ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「被ばく検査は不安をあおる」からと、検査をせずに有耶無耶にする⇒原発マフィアお得意の常套手段!

2014年03月13日 | 日本とわたし
文字制限のため、前回の記事『3.11・報道ステーション/子どもが甲状腺がんに… 母が苦悩の告白「甲状腺がん増加は4~5年後」チェルノブイリの“知見”検証』の続きの部分を、
ここに分けて転載させていただきます。
きーこさん、本当に、本当に、お疲れさまでした。ありがとうございます!

「不安あおる」と県に止められた、甲状腺初期被ばく調査・3/11報道ステーション(内容書き出し)

■「不安あおる」
止められた調査


福島県で見つかった甲状腺癌は、事故と関係あるのか?
だが、その検証に必要な、初期の内部被ばくのデータが、決定的に不足していた。


■被ばく検査「不安あおる」
データ不足 国・県の責任は?


国会の、事故調査委員会の委員だった崎山氏は、行政による初期の検査体制を、厳しく指摘する。


元原発事故調査委員会委員 崎山比早子氏:
一生懸命やろうと思えばできたはずなのに、それを止める力が働いた



原子力災害対策本部では2011年3月
飯舘村など、3つの自治体で、1080人の子どもに対して、甲状腺の被ばく調査を行っている。
あくまで簡易的な検査だったが、比較的被ばく線量の高い子どもが、3人見つかったのだ。
基準値は下回っていたものの、原子力安全委員会は、甲状腺モニターを使った詳しい検査をするよう助言



しかし、対策本部は検査を行わなかった
なぜなのか?

これは、当時、対策本部から、原子力安全委員会に送られた文書。


詳しい検査をしない理由について、

甲状腺モニターは、相当の重量物(約1トン)であり、その移動が困難である。
このような追跡調査を行う事が、本人、家族、及び地域社会に、多大な不安・いわれなき差別を与える恐れがある。



崎山氏:
常套手段ですよ。
いつもそうじゃないですか。
なにかの時に「やらない」という事の言い訳に、「不安を与えるから」ということを言うわけですよ。
きちんとちゃんと測ってもらった方が、不安はないんですよ。


国の動きとは別に、震災直後から福島に入り、放射線の影響を調べた研究者がいた。
弘前大学の床次(とこなみ)眞司教授だ。


弘前大学被ばく医療総合研究所 床次眞司教授:
まず、その初期の状況下で、住民の人達は、果たしてどれだけ被ばくしたのか?という事を知ろうと思いました。


甲状腺がんの原因となる、放射性ヨウ素の半減期は8日
物質が消える前の、早期の被ばく検査が重要だ。
床次教授は、浪江町などで調査を始めた。


しかし、横やりが入る
福島県の担当者からストップがかけられた
のだ。


床次教授:
そこは「もうやめてくれ」、という事だったです。
「これ以上やらないでくれ」と。
要は、人に関する事についてはやっぱり、「不安をあおる」というようなね、
そういったところ(行政)の協力がなければ、それ以上、これ以上勝手にやるわけにはいかないです。

こうして、貴重なデータを得る機会は失われた

崎山氏:
放射性ヨウ素の被ばく線量が分かっていないという事は
たとえばがんが出来ても、それが「放射線の影響ですよ」とも言えないし、「そうじゃない」とも言えない。
なんの根拠もない、という事です。


当時の放射線検査をめぐる異様な空気を、床次教授は覚えている。

床次教授:
なんか知らないですけど、その、静かだったんですよ。
静寂だったんですよ、研究者の世界で。
本来、普通だったら、甲状腺検査をやらなければいけないのは分かっているはずなんですけど、
誰も何も言わなかったんですよ、それを。
おかしいな」って思ったんですけど、その雰囲気が。


福島県は床次教授にストップをかけたのか?
県に聞いた。

Q:床次さんがおっしゃるには、調査を県側から止められたという事で、


福島県県民健康管理課 小谷尚克主幹:
私としては、「そこを止めたという話はない」というふうに聞いて、あの、聞いていますというか、あの…そうですね…。

その福島県こそが、様々な問題が指摘される甲状腺検査を、県立医大と二人三脚で進めてきた。



県による健康調査の問題点を取材してきた、毎日新聞の日野記者は、こう語る。


毎日新聞社会部 日野行介記者:
私が着目したのは、その(県による)情報の管理ですよね。
非常に、情報の公開度が低いというレベルではない程の、情報の管理。
自分たちで情報を独占して、評価は全部、自分たちでやる。


Q:独占することによって、何が得られるんでしょうか?

日野記者:
それはもう、「被ばくの影響はやはりない」という事を前提にする。
で、結論を付けられる、という事が可能になるのだと思います、このシステムだと。


Q:放射線の影響事態を、出来るだけ少なく見せようということが、
なにかしら命題としてあってやってらっしゃるという指摘については、どうお考えになりますか?


小谷主幹:
そういう批判があることも承知しているんですが、
わたくしどもにとって、そういうふうにする事が何のメリットもないという事は、あの、理解していただきたいなというふうには思います。


しかし日野記者は、県の目指すものについて、こう指摘する。

日野記者:
最近、住民の帰還、避難指示解除、もしくは自主避難も含めた部分でですね、
住民の帰還という事が、議論になっているんですけど、
人口減少を防ぐ、もしくはその先にある産業復興。
福島県が産業を立て直すという事以外に、(目的は)多分ない
と思うんですね。


原発事故から3年。
先の見えない日々を過ごしてきた、福島の人達。
放射能の影響とどう向き合うのか?
その答えもいまだ見えていない。


古舘:
恵村さん、ご覧になって、どういうご意見をお持ちになりますか?


