赤いスイートピー。ピンクや薄紫もいいけれど、これもかわいい。歌を思い出しました。
ピアノのTさんが引越しするというので、びっくりしましたが、同じ市内で胸をなでおろしました。家を整理するので、預けておいたピアノ譜をとりあえず、引き取りに行きました。転居して落ち着いたら、また持って行ってあわせてもらおうっと。
下の子が幼稚園の時のPTAからのお付合いです。子どもの成長の話や、そろそろ心配になってきた親の話、そして、音楽の話で盛り上がって午前中いっぱい話し込んでしまいました。同じような問題に直面しているので、私も話を聞いてもらって、解決するわけではないですが、癒されました。本当にありがたい友達です。遠くに行くのでなくて本当によかった。
午後、仕事が早く終わったとSさんが電話をくれました。
ピアノとアンサンブルのお誘いです。
たくさんのピアノの人に囲まれて私は幸せ者です。
リムスキーコルサコフの「シエラザード」の編曲もの、ケーラーの「子守歌」、モーツアルトの「アンダンテ」、チャイコフスキーの「アンダンテカンタービレ」、タファネルの「ファランチェスカ ダ リミニ」幻想曲を練習しました。
オーケストラの編曲のリムスキーとタファネルは、フルートとピアノでいろいろな楽器の色を出すために、イメージを膨らませなくてはなりません。
弦や管打楽器をたっぷりと使った色彩感とボリュームをどうやってだすのか?ペダルを使ったり、指離れをゆっくりして消えてしまう音を少しでも長くしたり、簡単に動いてしまえる指をわざと、緩急をつけて機関車のように動くことで、重さを表現してもらったり。
チャイコフスキー、モーツアルトは、弦楽の部分がピアノ。弦のフレーズ感を出すために、組み合わさった和音を一つ一つ一度分解して歌のようにどの旋律に繋がるかを考えながら演奏してもらいました。
この2曲は、同じ弦でも、音の始末や、抜け方が全く違います。モーツアルトはスラーの後の音を抜いて軽く、始末は軽く減衰する場合が多いですが、チャイコは、抜けずに、逆に下降音など下にむかうほど エネルギーがたまっていくバリトンの合唱のように演奏します。
こうやっていろいろな曲をすると、いながらにして音楽で、世界一周。これだからやめられない。
1年生のAくん。いつも簡単に部屋には帰りません。
下校して来たのが見えたので、児童会室に今日はまっすぐ入るのかと思いきや、くるりと後ろを向いて帰ろうとします。『おっと、またお迎えにいかないといけないかな?』と思いながら、『いやいや、信じて待ってみよう。』と待っていると、たまたまやってきた2年生のB君を見つけて、腕にぶら下がっているので、「Aくん、Bくんお帰り。一緒に帰ってきたの?」と声をかけてみたら、「ただいまぁ」とそのまま部屋に入ってくれてまず第一関門突破して安心。
3月までは、面倒みられるばかりだったBくんも、後輩の面倒をみてくれるようになって、頼もしいです。
次は宿題。
みんなは、今くらいになると、すぐに連絡帳を出して宿題をはじめるのですが、Aくんはなかなか。ランドセルを引きずったまま、部屋の中をうろうろ。「連絡帳だしてね。」と言うと、ドカッと床の上に座って、ランドセルの中身をぶちまけました。「連絡帳ないねん。学校のんしか。」「そう、じゃぁ、お母さんに今度持って来るように言ってね。」「うん、でも、うちでは持ってこないことになってるねん。」「そうかぁ。宿題はある?」「あるで。」
宿題はすぐに出して、みんなは机の上でするのですが、床の上に寝転んで、「Aくん、机の上でしようよ。」と言うと、「うん。」というと、ランドセルをひっくり返してひざの上に置いて、その上でかきます。不安定なので字がゆがんでしまいます。
「あら、ゆがんじゃった。机の上だときれいにかけるのになぁ。」と言うと、「やっぱりこの方がうまく書ける。」とまた床の上に置いて書き出しました。
宿題をするだけ良しとするか?と見ていると、ひらがなの「せ」を練習で10こ書くところを、カタカナの「セ」と交互に書き出しました。
「あらあら、宿題はひらがなだよ。ひらがなを書こうよ。」と言っても「いいねん。ぼくはこれで。」「学校の先生はどう言うかな?花丸もらえるかな?」
と言ってみたり、いろいろ言ってみましたが変えずに「宿題終わり!」とそのまま終わらせてしまいました。
そりゃみんなが、決められた時間に机の上でお行儀良く宿題をやった方がいいし、間違いも無く、美しい字を書いた方がいいのに決まっています。
でも、子どもはいろいろ、その子なりの到達点があって、Aくんは今日は時間内にちゃんと宿題をしたし、カタカナの「セ」もひらがなの「せ」もちゃんと覚えて正確に書けていました。ちゃんとできなかったことを取り上げるより、出来たことに注目することで、勉強をしたことの結末感情が良くなります。よくなると今日だめでも、明日は取り組もうと言う意欲がでるんじゃないかな?・・・期待ですが。
こうやって、一日おとなたちが一律に設定した目標とそれぞれのこどもが到達する結果との違いを受け入れることで日が暮れます。
でも、私はうれしい。今日A君が昨日よりも早く帰ってきたこと、宿題に取り組んだこと。昨日より方向は少しずれていましたが集中してできたこと。昨日よりきれいな字を書いていたことが。
「紫の薔薇」というと、美内すずえさんの名作「ガラスの仮面を」を思い出してしまいます。紅天女はどうなるのかなぁ?
