前になった詩人

2024-05-03 20:54:00 | ルネッサンス
うちのピエール・ド・ロンサールが咲いてきました。
バラのアーチ全体はまだもう少しなのですが。


ピエール・ド・ロンサール(1524-1585年)フランス王国ロワール=エ=シェール県ラ・ポワソニエール生まれ、


貴族の家で末っ子として生まれました。彼の一族はドナウ川の北のルーマニア一帯の出身でした。

12歳の時、パリのコレージュ・ド・ナヴァルへ送られました。
そこで王太子フランソワ

1518- 1536年18歳没
の小姓に列せられ、次いでその弟オルレアン公シャルル
1522-1545年23歳没
に仕えました。

マドレーヌ王女
1537年結婚しますが、結核でその年に16歳で亡くなりました。
がスコットランド王ジェームズ5世と結婚した時には、彼女に付き従い、その後3年間をスコットランドで過ごしました。

1540年にフランスに帰還すると、再びオルレアン公シャルルに仕えました。

この職で彼はフランドルに派遣され、それから改めてスコットランドに派遣されました。

その後、ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ

1532-1589年プレイヤード派の詩人
の父ラザルの秘書となります。ジャン=アントワーヌは、ロンサールの友人でもあり、後には同じプレイヤード派(ギリシャ時代の文芸を規範とする詩人の一派)に加わることになります。

ロンサールの前途洋々たる外交的な職歴は、不治の難聴に見舞われたことにより、突然の中断を余儀なくされます。

そこで彼は、学問に生涯を捧げることを決意しました。

ロンサールの学び直しは7年に及びました。
そしてとうとう処女作『オード』四部集(1550年)を公刊しました。
1552年には、『恋愛詩集』と同時に『オード』第五部が出版されました。

これらの作品集は、フランス文学界に論争を巻き起こしました。

マロ派(クレマン・マロの影響を受けた一派)の首魁メラン・ド・サン=ジュレ
は、国王の前でロンサールの詩を詠み上げる時に、こき下ろす目的で滑稽に詠みました。

しかしある時、王妹マルグリット(後のサヴォイア公妃)

1523-1574年51歳没 フランソワ一世の子どもで唯一長生きしました。
が、メランの手から詩集を取り上げ、詩本来の素晴らしさを活かして詠み上げました。
詠み終わると、その詩に魅せられた大広間からは、割れんばかりの拍手喝采が沸き起こりました。

その栄光は急激でした。大衆におもねる必要も全くありませんでした。

1555年から1556年には、サヴォイア公妃マルグリットに捧げた『賛歌』を出版しました。

彼は1556年に『恋愛詩集』を完成させました。伝説では1560年にフランソワ2世

1544-1560年16歳没
と結婚したメアリー・スチュアート

1542-1567年スコットランド女王。1559年フランソワ2世と結婚。ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートは2度目の夫で、後のイングランド国王ジェームズ1世の母。
の要請で全集を編纂し、1565年には、『フランス詩法の抜粋』と同時に『哀歌、仮面舞踏会、牧歌』を出版しました。

1560年前後にはフランス王は目まぐるしく替わりましたが、ロンサールの立場が悪くなることはありませんでした。フランソワ2世の後に即位したシャルル9世

1550-1574年24歳没
もロンサールに魅せられました。

シャルル9世の死後も、ロンサールの宮廷での厚遇に変化はなかったようです。

ロンサールは多くの友に先立たれ、自身の病気は悪化していましたが、エリザベス1世を含む外国の君主たちは、彼に贈り物をすることがありました。

病状にもかかわらず、ロンサールの創作はなおも優れた水準を保ち、晩年の作品のいずれをとっても傑作でした。
1585年12月27日、ロンサールはトゥールのサン=コーム教会に葬られました。

1545年「恋人よバラを見に行こう」は、カッサンドル サルヴィアティという女性に寄せた詩です。
彼女はイタリアの銀行家の娘で15歳、ロンサールが21歳の時の出会いでした。
恋は成就しませんでした。

オードは歌われることを前提にした詩で、リュートでジェハン シヤルダヴォイン(1538-1580年フランス王国アンジュー生まれ、没地不明)が曲をつけています。

「カッサンドルへのオード」より
恋人よ、見に行こう
けさ、あけぼのの陽をうけて
紅の衣をといた、ばらの花
今宵いま、赤い衣のその襞も
あなたに似た色つやも
色おとろえていないかと。

