ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

かめむしとおんな

2010年12月13日 | ひとりごと
別にシャレてるつもりもないが、また生理になった。
タイミング的にはほぼ正しい。
数日前から、やはり首の周りに不快な症状が居座り出して、どんなに健康的な生活をしようと一向におかまい無しに、どんどん怠さが増していた。
この週末は、見事に妖怪カウチポテトならぬ、妖怪デスクポテトに変身していたので、この不養生が更に追い討ちをかけたのかと思うほど、怠さは頂点に達していた。
で、出血

ドヨヨ~ンとした身体と気分で、そろそろヤバいと思っていた水切りラックの受け皿を磨こうとラックをヒョイッと上げたら……、


いやぁ~、お久しぶりっ!けど、いったいなにがよくてこんなとこにいらっしゃる?
ちょっと記念にパチリ!
これ以上、変に刺激して怒らすととんでもない事態が発生するので、この受け皿に乗っかっていただいたまま外に運び出させていただいた。

ずっと欲しかったステンレス製の水切り。けれどもこれには受け皿がついていなかった。
水垢やらお茶カスやらが作る汚れは、プラスティック製だとすっきりと取れない。
なにがなんでもステンレス!と心に決め、長い長い時間を使って探し回り、やっと見つけたのがコレ。サイズがちょいと合わないけれど気にしない気にしない。
だって、こんなにまたキレイになるんっすもん!


更年期に入りかけの女の生理は、なかなかしんどいもんだけど、それでもこんな小さな幸せがそこかしこにあって、それが心を慰めてくれる。


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あやかのコンサート

2010年12月12日 | 友達とわたし



あやかの(財)青山財団助成公演のお知らせです。
あやかは、旦那とわたしが心から愛する、陶芸家谷本洋くんとあけみちゃん夫婦のひとり娘。
オーラ全開の両親の子だけあって、彼女も生まれ持ったオーラを、まるで着慣れたシャツのようにまとっています。

ほんの短い間だったけれど、ピアノを教えました。
この子はきっと、スケールの大きな大人になると信じていたけれど、その頃はまさか、こんな素晴らしい歌姫になるなんて思ってもいませんでした。

今彼女は、英国王立音楽大学の大学院生。
ロンドンに留学してからは特に、歌の才能が開花し、素晴らしいメゾソプラノ歌手として、様々な場所で聴衆を魅了しています。
その彼女が、今度、来月の1月10日に、京都は西京区にある、青山音楽記念館にてコンサートを行います。

関西にお住まいの方々、いえ、関西圏にお住まいでなくとも、ぜひぜひ時間を作って、彼女達が奏でる素敵な音楽を聞きに行ってください。
彼女のパートナーである裕貴さんも、とてもすばらしいバイオリニストです。



かわちゃんが見つけてくれた彼女達のブログです。こちらもどうぞ。

http://profile.ameba.jp/v-squared/


追記

このコンサートのチケットの入手方法について。

チケットはチケットぴあもローソンサンクスでも買えるそうですが、手数料等を余分に払わなければならないので、あやかの母あけみちゃんが、行ってくださる方々に直接送る、という方法も有りだそうです。
その場合、ゆうちょ銀行に口座がある方は送金するのにお金がかからないので、そちらに振り込んでもらっているそうです。
それ以外はもちろん予約を頂いておとり置きも出来るそうです。
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夢の休日

2010年12月11日 | ひとりごと
これはなんぞや?!