今朝のレッスンはケーラーの子守唄とモーツアルトのアンダンテ。
レッスンのいい所は、何度も同じ曲をレッスンすることによって、その曲のことをより深く理解しようとしたり、自分が演奏するだけでなく、人の演奏を聴くことで、思いもかけない角度から、曲を見ることができることです。
ラルデ先生が昔言っておられたのは、音楽は「愛」
その時は、何のことか良くわからなかったけれど、
誰かが書いた昔の楽譜を、さまざまな角度から何度も何度も見つめ、演奏することで、深く理解していく作業。その過程そのものが「愛」ではないのかと最近思います。
自らの考えや、感じ方をしばらく置いておいて、相手の考え方をただ知り、理解しようとすること。
しかし、自分の演奏に対しても、自分の体や心がどうなっているのか?唇や、呼吸や、指先に至るまで、意識し、知ろうとしなければ、その楽譜を再現することができません。
かわいがって甘やかすのは、エロスの愛。
相手を理解しようとするのがアガペーの愛だとすると、音楽の作業は、作曲家に対するのと同時に自分に対する愛の作業ではないかと思います。
それに長い年月多くの人に愛されてきた曲は、人の持つ、明るいところ、美しいところ前向きなところを表現されているに違いないのです。それが例え悲しみを表現していたとしても。
だから、音楽を聴くと癒され、元気になることが出来るのだと思います。
毎年、小さな木にいついた幼虫のために丸裸になったスダチは花をほとんどつけることができませんでした。しかし、今年寒い春のために、幼虫がほとんどつかず、すだちは初めてたくさん花をつけました。昨日、少ないと言うミツバチもやってきたので、交配もばっちり。豊作が予想されます。たのしみです。
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久しぶりの休みで、練習できました。
エラートを1番から9番まで調整を書き込んでいたら、4拍子とか、リズムや小節線のほかに、調整の切れ目がリズムの変化、フレーズの始まりや終わりである場合が多いのに気がつきました。例えば、4番。3拍子ですが、順当に1拍目に強拍があったのに、4小節目で、転調する2拍目、5小節目2拍目、6、7小節目で1拍目と3拍目に強拍が来る。と言う具合で、転調を感じなければ、リズムやフレーズまでおかしくなってしまいます。
こうやって、分析していけば、エラートは、リズムの変化に転調を使っているとも思えるのです。
それが顕著7番の8分の10拍子。
10個の8分音符を演奏する時には通常、5つずつの2拍にわけ、その5つを2と3個か、3個2個と言う風に分けますが、そのリズムの変化と転調が一致しているところがかなりあり、下段になると、1個3個2個3個1個という奇妙なリズムに、調整をめまぐるしく変化させています。moto perpetuo永遠の、連続的なという記号がついているこの曲が、この一定でないリズムと調整のおかげで落ち着かなく、ずっと切れ目無く続いていくような気がするのです。
エラートが段々、おもしろくなってきました。
今日は、年間9日の土曜日開室。
8時半から6時までですが、私は交替で1時から。
時候の良い今日は、10時から4時のふれあいで近所の山田池公園まで、地域ボランティアの人たちが子ども達を連れて行ってくれます。
そちらに参加する子どもが多くて、児童会は4人だけ。
おとなは三人。こんな贅沢な児童会は始めて。
ピーピー豆で笛を作って吹いたり、つかまえたてんとう虫をパックに入れてゆっくり観察したり、ブランコだって押してあげることができるし、ゆっくりお話もできます。
来てからずっと、クレヨンしんちゃんの真似をしてしゃべっていたAくんは、いつの間にか普通に話しています。
いつもおとなにまとわりついていたBさんは、一人で静かに花を摘んで遊んでいます。
お弁当を食べるのも、とても静か。
1年生のAくんのお弁当は、花の形に切ったハムや、たこのウインナーなど、お母さんの手がたっぷりかかったすばらしい中味が詰まっていました。
「わぁ!すごいなぁ。おかあさんがんばっているねぇ。」とAくんに言うと、
「僕は厭なんだ。お花のハムとか気持ち悪い。」
「へぇ。そうなの。」