ああ、ごらん恋人よ、
何とはかない、バラの花 
大地にむくろをさらすとは!
おおつれない自然  
この花のいのちさえ、
あしたから、ゆうべとは。

だから恋人よ、
ぼくのことばを信じるならば、
水々し、花の盛りのその齢に
摘め、摘め、あなたの若さを、
この花ににて、じきにくる老年に
あなたの美しさも褪せるのだから。 
出典:平凡社 世界名詩集大成 
オード集 ロンサール(窪田般弥・高田勇訳)より


リュートの時代

2024-04-27 21:00:00 | ルネッサンス
牧野生涯学習センターで月1回第11回聴き合い会を開催しています。
ワンコインで15分、誰でも出演できます。

今回は4月26日(土)13:00〜

古楽器のビウエラでマルコ ダル アクイラのリュートのためのリチェルカーレを演奏。
1500年代、リュートは楽器の王様でした。
ビウエラは主にイベリア半島で使われていてリュートは他の地方で使われていました。
が、今回はビウエラでリュートの曲を演奏されました。

ギター カーノのエル デリリオ、アルカスの「椿姫の主題による幻想曲」

ヴィオラとピアノでグノーの「アヴェ・マリア」

リコーダー2本とギターでまさかの竹田の子守唄

フルートももちろん。
バッハ フルートソナタBWV1030

ほら貝
などなど…。

マルコ ダル アキーラ(1480 年頃 – 1538 年以降)

ポリフォニック・リチェルカーレ(多声の模倣的な対位法、メロディのある2つの声部の曲)と呼ばれる音楽形式で知られるヴェネツィアの リュート奏者および作曲家でした。

彼はアクイラ(イタリア中部)で生まれましたが、ヴェネツィアに住み、働いていました。

彼はヴェネツィア市内の貴族の邸宅でのコンサートで頻繁に演奏し、1505 年に『Tabullatura et rasone de meter ogni canto in liuto』(タブ譜とリュートの各曲の基準と理論)
を出版しました。

マグヌス ディエフォプリチャールによって作られたリュート、1604 年、クレムスミュンスター修道院。

1505 年 3 月 11 日、ダル アクイラはまた、あらゆるリュート曲をタブ譜にスコア化するために使用できるタブ譜

ミゲル・デ・フエンジャーナ著『オルフェニカ・リラ』 (1554年)の本に掲載されているビウエラの数値タブ譜の例。赤い数字(オリジナル)はボーカルパートを示します。(ダル アクイラのものは残されていません。)

の印刷方法を開発したとして助成金を受け取りました。

助成金を求める嘆願書の中で、他の印刷方法と他の方法で楽譜を作成した音楽の輸入の禁止、および侵害に対する罰金の一部の支払いも求めました。

しかし、彼の手法を実証した印刷は現存していません。

マルコ ダル アクイラのリチェルカーレ9番。






美しきアーモンド

2024-04-18 21:06:00 | ルネッサンス
水曜は塚口t-raumでハープのレッスンでした。
21日馬車の扉でのカフェコンサートに出るのでさあ大変!
ゴセックのガボットをずっと練習していますが…。
「ファイト!」と先生はニッコリ。

後少し。頑張ります。

t-raumのナガミヒナゲシ

塚口駅近くのパン屋さんカスカードで抹茶ラテとサンドイッチ、マンデルアッケを食べて帰りました。





マンデルアッケ、ナッツ好きにはたまりません。
少し甘めですが、美味しかった。

ドイツ語でマンデル(Mandel)はアーモンド、エッケ(Ecke) は角。
アーモンドの三角。

アーモンドと桃はもともと同一の原種であったものだったそうです。
太古の地殻変動により隆起した中央アジア山脈が中東と東アジアを隔ててから、それぞれの地域で異なった進化を遂げてきました。

アーモンドの花

桃の花

桃は中国の比較的湿度の高い低地を中心に生育する様になり、アーモンドは乾燥した西アジアから中央アジアの砂漠や丘峰の斜面に、様々な品種に分かれながら自生する様になりました。

これらの初期の原種アーモンドは、天山山脈西方の山裾からチグリス・ユーフラテス河の流域にかけて更に進化を続け、小さな、とげのある木に、硬い殻に覆われた小さな苦い実をつける様になりました。

西アジアから中央アジア一帯における乾燥した暑い夏と雨が多く比較的温暖な冬を持つ地域でアーモンドはバラエティに富んだ風味を持った実をつける植物となって分布する様になりました。

