音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

葦を削って作る

2024-08-22 23:28:00 | バロック
これな~んだ?
①シナモンスティック

②クレープロールチョコレート

③オーボエのリード


正解は?



③オーボエのリード…ベタ過ぎ!ごめんなさい💦

隣のオーボエ嬢のリードがシナモンスティックに見えて可愛かったので、つい。
クレープロールは後付け 。

オーボエのリードは、葦(ヨシ、アシとも言われます)


という植物を乾燥させた物でできています。

このリードを2枚向い合わせにすると、リードの中央に少しすき間ができます。ここに息を吹き込みリードを振動させることで音を鳴らします。

Yamahaホームぺージより

これをダブルリードと言います。
このダブルリードは水分量によって吹奏感や音色が変化します。
吹く時にリードを湿らせておく必要があり、曲中の休みなどではリードを水に浸け、コンディションを整えます。
(これが、タイトル写真の状態です。)

またリードは木でできているので、長持ちしません。
吹き続けていると消耗するので、オーボエ奏者は数本のリードをローテーションさせながら吹いています。

リードは、丸材を加工して1枚の板(かまぼこケーン)

にして、その後シェーパー


を使ってリードの形(舟形)

にし、金属管(金属管の一部にコルクが巻いてあり、チューブと呼ばれるもの)に糸で巻き付けます。
吹き口を削って完成です。


アレッサンドロ・イニャツィオ・マルチェッロ(1669- 1747)
イタリア ヴェネツィア生まれ、パドヴァ没

偽名「エテーリオ・スティンファーリコ 」を使って《12のカンタータ》作品1のほか、数冊のコンチェルト集を出版しました。

今日ではその作品はめったに演奏されなくなっていますが、生前のアレッサンドロは卓越した作曲家として、また楽器蒐集家としても著名でした。

代表作のひとつが《オーボエ協奏曲ニ短調》です。

このほかの作品として、2つのオーボエまたはフルートのための協奏曲集『ラ・チェトラ』(La Cetra、1738年、アントニオ・ヴィヴァルディの作品9『ラ・チェトラ』(1727年)がマルチェッロの真作とわかりました。
《リコーダー・アンサンブルと弦楽器、通奏低音のための協奏曲ト長調》などがあります。

《オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調》は、1700年代初頭の作品で、マルチェッロの最も有名な作品です。また最も有名なオーボエ協奏曲の一つです。

過去には、ベネデット・マルチェッロやアントニオ・ヴィヴァルディの作品と誤って伝えられてきました。

またヨハン・ゼバスティアン・バッハはこの作品をニ短調のチェンバロ独奏曲(BWV 974)に編曲しました。当時の人気がしのばれます。

マルチェッロの《オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調》





イギリスから来た女の子

2024-08-14 21:00:00 | バロック
13日は家族は職場に帰り、私はイギリス在住で夏休みだけおばあちゃんのいる日本に帰っている5年生のOさんの楽器を見に、梅田ドルチェ楽器へ。

夏休みだけれど、イギリスのグレードテストを受けるということで、レッスンを受けたいと言うことでした。

そこで、レッスン3回だけ見ていました。

2回終えたところで
ニューミュージックという子ども用のU字管のついた楽器で練習されていましたが、高音の時に力を入れて吹き過ぎる、Eの音が出にくい。など問題があり、楽器を吹かせてもらうと、タンポがヘタっていて、高音も出にくい楽器でした。

そこでそのことをお母様に伝えると、新しい楽器をそろそろ買い替えようと思っていたそうで、楽器屋さんで楽器を見せてもらうことになりました。

イギリスの先生に総銀製、リングキー、オフセットキーでときいてきたそうで、その条件に合う楽器を揃えておいてもらいました。

金額は知らなかったのですが、最後に残ったのが、ミヤザワとアルタスでした。
中でもアルタスはバランス、レスポンス、申し分なかったので、これでと金額を聞いたら、やっぱり出してもらったフルートの中では一番高かった…2番がミヤザワ。

お値段通りの結果でした。ちょっと残念。
なかなか安い掘り出し物って無いです。

免税と値引きをしてくれると言ってくれましたが
予算と、イギリスでのメンテナンスのことを考えると、今回は購入を断念されました。
残念。

それになんとニューミュージックに問い合わせてみたら、無料修理の上に治らなかったら、無料で1本送ってくれルということでした。…びっくり!
正常な状態のものを見ていないのでなんとも言えませんが、今の鳴りを考えたら新しい楽器もどうかな?と思いますが、これ以上、踏み込めません。

調整のまずい楽器で練習していると癖がついて困ります。が、イギリスで購入した方が、メンテナンスもついていると思うので、イギリスの先生にお任せすることにしました。

牧野に帰って3回目。最後のレッスンをしました。

本人はいいフルートを吹いた後なので、より現在のフルートを吹きにくく感じたようですが、時間も無いのでこのフルートでできることを最大限に引き出さなくてはなりません。

しかも1時間で。 

中身は言えませんが、気になる方は体験レッスンを受けてください。
体験は無料です。良ければ続けてください。(宣伝です。)

