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慈悲巡礼

2025-01-04 21:00:00 | バロック
3日は南山城のお寺を回りました。
タイトル写真は浄瑠璃寺の三重塔
計画的に行ったわけではなく、2日に妹と姪、母、次男と京田辺市の観音寺に行ったら

国宝、十一面観音様(白鳳時代645-710年時代)にすぐ前まで入らせて下さって

鯉とたわむれて、こんなリーフレットいただいて、
地図を片手に

寿宝寺に

十一面千手千眼観音(平安時代794-1186年)さまがいらっしゃるはずなのですが、拝観には事前予約が必要だということでお顔を拝見することはできませんでした。
がっかりした顔の妹たちに
「蟹満寺だったらよく行くよ。」
というと妹が「行く!」というので蟹満寺へ、拝観終了3分前に到着したにも関わらず、
銅造釈迦如来坐像さま(685年?あるいは8世紀)に
会わせていただきました。
撮影禁止なのでパンフの写真です。
で、3日は続き。
海住山寺

国宝の鎌倉時代の五重の塔
重要文化財の十一面観音(平安時代)さま

は見られませんでしたが



木津川を見下ろす絶景を見て、
常念寺へ

平和観音さま、

巨大です。こちらも重要文化財の菩薩形立像 - 平安時代前期(9世紀は予約無しでは拝観できません。、

浄瑠璃寺はお庭が有名です。

吉祥天女像1212年や四天王像、阿弥陀さま、がいらっしゃるそうですが、


この奥にいらっしゃる木造薬師如来坐像

が、坐っていらっしゃるのを暗闇の中で見えたような見えなかったような…目が悪いから見えない。

美しいお庭でした。
九体阿弥陀仏と本堂(阿弥陀堂)(国宝)平安末期や四天王立像 四躯(国宝)は拝観できませんでした。
南山城のお寺はまだまだたくさんあるようです。

キリスト教ではピエタという像があります。
ピエタは慈悲という意味で、聖母子像の一種で、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことです。

ミケランジェロ プオナローティ(1475-1564年)フィレンツェ共和国カプレーゼ生まれ、教皇領ローマ没

の4体のピエタは特に有名です。

『サン・ピエトロのピエタ』(1498年 - 1500年、サン・ピエトロ大聖堂)


『フィレンツェのピエタ』(1547年? - 、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)未完成

『パレストリーナのピエタ』(1555年? フィレンツェ、アカデミア美術館)未完成


『ロンダニーニのピエタ』(1559年 - 、ミラノ、スフォルツァ城博物館)未完成

腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日まで制作を続けたと伝えられています。

観音さまは慈悲を体験していますが、キリストを抱くマリアさまも慈悲に溢れています。

スターバト・マーテル ( Stabat Mater)は、13世紀のフランシスコ会で生まれました。

カトリック教会の聖歌の1つです。
詩の作者は明らかでなく、ヤコポーネ・ダ・トーディ、インノケンティウス3世、ボナヴェントゥラらが候補としてあげられています。

題名は最初の1行(Stabat mater dolorosa、悲しみの聖母は立ちぬ)からとられています。
日本語では「悲しみの聖母」「聖母哀傷」と訳されています。

わが子イエスが磔刑に処され、十字架の傍らに立っていた母マリアが受けた悲しみを思う内容となっています。

前半はマリアの嘆きを、後半は「どうかその悲しみを担わせて下さい。」という内容になっています、

この中でも古楽・バロックではペルゴレージ、パレストリーナ、ヴィヴァルディ、ハイドン。

近現代ではロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランク、カロル・シマノフスキ、アルヴォ・ペルト、クシシュトフ・ペンデレツキなどの作品が著名です。

『聖歌四編』に含まれたスターバト・マーテルの旋律はジュゼッペ・ヴェルディの最晩年の作品です。

2025年は、世界中に慈悲の心が広がることを祈ります。

ジョバンニ バディスト ペルゴレージ(1710-1736年)教皇領イェージ生まれ。ナポリ王国ポッツウォーリー没

幼い頃から音楽の才能を現し、ナポリ音楽院

に入学します。
1731年卒業作品として音楽劇『グリエルモ・ダキタニアの改心』を作曲。同年、初のオペラ『サルスティア』を初演するも不評に終わりました。

1732年、オペラ・ブッファ『妹に恋した兄』を初演し最初の成功を収めました。
1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演。失敗に終わったにもかかわらず、この作品の幕間劇として作曲された
『奥様女中 La Serva Padrona』
『奥様女中』
が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらしました。

1734年にはナポリ楽長に就任。

1735年、オペラ『オリンピアーデ』をローマで初演。
失敗しナポリへ戻ります。

この頃から結核のため体調が悪化し、宗教音楽の作曲に取り組むようになります。
1736年にはナポリ近郊ポッツオーリの聖フランチェスコ修道院に療養に移ります。
ナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団Cavalieri della Virgine dei Dolori」から委嘱された『スターバト・マーテル Stabat Mater』(悲しみの聖母)

を余力を振り絞って書き上げてまもなく、26歳で死去しました。