音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

友情と愛と陰謀

2024-11-16 21:00:00 | バロック
木曜日はピアノの坂田恭子さんと聴き合い会で披露するドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を合わせました。

夫が、育てているメダカの鉢

坂田さん昨年倒れて入院半年。ようやく最近ピアノ復帰てきるようになりました。
まだ、本調子ではありませんが、姿を見るだけで嬉しいです。

以前のように一緒に紅茶を飲んで、おしゃべりして、練習。  

それだけで幸せです。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710−1736年)教皇領イェージ生まれ、ナポリ王国ポッツォーリ没

イタリアのナポリ楽派オペラ作曲家。オペラ・ブッファの基礎を築き、甘美な旋律にあふれたオペラを作曲しました。

短い生涯であったのにも拘らず、古典派音楽の様式を最も早く示した人物として音楽史に名を遺しています。


オペラ「オリンピアーデ」
台本はオッタヴィアーデ

シチョーネ(古代ギリシャの都市国家キシュオン)の僭主クリステーネの娘アリステア
イタリアのコントラルト、テレサ・アルブッツィ・トデスキーニ
アリステア(ドレスデン、1756年)
は、古代ギリシアで行われていたオリンピックの祭典競技で数度にわたって優勝したことのあるアテネの高貴な青年メガークレ

と愛し合っていました。

しかし、アリステアの父クリステーネはアテネを嫌っていたため、メガークレとアリステアとの結婚の許しを与えず、メガークレは失意のなかクレタ島に赴きます。

そこでメガークレは追剥に襲われますが、クレタ島の王子として知られるリーチダ

に助けられ、一命を取り留め、メガークレはリーチダとゆるぎない友情を築きました。

リーチダはクレタ島の令嬢アルケ゚ーネ
アルゲーネ
と愛情で結ばれ、密かに婚約もしていました。

しかし、クレタ王はその結婚が身分違いのものであるとして許ざず、望みを失ったアルケ゚ーネは、祖国を捨て、身分を隠してエーリデへと逃げてしまいます。

エーリデで、アルケ゚ーネはリーチダの一族やクレタ王から身を隠すため、羊飼いの服を着て、「リーコリ」と名を変えて暮らしていたのでした。

エーリデの村では、4年ごとにギリシャ全土から参加者が集うオリンピックの祭典競技が開催されていました。

リーチダは、愛するアルケ゚ーネがいなくなってしまった悲しみを紛らわせようと、これに参加することにします。

リーチダは、メガークレをクレタ島に残し、ひとりエーリデにやってくると、このオリンピックの祭典競技の代表として選出され、シチョーネからエーリデにやってきていた僭主クリステーネと出会います。

クリステーネは、オリンピックの祭典競技の優勝者に自分の娘アリステアをめとらせると決めます。
リーチダは、恋人アルケ゚ーネを忘れてそれを賞賛し、さらにそのアリステア姫を見て、恋に落ちるのでした。 

しかし、リーチダには戦いの経験がなく、優勝には程遠いと感じます。

そこで、オリンピックの祭典競技で優勝経験のある親友メガークレを、自分の身代わりとして戦わせて優勝させることを思いつきます。

しかし、もちろんリーチダはメガークレがアリステアと昔、恋に落ちていたことなど知る由もありません。友であるリーチダからの強い願いもあって、メガークレもエーリデの地に向かいます。

このオペラはここからが始まりです。

第1幕
メガークレは、かつて命を救ってくれた友人、リーチダという名でオリンピック大会に出場するのにちょうど間に合うようにシキュオンに到着します。

かつてクレタ島の王女アルゲーネと婚約していたリーチダは、メガークレとアリステアがすでに愛し合っていることを知らず、その後友人に賞品のことを告げます。

アリステアとメガークレは互いに親しみを込めて挨拶しますが、メガークレは今やリーチダとして競技に参加するという約束に縛られていると感じています。
一方、アルゲーネは羊飼いの女に変装してオリンピアに到着し、リーチダの前に現れます。

第2幕

メガークレがゲームに勝ち、そのまま去ります。
リーチダが彼女を要求しに来ると、アリステアは彼を非難し、変装したアルゲ―ネも同様に彼を非難し、彼を落胆させます。

リーチダの家庭教師は、メガークレは溺死したと報告し、欺瞞を知ったクレイスチーネ王はリーチダを追放します。

第3幕
アルゲーネは絶望したアリステアが自殺するのを阻止し、メガークレは漁師に救われ、リーチダは王の暗殺を企てます。
企ては失敗。
アリステアは父のクリスチーネ王にリーチダのために慈悲を乞い、アルゲーネは彼の代わりに自分を差し出します。

彼女は王女である証拠として、リーチダからもらった鎖をクリスチーネに見せます。

クリスチーネ王はそれが、父親を殺すという予言を未然に防ぐために幼い頃に捨てられた息子のものであると認識します。復権したリーチダはアルゲーネを受け入れ、妹アリステアをメガークレに託し、二組の結婚が祝われます。

アルゲーネのアリア 



フルートトラヴェルソの世界

2024-11-14 21:00:00 | バロック
月曜日の夕方からエスカルのメンバーの今川さんに誘われて有志で出演する今川教室の発表会デモ演奏の練習に行きました。

本町の貸しレッスン室スマイルズに着くと今川さんと田中さんが二重奏の真っ最中。

同じメンバーの田中さんは最近トラベルソを買いました。
今川さんもトラベルソを持っていてその楽器とテレマンの二重奏を披露するのです。
二人とも熱が入っています。

その後、私と今川さんでハイドンの「ロンドントリオ」を一回合わせ、いよいよ垣内さんもはいってドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」フルート四重奏版。