恵村:
「被ばくで甲状腺がんになるには、何年もかかる」という通説ですよね。
これに、私自身が捕らわれていたなという事に、VTRであらためて気付かされました。
で、3つの事を思ったんですね。
ひとつは、被ばくによる子どもの甲状腺への影響について、
私たち、人間がですね、知っている事ってあまりにも少ない、という事なんですね。
広島・長崎では、十分な測定はしなかったでしょうし、チェルノブイリでは、何年も測定が遅れたし、
今回福島では、国や県が初期の検査ですね、これをやらなかったりさせなかったりという事が、VTRに紹介がありましたけれども、
ま、そういうことですよね。
それは極めて残念なことです。
それから、乏しい知見で判断すれば、間違える可能性というのは、常にあるわけですから、
今も福島で、「違う病院で検査がしにくい」という事が現状であればですね、
それは直ちに是正していただきたい、ということですね。

二つ目は、被災者が100人おられれば、100通りの悩みがある、という事なんですね。
しかもその悩みというのは、長ーく続いていく訳で、
国や県と医学会、それから学校もですね、可能な限り、一人一人の思いに添った検査とか治療とかですね、それから心のケアですね、
みていただきたいという事があります。

それから三つ目は、原発がひとたび事故を起こせばですね、本当に多くの人に苦労を背負わせるという、原発の罪深さですね。
原発再稼働というものに対する、根本的な疑問にもつながってくると思います。


古舘:
あの…、お子さんが癌になられたお母さんに取材して、つくづく思いましたのは、みんな、周りの方も悩んで苦しい。
だけど、さっきの毎日新聞の記者の方がおっしゃっていたように、
産業振興も含めて、前向きにやらなきゃってなった時
お子さんが癌になってこんなに悩んでいるっていう方に対して、人間っていうのは、無理解が始まってしまう
そして、家族の中で、お母さんが孤立していく
放射能っていうのは恵村さん、人間関係にひびを入れますね

恵村:
そうですね……分断を招いてしまいますよね、暮らしや心に。

古舘:
この件はですね、ここで終わる話では到底ありません。

ーーおわりーー
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こんな有り得ないことをする福島県を、政府を、まだ信じるのですか、頼るのですか?←報道ステーション

2014年03月12日 | 日本とわたし
いつも遠くから応援してくれる、大阪在住の弟から、
「今日の(3月11日)の、古舘がやってる報道ステーションを見せてあげたかった。
短く言うと、国と福島県は、被爆はあったとしても、子供たちの甲状腺癌等々の病気とは、無関係である。
被爆者やその親に、容易に検査させないように、あれこれ手を回してる。
っな感じ。
録画もしてなかったので、何とかそっちで見る方法はないの?」
というコメントが、Facebookに入りました。

その番組のことは、ツィッターで、コマ切れに内容が流されていて、そのどれもが、これまでにずっと、こういうことを伝えてほしかったというものばかりで、
だからかえって、妙な圧力などがかかって変なことにならないよう、今こそ応援の気持ちを形に現さねば、と思っていました。

けれども、そういう内容だからこそ、即座に削除されているのだろうなあと、半ばあきらめていたら、
やはりこの方、きーこさんが、いつものごとく文字起こしをしてくださっていた!ので、ここに転載させていただきます。
きーこさん、本当にありがとう!

↓以下、引用・転載はじめ

子どもが甲状腺がんに・・・ 母が苦悩の告白3/11報道ステーション(内容書き出し)

「お母さん放射能は調べないでくれ」って泣いて訴えるんです。
だからうちではもう、放射能の話はタブーなんです。

子どもが甲状腺がんに……。
母が苦悩の告白




福島の、18歳までの若い方の甲状腺がんについて、今日はお伝えしたい事があります。

まず、現在の考え方からです。
福島原発の事故由来の放射能と、当時18歳よりも若かった、福島の方々の甲状腺がんが出た、と、
この因果関係は「考えにくい」というんですね。
「考えにくい」というより「分からない」ではないか、という疑念を、番組では持ちました。

これは「因果関係がある」とか「ない」とか、
「どちらも分からないのではないか」というところから、福島での取材を始めました。

そして今まではですね、若い方の甲状腺がん、子どもの甲状腺がんというのは、
「100万人にひとりかふたり」、と言われていました。
福島では、現段階で、27万人の方が検査を受けて、
うち33人が甲状腺がんと分かり、摘出手術を受けています。


33人
これまで、およそ27万人の子どもが受けた、福島県での甲状腺検査で、癌と確定した人数だ。
すでに、摘出手術を終えている。
子どもの甲状腺癌は、年間100万人に1人から2人とされてきたが、今、その数字は大きく覆されている。
33人




古舘:
お子さんの甲状腺がんが発見されて、摘出手術を受けたという親御さんに、この番組では接触を試みました。
7人の方に接触させていただいたんですが、
やはり、インタビューをお願いすると、ことごとく断られました
いろんな事情があると思います。

そしてある方は、こういう事をおっしゃいました。
担当したお医者さんに、
こういう事に関しては、周囲にしゃべらない方がいいだろう」と。
お子さんの就職の際などは、マイナスになるから」という様なアドバイスを受けた、という方もいらっしゃいました。

そういう中で、番組では、お一人のあるお母さん、やはりお子さんが甲状腺がんだったんですが、
その方は迷いながらも、音声を変えて、そして顔を映さないなど、様々な条件がクリアされれば、
「この胸の内を語ってもいい」と言って下さいました。
その方にお話を伺います。


10代の子どもを持つ、田中佳子さん(仮名)
県の検査で、子どもの甲状腺に、5mmを超えるしこりが見つかった。
甲状腺がんだった。
周辺のリンパ節の一部を切除した。


田中:
小さい10代の子どもでも、「がん」と聞けば、「なぜだ」って
「なぜだ、自分だけがなぜなんだ」
「どうせがんなんだから、死んでしまう」

そこまで言われました。

古舘:
はぁ……。

田中:
親として、励ます言葉をどうやってかけていいか、分かりませんでした。
だから一緒に、「死ぬときは一緒だからな」って、言いました

古舘:
あぁ……、そこまでおっしゃいましたか。



田中:
夫と子どもは、私に、
「放射能の話はするな」
「お母さん、放射能は調べないでくれ」

泣いて訴えているんです。
だからうちではもう、放射能の話はタブーなんです。
毎日が喧嘩になります。
夫は、
知らないのが一番幸せなんだ」って、
知らないで生活するのが一番いいんだ

