音楽の喜び フルートとともに

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アストゥリアス

2022-05-21 21:38:57 | 名曲
今日は、5.28 夙川公民館ホールの西宮ギター練習会コンサートのリハーサルでした。

私はギターの岡山友樹さんとファリャの7つのスペイン民謡、川原久美子さんとバッハのフルートソナタBWV1035を演奏します。

テンション上がってきました。

「アストゥリアス」は人気で、二人が、演奏されました。

イサーク アルベニス(1860-1909年)スペイン王国カンブロドン生まれ、フランス共和国カンボ レ バン没


1歳で家族とバルセロナに移住。
姉クレメンティーナにピアノを学びます。
5歳でテアトロ ロメアでコンサートを行い、神童と評判になりました。

パリ音楽院を受験しましたが、実力を認めたものの年齢を理由に断られています。
1868年父が役人を失職。

収入を得るため姉クレメンティーナと演奏旅行に出るようになります。

マドリッドに移り、マドリッド音楽院


に入学。
ライプツィヒ音楽院に入学するも、演奏旅行のため2ヶ月で辞めます。
スペイン国王アルフォンス2世の秘書ギレルモ デ モルフィーの取りなしで奨学金を得てブリュッセル音楽院


に留学。
1880年にマドリッドに戻ると演奏旅行を継続、指揮者としてもデビュー。
作曲も始めます。

1883年バルセロナに帰り、ピアノ教師を始めます。
生徒のリサ ホルダナ


と結婚します。
1889年パリ、ロンドンで演奏し成功し、3人の子どもを連れて、家族でロンドンに移住します。

クーツ銀行のフランシス バーデット

がパトロンになります。

1893年病気のためパリに移住。
フランス音楽界と交流を深めます。
フォーレ、ショーソン、デュカス、ボルドと交流します。

体調不良のためバルセロナに戻り、サルスエラを復興しようとしますが、国際的な名声から、外国かぶれと見られ厳しい批判にさらされ、1902年にパリに戻ります。

1905年、腎疾患から温暖な気候を求めてニースを度々訪れ、歌劇の製作を行います。

スペイン文化の詰まった「組曲イベリア」を作曲します。

1908年亡くなります。
「アストゥリアス」伝説曲はもともとは「スペインの歌」作品232の第一曲前奏曲として作曲されました。

後にピアノ曲集スペイン組曲の第一集
全8曲を作曲したときに、1-3.8曲を作曲し、他の曲はアルベニスの既存の曲を足しました。

第5曲「スペインの歌」の前奏曲で「アストゥリアス」と名づけられました。
アストゥリアスはスペイン北部の土地ですが、曲想は南部のアンダルシア地方のものとなっています。

後にアンドレス セゴビアによってギターに編曲されて以來、ギターの大切なレパートリーになっています。



ショパンの母

2022-05-20 22:09:20 | ロマン派
母の病院通い。

ドクダミと

紫陽花が咲いていました。
珍しくお昼からだったので、MRIを撮って

待ち時間にモンブランを食べて
京田辺に戻って、平和堂で母ご指定のお茶を買って、あれこれ買い物して帰りました。
もう午後7時30分。
一筋縄では行かないです。

母で苦労した作曲家で引いたら…ありませんでした。

ユスティナ クシシャノフスカ ショパン(1782-1861年)
は、3人兄弟の一番下。上流階級の出で、1800年に没落し、1805年父が亡くなるとスカルベク伯爵夫人の家政婦、乳母として雇われました。
そこの家庭教師ニコラ ショパン(フレデリック ショパンの父)


と結婚しました。

ニコラはヴァイオリンとフルートをユスティナはピアノを演奏して、伯爵夫人のゲストを楽しませていました。

1807年ワルシャワで長女ルドヴィカ(1807-1855年)

を、ジェラゾヴァ・ヴォラで1810年にフレデリック(1810-1849年


をワルシャワで1811年次女のイザベラ(1811–1881)


とエミリア(1812–1827)


を出産します。

サスキ宮殿



の教員に提供されたアパートに住み、家賃収入を得るため学生を寄宿生として受け入れました。

ルドヴィカは母からピアノを学び、それをフレドリックに教えました。

フレドリックは7歳になるまでに、二人の技術を超え、家庭教師が雇われました。

1817年、家族はカジミエシュ宮殿

の教員住宅に移り10年ほど暮らし、1827年にヴィンツェンティクラシンスキー宮殿


に移りました。
1844年フレデリックが亡くなります。
フレデリックを見送った後、楽譜を管理し夫とイザベラ家族と住みました。
1861年ワルシャワのモザイスキー宮殿


