今日は第7回聴き合い会でした。
一通り発表した後、飛び込み演奏や合奏、みんなでヴィヴァルディや、クリスマスソングの合奏もしました。
タタール族の女性
1880年頃のズヴェーレフと学生達。左から2番目(手前の一番左に座っている人物)がスクリャービン。右から4番目(奥の右から2番目に立っている人物)がラフマニノフです。
牧野生涯学習センターの音楽室で演奏を聴き合ってお互いに励まし合いましょう。ということで、開催しています。
今回はギターにビウエラに
ヴァイオリン
ピアノ
フルート五重奏
デュオや
ソロ
一通り発表した後、飛び込み演奏や合奏、みんなでヴィヴァルディや、クリスマスソングの合奏もしました。
打上げも盛り上がりました。
ここでは書けない不思議なお話も飛び出し、続きが聞きたい…。
来月は来られないので2月に来ると言いおいて帰られました。
ギターでスクリャービンの「前奏曲」を弾いた人がいました。
アレクサンドル スクリャービン(1872-1915年)ロシア帝国モスクワ生没
モスクワの軍人貴族の家系に生まれ、タタール族(日本や中国では韃靼と言われるモンゴル、シベリア、カザフスタン、リトアニアで活動したチュルク系民族、遊牧民族)を祖先に持ちます。
タタール族の女性
モスクワ音楽院に学んだ将来を嘱望されたピアニストだった母は、スクリャービンを産んだあと産褥熱で亡くなります。
幼児期からピアノを学び、10歳で自ら陸軍兵学校に入りますが、小柄で虚弱、楽才が高かったため、モスクワ音楽院への、通学を認められ、
タネーエフに音楽理論をズヴェーレフにピアノを師事しました。
1888年から周囲の進めで正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でサフォーノフに作曲科でアレンスキーに師事します。
同級生にラフマニノフがいました。
1880年頃のズヴェーレフと学生達。左から2番目(手前の一番左に座っている人物)がスクリャービン。右から4番目(奥の右から2番目に立っている人物)がラフマニノフです。
気難しく扱いにくい彼にアレンスキーは手を焼きました。
スクリャービンは結局作曲科を終了することができず、ピアノ科のみで単位を取得しました。
卒業試験ではラフマニノフが1位、スクリャービンが2位でした。
背の小さい彼は熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障しました。
回復するまでの間に左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになります。
「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ奏法を編み出します。
「左手のための2つの小品」作品9、「前奏曲」と「夜想曲」は当時を代表する作品となりました。
スクリャーピンとラフマニノフはモスクワ音楽院で同級生だったのですね。初めて知りました。片手で演奏するための曲は数は少ないですけど、いくつかありますね。
この曲は左手だけの曲では無いのです。
左手が普通よりも激しく異常に活躍する曲と言った方が良かったのかも。
スクリャービンやり過ぎかも!