こちらはモダンフルート、パウエル、SANKYO、ムラマツ。

練習の後、近くの焼き鳥屋さんで一杯呑んで帰りました。…私は呑めないので烏龍茶。

普段あまり話す時間が無いのでいろいろ話せて楽しかった〜。
前日の定演の余韻も充分に堪能しました。

焼き鳥屋さんってほとんど入ったことがなかったけれど、安くて美味しいですね。
特に鶏皮揚げが美味しかった。
癖になりそうです。

お腹すきすぎてて写真撮れませんでした。

フラウト・トラヴェルソ(伊:Flauto traverso)は木管楽器の古楽器の一種で、今日のフルート(モダン・フルート)の前身となった横笛です。

バロック期以前には、西洋音楽においてフルートといえば縦型のリコーダーの方が主流であったことから、「traverso(横向きの)」という修飾語を付けてフラウト・トラヴェルソと呼ばれていました。

バロック・フルート(4分割型,上方はピッチの異なる替え管,復元楽器
バロック期における典型的なトラヴェルソにはトーンホールが7つあり、歌口に近い側の6つの穴は、左手の第2 - 4指と右手の第2 - 4指で直接押さえる。最下流の穴には指が届かないので、右手第5指で押すと穴が開くシーソー形のキーが設けられています。
この形態から「1キーフルート」とも呼ばれます。

頭部管・中部管・足部管の3部分に分割されるものと、頭部管・左手管・右手管・足部管の4部分に分割されるものとがあり、キーは足部管に付いています。


モダン・フルートはキーを必ず右側にして構えるが、1キーフルートは足部管を回転させれば左側に構えることもできます。(この場合キーは左手第5指で操作します。)


音域はD4からE6までというものが一般的です。B6までの運指が知られていて、A6あたりまでは出しやすい楽器もあります。

D管であるにもかかわらず、楽譜は実音で記譜されたため移調楽器ではありません。
長調について考えると、D-dur(ニ長調)、G-dur(ト長調)、A-dur(イ長調)は比較的大きな音量で演奏できますが、それ以外の調ではクロスフィンガリングによって出す弱々しく不安定な半音が多くなるため、演奏は簡単ではありません。

五度圏の図で D-dur(ニ長調)から遠い調ほど演奏が困難になっていきます。

モダン・フルートと比べるとシンプルで、複雑なキーメカニズムはなく、頭部管のリッププレートもありません。

外径は全体的にモダンフルートよりも太く、内径は頭部管から足部管に向かってしだいに小さくなる円錐形になっています。

管の結合部はテノンと呼ばれ、糸を巻いてあるものと薄いコルクを巻いてあるものとがあり、適宜コルクグリースを塗布して気密を保ちます。

クラシカル・フルート(6キー)

古典派以降の時代になると、より多くの調に対応できるよう、半音を出すための新たなトーンホールが設けられ、これを開閉するキーが付け加えられていきます。
さらに、高音域を出しやすくするために管の内径を細めるなどの改変がされて、変貌していきます。

メイヤー式フルート(10キー)
1847年のベーム式フルートの登場によって、トラヴェルソの時代は終焉を迎えます。
トーンホールの径を大きくして音量を増すなどの改良が加えられた多キーのメイヤー式フルートは、フランスを除くヨーロッパやアメリカで、1930年代まで使われていました。

モダン・フルートは、ほとんどが銀や洋白などの金属で作られていますが、古いものはほとんど木製です。 
フラウト・トラヴェルソの管体の材質としては柘植(つげ)や楓(かえで)、梨(なし)、黒檀(こくたん)、グラナディラなどが用いられます。


木材以外で最も多く使用された材料は象牙で、総象牙製のフルートはとりわけ王侯貴族に愛用されました。

デュモン 総象牙 トラヴェルソ
木製フルートでも、結合部の飾りあるいは補強のために銀や象牙のリングを用いているものがあります。
しかし、象牙は割れやすいので今日まで残っている当時の楽器には、割れを補修してあるものが多いです。

キーは銀や真鍮(黄銅)、洋白などで作られていて、穴を塞ぐ部分には薄いシート状のパッドが貼られて空気漏れを防いでいます。 

パッドの材質は皮などですが、製作者によって異なり、スズ系合金のピューター製の弁を用いるものもあります。

なお、現在はABS樹脂製のトラヴェルソも発売されていて、油を塗布する必要がなく、メンテナンスが容易です。

アクロス フルート 樹脂製

アムステルダムの木管楽器製作家リチャード・ハッカ(Richard Haka, 1645-1705)の作った3分割フルートが、現存する最古のバロック・フルートであるといわれています。

いつ頃誰によって最初に考え出されたのか、確かなことはわかっていません。

ジャック・オトテール(Jacques-Martin Hotteterre,1674-1763,フランス)…通称オトテール・ル・ロマン。オトテール一族はフランスの著名な楽器製作者。3分割式のモデルがよく知られています。

ヨハネス・ヒアキントス・ロッテンブルク(Johann Hyacinthus Rottenburgh,1672-1756,ベルギー)…JHRでなく、IHRと略記されることがあります。

J.H.Rottenburgh 1740年頃 R.Tutz作 つげ 415Hz & 440Hz

ゴットフリード・アドリアヌス・ロッテンブルグ(Godfridus Adrianus Rottenburgh,1703-1768,ベルギー)…ヨハネス・ヒアキントス・ロッテンブルクの息子。GARと略記されることがあります。

G.A.Rottenburgh 1760年頃 R.Tutz作 つげ 415Hz

トーマス・ステインズビー・ジュニア(Thomas Stanesby Jr.,1692-1754,イギリス)…父親のトーマス・ステインズビー(Thomas Stanesby Sr.)も著名な楽器製作者。


ピーター・ブレッサン(Peter Jailliard Bressan,1663-1731,イギリス)…銀象嵌を施した独特のデザインを持つ4分割式フルートがよく知られています。

ヤーコブ・デンナー(Jakob Denner,1681-1735,ドイツ)…父親のヨハン・クリストフ・デンナー(Johann Christoph Denner,1655-1707)も著名な楽器製作者。


アウグスティン・グレンザー(Carl Augustin Grenser,1757-1814,ドイツ)


柘植 復刻

クロード・ローラン(Claude Laurent,?-1848,フランス)…クリスタルガラス製フルートの製作者。今日の木管楽器に広く使われているキーポストの構造を考案したことでも知られています。