「普通のがいい。」
「そうなの。普通のってどんなの?Aくんはどんな形だったらいいの?」
「うーん。ポケモンがいい。」
「そう、、ポケモンがいいの。じゃ、今度お母さんに言ってみたら?」
「うん。」
私も、幼稚園の頃、虫好きの息子に一生懸命カブトムシ型のおにぎりとか、カマキリのお弁当とか作っていたのを思い出しました。
喜んでいたのに、小学校に入ると「いや。」といわれてさびしく思いながら、成長したんだと思いなおし、一気におとな弁当にかえてしまいました。
でも今思えば、Aくんのように、ポケモンとか遊戯王のお弁当にして欲しかったのかもしれない。良く聞けばよかったなぁ。こんなことをしていると、自分の子育てについては、後悔することばかりです。
でも、この子たちには、まだやり直しの機会があるのは、ありがたいことです。
ちょっとはましな保育が、出来るように尽くしたいです。
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今日は午前中、生徒さんがトリオを発表会で披露されるので、レッスンしました。
曲は、モーツアルトの「アイネクライネナハトムジーク、二楽章と三楽章」。
曲名は「小夜曲」と言う意味です。
トリオをやっていて思うのは、音質を統一するということです。
西洋は乾いた空気、大きな石壁のホール、日本では湿った空気、木や土壁の屋内。長い歴史と環境の中で演奏に適した音は、残響や楽器の発達にもずいぶん違った影響を与えていると思います。
普通に一人で練習していると、日本人の場合、湿った暗めの音を好ましいと思うようで、音は、演奏者の回りで聞くと憂いを含んだ良い音のように聴こえてきます。
ところがホールで聞くと、その音は暗く通らない音になってしまいます。
自分にしては、少し乾いたシャゴシャゴしたような音のように思える音が、ホールで聴いてみると、しっとりと艶のある音に聴こえるのです。
自分としては随分明るいな.と言うような音で演奏することで、ようやく西洋音楽の音を表現することが出来ます。モーツアルトのトリオも3人がまず、そうのような音質で演奏することを目指すことで、統一感のある西洋のモーツアルトを表現することが出来ると思います。
今から楽しみです。
カンパニュラと言うのは釣鐘条の花の名前です。この名前を聞くと、私はやはりリストを思い出します。
今日は、メセナひらかたのホールスタッフと6月の発表会の打合せ。
スタッフのKさんと、ピアノのTさんと私で、プログラムを見ながら詰めました。
音楽を発表しようと思ったら、ただ音楽をしておけばいいというわけではありません。場所取りに始まって、プログラムの内容、リハの開始時間、順番、開演時刻、開場時刻、マイクの本数、照明、会計、お花などいろいろ考えることや、雑事は付き物。結局のところ、「場作り」と言うのが音楽の作業の一部だと思います。
形も実態もない音楽に、響きのあるホールを用意し、座席を整え、聞く環境を総合的に整える。一人では決して出来ない作業で、それが音楽が総合芸術と言われる所以なのだと思います。
Kさんは本当にプロフェッショナルなスタッフです。照明や、椅子何個などという打合せとは全く違います。「何がやりたいのか?」というこちらの意図を一生懸命汲み取ってくれ、それを実現するには何が必要なのかということを舞台には素人の私達に的確に提示してくれます。
それは本当にお見事です。そして当日も、緊張している出演者には、心を和らげるような言葉まで用意して、音楽を取り巻く暖かい空気を作ってくれます。
もう何回も同じスタッフでやりましたが、毎回間違いない。今回も心から信頼しています。当日が楽しみになってきました。
お初天神の境内。「定医薬禁厭」 医薬や、禁厭(まじない)の法を定める。と書かれた締め柱。
近代的なビルの立ち並ぶ来北の繁華街に、こういうものを見るとかえって人の心の理屈で割り切れない不思議な部分を見せられたような気がします。
今日は梅田でレッスン。
エラートの1番。メロディとなる音と、そうでない音をもっと分析して、明確に出すこと。先生は単旋律のフルートでも、残響を利用して、2声に聴こえるように演奏することができる。と・・・!