アーモンドはチグリス・ユーフラテス流域からヨルダン、イスラエルといった地中海沿岸へと栽培が広がっていきました。

その後地中海に沿ってシナイ山麓からナイル川沿いのエジプトやヒッタイト(現トルコ)へと栽培が広がり、やがてアーモンドはギリシャを始めとしたヨーロッパの地中海沿岸の諸国へともたらされることになります。

ギリシャ神話でもフリュギア(現在のトルコ)で昼寝をしているゼウスから生まれた女神キュベレ(Kybele)の体の一部から熟した実をつけたアーモンドの木が生えたといわれています。

女神キュベレ
アレキサンダー大王が諸国を征服した時期(紀元前350~323年)に、アーモンドの栽培がギリシャから更に西方へと広まっていきました。

アレキサンダー大王(紀元前336-紀元前323年)

古代ローマの人たちはアーモンドのことを”グリークナッツ(ギリシャの木の実)”と呼んで親しんだといわれます。

こうしてアーモンドは温暖で多湿な冬、乾燥した穏やかな夏というヨーロッパの地中海沿岸地域の気候によく順応していき、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、トルコ、モロッコ、チュニジアなど果樹栽培の盛んな地域で、アーモンドの栽培は根付いていきました。

ギリシャやイタリアでは何世紀もの間にわたり、地中海地域の丘陵でアーモンドは生産される事となりました。

スクアルチャルーピ コーデックス(Squarcialupi Codex)写本が、1410-1420年頃に渡って作られました。

オルガニストで作曲家のアントニオ・スクアルチャルーピ(Antonio Squarcialupi 、1416 - 1480年)
が所有していた文書を元に作られたのでその名がついています。彼は編纂はしていません。

フィレンツェのトレチェント(イタリアの1300年代に起きた多声音楽文化のこと)の世俗音楽を収録したものです。

14 人の有名なイタリアの作曲家による 352 作品を、金で装飾された肖像画で紹介したものです。


フランチェスコ・ランディーニ、
バルトリーノ・ダ・パドヴァ、
ニッコロ・ダ・ペルージャ、
エギディウス、
アンドレア・ダ・フィレンツェ、
ヤコポ・ダ・ボローニャ、
ロレンツォ・ダ・フィレンツェ、
ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ、
ドナート・ダ・カッシャ、
ジョヴァンニ・ダ・カッシャ、
ヴィンチェンツォ・ダ・リミニ、
ギリエルムス・デ・フランシア

ジョバンニ ダ カッシャ(1270-1350年)(Giovanni da Cascia)
活動時期は1340年頃 - 1350年頃

は、14世紀イタリア、トレチェント音楽の初期の音楽家。
イタリアに初めて多声音楽をもたらした作曲家の一人です。

ミラノの僭主ルキーノ・ヴィスコンティ

18世紀の想像画
の宮廷に出入りし、マギステル・ピエーロやヤコポ・ダ・ボローニャとともに活動しました。

1350年頃、ヴェローナのスカラ家のマスティーノ2世の宮廷

において、ヤコポ・ダ・ボローニャ
と音楽を競い合ったという記述が残されています。

ジョヴァンニ・ダ・フィレンツェ(Giovanni da Firenze)、ヨハンネス・デ・フロレンティア( Johannes de Florentia)など幾つかの別称が知られていて、フィレンツェとの関連が深い事のではないかと思われますが、出身は現在のイタリア中央部ウンブリア州の町カッシャ(Cascia)と考えられています。

18曲のマドリガーレ(この内2曲がカノン)、スクアルチャルーピ写本(Squarcialupi Codex)、パンチャティーキ写本(Panciatichi 26)、ロッシ写本(Rossi 215)、レイナ写本(Reina Codex)等に残されています。

「猟犬も沢山、鷹もいっぱい連れて」(Chon brachi assai e chon molti spaveri)、その他に2声のマドリガーレ「美しき星」(La bella stella)は、多くの写本に残されていることから有名であったと思われます。

ジョバンニ カッシャ作曲
マドリガルのSedendo all'ombra d'una bella mandorla(美しきアーモンドが日陰に座って)



川のほとりで

2024-03-29 21:00:00 | ルネッサンス
木曜午後は京都今出川大宮の富久田先生のレッスンでした。
行きは京阪出町柳駅から、バス。

帰りは

四条駅までバス。
さすがに四条駅は人が多かったです。 コロナで空っぽだったダブルデッカーの観光バスもたくさんの人でいっぱいでした。
そしてまだ寒い上に小雨も降ってきたのに、こちらも復活。