終わった後、熱心にメモを取られていたお母様から「音が変わりました。びっくりしました。」

「来年の夏休みも来ると思うので、その時はまたよろしくお願いいたします。」と言われて帰られました。

テストのためだけでなく、美しい音で楽しくフルートを吹いてくれると嬉しいです。
祈っています。 

グレードテストの課題曲
の1つはヘンデルのフルートソナタです。
フリードリヒ ヘンデル(1685-1798年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選定公領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランドロンドン没

のフルートソナタ ロ短調( HWV 367b) はフルートと通奏低音のための作品です。

このソナタはリコーダーソナタ ニ短調 (HWV 367a)として1712年頃に作曲されたものです。
ヘンデルの音楽の他のカタログでは、この作品はHG xxvii, 32; およびHHA iv/3,42と呼ばれています。

この作品は、1730年に「作品1、第9番」として初めて出版されましたが、これは無許可の「恥ずべき失敗作」でした。

実際にはロンドンのジョン・ウォルシュ

ウォルシュの 1732 年の出版物の表紙。
1730 年に出版された「ロジャーズ」の表紙。


によるものでしたが、偽造された表紙にはアムステルダムのジャンヌ・ロジェが出版者であると記載されていました。

この版では、元の調性であるニ短調からフルート用にロ短調に移調され、第3楽章と第4楽章は省略されていました。

ウォルシュ版とクリサンダー版

クリサンダー版

クリサンダー

は両方ともこの作品がフルート(「トラヴェルサ」)のためのものであることを示していて、ソナタIXとして出版されました。

現在ではヘンデルの真正作品が確認されています。




 

2024-08-12 21:01:00 | バロック
夫と次男とお墓参りに行こうと母を誘いに行ったらお客様。

お墓参りは明日にして、京都亀岡方面にドライブ。
スカイラインを動かさないとまたバッテリーが上がるから…。
例によってあてどない出発。
「どこ行くの?」
「…。」
本人にもわからないらしい。

結局亀岡の巨大建造物ガレリア亀岡に駐車。

ピアノも置いてありました。


道の駅もあるので野菜を買って、


うなぎ寿司半額。
撮る前に食べてしまいました。
残り1個!。

さくらプリンは母にお土産。

この後、亀を探して川へ。
うなぎは採れません…。

うなぎは
古代ギリシア、アリストテレス(BC384-BC322年)

は本種が降河回遊をしていることを記しています
沿岸や河川で捕獲される個体が成熟した卵をもっていないことは当時から知られ、本種がどこから来てどこへ行くのか、さまざまな憶測を生んできました。

アリストテレスは地中からヨーロッパウナギ


が生れると信じていました。
古代ローマの博物学者であった大プリニウス(23-79年)


は、体から剥がれ落ちた皮膚の破片から稚魚が生まれると考えていました。

これらの荒唐無稽な仮説は、1887年にイタリアのメッシーナ海峡で成熟卵をもつ雌が発見されたことにより、初めて科学的に否定されました。

さらに、それまで別種の魚類と考えられていたレプトケファルスが、ウナギ類の仔魚であることも判明し、ヨーロッパウナギの生活史は、急速に明らかになりました。

食用魚としての歴史も長く、欧州各地で干物・塩漬け・燻製・フライ・煮込み・焼き魚など、さまざまな調理方法で利用されてきました。

ロンドン・イーストエンドのウナギゼリー寄せなど、郷土料理として知られるものもあります。 

鰻のゼリー寄せ

日本のウナギと同じように、捕獲したシラスウナギを成魚まで育てる養鰻場も、ヨーロッパ各地に存在します。

19世紀には河口に大量に押し寄せたヨーロッパウナギでしたが、乱獲や工業化に伴う生息環境の攪乱によって資源量は著しく減少し、近年では絶滅が危惧されています。

ヨーロッパウナギについては、1990年代に稚魚を中国で養殖し日本へ輸出する販路が定着し、輸出が本格化すると資源は激減しました。稚魚の乱獲が主な原因と指摘されています。

フランソワ クープラン(1668-1773年)フランス王国パリ生没

(1735年)アンドレ・ブイの原画に基づくジャン=シャルル・フリパールの銅版画。
フランソワ・クープランの父親のシャルル・クープラン (1638-1679) はルイ・クープランの弟で、1661年からはルイの後任としてパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めていました。

1662年2月20日にシャルルは理髪師の娘マリ・ゲランと結婚し、1668年11月10日にフランソワ・クープランが生まれました。

1679年、彼が10才の時に父シャルルが亡くなります。

サン・ジェルヴェ教会のオルガニストとなるにはクープランは未だ幼すぎ、教会評議会は彼が18才の誕生日を迎えた時に父親の地位を引き継ぐことに同意し、それまではミシェル=リシャール・ドラランドが代理を務めることになりました。

