齢を重ねるという意味のエージングという言葉は、通常、老化を意味しており、アンチエージングという言葉があるとおりに、できることなら避けたいこととして世の中では見られているようです。
しかし、この見方は少々一方的過ぎるような気がします。
例えば、音響機器の世界では、このエージングを行うことにより性能が大きく変貌します。2年近く前に買った筆者の音響装置も、1日6時間のエージングを経て、やっと本来の音を鳴らしてくれるようになりました。
もうすぐ9年目に入るMBの6気筒の2600CCエンジンは、最近とみに調子を上げてきました。燃費も何故か良くなっております。
また、エージングは人間の感性についても言えるようです。数10年という時間帯で筆者が語れる例としては、音楽の世界での感性しかありませんが、最近手にしたJ.S.バッハの2大声楽作品の1つロ短調ミサ曲でそのことを改めて感じました。
このミシェル・コルボ指揮の最新盤で、やっと、カール・リヒターのロ短調ミサを超える演奏に出会った感じです。
実は、特に筆者が若い頃は、何故マタイ受難曲とロ短調ミサが比肩されるのかよく分かりませんでした。マタイや平均律はそれぞれ1年間そればかり週末に聴き続けても、その音楽性を汲み尽くすことはありませんでしたが、ロ短調ミサに対してはそうした気持ちにはなれませんでした。若い頃は、そこまでの作品ではないと心の中では思っていたのです。
ところが、40年以上バッハだけに接してきて、初めてカンタータの世界に真に魅了されてしまったこの2年近くの歳月が、どうやら筆者のバッハに対する感性の何かを変えてしまったようなのです。
やはりロ短調ミサ曲は美しく荘厳な曲であり、カンタータにはない凛とした世界を形作っている作品でした。
このコルボも相当なお歳なのでしょう。昔、LP盤でクリスマス・オラトリオを聴いたのが最初の出会いでした。彼が本拠地とするローザンヌという土地も、30年以上前に初めてヨーロッパを列車で旅した時、ちょうど一等車のコンパートメントにローザンヌ大学の教授をしているという女性と一緒になったことがありますが、何故かその時の思い出が彼のロ短調ミサ曲と一緒に立ち現れてきたりします。
このように、その人固有の様々な経験を経た後に初めて出会う何かがありますが、それがエージングということではないかと思うのです。
音響機器にせよクルマのエンジンにせよ、製作された時に完成形を持っているものに対するエージングは、まさに最初に与えられた質量によって限界づけられておりますが、生き物、特に人間の場合はその限界がないのが特徴と言えます。
それも、淡泊で単一の変化のない時間の積み重ねではない方が、よりエージング効果を上げるようなのです。いわば天国と地獄の日々が最良のエージングの糧です。
何故、鎌倉時代という限られた時期に、この日本は、親鸞や法然そして日蓮や道元を輩出できたのかを顧みれば明らかです。その時代の天災・飢饉・戦乱の地獄図絵を抜きにしてはあり得ません。
音楽は未来と過去を現在に同期させて聴く芸術ですが、その人が持つ人生のエージング程度によっても、様々な変貌を見せるようですね。
しかし、この見方は少々一方的過ぎるような気がします。
例えば、音響機器の世界では、このエージングを行うことにより性能が大きく変貌します。2年近く前に買った筆者の音響装置も、1日6時間のエージングを経て、やっと本来の音を鳴らしてくれるようになりました。
もうすぐ9年目に入るMBの6気筒の2600CCエンジンは、最近とみに調子を上げてきました。燃費も何故か良くなっております。
また、エージングは人間の感性についても言えるようです。数10年という時間帯で筆者が語れる例としては、音楽の世界での感性しかありませんが、最近手にしたJ.S.バッハの2大声楽作品の1つロ短調ミサ曲でそのことを改めて感じました。
このミシェル・コルボ指揮の最新盤で、やっと、カール・リヒターのロ短調ミサを超える演奏に出会った感じです。
実は、特に筆者が若い頃は、何故マタイ受難曲とロ短調ミサが比肩されるのかよく分かりませんでした。マタイや平均律はそれぞれ1年間そればかり週末に聴き続けても、その音楽性を汲み尽くすことはありませんでしたが、ロ短調ミサに対してはそうした気持ちにはなれませんでした。若い頃は、そこまでの作品ではないと心の中では思っていたのです。
ところが、40年以上バッハだけに接してきて、初めてカンタータの世界に真に魅了されてしまったこの2年近くの歳月が、どうやら筆者のバッハに対する感性の何かを変えてしまったようなのです。
やはりロ短調ミサ曲は美しく荘厳な曲であり、カンタータにはない凛とした世界を形作っている作品でした。
このコルボも相当なお歳なのでしょう。昔、LP盤でクリスマス・オラトリオを聴いたのが最初の出会いでした。彼が本拠地とするローザンヌという土地も、30年以上前に初めてヨーロッパを列車で旅した時、ちょうど一等車のコンパートメントにローザンヌ大学の教授をしているという女性と一緒になったことがありますが、何故かその時の思い出が彼のロ短調ミサ曲と一緒に立ち現れてきたりします。
このように、その人固有の様々な経験を経た後に初めて出会う何かがありますが、それがエージングということではないかと思うのです。
音響機器にせよクルマのエンジンにせよ、製作された時に完成形を持っているものに対するエージングは、まさに最初に与えられた質量によって限界づけられておりますが、生き物、特に人間の場合はその限界がないのが特徴と言えます。
それも、淡泊で単一の変化のない時間の積み重ねではない方が、よりエージング効果を上げるようなのです。いわば天国と地獄の日々が最良のエージングの糧です。
何故、鎌倉時代という限られた時期に、この日本は、親鸞や法然そして日蓮や道元を輩出できたのかを顧みれば明らかです。その時代の天災・飢饉・戦乱の地獄図絵を抜きにしてはあり得ません。
音楽は未来と過去を現在に同期させて聴く芸術ですが、その人が持つ人生のエージング程度によっても、様々な変貌を見せるようですね。