鴨川のほとりはやっぱり、こうでなくっちゃね。

川のほとりと言えば…バビロン川のほとりで…不謹慎かな。今に繋がる暴力の応酬の発端。恋人たちの方がずっといいけど

ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ パレストリーナ(1525~1594年)教皇領パレストリーナ生まれ、教皇領ローマ没

16世紀後半ローマで活躍した教会音楽家で、ルネサンス後期最大の作曲家でポリフォニー様式の確立に貢献したと言われています。
彼の作品は非常に多数にのぼり、105曲のミサ曲、400曲以上のモテット、100曲のラテン語の宗教的作品、60曲のイタリア語の宗教的作品、90曲のイタリア語の世俗的作品、オルガン曲などを残しました。

Super flumina Babylonis(バビロ ンの流れのほとりで)は、詩編 137 編 1-2 節がテキスト、モテット集第2巻(1581年)に収録されている代表的なパレストリーナ様式の4声のモテットです。

新バビロニアの王ネブカドネザル 2 世
ネブカドネザル2世(BC642-BC562年)
によるエルサレム陥落
ホアン・デ・ラ・コルテ。
新バビロニア王国のネブガドネザル2世の軍勢に攻め込まれるエルサレム
によりバビロニア地方へ捕虜として連行された「バビロンの捕囚」の一場面を描いています。


ジェームズ・ティソ(1836-1902年)フランス
囚人の逃亡
捕囚され、連行されたユダヤの民が、故郷のシオンを思って膝をつき、涙を流すという場面です。

アーサー・ハッカー(1858-1919)イギリス バビロンの川のほとりで

わたしたちを嘲る民が
楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」
と言うが
どうして歌うことができようか
主のための歌を異教の地で。

エゼキエル書によると、ユダの捕囚民の大部分は、バビロニアにあるケバル川沿いに移住させられたとあります。

バビロ ンの流れのほとりで」
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って
わたしたちは泣いた
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた (詩篇 第137篇 1-2節)



小麦一族

2024-02-20 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の朝は地域交流会でうどん作りをしました。
大人も子どもも参加して小麦粉から作りました。
子育てサロンの主催ですが、私は製作会議中コロナになったので、ほとんどスタッフのみんなが準備してくれて、当日お手伝いだけでした。

しかも、午後からオーケストラの初合わせがあったのでお片付けの途中で退出しました。
スタッフのみなさん、ありがとうございます。

塩水を作っておいて、それをビニール袋に入れた中力粉に少しずつ、まとまる程度に加えます。

ベチャベチャにしてはいけません。

しかし、このへんの感じが難しく、5人テーブルの3人の子どもたちがベチャベチャに…。
「あかんわ…。」とがっかりする子どもに「大丈夫、大丈夫。」と声をかけながら粉を足し、適正な柔らかさに戻します。

その後、ビニール袋の上から丸めて、もう一枚加えて、足で踏みます。
できるだけ、薄くなったら、もう一度丸めて踏みます。
この作業を3回繰り返したら、丸めて30分置きます。

その間にねぎ、薄揚げ、かまぼこ、出汁の準備。

プラストッピングに今回は切り落とし牛肉をスタッフのKさんが、甘辛く煮てくれました。

ベンチタイムが終わるとネタを麺棒で薄く伸ばして細く伸ばします。

この時ベチャベチャ過ぎるとくっついて伸ばせません。
今回は途中で修正したので大丈夫。
打ち粉の薄力粉をまな板に振って、薄く切ったうどんにも粉を振りつつ仕上げました。
ここで隠れた実力を発揮したのが、中1男子。
真っ直ぐに細いうどんをしっかり作ってくれました。
茹でて器に移したら、トッピングをして温めた出汁をかけてできあがり!

家庭科室にはうどん用のどんぶりが無いのでお椀を使っています。

「うまい!」
「固いうどん好き、こんなうまいうどん食べたこと無い!」
「肉もうまい!」
みんなお変わりして食べました。
中1男子は4杯。
いいなぁ!これが聴きたくて…。

用務員さんにもおすそ分け。
「美味しかったです。ありがとうございます。」頂きました!