のアパートで亡くなります。






南仏の風

2022-05-19 20:45:12 | 現代
実家のオリーブの花が咲きました。 
植木鉢に植えっぱなしでよく咲いています。

ジャン ミッシェル ダマーズ(1928-2013年)フランス共和国ボルドー生まれ、没場所は不明。

母ミシュリーヌ カーンはハープ奏者フォーレの序奏とアレグロを献呈されています。

彼はパリで育てられ9歳のときにサロンで出会ったコレットの詩に作曲しています。
1939年11歳の時に「神童」とパリソワール社に賞賛の言葉が掲載されました。
1937年パリ万博でマルグリット コルトーに見出され、エコール・ノルマルに入学し、アルフレッド コルトーの弟子になります。

1943年にピアノで賞をとります。
1945年作曲でローマ賞を受賞します。
ダマーズは自分自身の音楽のことを「音楽は先験的に陽気でメロディアスであるが、ある種のノスタルジアに富み、深みは少ない」と言っています。

「演奏会用ソナタ」は1952年、イギリスの名フルーティスト、ジェフリー・ギルバートとチェリストのウィリアム・プリースに捧げられています。

チェロは任意でフルートとピアノで演奏されることが多いです。

私はこの曲を演奏すると昔行ったなつかしい南仏のニースの街並みや海岸、オリーブの木を思い浮かべます。

イギリス海岸

旧市街

旧市街のカフェ


ホテルネグレスコ

ニース音楽院旧校舎

ダマーズの演奏会用ソナタ
ダマーズと清水信貴さんの演奏見つけました。来日公演聞きに行ったことあります。

「野ばら」4種

2022-05-18 21:13:10 | ロマン派
野茨の花。
先週行った淀川の川べり


たくさん咲いていました。

「野ばら」Heidenröslein、ヨハン ウォルフガング ゲーテ(1749-1832年)
神聖ローマ帝国自由都市フランクフルト ア厶 マイン生まれ、ザクセン ヴァイマール アイゼナハ大公国ヴァイマール没

の書いた詩です。
自由都市フランクフルト アム マインの裕福な市民、祖父が蹄鉄工から身を起こし、旅館経営とワインの取引で財を成しました。

自由都市とは、地主や領主から逃れ、皇帝直属の都市で一定の範囲で自由が赦されました。
そのもとで商取引を行い繁栄しました。
帝国議会に代表を議員として送っていました。

1799年ナポレオンの侵攻でドイツ連邦ができましたが、その連邦の基礎になりました。

ゲーテは3歳で幼稚園に入り学びましたが、7歳で天然痘にかかり、以来自宅で家庭教師に6カ国語を修得、図画、乗馬、演奏、ダンスなどを学びました。

14歳で近所の親戚の娘グレートヒェン
に恋をし、失恋。後の「ファウスト」に登場させます。



16歳ライプツィヒ大学法学部に入ります。法学部は父の意向で勉強には身が入らず、レストランの娘、アンナ カトリーナ シェーンコプフ


に恋をします。
「アネッテ」詩集を彼女を題材に書いていますが、都会的な彼女に嫉妬心を募らせ破局します。
19歳で病気(おそらく結核)になりフランクフルトの実家で療養します。
そこで母の親戚スサンナ フォン スフェッテンベルクと知り合い、宗教的対話を通して自らの宗教観を深めます。
1770年フランス領シュトラースブルク大学に入学。
シュトルム ウント ドラング(疾風怒濤)運動の創設したヨハン ゴットフリート ヘルダーのもとへ通うなど文学的素地を広げます。

その頃、シュトラースブルク郊外ゼーゼンハイムに出かけ、牧師の娘フリーデリケ ブリオンと出会います。

周囲からも暖かく見守られ、親しく付き合いますが、自ら終止符を打ちます。

その時に作られた詩が「野ばら」です。

この詩は人気で若きウェルテルの悩みを書く前にヒットしました。

111の曲があるそうですが…本当かな?