クープランの教育はサン・ジャック・ド・ラ・ブシュリー教会のオルガニストで国王のオルガニスト (organiste du roi) でもあったジャック・トムラン (en:Jacques Thomelin) が引き受けました。

クープランは約束の日が来るのを待たずに実質的にサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めるようになり、1685年11月1日には教会評議会はクープランに対する報酬の支払いを決定しています。

1689年にクープランはマリ=アンヌ・アッソーと結婚、

1690年には最初の出版作品である2つのオルガン・ミサからなるオルガン曲集を出版し、
1693年にはルイ14世


によってトムランの後任に選ばれました。

国王のオルガニストとして宮廷との結びつきを強めたクープランは、教師として多くの王家の人々にクラヴサンを教え、王室楽団では常任クラヴサン奏者を務めました。

さらに宮廷作曲家としても活動するようになり、室内楽だけでなく王室礼拝堂用の宗教音楽も手がけました。

国王の命を受けた3組のヴァーセット集が1703年から1705年にかけて出版されています。

多数のモテットが1690年代後半に書かれました。
この頃からクープランはイタリア風のトリオ・ソナタの作曲に取り組みはじめており、最初のうちは
それらをイタリア風の偽名で発表していました。

1713年に『クラヴサン曲集第1巻』出版されました。

クープランは序文で「これらの楽曲を作曲する際、私の頭のなかにはさまざまなおりに得た対象があった。私が何を考えたかを標題が示しているので、それ以上に説明をする必要はない。」と記しています。

1716年にはクラヴサン演奏論である『クラヴサン奏法』 (L'art de toucher le clavecin) を出版しました。
またクラヴサンにふさわしい音楽について実例を示すためのアルマンド1曲と、自身のクラヴサン曲集で使用されている調によるプレリュード8曲が収録されています。

1717年には『クラヴサン奏法』の第2版が出版され、おそらく同じ年に『クラヴサン曲集第2巻』が出版されました。

第2巻の組曲は(第8オルドルを例外として)組曲の定型はほとんど放棄されており、描写的な標題を持つ作品の比重が増しています。

クープランの重要な宗教声楽作品である『ルソン・ド・テネブレ』 (Leçons de ténèbres) もこの頃に出版されています。全部で9曲中、現存するのは3曲のみです。

1722年に『クラヴサン曲集第3巻』が出版され、『王のコンセール』 (Concerts Royaux) がその第2部として出版されました。

さらに1724年には『王のコンセール』の続編として『趣味の融合、あるいは新コンセール』 (Les Goûts réunis ou Nouveaux Concerts) を出版 、1725年に『比類なきリュリ氏の思い出にささげる賛歌のコンセール』 (Concert en forme d'apothéose à la mémoire de l'incomparable M. de Lully)、1726年に『諸国の人々 - トリオによるソナードとサンフォニー組曲集』 (Les Nations - Sonades et suites de simphonies en trio)、1728年に『通奏低音付きヴィオール曲集』 (Pieces de violes avec la basse chifrée) と、この時期クープランは続々と室内楽作品を出版しています。

1730年の『クラヴサン曲集第4巻』の序文でクープランは健康状態が悪化していることを記しています、

「三年程前これらの作品は書き上げられた。しかし私の健康は日々弱るばかりなので友人たちは仕事を休むよう忠告してくれた。それでその後何も大きな仕事をしていない。諸賢が今日まで私の作品に喝采を送らんとせられたことに御礼申し上げる…」

その3年後の1733年9月11日にクープランはその生涯を閉じました。

『クラヴサン曲集第4巻』
Quatrième livre de pièces de clavecin (1730) - 第20から第27オルドル
の第21曲目「鰻 」L'anguille


太陽王に愛された音楽家

2024-08-09 21:00:00 | バロック
日々草がうちの裏庭で元気です。

後、ベゴニアも。
ベゴニアは暑くても元気に咲いています。と思ったらやはり原産は熱帯から亜熱帯地方でした。
交配品種が多く、温帯や寒冷地にも咲く品種もあるようですが…。

フランスの植物学者シャルル・プリュミエ(Charles Plumier1648-1704年)

が1700年に出版した書物の中で6種をベゴニア属として紹介しました。

ベゴニアの名はフランス人ミシェル・ベゴン(Michel Begon, 1638-1710) の名に由来します。

ベゴンはフランス領アンティル諸島(カリブ海の島)の総督(在職1682-1685)で、プリュミエを当地の植物採集者としてフランス王ルイ14世(1638-1719年)