麺の原料の小麦は東地中海沿岸(イラン西部、イラク東部、トルコ南部および東部)がその起源とされています。 

寒冷地から熱帯地方まで広範囲で栽培が可能だったこと、水と混ぜることでグルテンが生成され、粘り気と弾力性に富んだ性質が多様な食品への加工に適していたこと、という大きな二つの理由により世界的な普及を見せました。

最初に栽培が行われるようになったのはメソポタミアで、紀元前9000年~7000年頃と考えられています。

BC3000年メソポタミア文明

栽培当初は粥として食されていたと考えられていますが、食感などを求めて小麦粉を練って生地を作ってパン(無発酵パン・発酵パン)や、練った生地をちぎってすいとんのように食べる方法が広まると、様々な形状への加工が行われるようになり、その過程で細長く形づくられたものが麺にあたると考えられています。

中国大陸に小麦が伝わったのは前漢(紀元前1世紀前後)時代に西方との交易路が開けてからだと言われていますが、他の穀物を使った麺が地中海地域で小麦粉のものに変えられた可能性も考えられています。

現在までに発見された最も古い麺類の遺物は、中国青海省民和回族トゥ族自治県

の喇家遺跡で発見されました。 
これはおよそ4000年前のものであり、麺は小麦粉ではなく粟で作られていました。

現在カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなど中央アジアで広く食られているラグマンはラーメンの語源とも言われています。
シルクロードを伝播し中国大陸に広まった際に鹹湖(塩水湖)

の水を使用してラグマンを作ったのが中華麺の始まりとも言われ、現代においても製麺工程で使用される塩基性塩をかん水と呼ぶのもこの名残からとされています。

他に、栽培小麦発祥の古代メソポタミアから遊牧民によって餃子の形(アフガニスタンのオシャク、新疆ウイグル自治区のジュワワ)で伝わり、華北で皮が分かれて麺條(生地を細長く伸ばしたもの)が生まれたとするものもあります。

一方でヨーロッパで広まったデュラム小麦からはパスタが作られるようになります。

イタリアのチェルヴェーテリにあるエトルリア人の遺跡からおよそ2400年前の製麺器具の絵が発見されています

他、古代ローマ時代の文献の中でラガーナと呼ばれる焼いて食べるパスタについての記述が見つかっていることなどから古くから食文化として麺を食す習慣が広まっていたと考えられています。

しかし4世紀頃のゲルマン民族の侵攻により食肉文化が広く浸透してパスタなどの食文化は衰退し、再び登場するのは13世紀末でした。

現在、イタリアにおいては「パスタ・アリメンターレ」などと称され、年間319万トンもの生産が行われ、1人あたり年間30キログラムの消費がなされる国民食とも呼べる加工食品です。

ウィリアム・バード(1543 – 1623年)は、イングランドで活躍したルネサンス音楽の作曲家です。

「ブリタニア音楽の父」 (Brittanicae Musicas Parens) として現代イギリスにおいて敬愛されています。

エドワード6世


とメアリー1世


のテューダー朝の時代に王室礼拝堂の音楽家であったトマス・バードの息子として生まれ、王室礼拝堂少年聖歌隊の一員としてトマス・タリスから音楽を学んびました。

バードの名前が公式記録として現れるのは、1563年にロンドン北部にあるリンカン主教座聖堂オルガニスト兼聖歌隊長

として赴任したという記述からです。

1572年には王室礼拝堂オルガニストとなり、トマス・タリス
と同僚となりました。2人はエリザベス1世の手厚い保護を受けました。

ところがイギリス国教会とカトリックが混在する時代で、カトリック教徒だったバードは弾圧から逃れるため1570年代にロンドンからハーリントンに移住しました。

国教を拒否したカトリック教徒に対する弾圧は1580年から更に強化され、1585年には国教忌避者リストにバードが記載されました。

その後、カトリック教徒であったジョン・ピーター卿(1549年 - 1613年)の保護を受け、エセックスのスタンドン・マッシーで晩年を過ごしました。

しかし、バードは、王立礼拝堂のメンバーではあり続け、1619年のアン王女
の葬送式に参加した記録があります。

バードは、カトリック教徒であると同時に王立礼拝堂楽員


であったため、その音楽は国教会のために作曲され、「グレート・サーヴィス」 (Great Service) は、最も優れたイギリス国教会音楽のひとつであるといわれています。

また、バードの声楽曲の最高傑作は、国教会のイギリスにおいてカトリックの信仰を貫いたバードの信念が感じられるラテン語ミサ曲やモテットである。特に、3声、4声、5声の3曲のラテン語ミサ曲は、ルネサンス音楽全体の中でも傑出した作品です。