ジャック・オトテール(Jacques-Martin Hotteterre,1674-1763,フランス王国パリ生没)

は、マルタン・オトテール(1712年死去)とマリー・クレスピーの息子としてパリで生まれました。

1704年頃、ジャック=マルタン・オトテールは従兄弟のジャックの後任として宮廷の「basse de hautbois et taille de violon」の職に就きました。

オトテールは、フラウト・トラヴェルソの設計に数々の変更を付け加えました。

最も重要なのは、フルートを3つの部分に分け、頭部(マウスピース付き)、胴体(ほとんどの音孔つき)、脚部(いくつかの音孔あり)としたことです。

復刻オトテールモデル アフリカンブラックウッド一部樹脂製象牙に変更可能 オトテール商会
また、彼はオーボエの改良でも知られています。
1708年作曲
フルートトラヴェルソとその他の低音楽器のための最初の作品集



聖なる御子

2024-11-03 21:00:00 | バロック
金曜日1週間ぶりに赤ちゃんの保育に行ってみると
「ずいぶんしっかりしましたね。」
お母さん「うつぶせになってずり這いしそうなのですが、まだそこで止まっています。」
しばらく抱っこして遊んでいましたが、結構動くので和室で寝かせて遊んでいたら寝返り。
「どうかなぁ?」と思って少し離れたところにおもちゃを置いて見守っていると、ゆっくりですが、ずり這いしておもちゃをつかみました。

それから、少し遠くの別のおもちゃ、またおもちゃへと結局和室中をぐるぐる。
子どもが成長するのは早いです。
うれしくなってしまいました。

連休初日の土曜日。
枚方市は午後から大雨警報で、次男は職場に呼び出されて出勤していきました。
全国で警報がでているようです。
どうか被害がありませんように🙏

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ライプツィヒ没

カンタータ第1番
「あしたに輝く たえなる星よ」
BWV 1用途:受胎告知の祝日(3月25日)
Wie schön leuchtet der Morgenstern

「 明けの明星はいかに美しく輝くか」は、フィリップ・ニコライによるルター派の賛美歌です。

ニコライにより1597年に書かれ、1599年に初めて出版されました。

この賛美歌は、何世紀にもわたって音楽作品に影響を与えてきましたが、特にバッハのコラールカンタータ『明けの明星の美しく輝くもの』BWV 1が有名です。

ペーター・コルネーリウス、フェリックス・メンデルスゾーン、フーゴ・ディスラー、エルンスト・ペッピング、・カーゲル、ナジ・ハキムもこの歌詞に作曲してぃます。

ニコライの 1599 年のFrewdenspiegel deß ewigen Lebensに初掲載
これは受胎告知のための教会カンタータです。
カンタータが作曲された1725年当時、受胎告知(3月25日)は枝の主日フィリップ・ニコライの歌「明けの明星のなんと美しく輝くこと」(1599年)に基づくバッハのコラールカンタータの一つです。  

カンタータの初演で使用された最初のソロヴァイオリンパート
ニコライは1597年の疫病への対応としてこの歌詞を書きました 7つの節からなるこの賛美歌は、神秘的な結婚の歌である詩篇45篇に基づいています。ヨハネの黙示録22章16節によれば、イエスは明けの明星と同一視され、詩篇の花婿です。
(写譜:ヨハン・アンドレアス・クーナウ)
ライプツィヒトーマスカントル(聖トーマス教会のカントル)

新教会、1749年

に就任して2年目に作曲した曲で、四旬節この種の音楽は受胎告知(3月25日聖枝日の頃)と枝の主日(復活祭前の日曜日に当たるキリスト教の移動祝日である。この祝日は、キリストがエルサレムに入城した際に群衆がヤシの枝を振ってキリストを迎え、敬意を表したことに由来します)の両方に適していて、キリストの到来を待ち望む気持ちを表現しています。

バッハのコラール・カンタータ連作、この賛美歌は同時代の詩人によって言い換えられ、賛美歌の最初と最後の節はレチタティーヴォとアリアが交互に続く連続なっています。

1.合唱

あしたに 輝く

恵みと まことの

たえなる 星よ

ダビデの 裔(すえ) なる

イェス 君こそ

わが 心の 主なれ

いとし

やさし

栄えに 満ちたる わが イェス

いと 高き 君よ

(Philipp Nicolai „Wie schön leichtet der Morgenstern“1599 第1節)

2.レチタティーヴォ(テノール)

まことの 神の 子

いかに うるわし

なが 命の 言葉

民ら みな 久しく

待ち望みし もの

み使いの 訪れ

ベツレヘムに 現わる

おお 天(あめ)の み糧(かて)よ

怖れも 死も はや

こを 奪いえず

(以下5.までPhilipp Nicolai 同上 第2~6節の書き換え)

3.アリア(ソプラノ)

充たせや 天なる 神の 炎

あこがれ 望む わが 胸を

心に 迫るは

いと つよく 燃えさかる 愛

地にて 受くる み国の 幸


4.レチタティーヴォ(バス)

この 世の 輝き

心に 触れず

喜びは み神より いず

主の 血に より

わが 糧

備えらるればなり

されば われら

主に 向かい

ともに 捧ぐべし

喜びと 感謝の

ほめ歌をば


5.アリア(テノール)

歌と 楽の音(ね)もて

なれを 讃(たた)えん

感謝と

捧げもの そなえん

心と 念(おも)いは

大いなる 主を 讃えて

高めらる

生ける かぎり


6.合唱

げに 幸なるかな

とこしなえの 主に

より頼めば

あまつ み国にて

主は われを 招き

友と したまわん

アーメン

アーメン

来たれ 喜びの 冠(かむり)なる

主こそ わが 望み

(Philipp Nicolai 同上 第7節)
原詞:作者不詳(フィリップ・ニコライ同名コラールに基づく)
訳詞:大村恵美子


バロック絵画と音楽

2024-11-01 21:00:00 | バロック
多田有里さんのさをり織り個展に行ってきました。
さをり織りは、いろいろな人が織っていますが、有里さんのさをりは、地模様がうっすらと浮き出て
特別です。