古舘:
「つきつめていけばいくほど辛いじゃないか」っていう考えなんでしょうかね……。

田中:
そうです。
だって、なってしまったんです。
取ってしまったんです。
戻ってこないんです。



田中さんは、日々の様子を、詳細にノートに記している。
事故当時、家の近くは、年間の線量でおよそ40ミリシーベルト
家の雨どい付近では、85ミリシーベルトという高い値だった。
子どもは部活に熱心で、原発事故で学校が休みになっている間も、ひとり雪の中練習していた。


古舘:
2011年3月15日。
大変な量の放射線が降り注いだという時も、全く普通と、今お話し下さったような日常だった。

田中:
そうです。
あの、その日は雪が降ったんです。
で、その日は、近所の奥さんが「うちの井戸水を使っていいよ」っていうことで、
みんなして(水を)汲みに行きましたから。
そして、「ああ、雪が降ってきたね」っていうかたちで、
とにかく、水はあらゆるところを探して歩きました

古舘:
ああ、そうですか。



その震災から7カ月後、県の甲状腺検査が始まった。
1次検査で異常がないとされると、A1判定
5mm以下のしこりや、甲状腺に水分が溜まってできるのう胞が、20mm以下の小さいものがあると、A2判定になる。


 

それを超える大きなしこりや、のう胞が見つかると、B判定、C判定とされ、二次検査が必要になる。
癌の疑いもあるため、さらに詳細な検査が行われる。
そもそも、なぜ甲状腺検査が必要なのかといえば、原発事故と深い関係があるからだ。

甲状腺は、成長や発達を促すと同時に、全身の新陳代謝を調整する、甲状腺ホルモンを作りだす。
問題なのは、この甲状腺が必要とする栄養素が、「ヨウ素」だということ。
原発事故で放出された「放射性ヨウ素」も、甲状腺は、区別なく取り込んでしまう。
甲状腺に集まった放射性ヨウ素は、放射線を出し続け、癌の要因の一つとなる。
新陳代謝が活発な子どもほど、放射線の影響を受けやすくなる。

田中さんの子どもは、1次検査でB判定
つまり、5mmを超えるしこりが見つかった。
しかし、手元に届いた通知は、このわずか1枚。



何の説明もなかった。
2次検査まで半年以上待たされた。

田中さんは半年も待てず、他の病院を探したが、そこで思いもよらない事を言われたという。


田中:
いざ、そこに行きましたら、
(病院の)事務所の手違いです、ここでは検査する事はできません
(県が)決めている事なので、個人の病院では検査することはできません
と言われました。
(病院の)事務所では、「どうぞ検査に来られてください」と、予約までとりましたので、
いざ先生とお会いしたら、先生は、
うちは出来ません。ここでは出来ません。(県が)決めている事なので


県内で、甲状腺の一時検査を行えるのは、県立医大のみ。
来年度から増やす予定があるが、それに選ばれるためには条件がある。



エコー検査をするだけで診断はせず、検査データはすべて医大に送らなければならない。
甲状腺に問題があるかどうかの診断は、医大が一括して判定する
仕組みだ。

なぜ、県立医大だけに、診断の権限が集中しているのか?
甲状腺の第一人者で、検査の責任者でもある、県立医大の鈴木教授に話を聞いた。



福島県立医科大学 鈴木眞一教授:
お母さん方が、心配でどこかで調べる。
するとそこの先生が、今度は、「のう胞じゃなくて結節だ、しこりだ」と言って、もう一回(県立医大に)まわる。
で、そうすると、それは全然違う、あの、おー、
小さいお子さんに特徴的な、甲状腺の中に認められる胸腺であったり、あの、血管であったり。
血管をのう胞と言っている。
「私どものところでやった検査と、同じレベルの事をやって下さいね」ということも、理解してもらわなければいけない


つまり、県立医大と同じやり方で検査しなければ、異なる診断が出て混乱を招く、というのだ。
しかしそれは、県立医大以外での客観的な診断を、抑えつける結果になるのではないか?



県立医大の検査については、不信感を持っている住民もいる
県の検査で、20mm以下ののう胞が見つかった中学生の女の子の母親が、取材に応じてくれた。



のう胞が見つかった中学生:
(県の検査は)人数も多かったので、しょうがないかなと思ったんですけど、
やっぱり3分や5分では、足りないのかなって思いました
流れ作業のようだったです。

娘にのう胞が見つかった母親:
どこにどれくらいの大きさのものがあるとか、たとえばこれから、これ(のう胞)がこういうふうになる可能性がありますとか、
そういう説明は一切無く、あの、「説明してほしい」と言っても無く

ただこの文章、2行の文章だけ
「検査はしません」ということで、



20mm以下ののう胞は、県の基準ではA2判定で、二次検査の必要はない
しかし、不安を抱いた母親は、県立医大とは距離を置き、県の検査には批判的な診療所を訪ねた。


のう胞が見つかった中学生:
検査の時間が倍以上かかったので、流れ作業っていう訳ではなくて、
時間をかけてじっくり診てくれるっていうのが安心しました。




親子が再検査を受けた診療所。
松江院長は、排他的な県立医大の診療方法を強く批判している。



松江寛人院長 ふくしま共同診療所:
検査を受けたけれども「不安だ」っていうのは、当然なんですよ。
(県立医大は)「患者に直接説明するな」って言っているんですよ。
それ(患者への説明)も我々がやりますと。
それもね、検査の結果を文章で、我々が渡しますと。
なので「(受診者に)直接説明をするな」っていうんですよ。
こんなことありえないですよ。


親子は、定期的に検査を続けている。



娘にのう胞が見つかった母親:
先月、3ヶ月ぶりに検査をしたんですけど、しこりが突然っていうか、出来てて
「あ、そういうこともあるんだ」というのを知って、
この先、どういうふうに変わっていくのか、という不安な気持ちと、
なにも終わっていないっていうか、この先も続く、という思い
で生活をしています。


原発事故後、体調を崩した娘は、学校の先生に、「放射能への不安」を相談したが、
「心配し過ぎだ」と、相手にされなかった
という。
不信感が募り、今は学校に行けなくなっている。
この女の子が今、望んでいる事。