に推薦した人物でした。

この時代「太陽王ルイ」のもとに権力が集中し、世界中の富が集まりました。その一部が植物でもありました。

5歳で王位についたルイ14世は執政に政治を任せ、若い頃はバレエに勤しんでいました。

音楽家のリュリと組んで王の権威を示す音楽とバレエで「太陽王」

を演出するなどして、力を示し、実権を握っていきました。

ジャン=パディスト リュリ(1632-1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス帝国パリ没

「トランペットのためのメヌエット」もそういう曲の1つです。

ルイ14世は実権を握って、バレエを踊らなくなっても寵愛は変わらずリュリのための劇場を支援したりしていました。

しかし、リュリは強引な方法でライバルを蹴落としたりし、また当時禁忌だった男色が問題になり、王も遠のきます。
王太子の寵愛は変わらず、彼のための曲を書きます。
ルイ14世の病気快癒のための曲を指揮した時に指揮棒を足におとし、
現代の軍隊の指揮棒 指揮棒というより指揮杖だった?
壊疽を起こし急死しました。





人気の無伴奏チェロ組曲

2024-08-01 21:00:00 | バロック
月曜の午後は第14回聴き合い会てした。
牧野生涯学習センター 音楽室。

今回は黙祷と國田明彦さんの追悼演奏ピアソラの「オブリビオン」をした後、聴き合い会スタート。

準備してきたそれぞれの演奏を聴き合います。
今回はヴィオラ、ギター、ビウエラ、フルート、ピアノの参加がありました。

その後、お楽しみタイム。

ギターの河塚さん、河口さん、高井さんが、即席のトリオでパーセルの曲を演奏されました。


今川さんは高井さんと即席デュオでビゼーのアルルの女からメヌエット。

ヴィオラの山本さんもソロで「ジュピター」をもう一曲。


古楽器ビウエラの斎藤さんはブランルを再演。

フルート3人とピアノで、初合わせふるさと、モーツァルトのアイネクライネナハトムジークノ第1楽章、第2楽章を演奏したり、テレマンのフルート二重奏をやったり、いろいろチャレンジ楽しかった!

次回は8月23日(金)です。
みなさんもぜひご参加ください。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

全6曲のチェロ組曲(BWV 1007-1012)は、バッハが独奏チェロのために書いた唯一の作品です。

この無伴奏チェロ組曲は、長く忘れられた曲でした。
カザルスが取り上げたことで人気が集まりました。


1717年ケーテンの宮廷に職を得たバッハは
作曲する環境がととのい、いろいろな挑戦をしています。

当時伴奏楽器として捉えられていたチェロを独奏楽器として扱っています。
当初は練習曲と思われていたようで200年もの間忘れられていました。

ただし、演奏には、4弦をもつ一般的な楽器(第1番から第5番まで)と5弦をもつ楽器(第6番のみ)の二つが必要となります。

当時の低声部弦楽器には、両脚に挟むもの(ダ・ガンバ)、腕で抱えるもの(ダ・ブラッチョ)、肩に乗せるもの(ダ・スパラ)などがありました。

組曲第4番や第6番は、モダン・チェロよりも小さい楽器で、また第5番では、調弦が問題になり、音域がいちばん高いイ音の弦を一音下げてト音に調弦して弾くことを前提に楽譜が書かれています。

このような手法をスコルダトゥーラ(変則的調弦法)と呼びますが、重厚なハ短調の和声を響かせるための工夫のひとつです。

第2番を書いている途中に、バッハの初めの妻マリア バルバラが亡くなります。
子だくさんのバッハはたちまち困りますが、1年後アンナ マグダレーナ ヴィルケ(1701- 1760年)

と結婚します。

アンナは声楽家で宮廷での同僚で、チェロ組曲の第3番はバッハの自筆譜は失われ、アンナの写譜したものが直接バッハの楽譜を見て書かれたものだとされています。

現代では様々な楽器で演奏されています。
今回の聴き合い会でも3人の方がギターで演奏されました。
フルート編曲もあります。

特に人気のある第3番ヨーヨー・マのチェロで




ピッコロフルート選定

2024-07-31 21:00:00 | バロック
日曜日、池田ギター練習会の後、梅田ドルチェ楽器に寄りました。

今年春に買ったピッコロのフィリップ ハンミッヒ650-2

メルカリで半額になっているのを見て
思わずポチッ…。
人生初です。

失敗したかも、どうも高音は高過ぎ、中低音は低い。
中音も極端に鳴りにくいです。

自分の吹き方かとおもって、毎日スケールと、ロングトーンをやってみましたがなかなか厳しい。

リペアのせいかと思って見てももらいましたが、そうではないみたい。

榎田先生に見てもらったら、「ハンミッヒは変わった楽器でね。」と頭部管のコルクの位置をその場で5ミリ引き抜いて、「これで合うんだ。」
確かに音程は合いますが、高音のF以上は鳴りにくく、中音は低音はなんか気に入らない音。
それにクラウンが5ミリ分はみ出して閉まらなくなりました。