カラフルな色味は見ているだけで元気が出てきます。

今回はちょっと渋目のバッグも!
私はグリーン系の小さなバッグを手に入れました。

温かい手作りの味。

交野カフェチアーズの日替わりランチも量が絶妙でちょうどよかった。
お味噌汁も野菜たっぷり。
美味しかったです。

音楽と絵画は強く結びついています。
バロック時代の
セオドア ロバーツは
アンソニー・ヴァン・ダイク作「セオドア・ロンバウツの肖像」

フランドルの画家で、主に活気に満ちた劇的な集まりを描いたカラヴァッジョ 風の風俗画や宗教的なテーマの作品で知られています。中には音楽をテーマに描かれた絵画があります。

ロンバウツは、裕福な仕立て屋のバルトロメウス・ロンバウツとバルバラ・ド・グレーヴの息子としてアントワープに生まれました。

1608年にフランス・ファン・ランクフェルトの弟子となり、後にアントワープでアブラハム・ヤンセンス、おそらくニコラ・レニエにも師事しました。

1616年にローマに渡り、1625年までそこに滞在しました。

彼は、フランチェスコ・トルネッリ(トゥルニエ?)とロベール・ドルテイユという2人のフランドル人画家とともに、ローマのサンタンドレア・デッレ・フラッテ教区に記録されています。
フィレンツェを訪れた際にカラヴァッジョ派のバルトロメオ・マンフレーディと出会い、コジモ2世・デ・メディチ

ユスタス・サスターマンスの後のコジモ2世
のために働いた可能性があります。1622年にはピサにも旅行しました。

1628年から1630年にかけて、ロンバウツはアントワープのギルドの助祭を務めました。

1635年、ロンバウツは他の芸術家と共同で、ルーベンスが総指揮を執ったアントワープのフェルディナンド王子枢機卿の歓喜の入場の装飾計画を手がけました。

彼はこの装飾プロジェクトの完成後間もなくアントワープで亡くなりました。


「二人の音楽家」は1616-1625年に描かれました。

「バッカスとの音楽団」
ロンバウツと妻と娘

描いたヴァン ダイクの2枚のペンダント肖像画を参考に、この構図の中央のカップルは、ロンバウツとその妻を表していると考えられています。
この2人がカップルとして解釈されるのは、女性が男性の腕に手を置いているところからです。

17世紀の芸術や文学では、カップルが一緒に音楽を奏でたり歌ったりすることは、愛を表す一般的な表現でした。

さらに、左側の音楽家がリュートを調律しているのは、結婚生活の調和の象徴として意図されています。

音楽はさらに、悲しみを癒すものと信じられていました。ここで描かれている構図では、音楽と愛の喜びが、バッカス(酒の神)が持ってきたワインによって高められています。

「リュート奏者」1620年頃
これは単なる音楽家の肖像画ではなく、構図に含まれる物体を通じて五感を暗示している連作の1枚です。
聴覚(リュート)、味覚(ジョッキ)、嗅覚(パイプ)、視覚(楽譜)、触覚(ナイフ)があります。

「音楽コンサート」は
セオドア ロンバーツ(1597-1637年)によって1625-1637年の間に描かれました。


エマニュエル・アドリアエンセン( 1554年頃アントワープ生まれ - 1604年2月27日アントワープに埋葬)は、フランドルの リュート奏者、作曲家、音楽教師でした。

彼はPratum Musicum


を著しました。 

これにはリュート独奏の楽譜と、さらに重要なことに、複数のリュートとリュートと声楽を含む様々なアンサンブルのためのマドリガーレの楽譜が含まれています。

彼はまた、自身の音楽学校で音楽教師としての活動を通じて、次世代のリュート奏者に重要な影響を与えました。

エマニュエル・アドリアンセンは1540年から1555年の間にアントワープで生まれました。

彼の幼少期や訓練についてはほとんど知られていません。

1574年に音楽を学ぶためにローマに渡ったことは知られています。

アントワープに戻ると、兄のギースブレヒトとともにリュート学校を開きます。

兄弟は1587年にアントワープの音楽家ギルドと対立しましたが、それは彼らがギルドのメンバーにならずに音楽家として活動していたためです。エマニュエルは後にギルドのマスターになりました。

彼は1584年にシビラ・クレランと結婚し、6人の息子と1人の娘をもうけました。

彼らの息子である

アレクサンダー(1587年 - 1661年)、ヴィンセント(1595年 - 1675年)、ニクラエス(1598年 - 1658年)は、それぞれ静物画家、戦争画家、肖像画家になりました。

アントワープ陥落(八十年戦争(オランダ反乱)中の1584年7月から1585年8月までの1年以上続いた包囲戦の末、1585年8月17日にアントワープが陥落しました。)  


ジブラルタルの戦い、1607年
の前、エマニュエルはカルヴァン派だったようで、アントワープ陥落後に長男にのみカトリックの洗礼を受けさせました。 

アントワープ陥落後のアントワープ市民衛兵の粛清記録には、彼はカトリック教徒として登録されています。

彼の富とアントワープ社会の上層部との良好なコネが彼を守ったのかもしれません。

エマニュエルは後に市民衛兵 の隊長に任命され、定期的な収入を得られるようになりました。


聖セバスティアヌスを守護聖人とするアムステルダムのアーチェリー民兵隊、1653年、バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト作

1595年、彼はネーデルラント共和国の軍隊に占領されていた隣町リールの解放に参加しました。

アドリアンセンは裕福な市民となり、おそらくは貴族を含む地元の名士たちと頻繁に会い、リュートの妙技を高く評価されました。

またリュート音楽の出版により、国際的に名声を得ました。 

教師として、彼は出版した優れたタブ譜と、おそらくデンスやヨアヒム・ファン・デン・ホーヴェらを生徒にしていたアントワープのリュート学校の創始者であったことから、重要な役割を果たしました。

エマニュエル・アドリアンセンは、1604年2月2日に遺言を残してから、1604年2月27日にアントワープの聖ジェームズ教会で葬儀と埋葬が行われるまでの間にアントワープで亡くなりました。