のう胞が見つかった中学生:
包み隠さず、その情報を公開してほしいです。
その情報を公開することで、救われる人たちもいると思うし、
やっぱり、これから生まれてくる人達の事も心配
なので、


県の甲状腺検査では、この情報公開についても後ろ向きだ。
たとえ、検査を受けた本人であっても、自分のデータを受け取るためには、
県に対して、情報開示請求までしなければならなかった
批判を受けて、手続きは簡素化されたが、
それでも申請書類が必要で、受け取るのに3週間ほどかかる


県立医大に理由を聞いた。



鈴木眞一:
甲状腺のエコーの場合には、渡さないのが一般的です。
渡すとなると、渡し方に責任があるので、えーっとこれは、何度も検討しました。
決して我々は、渡したくない訳ではないので、渡すんなら渡そうと思ったんですけど、
そうすると、それによる不利益や齟齬(そご)もある場合が非常に多いので、現実的には、あの、実現しなかったという事です。


再び冒頭で紹介した母親の話を聞く。



田中さんの子どもは、甲状腺癌にかかり、すでに切除手術を受けた。
その手術の前に言われた事を、今もはっきりと覚えている。
医師が、「甲状腺がんの進行は遅く、危険な癌ではない」と説明したうえで、こう話したそうだ。


田中:
今大きくなる様なことはまず心配はありませんから、焦らなくていいですよ」
今ここで切らなければ、(症状が出る)30歳、40歳になってから、
『見つかった時に切ればよかったな』っていうふうに思わないですか
」とまで尋ねられました。
だったら、そんなに急がなくてもいいんじゃないですか、と思いましたので、
じゃあ、2~3年待って下さい」
「子どもが、もう少し冷静に、判断能力が付くようになってから手術しても、かまわないんじゃないですか?」

ともお尋ねしました。
そしたら、
前例がありませんから
発見されてから放置しておくという前例がないので、見つかったんだから、やはり直ちに切る、というのが本当でしょう」と

古舘:
うわぁ……、その両方を言われた訳ですか。

田中:
あんまり時間をおいて悩んでいるよりは、早く解決したかったので、半年以内に、手術に挑みました。


今見つかっている子どもの甲状腺がんについて、県の第三者委員会は、
「原発事故の影響は考えにくい」としている。




星北斗座長 県民健康管理調査検討委員会:
放射線の影響はどうかという事については、今後、きちんと検証する必要があると思いますが、
これまでの知見から言うと、「考えにくい」という表現を使っております。
「分からない」というのが正しい表現、というのもありますけど、
でも、今現時点で、我々が知っているこれまでの知見の積み重ねから言えば、想定内だろうというふうに言えます。


田中さんは、やり場のない思いを抱えている。

田中:
「まだ放射能の事をしゃべるの?心配しているの?」
「まだそんなことばっかり考えてるのかい?それじゃ前に進めないじゃない」

そういう方がいらっしゃいますね。
信頼や信用のおける親戚でも、頼りにしている方でも、
「大したことないんじゃない、そんな事」
「切れば治るんでしょ!死ぬわけじゃないんでしょ!」
「言っちゃ悪いけど、大したことないじゃない!」

3回言われました。

大したことあるんです。
それが悔しいです。

だから私は、自分で罪なのかと思っています。

「本当の事を知るのが罪なんだろうな」って。



古舘:
例えばですね、福島県以外で、別の県で、たとえばお子さんが甲状腺がんになった。
これが分かった時にはですね、病院は、福島県のケースよりも手厚く、と言いますか
丁寧に相談に乗ってくれる可能性、というものがみえてくるんです。
福島県で、こういう状況になった子どもが邪険にされている、その件。
もしそうだとしたら、こんな不条理はありません

それに付随して言える事はですね、やはり、親御さんで、お子さんが甲状腺がんだった方で危惧するのは、
18歳を過ぎて大きくなった場合には、検査、あるいは治療、そういう事が有料になる可能性がある、という事。
これもおかしな話です

引き続き、チェルノブイリの例を見ながら、こちらをご覧ください。  

■「チェルノブイリは4~5年後」甲状腺がんと事故の関係は?

福島県平田村
そこに、福島県立医大と距離を置き、子どもたちの甲状腺検査などを無償で行っている病院がある。(ひらた中央病院)
エコー検査にかける時間は、県の検査よりもはるかに長い。
内部被ばくを測るホールボディカウンターも、子ども用の物を導入。





3歳と5歳の子どもを持つ母親:
チェルノブイリでも、後から甲状腺の癌が出たとかあったので、
小さいうちから検査を受けておいて、早めに分かれば、治療なりなんなり出来るのかなと思って……。





ひらた中央病院を運営する 佐川文彦理事長:
今、原発事故が起きて、あれからまだ3年しか経っていないんですよ。
まだ終結していないんですよ。
「放射能は心配ありません」「これは問題ありませんから」と言い切れる問題ではないと思う。



27万人を検査して33人
子どもの甲状腺がんとは、年間100万人に一人か二人という、極めてまれな病気ではなかったのか。

被ばく医療の専門家として、福島県のアドバイザーを務めた山下氏は。

2014年2月23日


長崎大学 山下俊一副学長:
これはまさに、スクリーニング効果そのものであります。
スクリーニングした事がありませんでしたから、その頻度がまだ分からなかった。
一見増えたように見えますけれども、多分子どもたちが、ある頻度を持っていたんだろうと。

山下氏の説明はこうだ。



これまでも甲状腺癌は、自覚症状が現れることなどで、初めて見つかっていた。
それに比べて今回は、スクリーニングと言われる処方がとられた。
スクリーニングとは、ある集団の全員を調べて、病気を見つけ出すこと。
つまり、今回の場合は、福島県の子ども全員を調べる事で、甲状腺に異変のある子どもを見つけることです。
そのため、自覚症状がなかった甲状腺がんも見つかり、数が多く見えるという。