そこへ、ドルチェさんの中古フェアーのお知らせ。

電話しておいたので、試奏室に出しておいてくれました。
手前から
①パウエル ハンドメイド キングウッド14KGold キー。#12***

②パウエル ハンドメイド グラナディラ シルバーキー

③ボンヴィル グラナディラ リングキー HJ銀メッキ  ジョイントタル付き#3***

吹いてみました。
①すごいパワーです。低音から中音高音まで申し分なく鳴り、音程のバランスもいいです。
14Kのせいか多少の金属音がします。しかしこれは好みの問題です。

②①に比べると木管独特の温かみのある音。パウエルのパワー、バランスもいいです。

③上2本と哲学が違う感じです。
リングキーは問題無いですが、キーが小さく、キーとキーの間が狭いので慣れないと他のキーもおさえてしまいます。慣れれば大丈夫。
金属らしさはなく、艷やかでまろやかないい音です。

あれ?!最低音のDが鳴りません。
「これは調整ですか?」と聞くと、お直ししてきてくれました。

鳴ります。が、D音だけ異質な感じはします。しかしそれを除くととてもいい感じ。

悩んでいるとパウエルの新品。
グラナディラ、ウェーブ管を出してきてくれました。
「これならどうです?」
ウェーブ管は吹きやすいです。
いいですが、しかし、低音の響きが好みではありません。
それにこれも100万越え。

一番安いボンヴィルで40万オーバー。ほかはすべて100万を越えます。
簡単には買えません。

「頭部管の中古もありましたよね。」と他の選択肢も考えてみました。

パウエル グラナディラの頭部管を私のハンミッヒに刺してみました。
大きくてグラグラ。

しかし吹いてみるとパウエル純正品と「あっ!」というほど、遜色ありません。
低音から高音までしっかり鳴ります。

「でも、グラグラですね。」
というと、紙を巻いてグラグラしないようにしてくれました。

いいです。お値段も極端に安い。頭部管だけだからね。

これと悩むなら音色の違うボンヴィル
だけ。

「これだけ鳴るなら、これがいいと思いますが。グラグラはなんとかなりますか?」
「コルクを分厚くすることで対応できますよ。」

「しかし、パウエルとハンミッヒの音では、音のバランス悪くないですか?」
吹いてみせると
「大丈夫ですね。」

「これを見てください。」とハンミッヒの頭部管と並べてみました。

「頭部管の長さがハンミッヒは5ミリは短いです。」
榎田先生がおっしゃたように、ハンミッヒピッコロの音程のバランスの悪さは頭部管のコルクの位置が他のフルートより短いことにあるということが、証明されてしまいました。
ただし、これは古いハンミッヒなので、最近のものは違うかもです。

結論。
ハンミッヒにパウエルの頭部管をすり合わせて貰うことにしました。
後、ハンミッヒの箱にパウエルの頭部管が入らないので箱を改造してくれることになりました。

新しい箱をつけられるほどの値段ではないので、それに六千円ほどかかります。それでも安い!

ハンミッヒの頭部管を下取りしてもらおうと思いましたが、とんでもなく安いのでやめました。

すり合わせと改造に1週間。
ようやく納得のいく楽器が手に入りそうです。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678-1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

は、1703年25歳からヴェネツィアの女子孤児養育院「ピエタ」で少女たちからなる合奏団を指導、育成しています。

500曲を超すといわれる協奏曲の多くが「ピエタ」のために書かれています。

その中にピッコロ協奏曲(RV443~445)があります。

”Flautino”と指定されています。
これは17世紀にはソプラニーノ・リコーダー、

ズフォッロ(14世紀に初めて記載され、後部に親指穴、前部に2つの指穴、円錐形の管腔を備えています。長さは約8cmで、音域はB 3からC 6の2オクターブ以上です)、ピッコロなどを指しました。

今ではピッコロフルートで演奏される機会が多いですが、ピエタの少女たちの演奏技術の高さを示す曲になっています。























すごろくの先祖

2024-07-24 21:00:00 | バロック
火曜日夕方は5歳児のサポートでした。
この前からやっているUFOキャッチャー(釣り)を、するのかと思いきや、「マリオのすごろく、やろうかな。」
と車の中からすでにそのことで頭がいっぱい。
ゲームなのかな?簡単なコースとか難しいコースとかがあって一番難しいのは幽霊とか妖怪が出てくるそうです。

いろいろ説明してくれるけれどさっぱり?

着くなり、反故紙を5枚と所望され、描き始めました。
見てないと「見てて、見てて。」と言われます。

いろいろ言ってますが、『は、はーん。やっぱりすごろく。』

「私も作るね。」 
「いいよ。」
この前から作り貯めたお札のことを思い出し、丸の中に1000円とか100円とか書いて、   

リール動画を思い出して、止まったところでクイズを3か所入れました。

「サイコロが無いよ。」
「4角に折って…。」と言い出すので
「きちんと同じように目を出すのは難しいよ。」
思いつきました。
「紙に数字を書いて、おみくじみたいに引いたらいいよ。」

創作タイムが終わって、じゃんけん!