有名なところでは
シューマン、ブラームス、
シューベルト、ウェルナーが同じ詩に曲をつけました。
どの「野ばら」がお好きですか?

ベートーヴェンとは1812年にカールスバードの温泉地で知り合っています。「野ばら」を書きましたが、途中で終わっています。

また、モーツァルトの「すみれ」はゲーテの詩に寄るものです。

ゲーテはこの後も女性遍歴を繰り返しますが、フリーデリケは一生独身を通したそうです。


シューマンの「野ばら」
ブラームスの「野ばら」
ヴェルナーの「野ばら」

シューベルトの「野ばら」


クリムトとベートーヴェン

2022-05-17 21:19:02 | 古典
月曜日はフルートアンサンブル。

渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでした。

榎田先生の象牙の頭部管のフルート。
古楽器ではなくて、新しく作ってもらったそうです。
いい音!

今日は4人参加。
ジャズアレンジのディズニーを合わせました。
いつものように初見大会。
このアレンジは、吹きやすかった。

川の向こう岸は


科学博物館と国立美術館。新しくなってから行ったことないですが。

ベートーヴェンフリーズは、1901年グスタフ・クリムト(1862-1918年)オーストリア帝国バウムガウテン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

がベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選定侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


の第九交響曲をテーマに描いた壁画です。

2.15m✕34m 重さ4t

ウィーン分離派の第14回「ベートーヴェンを称える」展示会のために作られました。

1898年、ウィーン分離派は既存の芸術に対抗して作られた新しい芸術グループで、初代名誉会長にクリムト、ルドルフ アルテがなっています。

分離派のビルには「あらゆる時代におけるあらゆる芸術。あらゆる芸術は自由である」

という文字が掲げられています。

その通り、作品はあらゆる方向に開かれていて一つの傾向はありませんでした。


目を閉じた守護神は、人類の憧れや希望を表しています。

裸の少女は怯えて手を握りしめています。
ひざまずく二人の少女は人類の苦しみを表しています。

2人は、正面の壁に描かれた「敵対する力」と戦うことを、黄金の甲冑で武装した騎士に嘆願しています。

この騎士はクリムトの敬愛するマーラーに似せて描かれました。

しかし、そのような考え方は後年、ドイツをヒトラーの出現に導きます。

クリムトはそのことは知りませんが、

騎士の上にいる女性は、月桂樹の冠を掲げている「野望」、その隣にいる「憐れみ」を、配置しています。


「敵対する力」の悪の権化、巨人テュフォンとその娘たちゴルゴン三姉妹、その上に「病」「狂気」「死」、テュフォンの横には「肉欲」「淫蕩」「不摂生」の擬人像が描かれています。


またも守護神が出現し、人類の救済を表しています。

竪琴を奏でている女性は、詩と音楽を表しており、人々を救い、導くのは芸術だというメッセージが込められています。


「歓喜の歌」に身を任せる守護神たち。

楽園の天使たちが花を手に、合唱しています。

抱き合う恋人たちは、勝利そして幸福の成就を表し、シラーの詩の「この接吻を全世界に!」を表しています。

装飾的な金の繭(男根を象徴。さらに言うと精子や卵子なども装飾的に描かれています。)に包まれ、両側には太陽と月があります。

この壁画は、展示会の最中から非難の的となり、クリムトは国の援護を二度と受けられなくなります。
主だったクリムト支持者と一緒に分離派から去り、逆に分離派は埋没しました。

期間限定の展示だったためこの作品は7つに分けて外され、蒐集家が保存していました。
1973年になり、オーストリア政府が買い戻し、修復されて分離派ビルの地下に当時と同じ方法で再現されました。

1996年になって一般公開されました。

2004年には、オーストリア政府がこの絵のコインを発行し、今やヴェルヴェデーレ宮殿

にも実物大の複製画が展示されています。




薔薇のアダージョ

2022-05-16 21:29:38 | 名曲
薔薇の模様のチューニングペグ。

交換してから音が良くなったそうです。
昨日はギター川原さんとバッハのフルートソナタBWV1035。
5/28日夙川公民館ホールで演奏する曲の合わせ練習です。

かわいいクッキーとバウムクーヘンを頂きました。

紅茶を飲みながら
他にも7月のクローズドの門戸厄神のS邸のコンサートの曲も決めました。
おしゃべりも盛り上がって

お昼ごはんに一緒にピザを作って食べました。
バジルがまだ育って無いので、小松菜を入れました。
2種作ったけれど…残念。撮る前に食べてしまいました。
バウムクーヘンも撮ってなかった!