ぺらっぺらの薄紙みたいなんが何枚も。


旦那がひとり出かけてった中近東の人達の町パタソン。そこのスーパーマーケットをうろうろ探索するのが大好きな旦那。
今夜は筑前煮でも作るべか、と思ってたわたしは、買い物に行くなら鶏のもも肉を買ってきてと、旦那に頼んだ、はずが……。

クルミとガーリック入りのレバナとレント豆のスープ、それとお化けパンを買い、ニコニコ顔で帰ってきました。


わたしもどちらもだぁ~い好きなので、もちろんニコニコ顔。
さて、このパン、どうやって食べるべか?
適当に折り畳んで、トーストに入れてみました。


すると、超薄のおせんべいのようになって、それがまた香ばしくてうまい!
焼きが中途半端なところは、弾力があってレバナとよく合う!
なんとも楽しいパンなのでした。

オリーブとおつけもの。パタソンで売られているオリーブは最高!しかもすごく安い!うちの近所のお店と比べると半額以下です。



今日はお昼からたて続けに4本も映画を観ました。わたしひとりで。
昨日の残りの善哉や、アーモンドチョコレートや、ミルクコーヒーや、わかめと大根のお味噌汁や、ポテトチップスやらをパソコンの前に持ち運び、めちゃめちゃ悪いことをしているような気がしながら、ただただひたすら映画を観ました。
弟が、わたしに見せてやろうとせっせと録画してくれた日本語の字幕スーパー入りの映画や、最近の日本映画なのでした。
やっぱ字幕がついていると楽ですねえ~。しばらくこの幸せを忘れてしまっていました。

先日弟に、誕生日に間に合わなかった贈り物を謝り、「年末までになにか贈るから、欲しい物を言って欲しい」と言うと、
「いや、防寒具も服も、みんな今の手持ちで揃てるからなあ、無いなあ欲しいもんは」と言ってから、しばらくの沈黙の後、
「でも、強いて言うたら、こないだおねえが日本に来た時、後で返してやって言うて渡したDVD、あれ、僕まだ観てないやつばっかりやから、あれを送り返して欲しいかも」と言われてしまいました。
どっひゃ~!えらいこっちゃ!いつか時間があったら観よう。ほんで早よ返そ。などと思いながらついつい先延ばしにしてしまっていたDVD。
今日はそのDVDによる映画大会なのでした。

部屋にこもって好きなだけ映画を観る。
普段は気をつけてる食べ物も、気をつけずに食べる。
ひたすらダラダラする。たまには家猫の背中をなでなでしてやる。
これって実は、わたしの夢の休日なのであります。
それが実現しました!!あ~しゃ~わせ!!
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RIPE!

2010年12月10日 | 友達とわたし


大人生徒のトムの奥さんアレクサは、プロフェッショナルの写真家です。
今回、彼女の20年間をかけたプロジェクト、臨月の女性ばかりのオールヌードの写真集の、完成出版披露パーティがありました。
撮影場所はもうほんとにいろいろ。
マンハッタンの街のど真ん中であったり、トウモロコシ畑だったり、階段や橋の上だったり、海だったり山だったり。
公共の場所の場合、サッと脱いでパッと撮らなければ通報されてしまうので、ギリギリまでコートで隠し、いきなり脱いで撮影したりしたそうです。
皆さん一般の家庭のお母さん。働いている人もあり、家事専門の人もあり、初めての子供だったり、何人目かだったり。

パーティは、モントクレアの町の中心にあるロフトで行われました。



彼女の20年の思いがこもった本。わたしも一冊。


隠れて撮ったのでボケボケですが、右側の男性が生徒のトム。この夏からヒゲを伸ばしています。


いろんなパーティに使われているロフト。
 

往年のモデルさん達、勢揃い!


アレクサは前列中央のショットカットの女性。とても気さくで楽しい人です。
「あなた達の勇気と協力無しでは、この本はこの世に生まれていなかった」そうしみじみと語りながら、皆に感謝の気持ちを伝えるアレクサ。


おめでとうアレクサ!