やり始めたら、ハマりました。

お金をもらえるのが嬉しかったみたい。
クイズは、私の車は何色?とか幼稚園の前には何がある?とか
帰りの車の中で
「今日は一番おもしろかったね。」と言ってくれました。
心の中でドヤ顔でガッツポーズを決める私。

1時間ほどですが、楽しいに越したことはない。

すごろくはボードゲームの1つだそうです。
紀元前3500年前エジプトのセネトというボードゲームの絵が残っているそうです。
紀元前3000年頃の現在のイラン南東部の都市シャフレ・ソフテの遺跡からも発掘されているほか、中国では雙陸、日本では盤双六
 
盤双六の盤7世紀持統天皇の頃に伝わりました
と言う名前で伝わり、日本では人々のあまりの熱中ぶりに権力者がプレイを禁止したほどだったそうです。

セネトは東ローマ帝国でタブラ
13世紀のカルミナ・ブラーナに記録された、タブラに興ずる人の中世の挿絵
となり、イギリスでバックギャモン
と呼ばれるようになったと考えられます。
イギリスでは、16世紀にタブラが禁止されましたが、密かにプレイされていました。

1650年にイギリス版のタブラはbackとgamen(中英語でgameの意味)の2つの単語を組み合わせてバックギャモン (Backgammon) と命名されました。

バロック後期のバックギャモン

コルネリウス デ ヴォス(1554頃-1651年)フランドルの画家 バックギャモンをする人々

18世紀に入るとバックギャモンはほぼ現代のものと同一のものとなり、1753年にはエドモンド・ホイルによってルールが整理・確立されました。

バックギャモンが生まれた頃のイギリスの音楽といえば、
イギリスの知られざる作曲家、
ジョージ・ジェフリーズ(1610年頃~1685年)

ジェフリーズはモンテヴェルディが提唱した第二作法(厳格なルネサンス書法に対する形で生まれた劇的で自由なバロック的手法)をイギリスにもたらした最初の作曲家です。

当時流行していたイタリアのマドリガルを取り入れ、情感豊かに宗教声楽曲を書きました。
非常に先駆的な人物です。
パーセル以前のイギリスに初めてバロック音楽を作りました。

ジェフリーズはオックスフォードでチャールズ1世

のオルガニストを務めたのち、1648年頃から亡くなるまで、ノーサンプトンシャー州カービーのハットン家に勤めました。

カービーホール ノーサンプトン

カービーホール中庭








   



宮廷バロック劇場243年前の再演!

2024-07-19 20:25:00 | バロック
先日のコンサートは実家の松井山手から学研都市線に乗って京橋駅から寝屋川を渡って、いずみホールに行きました。

いずみホールは大阪城のお掘りの内側にあります。
植込みにヒベリカム。金糸梅が咲いていました。
ジュゼッペ スカルラッティ(1712-1777年)ナポリ王国ナポリ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
音楽家一族として有名なスカルラッティ家のひとりで、正確な系譜は不明ですがアレッサンドロ・スカルラッティの孫でおそらくアレッサンドロの長男でナポリの宮廷オルガニストだったピエトロ・フィリッポ (Pietro Filippo Scarlatti) の子と考えられ、
ドメニコ・スカルラッティ
ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757年)
の甥にあたります。

最初の作品は1739年にローマで初演された宗教作品『受胎告知された聖処女マリア』(La santissima Vergine Annunziata)です。
翌年やはりローマでオペラ『メロペ』(Merope、リブレット(台本)はアポストロ・ゼーノ)を上演しています。

1741年から1751年にかけてトスカーナで働いています。

1750年代にはヴェネツィアほかの北イタリアの都市に劇場作品を提供し、この時期にカルロ・ゴルドーニ(1704-1792年)

のリブレットに曲をつけるようになりました。 

フランチェスコ・ロレダン (Francesco Loredan1685-1762年)

が新たにヴェネツィア共和国のドージェ(国家元首)に就任したことを祝って書かれたセレナータ『祖国の愛』(L’amor della patria、1752年5月11日初演)が最初のゴルドーニとの共作です。

1750年代末からはウィーンに居を定め、作曲だけでなくチェンバロ奏者および音楽教育家、とくにシュヴァルツェンベルク家の教師として働きました。

1768年にシュヴァルツェンベルク家
シュヴァルツェンベルク公の紋章
の居城であるチェスキー・クルムロフ城内劇場で『愛あるところに嫉妬あり』(Dove è amore è gelosia、リブレットはコルテッリーニ)を上演しています。