彼の死後、妻は再婚し、後に末息子のニクラエスを連れてネーデルラント共和国のライデンに移住しました。

ロンバウツの絵画に出てきたリュートは、このような音楽を奏でていたのかもしれません。

リュート独奏曲

Nonette ノネット

(Une Jeune Fillette若い女の子), Almandアルマンド -

Emanuel Adriaenssenエマニュエル アドリアンセン





チェリストの聖典

2024-10-28 21:14:00 | バロック
金曜日は10月25日は第17回聴き合い会を開催しました。
今回はチェロの渡瀬清隆さん、がギター河口範夫さんとラフマニノフの「ヴォカリーズ」を演奏されました。
なかなかいい感じ。

フルートデュオ、ギター独奏、ギター二重奏などなど熱演が続きました。

私はチェロの斉藤千秋さんとヘンデルのフルートソナタCdurを演奏しました。
当日初めて合わせましたが、一楽章だけ合わせる時間がありませんでした。
440hzで合わせるということで、いきなり吹いたら全然音が違って大慌てで吹きながら調整しました。

やっぱり一回も合わせないで合わすなんて無茶かな〜。
それでも楽しい聴き合い会でした。

次は11月19日(火)12:15開室13:00開演牧野生涯学習センター 音楽室
1人15分 協力金500円
お互いの演奏を聴き合い、励まし合いましょう。
音楽を、楽しみたい方は誰でも出演できます。どうぞ勇気を出してお申込みください。連絡は久米まで

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
無伴奏チェロ組曲( Suites á Violoncello Solo senza Basso)は、チェロ独奏用の組曲で、以下の6曲が存在しています。

第1番ト長調 BWV1007
第2番ニ短調 BWV1008
第3番ハ長調 BWV1009
第4番変ホ長調 BWV1010
第5番ハ短調 BWV1011
第6番ニ長調 BWV1012

作曲年代は明らかではありませんが、その大部分はケーテン時代(1717年-1723年)
バッハがアンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長になった時代。
当時のアンハルト=ケーテン侯国は音楽に理解のあるアンハルト=ケーテン侯レオポルト
 

の統治下にあり、バッハがもらった400ターラーという年俸も前任者シュトリッカーの倍額であったと思われます。

ケーテンの宮廷オーケストラは12人の楽師で構成されていて、宮廷ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者はチェリストも兼ねていました。

クリスティアン・フェルディナント・アーベルのために書かれたという説があります。
ヴァイオリンのように肩で支えた姿勢で弾く小型のチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ=肩のチェロ)

のために書かれたとする説もあります。

バッハの妻アンナ・マクダレーナ


の写譜が残っており、これは長い間バッハ自身が書いた自筆譜と考えられてきました。

バッハの妻アンナ・マクダレーナによる無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007の写譜

その後、単純な練習曲として忘れられていましたが、パブロ・カザルス
1876-1973年パブロ・カザルス
によって再発見されて以降、チェリストの聖典的な作品と見なされるようになりました。

現代においてはバッハの作品の中でも特に高く評価されるものの一つです。チェロ以外の楽器のために編曲して演奏されることも多いです。

6曲の組曲はそれぞれひとつの調性で統一され、
前奏曲(プレリュード)で始まり、
アルマンド、
16世紀のフランスでは「地面に足をつけた中庸の遅さ」(トワノ・アルボ「オルケゾグラフィOrchésographie」1589年)の2拍子のダンスで、組になった男女が列を作って進みながら踊るダンスでした。


クーラント、
2分の3拍子と4分の6拍子の交代を伴う優雅な舞曲。 

サラバンド、
3拍子による荘重な舞曲。

メヌエット
フランス発祥の宮廷舞曲のひとつ。基本的に4分の3拍子で、通常は穏やかな性格を帯びた音楽です。

(第3番・第4番はブーレ
オーヴェルニュとビスカヤに共通する17世紀に発祥した舞曲。速いテンポの2拍子の舞曲。

第5番・第6番ではガヴォット
フランスの地方のフォークダンスと、それに由来する古典舞曲の名称。
「ガヴォット」の名は、踊りの発祥したドーフィネ旧地域圏のペイ・ド・ギャップ(Pays de Gap)地方ガヴォ(Gavot)に由来。 中庸のテンポの舞曲で、4分の4拍子ないしは2分の2拍子で記譜されます。小節の半ばかアウフタクトに始まります。)



ジーグ
8分の6拍子または8分の9拍子の舞曲。

の6曲構成となっています。

第5番はスコルダトゥーラ(変則調弦あるいは特殊調弦とも呼ばれ、ヴァイオリン属やリュート・ギターなどの弦楽器において、楽器本来の調弦法とは違う音に調弦(チューニング)すること。第5番はチェロのA弦(音域がいちばん高い弦)を低くGに調弦して弾くことを前提に楽譜が書かれています。)を前提とし、
第6番は5弦の楽器のために書かれています。

組曲第1番 2アルマンド




フランス生まれ?メヌエット

2024-09-20 21:00:00 | バロック
次男の左脚膝のチタンを抜く日がやってきました。

木曜日入院受付。
半年前に職場で転倒し、左脚膝蓋骨を骨折。
半年、自転車で15分の職場まで車通勤していましたが、ようやく卒業です。
明日金曜日手術の後、少し会えるみたいですが、入院してしまうと面会は15分、2人までです。
看護師さんの説明を受けて、部屋に入ってしまうともう会えません。
まあ、大人だから大丈夫かと帰ってきました。

ここの病院の駐車場にも萩の花。

ここだけ秋ですが、35度。

お天気悪いですが、しっかり、じっとり暑いです。

メヌエットはフランスの舞踊だと言われています。
が、その起源は明らかになっていません。
ポワトゥー地方のブランルから発祥したとされていますがよくわかってはいません。

その名前はフランス語のmenu(ムニュ、「小さい」)に指小辞がついたもので、小股でステップを踏むためにそう呼ばれました。

フランス語ではムニュエですが、イタリア語化してミヌエット(minuetto、フランス語のmenuに対応するイタリア語がminutoであるため)またはメヌエット(menuetto)と呼ばれるようになりました。