パーティの帰り道、「わたしも拓人がお腹におった時は撮ったなあ、写真」とふと思い出して言うと、「え?誰に撮ってもらったん?」と旦那。
「もち、Tさん(元旦那)」
「ふ~ん……ボクの知らんまうみや……」
旦那が見たことのない世界で生きていたわたしと、わたしのお腹の中で大きくなった拓人と恭平。
妊婦だったわたしも、赤ちゃんだった息子達も、旦那には想像の世界の存在でしかありません。
そのことが妙にその時、強く感じられて、少しだけ淋しく、少しだけ哀しくなりました。
でもまあ、それでもわたし達は家族です。
一緒に長い時間、同じ家の屋根の下で暮らした、正真正銘の家族です。
その時間と、お互いの心の交錯と、共に感じた喜怒哀楽の量は、それをちゃんと証明してくれます。
たとえ、『RIPE』のような証明が無いとしても。


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もち食いてぇ~!

2010年12月10日 | 家族とわたし
いきなり餅が食べたくなった恭平。
さっさと餅米を炊き始めました。

炊けた餅米をボールにあけて、よいしょ、こらしょ、餅つきの始まりです。
どんな顔しとんねんっ?あんたはナマハゲの鬼か?


こういうことはしたくなる旦那。
「ちゃんと爪楊枝も写してや」って……どういうノリのモデルやねん?


わたしは手抜きの善哉作り。


丸めたできたてのお餅をいっぱい入れていただきました。ごちそうさん!
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私には敵はいない

2010年12月10日 | 世界とわたし
『ノーベル平和賞の授賞式で代読された劉暁波氏の文章』より抜粋します。

『私には敵はおらず、憎しみもない。
私を監視、逮捕した警察も検察も、判事も誰も敵ではないのだ。
私は、自分の境遇を乗り越えて国の発展と社会の変化を見渡し、善意をもって政権の敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かすことができる人間でありたいと思う。

私の心は、いつか自由な中国が生まれることへの楽観的な期待にあふれている。
いかなる力も自由を求める人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ。
私はこうした進歩が本件の審理でも体現され法廷が公正な裁決を下すと期待している――歴史の検証に耐えうる裁決を。

私は私の国が自由に表現できる大地であってほしいと思う。
そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、共存できる。
多数意見と少数意見が平等の保障を得て、権力を担う者と異なる政治的見解も十分な尊重と保護を得ることができる。
すべての国民が何のおそれもなく政治的な意見を発表し、迫害を受けたりしない。

私は期待する。
私が中国で綿々と続いてきた言論による投獄の最後の被害者になることを。
表現の自由は人権の基であり、人間らしさの源であり、真理の母である。
言論の自由を封殺することは人権を踏みにじることであり、人間らしさを窒息させることであり、真理を抑圧することである。

憲法によって付与された言論の自由を実践するためには、公民としての社会責任を果たさねばならない。
私がしてきたことは罪ではない。罪に問われても、恨みはない』



『ノーベル賞』についても、ウィキペディアから少し。

『ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞のことである。
ノーベル賞は1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。
一方、ノーベル経済学賞と一般に言われているアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞は、1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。

ノーベルは遺言に、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする。」と残している。

彼自身がこの賞を設立したわけではなく、またノーベル賞という名称を考案したわけでもないが、後に『ノーベル賞』して知られるようになる。
『物理学賞』『化学賞』『生理学・医学賞』『文学賞』『平和賞』『経済学賞』(正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)の六部門。
 
授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に行われる』



いろんな物事には、善し悪しがあり、特に多くの人が関わっている物事には、完璧なものというのは存在しません。
それぞれの思惑があり、それぞれの願いがあり、それぞれの祈りがある限り、そこには数えきれないほどの異なる心が存在するからです。
でも、だからこそ尊い、だからこそ意義がある、だからこそおもしろい。わたしはそう思っています。
そこに、ドロドロとした利害観念や、歪んだ宗教観や、愚かしいプライド争いなどを絡ませる阿呆どもよ、あなた方はいったい、どこまで阿呆なのですか?
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弟、日本時間で50才!