さらに、県立医大の鈴木教授が繰り返すのが、「チェルノブイリ」だ。


福島県立医科大学 鈴木眞一教授:
チェルノブイリで、4~5年目から、小児の甲状腺がんが多発したっていうこともありまして、


福島県立医科大学 鈴木眞一教授:
最短で、チェルノブイリで、4年、5年で甲状腺がんが増加した。

1986年、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故。
大量の放射性物質がまき散らされた後、実は4~5年後から、子どもの甲状腺がんが増えたとされている



年齢層では、事故当時のゼロ歳から4歳が最も多かったが、福島では、この年齢層は発生していない。
こうしたことから鈴木教授は、現在福島で見つかっている甲状腺癌は、「事故の影響とは考えにくい」としている。



福島県立医科大学 鈴木眞一教授:
もちろん、えーっと、放射線との関係影響があるかないかを見ていくために始めた検査ですから、ある程度の事は言及しなければいけない訳ですけど、
まだその時期ではないというのがひとつ。
まだ、チェルノブイリでの、先程話した事故のデータでも、4~5年から急増したという事ですので
今、出ているものに関しては、(放射能が影響した)可能性は、非常に低いんじゃないかと。


しかし、福島の子どもたちの健康調査を、独自に行っているある医師は、チェルノブイリのデータに疑問を抱いている。


北海道深川市立病院 松崎道幸医師:
チェルノブイリ事故が起きた時には、原発事故の後に、子どもに甲状腺がんが激増するという想定は、全くありませんでした
最初の4,5年の甲状腺のデータには、非常に疑いがありますので、
それを根拠にして、ものを断定してはいけないと思います。


■チェルノブイリ・甲状腺がんの“真実”

原発事故からの4年間。
放射線の影響による甲状腺癌は、本当になかったのか?
真相を確かめるため、私たちは、事故から28年目を迎えるチェルノブイリへ向かった。



1986年4月26日
チェルノブイリ原発の4号機が、爆発炎上。
莫大な量の放射性物質が、放出された。
かろうじて、石棺と呼ばれる分厚いコンクリートで覆ったものの、中には今も溶け落ちた核燃料が、手つかずで残されたままだ。


緊急事態省の担当者:
翌日、住民は避難させられ、これからも絶対に、誰も住む事はない


■「甲状腺がん増加は4~5年後」
チェルノブイリの“知見”検証


チェルノブイリ原発の周辺にあった、いくつもの町や村。
あの日、放射性物質は、容赦なく人々の元に降り注いだ。
未曾有の原発事故を経験したこの地で、
“子どもの甲状腺がん”と“被爆”の関係は、どのような結論に至ったのか?

ウクライナの首都キエフにある、内分泌代謝研究センター。
ここには、国中から、甲状腺の病気を抱える患者が集まる。
甲状腺が専門のこの機関で、特に調べ続けているのが、チェルノブイリ原発事故の当時子どもだった世代


この男性は、現在30歳
事故で被ばくした時は2歳だ。

Q:チェルノブイリ事故への不安は?


事故当時2歳の男性:
もちろん気にしている
故郷は立ち入り禁止で、検問所もある
妻も、甲状腺の手術を受けているので、気をつけないと


原発事故のあと、異変が見え始めたのは、4~5年後の事だった。
甲状腺がんと診断される人々が、急激に増え始めたのだ。



特に顕著だったのが子どもたち。
極めて稀なはずの子どもの甲状腺がんが、なぜ増えたのか?

当時から、研究所の所長を務めるトロンコ医師は、いち早く放射線の影響を疑い、世界に訴えた
しかし、なかなか認めてもらえなかったという。


ウクライナ内分泌代謝研究センター ミコラ・トロンコ所長:
事故で浴びた放射線の量で、ある学者は「甲状腺がんが発症する」と言い、ある学者は「発症しない」と言った
大論争が巻き起こった。
原爆を投下された、広島や長崎の調査データをもとにしてだ。

この時、医学会の常識とされていたのは、原爆被害を受けた広島や長崎の“知見”
「放射線による甲状腺がんの発症は、早くても8年後以降」というものだった。

そのため、「事故後4~5年で見つかった癌は、放射線とは関係ない」とされた。
高性能な機器で大規模な検査、つまりスクリーニングを行ったため、「もともとあった癌が多く見つかっただけだ」と。


しかし、現実は違った


トロンコ所長:
4年で発症するとは、思ってもいなかった。
しかし、その思い込みは間違いで、子どもたちの潜伏期間はもっと短かったのだ。
様々なデータを集め、事故後4年でも発症している事を実証した。


着目したのは、甲状腺がんの原因となる放射性ヨウ素だ。
その半減期は、非常に短い。
そこで、放射性ヨウ素が消えた後に生まれた子どもたちが、殆ど発病していないのに比べ、
放射性ヨウ素が消える前に生まれていた子どもたちは、発病率が高い
ことを突き止めた。



こうして、事故から10年経ってようやく、子どもの甲状腺がんと放射線の因果関係が、国際機関にも認められた
(国際原子力機関の報告 1996年)

この、チェルノブイリの“知見”。
つまり、事故後4~5年以上に甲状腺がんが増えた事等から、
いま福島で見つかっている甲状腺癌は「被ばくが原因とは考えにくい」とされている



取材を続ける中、気になる情報が出てきた。
原発から西へ110kmにあるコロステン
放射能で汚染されたが、居住は許されている地域だ。



最前線に当たる、検診センター(コロステン検診センター)。
事故以来、甲状腺がんの検査は、どのように行われてきたのか?
副所長が語ってくれた。


コロステン検診センター アレクサンドル・グテーヴィチ副所長:
当時は、何の機器もなかったので、“触診”で診察するしかなかった。
1990年位に初めて、エコー診断装置や線量測定器が入り、検査の態勢ができた。



この地域に、高性能の検査機器が納入されたのは、事故から4~5年経ってから。
“触診”だけで、癌が見逃される事はなかったのか?
実は、早い時期から、子どもの甲状腺がんが増えていた可能性はないのだろうか?



グテーヴィチ副所長:
検査機器がいいと、患者は見つかりやすい。

Q:甲状腺がんを、もっと早く発見できた?