ピエール ド ロンサール、薔薇のアーチが満開。
見てもらえてうれしかった。

いっぱい写真撮ってってくれました。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

のバレエ音楽「眠れる森の美女」1888年作曲の第一幕は、バラのアダージョはオーロラ姫が生まれて、魔女カラボスの不吉な予言を受けた20年後。

二十歳になったオーロラ姫の誕生祝いの祝宴が開かれています。

主役のオーロラ姫に求婚者が城に招かれ集まっています。

そこで踊られるのが「バラのアダージョ」です。

華やかで気品に満ち幸せなシーンです。正に薔薇。

オーロラ姫が片足でバランスを取りながら、求婚者たちの挨拶を受けるシーンはバレリーナにとって超絶技巧だそうです。

この後、予言が実現され、オーロラ姫は紡錘に刺され、城全体が眠りにおちます。

イギリス、ロイヤルバレエ、吉田都さんの薔薇のアダージョです。








大聖堂

2022-05-15 21:28:36 | 名曲
土曜の午後はギターの岡山さんと「7つのスペイン民謡」を合わせました。

スペインのリズムに乗るのが難しい😅
ギターとスペインはすごいマッチしていますがフルートは…。
もとはファリャの民謡取材で、ピアノと、声楽のために書かれています。
5.28(土)夙川公民館前ホールで演奏します。
まだまだ精進します。

ギターの超難曲というとアウグスティン バリオス(1885-1944年)
パラグアイ サンファンバウティスタ生まれ、エルサルバドル サンサルバドル没

の「大聖堂」

1楽章プレルディオ(プレリュード、前奏曲)
2楽章アンダンテ
3楽章アレグロ

アンダンテとアレグロはウルグアイのモンテビデオの大聖堂


バッハが演奏されているのを聞いて着想しました。

プレルディオは1921年にキューバのハバナの大聖堂で着想しました。



プレルディオ(プレリュード)は前奏曲の意でサウダーデ(郷愁)の副題を持ちます。
アンダンテは大聖堂に集まった信徒たちの祈りの念。

アレグロは祈りを終えて外の通りへ出て行く人々の感動の余韻をとどめた足取りを表現しています。



メアリー2世のための曲

2022-05-14 21:30:06 | バロック
梅田ドルチェ楽器でフルートのリペアしました。
ソウル支店の小林さんの腕を信頼しています。
今日はタンポを2個替えてもらいました。
調整によって音の出が全く違います。

待っている間に





誘惑がいっぱい!

最高額はパウエルの18金のフルート1200万円!
もちろん手も足も出ません。

ウクライナ紛争の前に値上がった分でこれでも円ドル111円の時の値段だそう。
金の値上がりが大きいそう。
これからどうなって行くのだろう?

ヘンリー パーセル(1659-1695年)イングランド共和国ウェストミンスター生まれ、イングランド王国ウェストミンスター没

出自についてははっきりしないてすが、王室礼拝堂の少年聖歌隊に入っていました。15歳変声期になり、王室の楽器管理係を経て18歳で
チャールズ2世

の王室専属弦楽合奏隊の指揮者、作曲家になります。
20歳でウェストミンスター寺院

のオルガニストにも任命されています。
バロックオペラの最高峰「ディドとエネアス」
他多くの作品を残しました、子どもも6人もうけます。
1695年35歳の若さで亡くなります。

1685年チャールズ2世が亡くなり、後を継いだのが弟のジェームズ2世でした。しかし、カトリックだったジェームズ2世は、ほぼプロテスタントの貴族や議会と対立。

1688-89年の名誉革命でプロテスタントのジェームズ2世の娘メアリー2世(1662-1694年)

が夫ウィリアム3世


とイングランド スコットランド王位
につき共同統治することになります。

政治的手腕もあったと言われていますが、
1694年メアリー2世はケンジントン宮殿で32歳の若さで天然痘のために亡くなります。

パーセルはそのメアリー2世のために誕生式典や葬礼式典の音楽を書いています。

トーマス モーリーの音楽にパーセルが足したそうですが、モーリーの音楽は多くが失われていたために、ほぼパーセルの音楽になっています。

若くして亡くなる不条理と呆然とする人々を歌い、それも神の配剤だということに気づき、神によるところに人間の心の安らぎがあるというところに至るまでを音楽で表現しています。