チェスキー・クロムロフ城 

はチェコ共和国ボヘミアの有力な一族であったヴィートコフ家により最初の城が建設されました。1250年以前のことてした。

その後、14世紀頃にヴィートコフ家と縁続きであるローゼンベルク家が一帯を支配するようになり、城は16世紀にはルネサンス様式に改修されました。

プラーシュティ橋

その後、ハプスブルク家及びエゲンベルク家の所有物となりました。

18世紀にはシュヴァルツェンベルク侯家の所有となり、バロック様式の建築が付け加えられました。

18世紀の末から19世紀にはチェスキー・クルムロフの街が停滞し、やがてシュヴァルツェンベルク家の人々もこの城に住まなくなりました。

1947年にチェスキー・クルムロフ城を含むシュヴァルツェンベルク侯家の財産はチェコスロバキアの地方自治体に移管され、1950年に国有財産となりました。
1963年には街が保全指定を受け、1989年には地域が国の指定史跡となり、1992年にはUNESCOより世界遺産に指定されました。 

ローゼンベルク家の人々は15世紀から演劇に関心を示していました。

エゲンベルク家とその周辺の人々も舞台芸術に関心があり、チェスキー・クルムロフ城には1675年から芝居が上演できる設備がありました。

1680年から1682年頃にかけて、オペラを愛好していたエゲンベルク家の当主ヤン・クリスティアーンが現在バロック劇場がある場所に劇場を作りました。
 
現存するバロック劇場のステージ
1765年から1766年頃にかけてチェスキー・クルムロフ城の劇場は大幅に改装され、現在残っている形に近いバロック劇場が完成しました。

バロック劇場舞台下にある機構

オペラ「愛あるところ嫉妬あり」「Dove è amore è gelosia 」は2幕構成のオペラです。
シュヴァルツェンベルク公ヨーゼフ1世の長男であるネポムク公ヨハネ1世の結婚式のために作曲され、初演は1768年7月24日にチェスキー・クルムロフ城バロック劇場で行われました。

2011年に243年前の「愛あるところ嫉妬あり」の再演が、チェスキー・クルムロフ城のバロック劇場で行われました。





マンドリン アンサンブル フィオーレ ディ オオサカ

2024-07-15 21:00:00 | バロック
14日午後からマンドリンアンサンブルフィオーレ ディ オオサカのコンサートでした。

加えてプロージットオーケストラの練習日。
前回コロナで休み、次回カルテットの本番でお休み。
絶対行かなけれは!

と言っていつも助けてくれる友だちのコンサートも…!
コンサートは淀屋橋フェニックスホールで13:00開演。
オケはミサソレニムスから入るので降り番の私は15:00第9に間に合えばいい。

しかし、場所はなるお会館。
阪神、武庫川女子大学駅前。
どこそれ?という私。
ヤフー路線検索してみたら淀屋橋から50分弱で行けるらしい。

で、フィオーレの第1部を見てから、淀屋橋にと思ったけれど、よく考えたら歩いて梅田まで行って阪神に乗ったほうが早いんじゃないかな? 

googleの中の人は歩くのが早いみたい。
フェニックスホールから淀屋橋まで帰るのに私の足だと10分以上かかります。そこから梅田まで御堂筋線で行って阪神というルートです。

フェニックスホールから直接梅田まで歩いて、そこから阪神に乗ったほうが早い…と思う。たぶん。そちらにかけて、ちょっとドキドキしながら梅田に向かって歩きました。

初めの予定の10分後に出て、阪神梅田で予定の10分前の電車に乗れました。やった!今回は成功。



武庫川女子大学駅に43分に着いて、余裕でオケの練習に間に合いました。
余裕は大事。

残念ながらフィオーレは第1部、終わったところで退出しましたが、

第1部のプログラム

ラニエリの前奏曲
ベルッティのメヌエット
ミユールのメヌエット
ミユールの小組曲「子どもたちの遊び」より
1.踊り
2.人形への子守唄
3.ジロトンド 回れ回れ薔薇の輪に

小品ながら、繊細な表現が必要な前奏曲とメヌエット2曲。
力が抜けて優しい演奏でした。

ミケーリは1889年生まれのイタリアのヴァイオリン奏者で、2人の息子を生後すぐに相次いで亡くし、子どもたちが生きていたらこんなふうに遊びたかったという思いのこもった曲でした。
フィオーレはこういう繊細な曲が本当に素敵です。

第2部は日本を代表する現代音楽の作曲家菅原明朗先生の曲でした。
聴きたかった! 
明朗先生の曲をみんなで演奏させていただいた後に、声をかけて頂いたことがあります。
すごく怖かった!
叱られるのかと思ったら、「頑張りなさい。」でした。

卒業後も関西マンドリン合奏団に川口先生に呼ばれて明朗先生のマンドリンオーケストラ曲のフルートを吹かせて頂いたこともありました。

菅原明朗(1897-1987年)兵庫県明石生まれ、菅原道真の菅原氏の末流。


プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。

1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを学びました。

1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで画学校に通うかたわら作曲家の大沼哲に師事し、1915年(18歳)より作品を発表します。

また、大田黒元雄・堀内敬三等の「新音楽グループ」に入り、雑誌「音楽と文学」同人となりました。

1917年(20歳)、
武井守成(1890-1949年)
 