グテーヴィチ副所長:
当然、可能だったろう。


内分泌研究センターのトロンコ所長も、事故直後の検査体制は、十分でなかったことを認める。


トロンコ所長:
当時のソ連に、高性能のエコー診断装置はなかった。
1989年か90年になって、アメリカの大富豪などから、エコー診断装置の寄贈を受けた。



それでは、
福島で、4~5年を待たずに、早い時期から見つかっている“子どもの甲状腺がん”は、本当に“放射線”と関係ないのか?


トロンコ所長:
可能性は低い。
私たちが知る福島の線量は、僅かだ。
ただ、調査はすべきだ。
科学は、予想外のデータを提示する事がある。
28年経つが、私たちは得た回答より、疑問点の方がはるかに多い


チェルノブイリで調査した経験もある、京都大学の今中助教は
当時起きた事が、今の福島に重なって見える」という。


京都大学原子炉実験所 今中哲二助教:
西側のオーソリティー(権威)、日本のオーソリティーも含めて、どういう反応をしたかというと、
「広島・長崎に比べたら早すぎる」と。

また、同時に、いわゆる今でも言われている、スクリーニング効果ですよね。
「熱心に検査検診をすれば、それだけがんも見つかる」という事も言われましたけれども、
(今回)福島関係の方々は、「それは福島の事故が原因ではない」
「なぜならば、チェルノブイリに比べたら早すぎる」とおっしゃったんですよね。
それを聞いて、皆さん、20年前におっしゃった事を忘れたのかなと。


福島で起きている事態は、事故の影響なのか、そうではないのか
だが、それを検証するための重要なデータが、実は、決定的に不足しているのだ。
かつて、詳しい検査を目指した研究者がいた
しかし、そこにストップがかけられたという。

ーーつづく
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「私たちは福島原発事故を、実はまだ知らない。このままだと悲劇はくり返される。必ずまたどこかで」

2014年03月11日 | 日本とわたし
東京新聞の3つの社説

3・11から3年 まだ知らないフクシマ
2014年3月9日

過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる-。
原発事故にも通ずるかもしれない。
あれから3年。
私たちは、福島原発事故を、実はまだ知らない。
 
忘却が神話を復活させるのか。
 
政府のエネルギー基本計画案は、原発をあらためて、「重要なベースロード電源」と位置付けた。
昼夜を問わず、一定量の電力供給を担う、主要な発電設備のことをいう。
 
一昨年の衆院選で掲げた、脱原発依存の約束に目をつむり、3・11以前に戻したい、という意味だ。


◆忘却とは少し違う
 
「忘却というのは、ちょっと違うかな…」
 
写真家の島田恵さんは、少しの間考え込んだ。
核燃料サイクル施設が集中する青森県六ケ所村で、12年間生活し、変わっていく村の様子、変われない村の暮らしを、つぶさに記録し続けたことがある。
 
3・11の後、六ケ所と福島を結ぶ記録映画『福島 六ヶ所 未来への伝言』を製作し、自主上映会を経て、先月、東京・渋谷の映画館で初公開した。
 
核燃料サイクルとは、原発で使用済みの核燃料を、再利用する計画だ。
エネルギー政策の根幹ともされてきた。
 
核のごみが全国から集まる六ケ所村も、福島同様、国策に翻弄(ほんろう)されながら、都市の繁栄を支えてきた。
いわば、入り口と出口の関係
だと、島田さんは考える。
 
巨額の交付金と引き換えに、推進派と反対派に分断された寒村は、列島の縮図にも映る。
 
この3年、おびただしい活字と映像が、フクシマを伝えてきた。
周囲から、「公開のタイミングを外したのでは」と指摘されたこともある。
 
それでもなお、映画を見た多くの人が、「知らなかった」という感想を寄せてくる。


◆事故報告書は未完成
 
私たちは、福島をまだ知らない
 
福島原発事故が、どれほど大きな事故だったのか。
もし、偶然の救いがなければ、どれほど巨大な事故になったか。
国民として、もっと正しく知る必要があるだろう。
 
国会事故調の調査期間は、実質約3カ月だったという。
 
報告書は、「破損した原子炉の現状は詳しくは判明しておらず、今後の地震、台風などの自然災害に果たして耐えられるのか分からない」などと、
冒頭で、未完成であることを吐露している。
 
例えば、こんな事実もある。
 
震災発生当日、福島第一原発4号機は定期点検中で、核燃料はすべて、使用済み燃料の貯蔵プールに移されていた。
 
プールの中では、約1500体の核燃料が、高い崩壊熱を発しており、最も危険な状態だったとされている。
放射線量が高く、建屋の中に入ることは不可能だったと、作業員は語っている。
 
燃料を冷やす手だてがなかった、ということだ。
 
ところが、貯蔵プールの横にある、「原子炉ウェル」と呼ばれる縦穴に、大量の水がたまっていた。
 
津波か地震の衝撃で、仕切り板がずれ、そこから、貯蔵プールに水が流れて冷やしてくれた。

そして皮肉にも、爆発で建屋の屋根が飛び、外部からの注水が可能になった。
 
点検作業の不手際があり、4日前に抜き取られていたはずの水が、そこに残されていた。
もし“不手際”がなかったら-。
私たちは幸運だったのだ。
 
チェルノブイリ原発事故の原因について、当時のソ連当局は、規則違反の動作試験が行われたため、運転出力が急上昇したことによる、と発表した。
 
しかし、事故から5年後、「主因は人為的なものではなく、原子炉の構造的な欠陥である」という内容の報告書をまとめている。
 
米スリーマイル原発事故が起きたのは、作業員が、誤って非常用冷却装置を止めてしまったからだと、調査の結果判明した。
 
事故原因が解析され、判明し、防止策を講じた上で、原発は再び動き始めた。
しかし、福島の場合はどうか。
世界史にも例がない多重事故は、極めて複雑だ。
 
原因解明が不十分なまま、再稼働だけを急いで、本当に大丈夫なのだろうか
根源的な疑問は、やっぱり残る。


◆無事故の保証ではない
 
3・11以前への回帰を目指す、エネルギー基本計画が、間もなく正式に決定される。
 
政府は、積極的に、再稼働を認める姿勢を隠さない
 
だが、原子力規制庁自身が明確に認めているように、世界一の規制基準とは、たとえそうであれ、無事故を保証するものではない。 
地震国日本に、安全な場所はない。
なし崩しの再稼働を受け入れるか、受け入れないか。
フクシマを知り、フクシマの今を踏まえて、決めるのは私たち自身である。