シャルル・デュパール(1676-1751年)フランス王国パリ生まれ、フランス王国パリ近郊サン・ジェルマン シュルエコール没

フランスのチェンバロ奏者、バイオリニスト、作曲家です。

父はルイ14世のグランド・エキュリー(大監)の平凡な音楽家、ニコラ・デュパール(? - 1700年)。
ある時、デュパールは、パリ近郊のサンジェルマンアンレーに亡命中のイングランド王ジェームズ2世

を訪ねていたロチェスターのエリザベス・ウィルモット、サンドウィッチ伯爵夫人、ジャック・ペジブルと親しくなりました。

これがきっかけで1700年頃にロンドンに渡ります。
しかし、1712年頃からは主に教師として収入を得るようになり、晩年は貧困に陥りました。

今日では、ヨハン・セバスチャン・バッハのイギリス組曲に影響を与えた「6つのクラヴェッサン組曲」で最もよく知られています。

デュパールの幼少期や教育の詳細は不明です。
デュパールに関する最も古い文献は1695年のパリの納税記録で、そこには彼がチェンバロや他の楽器を習得していたと書かれています。

1701年、アムステルダムで『クラベッサンのための6つの組曲』を出版しました。

次に彼のことが知られるのは1703年2月11日、ロンドンでガスパロ・ヴィスコンティと共にコレッリ
アルカンジェロ・コレッリ(1653- 1713年)
の音楽をドルリー・レーン劇場で演奏したときです。 

デュパールはロンドンに定住し、やがてドルリー・レーン劇場の音楽界の重要メンバーとなりました。
彼は劇作家ピーター・アンソニー・モトゥー、作曲家トーマス・クレイトンなどと共演し、ジョヴァンニ・ボノンチーニやドメニコ・スカルラッティ
サンティアゴ騎士団を身に着けたスカルラッティの肖像画(1738年)
といったイタリアの作曲家の音楽の演奏にも参加しました。

1707年後半、デュパールはロンドンのヘイマーケットにあるクイーンズ劇場でオペラのプロジェクトを立ち上げることに関わりました。

彼はこのプロジェクトで重要な役割を果たしたようですが、1年ほど経った1708年後半に経営陣から解雇されました。

デュパールは1711年と1712年にヨーク・ビルディングで一連のコンサートを企画しようとしましたが、結局数回しか開催できませんでした。

1712年以降は主に教師として活動していました。

彼の作品は少なくとも1726年まではコンサートで演奏され、ドルリー・レーン管弦楽団の常連メンバーだったようです。

デュパールが最後に公の場に姿を現したのは1724年です。
彼は高齢で貧困のうちに亡くなったと思われていましたが、この情報は最近になって誤りであることが判明しました。

公文書によれば、彼は1744年にパリ近郊のムランで結婚し、1751年に近くの小さな村サンジェルマンシュルエコールで亡くなったことが示されていました。

1701年に作曲された「6つのクラヴェッサン(クラヴサン チェンバロ)組曲」Fminor 第6番からメヌエット
クラヴェッサン、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ ダ ガンバ


最愛の兄との別れ

2024-09-19 21:00:00 | バロック
今朝はSさんのレッスン。
90歳になるお姉さまのお誕生祝いにフルート演奏をプレゼントしようと準備中です。

ピアノ伴奏はないので、CD音源をプレーヤーで流しながら演奏するつもりです。

曲は来生たかお作曲の「シークレット・ロマンス」とマルグリット・モノー作曲エディット・ピアフ作詞「愛の讃歌」

「シークレット・ロマンス」は初めのシンコペーションの部分。
タイで繋がったところはいつものクラッシック音楽の奏法では息を足したりしませんが、タイの後の音符に少し息を足して吹くとリズムがでやすいですよ。

「愛の讃歌」はアウフタクトが拍頭より大きくならないように、丁寧に優しく吹いてください。
付点四分音符は入ったら安心して音を抜かないで次の頂点を目指して吹き込んでいってください。

中間部はささやく語りなので、大きくしなくていいですが、言葉の意味を考えてフレーズの方向、切れ目をよく考えながら吹きましょう。

Sさん、とっても頑張っています。
お姉さまの誕生祝い、うまくいくといいですね。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
は8人兄弟の末っ子として生まれました。
1694年5月(9歳)には母エリザベートが亡くなり、父は同年11月に再婚したものの、翌年の1695年2月に父も他界しました。

その後、バッハは兄ヨハン・ヤーコプ (1682-1722年)
と共にオーアドルフの教会オルガニストを務めていた兄ヨハン・クリストフ (1671-1721年)

の家に引き取られます。

勉学に励み、クラヴィーア演奏の基礎もここで学びました。

1704年、兄ヨハン・ヤーコプはスウェーデン国王カール12世(1682-1718年)

の軍隊でオーボエ奏者を務め、後にはフルート奏者を務めることになります。

ヨハン・ゼバスティアンはその兄との別れに際してカプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」BWV992を書きます。

惜しむような口調で別れの挨拶が述べられ、一同は嘆き悲しむが、やがてご機嫌な調子で馬車がやってきます。

最後は郵便ラッパを模したフーガで終わります。

1.アリオーソ、旅を思いとどまらせようとする友人たちのやさしい言葉 

2.他国で起こるかもしれないさまざまな不幸の想像 
   
3.友人一同の嘆き 
4.友人たちは(どうしようもないと知って)集まり、別れを告げる 

5.郵便馬車の御者のアリア 

6.郵便ラッパを模したフーガ 










最古のバガテル

2024-09-13 21:00:00 | バロック
木曜日朝7:30に牧野を出発。松井山手で母をひらって9:00に京都の病院に到着。
母の心臓の大動脈弁の術後健診2年目です。
病気の駐車場には萩の花が満開でした。
満開と言っても野生の花は楚々としたものです。
表玄関近くの駐車場は9:00と言ってもどこも満車。病院の裏側、一番奥の駐車場は野生の萩が進出しても放置です。
おかげで秋を感じることができました。と言っても31度…暑かった。

