今日は、夕方から雷雨でした。この辺では一時停電。香里園付近の冠水で京阪も一時不通。しかし、スコールのような雨にも段々慣れてきました。Es-minerのスケールを練習していると、まるで、黒い重たい雲を呼んでしまったような気がしてきます。
雨の音を表現した音楽は、ベートーベンの「田園」、ビバルディの四季の「夏」などが思い浮かびますが、最近の豪雨には、どれもやさしすぎる気がします。そういえば、前に、夏にヨーロッパに一ヶ月いましたが、雨は2日位しか降らなかった、シャワーのようにさわやかで、やさしい雨でした。傘を持っている人も見ませんでした。雨の降り方がこれだけ違うと、表現も変ってくるのも当然かと思います。
スコールのような豪雨は、ヨーロッパではむしろ海の嵐や、あふれる川のイメージで表現されていることが多いような気がします。メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」や、スメタナの「モルダウ」、リムスキーコルサコフの「シエラザード」、ビバルディの「海の嵐」もありましたね。フルートでは、ライネッケの「ウンディーネ」最終楽章の川が氾濫する様子は圧巻です。
リストの「交響詩前奏曲」も雷鳴とどろく、嵐の感じがします。
こういう音楽を聴くと、嵐は昔から人々によってあらゆるものを昇華し、浄化を行い、再生をもたらす。と考えられてきたのがよくわかります。
この豪雨が浄化と再生の嵐となりますように。
ミヤマクワガタアサギマダラ
タマムシ
日曜日に行った里山には、虫がいっぱい。民家があったり、茶畑、田んぼ、しいたけの菌糸を植えてあったり、地名は他にありますが、私たち家族はずっと以前から「クワガタの森」と呼んでいます。
自然はいろいろなことを教えてくれます。大きなくわがたが、マニアの間では高額で取引されているそうですが、樹液を飲む場所を確保するために、オスのくわがたたちの闘いが繰り広げられています。
体の大きなオスが小さなオスをあごで引っ掛けて投げ飛ばします。樹液の周りにはメスも寄ってきて、メスは投げられずに樹液を飲んでいます。強いオスは、エサにありつくだけでなく、交尾して子孫も残すことが出来ます。
それなら、大きなクワガタばっかりになりそうだけれど、そうはなりません。気候不順のえさの少ない年にはえさがたっぷりいる大きなクワガタは体を維持できず。少しのえさでいきていける小さな体のクワガタが子孫を残すことが出来るそうです。
種の繁栄には、多様性が必要と言うことですね。
音楽も多用な音色を持つことで、表現の幅がひろがります。
バッハとシューベルトを同じ音で演奏することはできません。武満やショッカーもまたそうです。とかく私たちは一番を決めて、そればっかり追い求めてしまいますが、本当の豊かさはそれとは外れたところにあるような気がします。
その他にもコンクールなどで、一番の人はいいけれど、そうでない人でも、心打つフレーズを演奏されることがあります。学び、能力を伸ばすことに貪欲であるならば、どんなことからも学べると思います。学ぶと言うことは、フルートのためにとか、仕事のためにとかということではなく、自分自身の人生のキャパシティを広げると言うことと同じ意味なんだと最近思います。
何より、苦しい時、何もいいことがない。と思えるような時、こちらの方向へ歩いていけばいいんだなぁとおもえる。それは本当に幸せなことだと思います。