3・11から3年 みんなが闘っている
2014年3月10日

原発事故を抱えた町の再起が、どれほど困難であるか。
震災からの3年は、それを思い知らせる時間だった。
闘う人々に、ずっと寄り添わなくてはならない。
 
それは、静かな時限爆弾のように、胸底に沈み込み、あの戦争から70年を経ても、消えていなかった。
 
福島県相馬市の診療所「メンタルクリニックなごみ」の精神科医、蟻塚(ありつか)亮二さん(66)は、
沖縄協同病院心療内科部長を務めていた2010年暮れ、長い診療経験にはない「奇妙な不眠」を訴える男性に、立て続けに会った。


◆戦争の心の傷は70年も
 
海外の論文を読みあさってみると、その不眠は、アウシュビッツ収容所の生存者に見られた、心的外傷後ストレス障害(PTSD)とそっくりだった。
男性に聞くと、太平洋戦争末期の、沖縄戦を生き延びた人だった。
 
住民を巻き込んだ、米国との激しい地上戦で、県民の4人に1人が犠牲になった、沖縄の戦闘
その記憶は、生き延びた者にとって、深い心の傷となったのだ。
 
20年前からこの問題に取り組んできた、元沖縄県立看護大教授、當山(とうやま)冨士子さん(66)と一緒に、
一昨年、沖縄戦を体験した高齢者400人に調査をしたところ、PTSDを引き起こしかねない重度な心の傷を抱える人が、4割もいた
 
蟻塚さんは、不眠の高齢者を診ると、戦争の影響を疑うようになった。
 
砲弾の雨の中を逃げた人、家族を失った人、住民が日本兵に殺されるのを目撃した人…。
つらい記憶が、長い年月の後に仕事を辞めたり、家族の死に遭うなど、ふとしたきっかけでよみがえる。
 
夜中に何度も目覚め、パニックを起こしたりする。
遺体の臭いを思い出す、という人もいた。


◆沖縄の苦難に重なる
 
戦後20年たって行われた、精神疾患に関する調査で、沖縄は本土に比べて、統合失調症などを発症する割合が高かった、というデータがある。
 
それは、戦争で負った心の傷が影響している。
本土から切り離された米軍の統治下で、人権を踏みにじられながら貧困に苦しんだことや、今も続く基地と隣り合わせの生活など、
つらい経験を重ねてきたことが、発症のその引き金になった-。
そう蟻塚さんはみている。
 
沖縄の心の傷は、原発事故で傷ついた、福島の痛みに重なる。
 
災害後の心のケアの重要性は、阪神大震災や新潟県中越地震などの教訓として残された。
 
東日本大震災後に、有志の手で開かれた診療所に、昨春、蟻塚さんが所長として招かれたのも、沖縄での経験を頼られてのことだ。
 
毎月50人の新患を受け入れ、500~600人の患者を診る。
一割に、震災や原発事故による、遅発性のPTSDがみられるという。
 
震災の日、運転していた車ごと津波に流された男性は、転がった消防車と、泥に埋まった人の姿が、よみがえるようになった。
眠れずイライラし、妻に怒ってばかりいた。
 
放射能を浴びてしまったと恐れ、息子と一緒に県外避難している母親は、突然不安に襲われるパニック症状に苦しんでいた。
 
PTSDだけでない。
仮設住宅の生活が長引いて、うつ状態やアルコール依存になる人も急増している。
 
知らない人間関係の中で刹那的になり、「死んでもいい」と、ふと思う人が目立っているそうだ。

 
東日本大震災によって、今も27万人が避難生活を送る。
そのうちの14万人を占める福島が、とりわけ厳しいのは、放射能汚染からの回復や、将来の生活の見通しが立たないことだ。
 
福島はまた、震災関連死が、1671人を数える。
地震や津波で亡くなった直接死の、1603人よりも多く、被災3県の半数を超えている。

 
長い避難生活で体調を悪化させたり、各地を転々とするうちに、治療が遅れたりしたせいである。
 
自殺の多発も際立っている
 
福島から聞こえるのは、悲鳴のようなシグナルだ。


◆フクシマを忘れない
 
政府は、低線量被ばくの問題から、目を背けてきた
 
年間の被ばく線量について、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまで許容できる、と基準を緩め、
原発周辺自治体への早期帰還を、促そうとしている。
東電も、避難指示区域の見直しのたびに、賠償を打ち切っている。

見せ掛けの事故収束と復興を、急いでいるようにしか思えない
 
政府や東電の不条理に遭っても、町の再建がどんなに困難であっても、人々は生き抜こうとしている。
 
本土は戦後、基地の負担を押しつけられる、沖縄の苦難を忘れてしまっていた。
わたしたちは、福島からの悲鳴に耳を傾ける。
寄り添うことを忘れてはならない。


3・11から3年 死者の声に耳傾けよ
2014年3月11日

津波の国に住みながら、われわれは、先人の経験を風化させてはいなかったか。
大震災の悲しみを忘れず、未来に向けて、死者の声に耳を傾けたい。
 
故・吉村昭さんの著書「三陸海岸大津波」(文春文庫)に、印象に残る一節がある。
 
三陸海岸の羅賀(らが)(岩手県田野畑村)での出来事である。
 
はるか眼下に海を望む、丘の中腹に立つ民家。
1796年の明治三陸大津波を知る、当時85歳の古老は、家の中に漂流物があふれていた、と振り返った。


◆風化する惨事の記憶
 
その話を聞き、取材に同行していた田野畑村長が、「ここまで津波が来たとすると…」と、驚きの声をあげたというのである。
 
この本が、「海の壁」の原題で出版されたのは、1970年。
その時すでに、地元でも、惨事の記憶は風化しつつあったのだろうか。
 
文庫版のあとがきとして、吉村さんは、その羅賀で、2001年に講演した際のエピソードを書き加えている。
 
「話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。
耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について、体験していないことに気づいたのである」
 