器楽曲では、ヴァイオル

ヴァイオル(ヴィオラ ダ ガンバ族による合奏)
による小規模な合奏のためのファンタジアやヴァイオルを伴奏に持つ歌曲が名高く、オルガン曲やヴァージナル(チェンバロ族)曲等の鍵盤音楽も多数残しています。

ウィリアム バード作曲
入祭唱「主は彼らをよい小麦で養われ」『グラドゥアリア』より


聖母マリアの夕の祈り

2024-02-10 21:02:00 | ルネッサンス
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ政雄先生、ヴィオラ金重美代さんとフルート久米素子のアンサンブルレッスンでした。

1月に先生方の音登夢YouTubeに出演させていただいて以来初レッスンでした。

コロナでフラフラでしたが、なんとか復活。

メルカダンテのフルート四重奏Emoll
を、まず初見で。

これはひどい楽譜(久米主観)で、ほぼフルート独演会。他のパートはほぼ、ほぼ伴奏。
しかもフルートは超絶技巧で長くて休み無し。
「これやりたかったら、いつでもできるから。」と金重さん。
よく、最後まで吹かせて頂けました。
先生方の忍耐力に感謝です。

後はモーツァルトのフルート四重奏。
AdurとGdur。
どちらを今年は練習するか?お試しです。
Gdurは美しいです。
しかし三楽章が散逸したのか?書かなかったのか?
ありません。
前に三楽章を他の弦楽四重奏のロンドを入れて演奏しているのを聴いたことある。という私の怪しい記憶をもとに政雄先生がモーツァルトの弦楽四重奏を出してきて下さいました。
ハ長調のロンド付きの19番をやってみました。
「おかしくはないけれどおもしろくはないね。」ということで懸案になりました。

後はAdurをひたすら。
忘れていたこともあったり、ペータース版は初めてだったりして、戸惑うこともありましたか、やっぱりいい曲です。
今年はこちらを頑張ることになりました。
練習後はやっぱりお茶とケーキ。

今回はお店のなかがいちご尽くし。りんごのケーキ

も入れて楽しい組み合わせでした。

このカルテットほんと天国です。

直子先生の隣で演奏できるなんて本当に幸せです。

天国といえばモンテヴェルディの「聖母マリアの夕の祈り」
クラウディオ モンテヴェルディ(1567-1643年)イタリア クレモナ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没

クラウディオ・モンテヴェルディではないかと考えられている音楽家の肖像、1597年頃、画家不明(オックスフォード・アシュモリアン美術館所蔵)。モンテヴェルディが30歳頃、マントヴァのゴンザーガ家に使えていた頃の画像ではないかと言われています。真正であれば現存する最古の画像であると考えられています。

は、マントヴァ公国の宮廷楽長、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長を歴任し、ヴェネツィア音楽のもっとも華やかな時代の一つを作り上げました。

モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられていて、長命もあいまって、その作品はルネサンスとバロックのいずれかあるいは両方に分類されます。

生前より高い人気を誇り、後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされています。
オペラの最初期の作品の一つである『オルフェオ』を作曲しました。

モンテヴェルディの次の大きな作品は1610年の『聖母マリアの夕べの祈り』(Vespro della Beata Vergine、『聖母マリアの晩課』とも)でした。 

出版譜に書かれた音楽の規模が非常に大きいために、一回の礼拝ですべて演奏することを目的としていたかどうかについては意見が分かれています。
ただし、音楽的には全体の統一性が方々に見られます。

楽譜表紙
(ヴェネツィア、1610年)

聖母マリアの夕べの祈り (Vespro della Beata Vergine; SV 206, 206a)は教会音楽です。 カトリック教会での聖務日課の一部である晩課が元になっています。演奏に90分を要し、ソロと合唱とオーケストラが必要な大規模な作品で、これはバッハ以前の教会音楽では最大のものであったと考えられます。

モンテヴェルディが分化を提案した第一作法と第二作法を同化させながら作曲されています。

1610年7月に、ニコラ・ゴンベールのモテットをパロディした6声のミサ《In illo tempore loquante Jesu》とともに出版されています。

グラハム・ディクソンの主張によれば、晩課よりも聖バルバラ殉教日(12月4日)

聖バルバラのイコン
のためによりふさわしく書かれているという説もあります。

その論拠として、雅歌(歌の中の最高の歌とされる)のテキストは他の女性聖人と関連付けられるものであり、マリアについて歌った曲は他の女性聖人の名前に簡単に差し替えられるという点を挙げていまず。