2010年12月09日 | 家族とわたし
とうとう弟まで50の大台に乗った。

こんな可愛かった子が……。


四条畷の日本家屋を借りて住んでいた。
その家の周りは板塀で囲まれていて、晴れた日などは、その板からコールタールの強い匂いがした。
その家の門から外に出た途端、わたしは近所のある男の子から砂をかけられた。毎日毎日かけられた。

弟が小児ぜんそくを発症したので、両親は空気のきれいな三重県に引っ越した。父方の親戚が多く暮らしていた。
まだ住宅地として開拓途中の、小高い丘の上の角っこに建てられた新築の家。家の敷地はお城の堀のような巨大な岩が積まれた上にあった。


庭に芝が植えられるまで、砂遊び天国だった。
あんまり可愛かったので、ついつい叩いてしまう姉にしょっちゅう泣かされていた。
泣き止むとすっかり忘れて、満面の笑顔を浮かべながら寄ってきては、また叩かれて泣いていた。

いろんなことが度重なっても、それでもとりあえず弟は道を外し切らなかったけど、我が道を生き始めた姉が突然「結婚する!」などと言い出し、慌てた父が「家族最後の旅行だ」と九州旅行を敢行し、彼はこの旅行中、見事にずうっとふてくされていた。



父の行き当たりばったりの言動がたくさんの災いを招き、中でも弟は息子として、同性として、その渦の中に巻き込まれることが多かった。
成人する前に、すでにあらゆる金融機関のブラックリストに名前が入っていて、それはすべて、彼の知らぬ間の知らぬ事情の上のことだった。
だから彼は、大人になって社会に出ても、いろんなことが面倒だったり難しかったりした。
けれども、とりあえず職場を得ると、それがどんな職種のものであろうと、こつこつ真面目に働き、いつも目をかけてもらい、それなりの責任のある位置に立つ。

でもなあ、あんたももう50や。今の仕事を続けていくのは辛ないか?
震災で職場のビルが倒壊して、次の仕事までのつなぎのつもりで入った建築業。
重たいもん運んだり、危ない場所で力仕事したり、暑い日も寒い日も外仕事やったり。
今年はへんなもんが皮膚にできて手術したり、熱中症で倒れたり、ちょっと若い頃とはいろいろ違てきた。

「こんな時期やから、仕事があるだけでもなんぼかマシや」って言うて、毎日毎日休まんと頑張ってるあんた。

毎晩祈ってるで。無事に、元気に、一日を過ごしていけるよう。

誕生日おめでとう!


追記

おめでとうの電話をかけた。どういうわけか、日本は土曜日だと思い込んでいた。
それで電話をかけたらきっといると思って、けれども留守電だったのでがっかりして、せっかくなので『Happy Birthday to you』の歌を吹き込んでおいた。
電話を切ってから、あ、今日はまだ日本は金曜日やったと気がついた。
しかも、もし土曜日だったとしても、弟は仕事があると思い出した。
まぬけなわたしの歌が、弟の留守電のテープにしっかりと残ってしまった。
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お茶を作る人

2010年12月08日 | ひとりごと


JOHN and I are in our Dakota kitchen in the middle of the night. Three cats ― Sasha, Micha and Charo ― are looking up at John, who is making tea for us two.

Sasha is all white, Micha is all black. They are both gorgeous, classy Persian cats. Charo, on the other hand, is a mutt. John used to have a special love for Charo. “You’ve got a funny face, Charo!” he would say, and pat her.

“Yoko, Yoko, you’re supposed to first put the tea bags in, and then the hot water.” John took the role of the tea maker, for being English. So I gave up doing it.

It was nice to be up in the middle of the night, when there was no sound in the house, and sip the tea John would make. One night, however, John said: “I was talking to Aunt Mimi this afternoon and she says you are supposed to put the hot water in first. Then the tea bag. I could swear she taught me to put the tea bag in first, but ...”

“So all this time, we were doing it wrong?”

“Yeah ...”

We both cracked up. That was in 1980. Neither of us knew that it was to be the last year of our life together.

