実家に咲いていたゼニアオイ。ヨーロッパ原産。日本には江戸時代に入ってきたそうです。銭葵の名は、花が一文銭の大きさに似ているからついたそうですが、同じゼニアオイ属のマロウが、薄紅葵という美しい名前をもらっているのに、なんだか損をしているような気がします。
フランソワ・ドヴィエンヌは、1759年フランスのオート=マル県 ジョワンヴィルで生まれました。鞍職人の末っ子。フルートをフェリックス・ローに師事し、パリで演奏活動をはじめ、1788年の資料では音楽の教授として掲載されています。フルートの名手としても知られていましたが、ファゴット奏者としても職を得ています。フランス軍の軍曹としての地位があった彼は、軍楽隊の子女に音楽を教えていました。
1789年にフランス革命が起こり、その後、軍も改組され、パリ音楽院が1793年に設立されると、ドヴィエンヌは、初代フルート科の教授になりました。
革命の嵐が吹き荒れる中、彼は、結婚し、5人の子どもをもうけました。
1790年にオペラ「ル マリアージュ グラデスタン」(非合法な結婚)を作曲、人気を博しました。
1793年には、「修道女」は人気を博したものの、6年間の上演禁止を経た後、「女子寮」と改名され、再上演。人気を得ました。フルート協奏曲を7つあまり、トリオ、ソナタ、交響曲など多数の曲を残しています。
1795年に出版された「フルートの演奏法」は近代のフルート奏法の基礎となる音楽史的にも重要な教則本です。
1803年9月パリの新聞に「過労とフランス革命によるさまざまな悲しみとつらい思いが、彼に脳障害を起こさせ、狂気の世界に導き、ここに死去」と言う記事が載ります。4ヶ月精神病院に隔離された後の死です。44歳でした。