二度目の演奏は、1895年パーセル自身の葬礼でした。


牧神の午後への前奏曲

2022-05-13 20:29:56 | 近代
今日はハープのレッスンでした。
塚口t−raumチェリーセイジが咲いていました。

バラも満開。

猫さんも雨でお休みみたいです。

今日は3台のグランドハープが集結していました。

発表会があるのでソロ曲を見ていただいた後、金重さんと二重奏を練習しました。
2回目ですがまだまだ揃いませんでした。


三番街のパン屋さんで遅昼頂いて帰りました。
ここの小さなきなこモッチーニがお気に入りです。

ハープとフルートが活躍する曲は、いろいろありますが、クロード ドビュッシー(1862-1918年)の「牧神の午後への前奏曲」は、1912年パリ シャトレ座
バレエ リュスの公演でヴァーツラフ ニジンスキー(1890-1950年)


が牧神を踊ったことにより、一大センセーションを巻きおこきました。
古代ギリシャの絵画を思わせるような顔を横に向けたままの踊り

バレエ特有の跳躍は無く、ラストは、自慰行為を思わせます。

終演後はブーイングが起こり、席を蹴って立つ貴婦人がいる反面、熱狂して賞賛する拍手が起きるという相反する反応で会場は騒然としました。

「これが芸術か、好色な野獣を見せるスキャンダラスな舞台か」
ル・フィガロ紙上で編集長のガストン・カルメットが批判記事を書きます。

すると、ル・マタン紙はロダンによる古代のフレスコ画や彫刻の美に例えた称賛の言葉を載せます。


ロダンのニジンスキー
「美と霊感を求めた結果である」

1876年ステファヌ・マラルメ(1842-1898年)
フランス王国パリ生まれ、フランス共和国セーヌ エ マルヌ県ヴァルヴァン没

が詩を作りました。
舞台化に際してドビュッシーを指名して依頼しました。

ドビュッシーは20代後半、少しずつ仕事が評価されてきた頃です。

ヴァニエ夫人と別れ、テレーズ ロジェと婚約しますが、ガブリエル デュポンと同棲中でした。
婚約がばれて、ガブリエルは自殺未遂をし、婚約は解消されます。

その年ニジンスキーによる公演が行われました。

前奏曲prelude、間奏曲interlude、parafrase finaleの三部仕立てにするつもりでしたが、前奏曲ですべて書いてしまったためか、前奏曲のみになりました。



牧神の午後への前奏曲 マラルメ
「暑くけだるい夏の日の午後。
森影の草むらにまどろんでいる牧神が目を覚ます。

草いきれの中、頬を撫でて行く風が心地よいが、彼はまだ夢見心地である。

ついさっき沼のほとりで手折った葦で笛を作る。
そして吹きながら、水辺で水浴びをしていた妖精のことを思い出す。

白い肌に光が反射して、まぶしい。
思わず抱きしめたい衝動にかられる…もう一度、あの時のように…彼女の姿を思い浮かべ、抱きしめようと手を伸ばす。しかし彼女の幻影は消える。

諦めきれない彼は、さらに空想を広げる。そして遂に、愛の女神ヴィーナスを捕らえる。

抱擁!官能の嵐!
もうろうとした歓び…

やがて幻影は消え、牧神は再び目を覚ます。
辺りに音はなく草いきれだけが静かに彼を包み込む。

茫然と広がる倦怠感の中、何時の間にか彼はまたまどろみ始めている…」

ニジンスキーは1919年29歳の舞台を最後に精神を病み精神病棟に入ったまま1950年に亡くなります。
舞台の動画は残っていず、自身による舞踏譜が残っていて、その再演がされています。