 

今朝のニューヨーク・タイムズに、ヨーコ・オノさんのエッセイが載っていた。
ジョン・レノンとヨーコ・オノ。彼らは本当に強い絆で結ばれていた。
読んでいて、胸がじーんとしたので、そのうちの半分だけをここに転載させてもらった。わたしの勝手な訳と一緒に。

『ジョンとわたしは、ある真夜中に、ダコタハウスのわたし達の家のキッチンに居る。
足元には、Sashaという名の真っ白い猫と、Michaという名の真っ黒い猫、そしてCharoという名の猫が、わたし達のお茶を作る
ジョンのことをじっと見上げている。
SashaとMichaは、上品で美しいペルシャ猫。それに対してCharoは、ちょっとまぬけな変な顔をした猫だ。
けれどもジョンはとりわけこのCharoを可愛がっていて、「おまえはほんとに変な顔してるよなあ」と言っては彼女を優しく撫でる。

「ヨーコ、ヨーコ、あのね、お茶を作る時はね、まずティーバッグをカップの中に入れて、それからそこにお湯を注がなきゃいけないんだよ」
イギリス人として、お茶係として、彼は頑としてきかない。なのでわたしはあきらめて、彼に従うことにした。

真夜中に起きて、ジョンとふたりでお茶を飲むことが好きだった。ふたりの周りにはしんとした静けさだけがあり、時折ジョンがお茶を啜る音が聞こえた。
そんなある夜中に、ジョンがこんなことを言った。
「今日の午後に、ミミおばさんと話してたらさ、『ジョン、お茶を作る時はまずお湯をカップに注いで、それからティーバッグを入れるのよ』って言うんだ。神様に誓ってもいい。ティーバッグを先に入れろって教えてくれたのは他の誰でもない、彼女だったんだから。でも……」

「そう……ってことはジョン、今までわたし達ずっと、間違ったことしてたわけ?」
「うん……」

その後ジョンとわたしはふたりでバカ笑いした。それは1980年の夜だった。そしてわたし達のどちらもその年が、互いに愛し合い楽しみ合いながら暮らす最後の年になることを知らなかった』



わたしはビートルズを知らずに大人になった。
知っていて当然の時代に生まれ育ったのに、クラシック以外の音楽に興味も関わっている時間も無かった。
高校時代に、ブラスバンドでビートルズのメドレーなどを演奏するようになり、メロディやコードは耳に入ってきたけれど、それでも言葉は知らないままだった。
すっかり大人になってから、やっと彼らの言葉を音楽と一緒に聞く機会を得た。
けれども英語恐怖症にかかっていたので、歌詞を読んでみようか、などという気はてんで無かった。
子供が生まれ、親になり、引き継がれる世界の行き先を案じ始めてから、急にジョンの歌が胸に届いた。
彼の言葉はストレートで、飾り物が無く、だからといって無理強いもしない。
いつだって物事の真実を歌っていた。

彼が男に撃たれて死んだ時、撃った男はジョンの遺体の横に座り込み、J・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んでおり、ジョン殺害について「『ライ麦畑でつかまえて』を読めば、すぐに分かるよ」という興味深い供述を残している。

彼は死んでもなお、たくさんの人達の心の中に生き、平和への願いを歌い続けている。
もうあの日から30年も経ったなんて信じられないほど鮮やかに、世界にその歌声を響かせている。
またあそこに行きたくなった。
とても寒くなったけど、行ってこよう。花を一輪持って。









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ベンピの思ひ出

2010年12月07日 | ひとりごと
最近のわたしにしたらすごく珍しく、丸二日間の便秘……だった。

丸一日の便秘は今だによくあることで、二日目に少し頭痛がしてきて、お腹の辺りがドヨヨンと重くなり、そうなると、弁慶の泣き所の骨のすぐ外側を、膝からくるぶし辺りまで少し強めに圧迫していると、とりあえずその日(二日目)のうちに解決する。
昔のわたししか知らない人はきっと、そんなバカな、人違いだろうと思うだろう。
だってわたしは、だいたい6日に一度のお通じで平気だった人なのだ。