主宰のマンドリン楽団、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、また、「軍艦行進曲」で有名な瀬戸口藤吉に対位法を学びました。

1924年(27歳)初夏より1年あまり同志社大学マンドリン倶楽部の指揮をとり、1926年(29歳)、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」の指揮者となりました。

この頃から、音楽作品が認められるようになります。
当時のマンドリンオーケストラの編成は巨大化する傾向にあり、菅原の代表作「内燃機関」もフルート、バスクラリネット、トロンボーン、ピアノ、ハーモニウム、打楽器を加えたものでした。
しかし1932年に「雑感」という文章を発表し、本格的な管弦楽の普及により、その代用としての巨大化したマンドリンオーケストラの役割は終わったとして、新しいマンドリンオーケストラの在り方を模索するよう主張し、マンドリン音楽界から去りました。

その一方で1930年(33歳)、私立「帝国音楽学校」

の作曲科主任教授となり、また、箕作秋吉、清瀬保二、橋本国彦、松平頼則ら16人と「新興作曲家連盟」を、さらに、1936年、門下の深井史郎らと「楽団創生」を結成しました。

1938年、歌劇「葛飾情話」の上演後、そのときのアルト歌手、永井智子(1908-1998年)

と結婚。

その後ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、フランス流の新風を吹き込みます。

1930年代中ごろからはイタリア音楽に接近し、チマローザやピツェッティに傾倒しました。
指揮活動は、自作の指揮ばかりでなく、たとえば1942年には、アルチュール・オネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」を松竹交響楽団により日本初演しています。

戦後はグレゴリオ聖歌に影響を受けた作品が多く、またキリスト教に関連する作品も多数残しました。

さらに1963年に神戸で活動する関西マンドリン合奏団

と出会ってマンドリン界に復帰し、最晩年まで関西マンドリン合奏団のために多くの作曲や編曲を行いました。

1967年の最初のイタリア旅行以降、彼はたびたびイタリアに長期滞在し、ピツェッティと親交を深めました。
長寿の最期まで現役で、ハーモニカ奏者の崎元譲やアコーディオン奏者の御喜美江など若い演奏者のために作品を提供しました。

1981年4月、芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展5 菅原明朗」が開催されました。

1988年4月2日、「ヨハネの黙示録」に基づいたカンタータ作曲の途上、亡くなりました。(享年91歳)

2022年のアンサンブルフィオーレ ディ オオサカ演奏の菅原明朗編曲バッハの「パッサカリア」の動画ありました。残念ながら、菅原明朗先生の曲を演奏したフィオーレの動画はありませんでしたので…。








雨と雪が天から降ってくるように

2024-07-13 21:00:00 | バロック
先月コロナで飛ばしてしまった富久田先生のレッスン。
偶然、京阪特急2階建て車両、2階に乗れました。
テンション上がります。
京都も雨。

出町柳大橋。
バスの車窓から撮りました。
御所。
よくわからないなぁ。と思っていたら夫が出張した時の写真くれました。
この緑の四角が御所です。
天皇陛下が居られなくても、京都の人は大切に守っています。
私物化したり、御所を売り払ったり、開発したりは考えられません。


ヨハン セバスチャン バツハ(1685- 1750年)神聖ローマ帝国ザクセン公国アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

のカンタータ「空から雨と雪が降るように」BWV18

1713年に四旬節前(復活祭前40日)の第 2 日曜日、ワイマールのセクサゲシマ(60日目7月の日曜日)のためにヨハン・ゼバスティアン・バッハによって書かれた最初の教会カンタータの 1 つです。

ワイマール城教会

1708年からバッハはワイマールの宮廷で働きました。

1714年3月2日、バッハは、共同統治者であるザクセン・ワイマール公ウィリアム・エルンスト

とエルンスト・アウグスト


のワイマール宮廷礼拝堂のコンサートマイスターに任命されました。

この役職で、彼は新しい作品、特にシュロス教会(宮殿の教会)のためのカンタータを毎月作曲する主な責任を負いました。
バッハは、灰の水曜日(祈り断食の日です。この日の前には告解の火曜日があり復活祭前の 6 週間の苦行期間である四旬節初日です)の前の第 2 日曜日、セクサゲシマのためにワイマールに滞在中にこの作品を作曲しました。

このカンタータは、バッハのカンタータ作曲の比較的初期に登場します。

この曲は 1715 年 2 月 24 日に作曲された可能性がありますが、それより 1 ~ 2 年前の可能性もあります。

バッハは1724年にライプツィヒでこのカンタータを、より広範なオーケストレーションと異なる調で再度演奏しました。
ヤン・ルイケンによる種まき人の寓話
聖ルカによる福音書の中の種蒔く人から、第 2 楽章ではイザヤの言葉を引用しています。「雨と雪が天から降ってくるように…私の言葉もそうなるでしょう…」

恵みの雨となりますように。