閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声
今年はセミが少ならしいですが、やっぱり私の近所ではたくさんのセミの声が聞こえています。この写真はクマゼミですが、芭蕉がこの句を読んだ時、どの種類の蝉の声を聞いたのか、論争になったことがあるそうです。昭和2年、斉藤茂吉がアブラゼミだと言えば、ドイツ文学者の小宮豊隆がニイニイゼミであると主張しました。結局芭蕉が訪れた7月13日。山形市、立石寺辺りで鳴いているセミはニイニイゼミと、多少ヒグラシであることがわかり、茂吉は自説を撤回したと言ういきさつがあるそうです。
しかし、芭蕉は句を舌の上で千回転がして、句を考える人。弟子の曽良がつけていた日記による事実とは違う創作…句を生かすためにいろいろと創作や細工を巡らしていたことがわかっています。
儚い命を思わせる蝉と、岩にしみ入らんばかりの命がけの鳴き声。懸命で、耳を圧するほどのセミの鳴き声そして、それを閑けさと表現している。といえば、やっぱり、アブラゼミかと思うのですが、芭蕉にしてみれば、この句のテーマである命の儚さが伝わることが重要で、蝉の種類はどうでも良かったような気もします。そして日本の夏を体験してきた人なら、ほとんどの人がその声と、生と死がイメージできた。そういうことが大切だったのではないかと思います。
こういう感性は、その土地の自然と強く結びついています。
だからと言って他の土地の人に、そういう感性が無いと言うわけではなく、ヨーロッパは緯度が高いので、虫が日本に比べて少ないですが、命の儚さを暗示する虫はいます。蝉ではなくて蝶だそうです。死に行く騎士のそばに蝶を描いたりしています。蝉と蝶では絶対に違う。その違いはとても大切で絶対に一緒にはなりません。しかし、その違うけれど、心としてはわかるような気がする。私たち日本の音楽ではなく、西洋音楽を学ぶものは、そこの違うけれど、同じというところを、繊細に大胆に追求して行くところが、興味深く、おもしろいのだと思います。