今から考えると、いったいあの頃のわたしのお腹の中は、どんなことになっていたのだろうか……と想像するだけでおぞましい。
だいたい、お腹がどこにあるのか忘れてしまうほど、食べた物が胃で消化された後の器官が機能していたかった。
けれども、だからといってブクブク太っていたかというと、太めではあったが際立って太いということもなかった。
おならだってほとんど出なかったから、あっ!しまった!という失敗も無かった。それが密かな自慢でもあった。

毎回、そろそろ出しとかないとヤバいな、と思われる頃(6日目の夜)、気がつくと、肛門の辺りに、石ころを集めてネットの袋に詰め込んだようなブツが出現。
そんなものがそのまんまの形で出てこられるわけがないので、看護師がやるように、自分のあそこの周りを自分の指であちこち圧迫して、石ころの塊をひとつひとつ剥がし、別個に出してやるしか手は無かった。
その作業にかかる時間はだいたい一回45分。当時は和式の、しかも外に据え付けられたトイレだったので、冬の夜などは寒いのを通り越し、すっかり痺れてしまった。
もちろん足だって痺れが切れて、何度も立ったり座ったり、それはもう、途中で終わるわけにはいかない闘い、と言う他のなにものでもなかった。
肛門は傷だらけ、出血の量は半端ではなく、いつかきっと輸血してもらわねばならないだろう、と真剣に信じていた。

拓人がお腹の中に居た時ももちろん便秘は続き、臨月に入ってからは更に悪化した。
いつもの調子でいきんだら最後、流産や早産を必死で乗り越えてやっと大きくなった赤ん坊を、うんちと一緒に出してしまいそうだったからだった。
それで便秘が7日目に突入した時、とうとうわたしの身体の中を毒となったガスが逆流し、意識が混濁、病院のトイレで看護師に指で掻き出してもらい、大事を逃れた。

いったいあれはなんだったんだろう。
どうしてあんな毎日を、別に仕方が無いと思いながら生きられたんだろう。
自分の身体を大切にせず、しがらみや恐れやあきらめにがんじがらめになって、けれどもこれは自分が選んだことだから、決めたことだからと言い聞かせながら……。
そしてそうやって生き抜いている自分のことを、責任感の強い、しっかり者だなどと、心の内では密かに誇りに思ってたりしながら……。


ビルと一緒に暮らすようになってから、わたしがどういう思考回路の持ち主なのか、それを見つめ、考え、善し悪しを判断するチャンスが次から次へと現れた。
小さな子供だった頃、わたしの家は裕福だった。だからといって、とても贅沢な生活をしたとか、なんでも好きな物を買ってもらえたとか、そういう記憶は無いけれど、両親(特に父)が、欲しい物、新しい物をなんのためらいもなく手に入れていたような気がする。
それから数年が経ち、わたしが小学校の高学年になる頃には、両親の間に大きな亀裂が入り、その頃からどんどん、坂道どころか、巨大な落とし穴に吸い込まれていくような勢いで、とても辛い事が次々にやってきた。
失うこと、脅かされること、心身ともに虐待されることなど、トラウマになって当たり前の事柄が目白押しだった。

けれども、なぜかわたしは前だけ見ていて、なんとかなると思っていた。
それはもう、ただ過ぎていく時間と同じで、太陽と月が空に順序よく上がってくるのと同じように、次にしか、前にしか進まないのと同じ感覚だった。
もちろん、例えば大きな問題が3つ、同時に覆い被さってきた時には、さすがに参ってしまい、目を瞑って二度と起きなくてもいいようなことをしたりしたけれど、そんな時にもきっと無意識のうちに、見つけてもらえる幸運を祈っていた。多分……。

