ベネルクス3国への短い旅から先ほど帰還しました。
2匹の飼い猫のうちの1匹が帰宅後もなかなか家に帰らず心配しましたが、1時間ほどしてこれも帰還。普段の生活に戻りました。
ベネルクス3国の印象は追々ご紹介するとして、旅の合間に読むために3冊の本を持っていきましたが、その中でも、長谷川宏著「高校生のための哲学入門」の文体にいたく感動しました。
長谷川宏氏といえば、ヘーゲルの「精神現象学」の訳者として知られております。とにもかくにも、筆者を最後までこの難解な本を読ませただけの翻訳者としての器量は素晴らしいものがありました。その長谷川氏が、自ら長年に亘って学習塾を開いている縁で、「高校生のための哲学入門」といったタイトルの本を書いたのですが、これは本人も前書きで言っているように、決して高校生のための哲学などではありません。大人が読んでも十二分に心に滲みわたる本と言えます。
まだ読了までには3分の1ほど残っておりますが、筆者が感動した文体の一部を、少しご紹介します。第5章「老いと死」からです。
「人間の死は、肉体を持った一個人が肉体を失って共同の世界から消えていくこと以外にはありえないから、死者と精神的につながることは死の理不尽さに向き合うことをぬきにしてはありえない。肉体をもって現実を生きる人間は、精神的にどんなに高度化しても、自然なしでは生きられない。一個人の死は、その都度、理不尽なものとして突きつけられる。それは避けられない。避けられないことを避けようとするのではなく、理不尽な死と向き合い、死の悲しさ、死の寂しさに耐えることが死者と精神的につながることだ。死者を精神として生かすことだ。死者と精神的につながることによって共同の世界が深みのあるゆたかさを獲得しえているとすれば、そのゆたかさは死の悲しさと寂しさをくぐりぬけ、悲しさと寂しさを包み込んではじめて可能となるゆたかさだ。」
まるで詩のような豊かな文章に久し振りにお目にかかりました。
この章では、筆者が20歳代の時に親しんだ思潮社刊の現代詩文庫の1つ、茨木のりこが死後に友人・知人に送るようにと書きおいた文章も紹介されておりましたが、この茨木のりこの死を巡る清冽な言葉として紹介されている文章も合わせてお読み下さい。(日付と死因のところだけ、ご遺族によって書き入れられております。)
このたび私06年2月17日くも膜下出血にてこの世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔意の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返礼の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬
思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか...。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。
ありがとうございました。
2006年3月吉日
長谷川氏も言っているように、「一瞬、たったの一瞬」という文中の言葉が読むものの心を揺り動かします。
思春期を迎えた方々はもちろんのこと、円熟期を迎えた方々にまでお勧めできる1冊の本です。
2匹の飼い猫のうちの1匹が帰宅後もなかなか家に帰らず心配しましたが、1時間ほどしてこれも帰還。普段の生活に戻りました。
ベネルクス3国の印象は追々ご紹介するとして、旅の合間に読むために3冊の本を持っていきましたが、その中でも、長谷川宏著「高校生のための哲学入門」の文体にいたく感動しました。
長谷川宏氏といえば、ヘーゲルの「精神現象学」の訳者として知られております。とにもかくにも、筆者を最後までこの難解な本を読ませただけの翻訳者としての器量は素晴らしいものがありました。その長谷川氏が、自ら長年に亘って学習塾を開いている縁で、「高校生のための哲学入門」といったタイトルの本を書いたのですが、これは本人も前書きで言っているように、決して高校生のための哲学などではありません。大人が読んでも十二分に心に滲みわたる本と言えます。
まだ読了までには3分の1ほど残っておりますが、筆者が感動した文体の一部を、少しご紹介します。第5章「老いと死」からです。
「人間の死は、肉体を持った一個人が肉体を失って共同の世界から消えていくこと以外にはありえないから、死者と精神的につながることは死の理不尽さに向き合うことをぬきにしてはありえない。肉体をもって現実を生きる人間は、精神的にどんなに高度化しても、自然なしでは生きられない。一個人の死は、その都度、理不尽なものとして突きつけられる。それは避けられない。避けられないことを避けようとするのではなく、理不尽な死と向き合い、死の悲しさ、死の寂しさに耐えることが死者と精神的につながることだ。死者を精神として生かすことだ。死者と精神的につながることによって共同の世界が深みのあるゆたかさを獲得しえているとすれば、そのゆたかさは死の悲しさと寂しさをくぐりぬけ、悲しさと寂しさを包み込んではじめて可能となるゆたかさだ。」
まるで詩のような豊かな文章に久し振りにお目にかかりました。
この章では、筆者が20歳代の時に親しんだ思潮社刊の現代詩文庫の1つ、茨木のりこが死後に友人・知人に送るようにと書きおいた文章も紹介されておりましたが、この茨木のりこの死を巡る清冽な言葉として紹介されている文章も合わせてお読み下さい。(日付と死因のところだけ、ご遺族によって書き入れられております。)
このたび私06年2月17日くも膜下出血にてこの世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔意の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返礼の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬
思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか...。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。
ありがとうございました。
2006年3月吉日
長谷川氏も言っているように、「一瞬、たったの一瞬」という文中の言葉が読むものの心を揺り動かします。
思春期を迎えた方々はもちろんのこと、円熟期を迎えた方々にまでお勧めできる1冊の本です。