モンテヴェルディはこの曲を晩課のための音楽として「市場性の高いもの」を目指して作った可能性があります。

この曲は、モンテヴェルディがマントヴァ宮廷

パラッツォ デル テ宮殿
の楽長をしていた1610年にヴェネツィアで出版されました。

この作品は、ヴェネツィアやローマでの役職のためのオーディションのために書かれた可能性があります。(その結実としてモンテヴェルディは1613年にサン・マルコ寺院の楽長に就任します。)

サン・マルコ寺院
人数の面と技術の面で十分な合唱団(最大10声)と7つの異なるソリストが要求される少人数の合唱隊が必要になります。

興味深いことに、ヴァイオリンとコルネットにはソロパートが要求されていますが、リピエーノ(詰め物・埋め草)楽器については指定されていません。

さらに、演奏者自身がその時々に応じた器楽作品などを選択することができます。

このような選択の例は他にも、マニフィカトに二つの版があることからもわかります。(一つの版はより小さいグループでも演奏可能に書かれています)これはこの作品が単一の作品で演奏されるものではなく、個別に演奏されていた可能性があるためだと考えられています。

規模の壮大な祈りの音楽というだけでなく、世俗的な音楽をも取り入れた音楽は決してその祈りの焦点を失っていません。
グレゴリオ聖歌


を定旋律として用いることによって全体の統一性を実現しています。

「聖母マリアの夕の祈り」の第一曲神よわが助けに 主よ我を助けに(2分48秒)


ペスト退散感謝

2024-02-05 21:00:00 | ルネッサンス
31日から38.5度熱が出て、一度は改源でさがったのですが、また上がってきて2日になって内科に行ったらコロナでした。

5日まで自宅待機。部屋隔離。
3日までほとんど何も食べられず、4日目食べられるようになったら茶托に乗ってウイロが出てきました。
びっくりしたけど、感謝しながら黙って食べました。
次男くん、夫に支えられています。


モルヌピラビルカプセル4個、朝夕飲みます。
医師から「特効薬あるけどね、高いよ。高いけどすごい効くけど、一万円。本当は10万円国が補助して一万円。どうしますか?」

「…い、一万円!…お願いします。」
…しんどかった。
結果、高いけど効きます。

モルヌピラビル…アメリカジョージア州エモリー大学のドラッグイノベーション企業が開発。抗ウィルス薬。
2021年12月に日本で特例承認され、2022年8月保険適用。


カプセル4個朝夕一度に飲みます。とっても飲みにくいです。
熱下がりました。
病院では子どもはインフルエンザ、大人はコロナみたいでした。(待合室観察のみです。)



人類の歴史は感染症との闘いでした。

パンデミック死者数ランキング
1位
1347-1351年 ペスト・黒死病 2億人

2位
1520年 天然痘 5,600万人

3位
1918年-1919年 スペインかぜ 4,000万人-5,000万人

4位
541年-542年 ペスト・東ローマ帝国 3,000万人-5,000万人

5位
1981年-現在 エイズ 2,500万人-3,500万人

6位
1855年 ペスト・19世紀中国とインド 1,200万人

7位
165年-180年 ペスト・ローマ帝国の疫病 500万人

8位
1600年 ペスト・17世紀の大疫病 300万人

9位
1957年-1958年 アジアかぜ 110万人-200万人

1575年から1577年にかけて、ヴェネツィアはペストの猛威によって人口の3分の1を失うという大打撃を受けました。
人々は伝染病の収束と神への感謝を祈念するために「レデントーレ教会」

レデントーレ教会は、ヴェネツィア共和国にも猛威を振るったペストの脅威(共和国の人口の25-30%に当たる約46,000人がペストにより死亡しました)1576年に収束したことへの記念及び神への感謝を込め1577年より建設が始まり1599年に完成しました。

の建設をはじめました。

1599年に教会が完成、当時最高の音楽家たちによる音楽が無事演奏されるに至りました。

アンドレア・ガブリエーリ(1532/33-1585)ヴェネツィア出身?ヴェネツィア没


ガブリエーリの若い頃について詳しいことはわかっていません。
聖マルコ大寺院の教会楽長アドリアン・ヴィラールトに師事したといわれています。

1557年に、このころ聖マルコ大寺院
のオルガニストの座を争って敗れたために、ヴェネツィア共和国カンナレジオ地区のオルガニストとなったことが分かっています。
1562年にドイツに行き、フランクフルト・アム・マインとミュンヘンを訪ね、ミュンヘンでオルランドゥス・ラッスス、