アン ブーリンを描いたオペラ

2022-05-12 20:50:27 | ロマン派
土手にちらほらメマツヨイグサが咲いています。北アメリカ原産で、明治時代にやってきた帰化植物だそうです。

待宵草の方は押されて見かけません。
竹久夢二の書いた宵待草は、夢二の造語でこの待宵草のことだそうです。

見かけるのはメマツヨイグサばかりです。



かわいいですが。

ガエターノ・ドニゼッティ(1797-)
北イタリア ロンバルディア生まれ

貧しい荷運び、ドニゼッティの生家はベルガモの市街の壁の外側にあるボルゴ カナーレ地区にありました。
ベルガモ市の公営質店の守衛の職を得て壁の内側に住むことができたのは1800年になってからです。

5人兄弟の末っ子で次男のドニゼッティは8歳のときにマイヤーにより合唱隊に入れられ、音楽を学ぶことができました。さらにマイヤーはロッシーニの師スタニズラオ マッティに紹介し、彼のもとで初めてのオペラを完成させます。

1819-20年の間に20作のオペラを完成させ、上演、好評を博しました。

ナボリ劇場と契約し、名門の弁護士アントニオ ヴァッセリの妹
ヴィルジニアと結婚します。
この頃から、国際的な人気が出て名作を数々ヒットさせます。
その中の一曲「アンナ・ボレーナ」

初演のアンナ・ボレーナのジュディット バスタ
1830年作曲です。

16世紀のイングランド宮廷の物語ヘンリー8世とアン ブーリン、ジェーン・シーモアの歴史に基づいた歌劇です。人気は凄まじく1881年までにオーストリア、アメリカ、フランスなどの、25都市で上演されました。

アンナ・ボレーナはアン・ブーリンのことです。

エンリコ8世はヘンリー8世、

ジョヴァンナはジェーン・シーモア。


1535年。ウインザー城。


エンリコ8世の寵愛を失ったのでは?とアンナが嘆いています。
そこへ侍女のジョヴァンナがやってきます。
ジョヴァンナはアンナの信頼する侍女ですが、エンリコの愛人になっていて罪悪感に苛まれています。

小姓のスメトンはアンナに歌を所望され、アンナへの愛を歌に託して告白します。

アンナは途中で遮り、退出します。

1人残ったジョヴァンナのもとに国王エンリコがやってきて、王妃になればこの世の栄華を一緒に手にできると誘います。

ジョヴァンナは神に祝福されない関係は断ち切りたいと懇願します。

エンリコは王妃アンナへの企みをほのめかし去ります。

アンナの弟ロシュフォールが王妃のかつての恋人ペルシーを連れてやってきます。


アンナとのかつての関係を追及され追放されていたペルシーは、王妃の取りなしで赦免されたとエンリコ王から囁かれていたのでした。

スメトンはアンナの肖像を愛するあまり盗んでしまい、後悔して返そうとアンナの部屋に忍び込みます。

そこにロシュフォールとペルシーがやってきて、物陰に隠れます。

「会わない。」と拒むアンナ。

弟の頼みで断りきれず、二人を部屋に入れます。

ペルシーは「国王が君を憎んでも、私は君を愛する。」と告白。
なおもアンナが拒むと剣を抜いて自殺しようとします。

驚いたスメトンが出てくると、驚いてアンナは気絶します。

そこへエンリコがやってきて、無実を訴えるアンナに「いいたいことがあれば判事の前で言うが良い。」と言い放ちます。

軟禁されたアンナにジョヴァンナが離婚をすすめにやってきます。
「名誉を捨てて生きていたくない。」と言われ、ついにジョヴァンナは自分が王の愛人であることを認め、「国王を愛したことを恥じています。私の愛は拷問です。」と告白します。

アンナは「お前には罪はない。」と赦します。

裁判が行われますが、結論は先に出ていてアンナは死刑を宣告されます。

ペルシーとロシュフォールには赦免が申し出られますが、「罪無きものが死に、罪のあるわたしが生きていられようか。」とペルシーは拒み、ロシュフォールも死を選びます。

アンナは錯乱状態になります。

スメトンは国王に唆されアンナを誘惑したことを告白し、ジョヴァンナの戴冠を祝福する鐘や大砲の音が聴こえる中、アンナは卒倒し、3人は刑吏に連行されます。

オランダ国立歌劇の
「アンナ・ボレーナ」の今季の配役が今朝紹介されました。
長くネトレプコの持ち役でしたが、今季はイタリアのラファエラ ルピナッチがすることになりました。

ネトレプコはプーチンとの訣別を表明していますが、長くロシアからの支援を受けてきて現在は休職しています。
(オペラワイヤより)