血液検査、検尿、CT、エコーと回って、形成外科で傷跡の貼薬を処方してもらって、循環器の先生に会って、次回の予約をしてもらって、もう一度形成外科で同じ日をとってもらって放免。
会計をして、処方箋をFAXしておいて
1:00近く。
松井山手に帰って薬局に寄って薬を頂いて、母の依頼の酒屋さんでノンアルビールを1ケース買って、ようやくお昼を食べて、野菜買って帰りました。

実は車の中の後部シートと後ろの荷台はボールプールと椅子でいっぱい。
昨日はファミリーポートが休みだったので一晩アクアの中で温め。病院にも一緒に行きました。

スタッフのYさんをひろって、ファミリーポートへ行き、ようやく返すことができました。
ついでに使っていないチャイルドシート2台も返却。スッキリしました。

全て片付け帰宅5:00頃。
お花の頭が垂れていたので慌ててお水をあげて
練習しようと思ったけれど、疲れてうとうと。

目が覚めると集中豪雨!
あ〜あ、お水あげたのに。
次男が帰ってきて「1時間雨雲レーダー予報見なくちゃ。」ともっともな意見。
6:00から5歳児を迎えに行かなくちゃ。雨の用意をして出たら前が見えない豪雨。
しかし10分ほどの幼稚園に着いた頃には小雨に。
助かりました。

今日の作品。昨日から作っていたものの続き。 
「ピタゴラスイッチ!」と言っておりましたが、これは「コリントゲーム」?
ボールを転がして遊んでいましたが、途中から数字を自分であちこちに書いて「数字は、どこにあるでしょうか?」ゲームに。
いろいろ考え出して遊ぶものです。

しかし!今日は結局練習できなかった…。

調べて見ると、「コリントゲーム」は昭和初期にこのゲームを入れた小林脳行の紹介したピンホールゲームの名前だそうです。

棒とボールを使ったテーブルゲームは、グラウンドビリヤード、クロッケー、ボーリングなどの屋外ゲームを悪天候時に屋内でプレイできるようにするための取り組みから生まれました。

フランスでは、ルイ14世(1638-1715年)

の長い統治期間1643年から1715年にかけて、ビリヤード台が狭くなり、テーブルの片側に木製のピンまたはスキットルが置かれ、プレーヤーは反対側からスティックまたはキューでボールを打ち出すという、バリエーションが数多く開発されました。

1777年、ルイ16世(1774-1792年)

と王妃(1755-1793年)
ジャン=バティスト・アンドレ・ゴーティエ=ダゴティ作、1775年頃の宮廷衣装を着たマリー・アントワネット王妃
を招いて、王の弟アルトワ伯爵

アルトワ伯爵シャルル10世(シャルル・フィリップ、1757年10月9日 - 1836年11月6日)は、1824年9月16日から1830年8月2日までフランス国王。 戴冠していなかったルイ17世の叔父であり、在位中のルイ16世とルイ18世の弟。
が多額の費用をかけて建てたばかりのバガテル城

バガテル城
バガテル城の裏側
でパーティーが開きました。

そこで行われたゲームは伯爵によってバガテルと名付けられ、その後すぐにフランス中に広まりました。

城の名前「バガテル」とイタリア語のbagattellaから来る名前で、「つまらないもの」「装飾品」を意味します。

パーティーのハイライトは、細長いテーブルとキュースティックを使った新しいテーブルゲームで、傾斜した競技場で象牙のボールを打ち上げるものでした。

19世紀になってアメリカではフォーチュナ、ピンホール、日本ではスマートボールという名前で発展しました。

バガテルは短い音楽作品の名前としても用いられています。

バガテルという名前は「短く気取らない器楽作品」を意味し、作品の軽快なスタイルに由来しています。

バガテルは一般的にピアノ独奏用に書かれていまふが、ピアノ連弾、チェンバロ、ハープ、オルガン、クラシックギター、ビブラフォン、無伴奏オーボエ、クラリネット、バイオリン、ビオラ、様々な室内楽構成、オーケストラ、バンド、声楽とピアノ、アカペラ 合唱用に書かれていることもあります。

最も有名な「バガテル」はベートーヴェンの「エリーゼのために」です。

最も古い「バガテル」はフランソワ・クープラン(1668-1773年)の第10番チェンバロ 協奏曲(1717年)です。


フランソワ ・クープラン(1668.-1773年)
フランス王国パリ生まれ、
オルガン奏者、チェンバロ奏者で作曲家。

音楽一族のクープラン家の一人として生まれ、他のクープランと区別するために特にクープラン・ル・グラン (偉大なるクープラン)と呼ばれています。

1713年にクープランは、王室の特権を申請し、「器楽と声楽のための、合同または分離した作曲による音楽小品」を出版する許可を得て、チェンバロ作品集(全4巻)の第1巻『クラヴサンの小品』を出版しました。

1716年にはチェンバロ演奏教本『 クラヴサンの演奏技法』 (ただし、翌年すぐに回収され再出版されました)、

その他の鍵盤楽器と室内楽集も出版されました。

1717年、クープランはルイ14世によりクラヴサンのための王室室内楽司令官となりました。これは宮廷音楽家にとって最高の地位のひとつでした。








川のカンタータ

2024-09-10 21:04:00 | バロック
月曜日は午前中、京都今出川大宮の富久田先生レッスン。
久しぶりの快晴。
前回は停電に巻き込まれ、樟葉で足止めでしたが、今回は何事もなく無事バスに乗れました。



ヘンデルのフルートソナタヘ長調八番をチェロとピアノで吹くので見ていただきました。

基本に立ち返って、タンギング。
音程。楽器を、叩かないなど今一度省みる名曲です。


バスから見た御所
今日は1回戻って夕方から渡辺橋プリンシパルてエスカルの練習なので、まっすぐ帰ってきました。

枚方市は大阪の東の端でちょうど京都駅と大阪駅の間。
どちらも同じ距離で行けます。
この鴨川は枚方の手前の八幡市で木津川、宇治川と合流し、支流に別れたりしながら渡辺橋の先で大阪湾に流れ込みます。