テレマン1番はやっぱり課題はタンギング。「いろいろなタンギングを持ちなさい。一つ出来たからと満足してはいけない。追求していることは、無限なんだよ。終わりがないんだ。録音したり、いろんな角度で自分の吹いている音を検討しなくてはいけないよ。」
「テレマンをするんだったら」とテレマンのデュオを出して来られて初見でデュエット。
「テレマンは、とても多作な作家だったんだよ。仲間と合奏しながら、その場で作った楽譜を演奏して、不具合があると、「ちょっと待っといて。」と書いた楽譜を丸めてゴミ箱に捨てて、また新しい楽譜を書いたんだよ。だから、そういう楽しみが出てくるといいんだけどなぁ。」
「デュオする時は、1stの後を2ndが吹くときは、間違っていても1stと同じように演奏するんだよ。装飾音も多用したから、これでどうだい?こんな風に吹いたらどうする?なんて音楽で対話しながら演奏するんだから。」
「デュオする時は、師匠のテクニックを模倣して盗むつもりで演奏したらいいんだよ。昔はそういう伝え方の方が多かったんだから。」
今日は、枚方に帰ってからピアノのSさんとアンサンブル。
テレマンのピアノ付きは手持ちが無かったので、同時代のバッハ、ちょっと前のヘンデル。時代は下がるけれど、ケーラーなど、古典的なものを練習してみました。
やっぱり難しい。当たり前のものを当たり前に演奏することほど、技量が出て恐ろしいものはありません。
精進、精進。
正月堂の裏に咲いていた紫陽花。雨が続いて、もう梅雨気分。
小雨の中、児童会に行くと、もう、初めから担当の子どもが来ない。迎えに行くと、ランドセルを持ったまま、体育館の下にもぐりこんで出てこないのです。
「おいで!お部屋に入ろう」と声をかけると,罵詈雑言。
困った。おとなではもぐりこめない。
「私は、そんなことあなたに言わないのに、なんで、Aくんは私にそんないやなことばかり言うの?」
「こんなとこにいてもつまらないわ。そこは、ねずみの糞とかゴキブリがいるところで、バイキンもいっぱいだから、心配やわ。そんな汚いところでいつまでもいないで、お部屋へ行って遊ぼうよ。」
やっと出てきたら、ランドセルが砂だらけ。
「あーあ。A君の、大切な本や鉛筆を運んでくれているランドセルなのに、かわいそうだね。」
「うん。」とはたきながら言うので、「雑巾をかしてあげるから、お部屋に行ってきれいにしよう。」
「お母さんに怒られる。」
「大丈夫だよ、ちゃんと拭いたらいいんだよ。」
そういうと安心してやっと部屋に入ってくれました。
気持ちが落ち着かない子ども達に、何で、落ち着かないのか?毎回頭を悩ませます。優しく、しかしルールは守ってもらわなくては、子どもの安全に責任を持つことは出来ません。本当いろいろ、考えて、いろんなことをやってみます。非暴力は知恵が要ります。
弦楽四重奏だけでなく、チェロで演奏されることも多いですが、フルートでも良く演奏されます。
チャイコフスキーはウクライナの労働歌をもとに作ったそうです。
その元歌は、これではないかと思います。
「ヴォルガの舟歌」
http://www.youtube.com/watch?v=G23Xozc-G6Q
このレーピンの絵が
その頃の労働者の置かれた過酷な状況を示していると思います。
http://www.youtube.com/watchv=KfsWoNpHg2s&feature=related
それまで、弦楽四重奏があまり作られていなかったロシアで、この曲を含む一連の作曲で、チャイコフスキーがそのジャンルを確立しました。
この曲の逸話として、1876年12月トルストイを迎えた特別演奏会でのこと、この2楽章が演奏されると、チャイコフスキーの横に座っていたトルストイが、涙を押さえ切れず、最後には泣き伏してしまったということです。
トルストイは直後の手記で
「・・・私は至福を感じ、身震いした。…この調べが橋渡しとなって天上の神が私の心に入り、私は神のものとなった。」
と書き、執筆中の「光あるうち光の中をすすめ」にも少なからず影響を与えたということです。
また、チャイコフスキーも「あの時ほど喜びと感動をもって、作曲家として誇りを抱いたことは、おそらく私の生涯に二度と無いであろう。」と後に書いています。
この曲を作ったチャイコフスキーの感性もすごいですが、トルストイの感性、素直な表現もすごいと思います。そういえば、小澤征爾もよく感動して泣いています。
天才とか、アーティストは、こういう感性を磨耗させていない人のことを言うのではないかと思います。