と親交を結びます。

1566年になり、ようやく聖マルコ大寺院オルガニスト


に選任され、終生この地位につきました
この職務は、北部イタリアの音楽家にとって最も名誉ある地位の一つでした。
この頃には、存命中の最も優れた作曲家の一人として、名声を手に入れるようになります。
聖マルコ大寺院の特有な音響空間の中で働いたため、独自の豪放で壮麗な表現様式を発展させ、初期バロック音楽様式を部分的に決定づけることとなった複合唱様式やコンチェルタート様式の発展に、多大な影響を及ぼしました。

聖マルコ大寺院におけるガブリエーリの責務の一つに、作曲がありました。彼は儀式用の音楽をふんだんに作曲しました。
その中には歴史的に重要な儀式もいくつか含まれています。例えば、レパントの海戦における勝利を祝した機会音楽(1571年)
 
レバントの海戦、オスマン帝国とヴェネツィア共和国、スペイン、オーストリ=アハプスブルク帝国の闘い
のほか、1585年6月28日の天正遣欧少年使節の謁見



のためにモテットを作曲しています。

後半生においては教師としても有名になりました。門人のうちで傑出した存在は、甥ジョヴァンニのほか、ドイツの地にコンチェルタート様式を持ち帰ったハンス・レーオ・ハスラーと、音楽理論家のロドヴィーコ・ツァッコーニなどがいます。

1585年8月30日没。1586年の終わりに聖マルコ大寺院で彼が勤めていた地位に後任者が就任し、また1587年になって大量に作品が「死後出版」されています。




1599年レデントーレ教会完成の時、ペストの脅威が去ったことを感謝したミサが行なわれました。そこで演奏された曲にガブリエーリの曲があったそうです。

「O crux splendidior」は、ラテン語の歌詞で「星々よりも輝く十字架よ、世界で有名で、人々から愛され、神聖な」という歌詞が続きます。


蛙化現象

2024-01-17 21:50:00 | ルネッサンス
ハープの発表会でゲストの小学生の子どもさんのカエルのリュック。
かわいいでしょ。

口を開けたら、真っ赤!
走ったら手足がぶらぶら動いて、ますますかわいいです。

蛙化現象という言葉が最近流行っているそうです。

好きな相手が自分に好意があるとわかってしまうと、それがきっかけで急に嫌悪感を抱いてしまうことを言うそうです。

昔からある、相手の何かの言動で付き合ってみたら「100年の恋も覚める」とかと言うものではないらしく、男女を問わず「好意を持たれたら」「湧き上がってくる嫌悪感」ということが「蛙化現象」らしいです。

王子様が魔法で蛙にされていて、女性との試練の後に魔法が解けて、元の王子に戻り、王子と結婚して末永く幸せに暮らしました。という物語の逆だそうです。

ジョン ダウランド(1563-1626年)イングランド生没

は、「蛙のガイアルド」という曲を作っています。

1579年にフランスのアンジュー公フランソワ
 
フランソワのミニアチュール(1577年)
ニコラス・ヒリアード作
は求婚のためイギリスに渡り、エリザベス一世

エリザベス1世 ペリカンの肖像画(1572)
と面会しています。

その時 エリザベスは彼が噂されているほどには「醜くはない」ので、「蛙 (frog)」の愛称をつけました。

エリザベスはこの求婚を真剣に考え、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイヤリングを大切にしていました。

しかし、プロテスタントの女王に対して、カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局この縁談は成立しませんでした。

1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しんで喪に服し、贈られた蛙のイヤリングを、身につけたと言われています。

エリザベス1世・虹の肖像(1600)
イヤリングをつけていますが、蛙のイヤリングかどうか?わかりません。

蛙化現象というより。政略結婚の失敗ですが…。女王は国と結婚していたと言われています。

この悲恋をダウランドが「蛙のガイアルド」として作曲しました。
この曲はその歌詞から「今こそ別れ(Now o now I needs must part)」とも言われています。

「蛙のガイアルド」(長いので触りだけ)
今、ああ、私は別れなければなりません、
私は悲しみに暮れていますが、別れる必要があります。
不在は喜びをもたらすことはできません。
一度逃げた喜びは戻ることはできません…。略

ジョン ダウランド
「蛙のガイアルド」Frog Gaillard