筑前橋から大阪湾に向かって流れています。反対側は渡辺橋

Schlicht, spieleende Wellen
「忍び寄れ、きらめく波よ」BWV 206は、
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

がライプツィヒで作曲し、1736 年 10 月 7 日に初演された 世俗カンタータです。

バッハはポーランド王ザクセン選帝侯アウグスト 3 世

のためにこのカンタータを作曲しました。

この曲は、1736 年の10月7日彼の 40 歳の誕生日に、ライプツィヒのカフェ ツィンマーマン

ツィマーマンコーヒーハウスのあるエルテルの家、ヨハン・ジョージ・シュライバーの版画より(1720年)
でコレギウム ムジクムによって初演されました。 2 回目の公演は 1740 年 8 月 3 日に再びカフェ ツィンマーマン

で行われました。

この作品の台本作者は不明ですが、クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリチ(ピカンダー1700-1760年詩人、バッハの台本作家)である可能性が高いです。

このカンタータは、バッハがライプツィヒ大学の祝典のために書いた作品の一つに数えられています。
この曲は〝音楽による劇〟で、この王様の領地を流れる次の4つの川が擬人化されて、登場人物となっています。

ソプラノ プライセ川=ライプツィヒを流れる川

アルト ドナウ川=オーストリアの首都ウィーンを流れる川

テノール エルベ川=ザクセンの首都ドレスデンを流れる川

バス ヴィスワ川=ポーランドの首都ワルシャワを流れる川

内容は、ザクセン選帝侯がポーランド王を兼ねるという、当時の特殊な政治状況を反映しています。

主君を讃える音楽ですが、劇のような形にすることで、市民も楽しめるドラマに仕立てています。

主人公は川たちという音楽劇です。

ザクセンを流れるエルベ川は、ヴィスワ川に対し、アウグスト陛下はあくまでもわれらの君主であり、ポーランドには貸しているだけで、あげたわけではないぞ、と釘を刺しています。

もし自分がアウグスト王のことを忘れたなら、遠くインドのガンジス川に呑まれて、マラバル人(インドの西南部地方)のものになってしまうだろう、といいます。ヨーロッパの川ではなくなって、野蛮人の川になってしまう、と歌います。

1.Chorus:這い、波を奏で、優しくつぶやく
しのび流れよ、戯れる波、せせらぎの音も穏やかに!

いや、ざわめき急げ

岸を、岩を、鳴りどよめかせ!

われらの流れをかきたて

すべての波をさざめかせる喜びよ

堰を破れ!

川の水をよどませる偽りと憚りの堰を!

2.レチタティーヴォ(バス):おお、幸せな変化よ

3.アリア(バス):ヤヌス神殿の扉を閉める
4.レチタティーヴォ(テノール):そうなんです!楽しいヴィスワ川
5.アリア(テノール):私の波のすべて
6.レチタティーヴォ(アルト):私は同時にあなたの喜びを分かち合います
7.アリア(アルト):ハプスブルク家の高等部族の米
8.レチタティーヴォ(ソプラノ):許してください、強い川の苔むした頭たち
9.アリア(ソプラノ):聞いてください!優しいフルート合唱団
10.レチタティーヴォ ( SATB ):従順でなければならない、従順でありたい

11.コーラス:永遠の善に対する天の警告



葦を削って作る

2024-08-22 23:28:00 | バロック
これな~んだ?
①シナモンスティック

②クレープロールチョコレート

③オーボエのリード


正解は?



③オーボエのリード…ベタ過ぎ!ごめんなさい💦

隣のオーボエ嬢のリードがシナモンスティックに見えて可愛かったので、つい。
クレープロールは後付け 。

オーボエのリードは、葦(ヨシ、アシとも言われます)


という植物を乾燥させた物でできています。

このリードを2枚向い合わせにすると、リードの中央に少しすき間ができます。ここに息を吹き込みリードを振動させることで音を鳴らします。

Yamahaホームぺージより

これをダブルリードと言います。
このダブルリードは水分量によって吹奏感や音色が変化します。
吹く時にリードを湿らせておく必要があり、曲中の休みなどではリードを水に浸け、コンディションを整えます。
(これが、タイトル写真の状態です。)

またリードは木でできているので、長持ちしません。
吹き続けていると消耗するので、オーボエ奏者は数本のリードをローテーションさせながら吹いています。

リードは、丸材を加工して1枚の板(かまぼこケーン)

にして、その後シェーパー


を使ってリードの形(舟形)

にし、金属管(金属管の一部にコルクが巻いてあり、チューブと呼ばれるもの)に糸で巻き付けます。
吹き口を削って完成です。


アレッサンドロ・イニャツィオ・マルチェッロ(1669- 1747)
イタリア ヴェネツィア生まれ、パドヴァ没

偽名「エテーリオ・スティンファーリコ 」を使って《12のカンタータ》作品1のほか、数冊のコンチェルト集を出版しました。

今日ではその作品はめったに演奏されなくなっていますが、生前のアレッサンドロは卓越した作曲家として、また楽器蒐集家としても著名でした。

代表作のひとつが《オーボエ協奏曲ニ短調》です。

このほかの作品として、2つのオーボエまたはフルートのための協奏曲集『ラ・チェトラ』(La Cetra、1738年、アントニオ・ヴィヴァルディの作品9『ラ・チェトラ』(1727年)がマルチェッロの真作とわかりました。
《リコーダー・アンサンブルと弦楽器、通奏低音のための協奏曲ト長調》などがあります。

《オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調》は、1700年代初頭の作品で、マルチェッロの最も有名な作品です。また最も有名なオーボエ協奏曲の一つです。

過去には、ベネデット・マルチェッロやアントニオ・ヴィヴァルディの作品と誤って伝えられてきました。

またヨハン・ゼバスティアン・バッハはこの作品をニ短調のチェンバロ独奏曲(BWV 974)に編曲しました。当時の人気がしのばれます。

マルチェッロの《オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調》