なのに、自分の命を守らなければならない究極の場面に立たされた時、それまでずっと、大切な自分の弟や父のために、そうしなければならないと思っていたこと、そこに残っていなければならないと思っていたことをすっぱり捨てて、自分ひとりの身を守るためだけに集中して行動した。
今も、そうしたことになんの後悔もないけれど、そんな勝手なことをした自分は、そのための償いをしなければならないと信じ込んでいた。
その頃には、幸せになるときっと、その分の不幸せがくる、とも思い込んでいた。
そんなわたしの前にビルが突然現れて、わたしの思考回路の歪みを見つけては、なんとか良い方向に直そうと教え続けてくれた。

幸せの背中合わせに不幸せなんかない。
幸せになることは悪いことではない。だから、幸せを求めることも悪いことではない。
辛い思いをしたことは、まうみが悪かったからではない。それはたまたま、両親の身の上に起こったことで、そんなことに子供が責任を感じる必要はない。
いやだと思ったことは断ってもいい。自分がしたくないことを無理矢理しなくてもいい。自分がまず喜ぶこと。自分がまず幸せになること。それが大事。
してもらったことに対しては心から感謝しなければならないけれど、お返しをあれこれ考えて悩まなくてもいい。
一番のお返しは、まうみがそれで幸せになれたことを見せること。

アメリカに住み始めて三年もすると、わたしの大腸の中にあったポリープがすっかり消えて無くなった。
大腸のカメラ検査は今もしなければならないけれど、年々腸が健康になっていくのを知ることは嬉しい。
そして、それと同時に、少しずつではあるけれど、便秘が改善した。
今はだから、一日出なかったりすると苦しくなる。苦しくなると嬉しくなる。ああ、やっと普通になれたと実感できるから。


今夜、仕事が終わって家に戻ると、家からすぐの角っこにパトカーが5台も停まっていて、なにやら騒がしかった。
 

家の中に入ってもこれこの通り。


なにがあったんだろう……。





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G線が意味するものは?

2010年12月06日 | ひとりごと
その時旦那は、二階の風呂に入っていた。
その時わたしは、一階の自分のパソコンの前に座っていて、そろそろスウィッチを消して自分も二階に行こうと思っていた。
その時ショーティは、わたしのすぐ右横の丸椅子の上で丸まって、スヤスヤと眠っていた。

「ビ~~~ン」

いきなり鳴ったギターのG線の音にびっくりして、聞こえた方向(わたしの左側のリビング)に振り向いた。
ショーティも頭だけ持ち上げ、「ニャ~」と一声、「今のなに?」という感じでわたしの顔を見た。
旦那め、そろそろと降りてきて、わたしをびっくりさせようといたずらしたな?
ったくもう……とちょっとだけ腹を立てながら椅子から立ち上がり、居間の方を覗き込んだ。

し~ん……そこには誰もおらず、床の上に置いた、ショーティがゲ◯を吐いて汚した丸いクッションの上に、旦那のギターがポツンと乗っていた。
そ、そんな……。

「Bill! Bill! BIIIIII~LL!!」
「WHAT!!」

「一階のギター弾いた?」
「今風呂から出たとこ!」
「じゃあ、二階のギター弾いた?」
「はぁ?」
「G線鳴らした?」
階段の下で、すでに涙目になっているわたしを、いったい何を言われているのかさっぱりわかっていない旦那は、呆然と立ったまま眺めていた。

なんでもええからとにかく上に上がって来いと手招きする旦那。もちろんそうするわいと駆け上がり、旦那の部屋に入った。

「今着替えてて、この辺に居たから、もしかしたらボタンとかがひっかかってこのギターを鳴らしたかも」
ふむ……そうであって欲しいと強烈に思いつつ、そのギターのGの弦をつま弾いてみる。
嗚呼~どないしょう……やっぱり一階のあのギターや。
旦那の部屋のそれはエレクトリックで、電源の入っていないその弦の響きは、さっき聞こえたものとは全く違っていた。

G線の、たった一回だけ鳴った、とても鮮やかな音。
あれはいったい誰が、なにを伝えたくて鳴らした音だったんだろう。
それをずっと昨日から考え続けている。


昨夜はまだちょっと恐かったので、写真を撮ることができなかった。
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