明治の大津波では、羅賀に、50メートルもある津波が押し寄せた、という話をしたところ、
沿岸市町村から集まった人々の顔に、驚きの色が浮かんだのだという。
 
羅賀の高台には、明治の大津波で、海岸から運ばれたと伝えられる巨石があった。
2011年3月11日の津波は、その「津波石」と集落を、再びのみ込んだ。
 
親も子もない。
助けを求められても、立ち止まらずに逃げろ…。
「津波てんでんこ」は、三陸の、悲しくも重要な教訓
である。
 
われわれは明治、昭和の大津波と、同じことをしてしまった」と、3年前を振り返ったのは、
名古屋市で先月開かれたシンポジウムに招かれた、岩手県釜石市の野田武則市長である。
 
大きな揺れが収まって30分ほど。
いったん避難した後、家族の安否などを心配して、自宅に戻った大勢の市民が、津波にのみ込まれてしまった。
「平時には冷酷に聞こえる『てんでんこ』だが、その教えは実に正しかった」


◆犠牲多かった市街地
 
野田市長の率直な講演は、示唆に富む。

犠牲者が多かったのは、沿岸部ではなく、海の存在を忘れがちな市街地だった
防潮堤や防波堤は高くなるほど危ない。海が見えなくなるからだ
 
守るよりも、まず、迷わず逃げよ。
平成の三陸大津波の犠牲者が残した教訓も、結局は、明治、昭和と変わらぬ「てんでんこ」だったのではないか。

国土強靱(きょうじん)化が、海の脅威を視界から遮ることにつながるとすれば、このまま突き進んで大丈夫なのだろうか。
 
よく知られるようになった、岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区の、
高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)/此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた古い石碑。
 
その地では、3年前の大津波で、住宅被害が1戸もなかった。
死者の声を風化させなかったことが、後の人々を守った好例である。
 
過去に繰り返された津波の被害や、到達地点を伝える石碑や古文書は、
紀伊半島沿岸部など、南海トラフ巨大地震の大津波が予想される地域にも、数多く残されている
 
同じように、関東、東海地方でも、1703年の元禄地震津波の犠牲者を供養する、千葉県山武(さんむ)市の「百人塚」など、
房総半島や伊豆半島に、いくつもの津波碑が建てられている
 
先人たちが、石に刻んで後世に残そうとしたメッセージを、再確認する試みが、東日本大震災を機に、各地で始まっている。
 
その土地で何が起きたのか。
将来、何が起きうるのか。
逃げるべき場所はどこか。

よそから移り住んだ人にも、一時的に立ち寄る人にも、先人の経験を共有できるようにする工夫を歓迎したい。
 
こうした津波碑は、漢文など古い文体で書かれている上、物理的に風化していたり、こけむしていたりで、判読の難しいものが多い。


◆巨大津波に備えよう
 
例えば、南海トラフ地震の津波想定域にある、三重県志摩市阿児(あご)町の「津波遺戒碑」
だれにでも分かるように、地元の自治会が、内容説明の看板を、碑の隣に設置した。
碑には、1854年の安政東海地震の津波で、141戸が流失し、11人が溺死した被害状況とともに、
後世の人が地震に遭った際は、速やかに老人、子どもを連れて高台に逃げよ」と刻まれていた。
 
人間は、忘れるからこそ前進できるという考え方もあるが、東日本大震災で、また多くの犠牲者を出してしまった事実は重い。
なぜ、命を救えなかったのか
悲しみを忘れることなく、死者の声にあらためて耳を傾けたい
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伊吹衆議院議長の脱原発への言及に不快感を出す首相周辺さん、わたしゃあんたらに不快感出まくりです!

2014年03月11日 | 日本とわたし
3年が経ちました。
3年も経ちました。
その間に、本当にいろいろなことが起こりました。
毎日、自分の心にとまったものを選んで書いてきました。

良いことはとても少なく、嬉しかったことやホッとしたことなどは、指で数えられるほどしかありません。
次から次へと、信じられないほどに愚かしい、どう考えても間違っていると思われることを、言ったりしたりする人たちを、
わたしたちはまだ、どうすることもできずに、やったとしても後手後手で、悔しい思いを何度も味わってきました。

ここに、政府が開催した、東日本大震災三周年追悼式での、天皇陛下のお言葉と、衆議院議長・伊吹文明氏の追悼の辞を、載せさせていただきます。

この天皇のお言葉を、NHKの報道では、
『さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、
多くの人々が、住み慣れた地域から離れることを、余儀なくされています。
いまだに、自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと、心が痛みます』

↑上記の部分が完全にカットされていたと、ツィートでは流れていました。
本当なのでしょうか?

それはさておき、わたしは伊吹氏の、人間味のある、これまで聞いたことのないようなまともな言葉を読んで、
これまで感じることがとても少なかった、大きな喜びを感じています。
なので、ついつい、太文字で大きくさせていただきました。

そしてこの言葉に対して、不快だと言う人間が、首相周辺に居るというニュースが流れてきました。

↓以下、転載はじめ

伊吹議長が脱原発に言及 首相周辺から不快感
【共同通信】2014/03/11
伊吹文明衆院議長は11日、東京都内で開かれた政府主催の東日本大震災3周年追悼式の式辞で、エネルギー政策に関し、
将来の脱原発を見据えて議論を尽くしたい」と述べた。
議長就任に伴い、自民党会派を離脱しているが、
「脱原発は無責任」(安倍晋三首相)との党の主張と、一線を画した形だ。
首相周辺から不快感が出ており、波紋を広げそうだ。

伊吹氏は、東京電力福島第1原発事故を受け、長期の避難生活を余儀なくされている現状に触れた上で、
電力を無尽蔵に使えるとの前提に立ったライフスタイルを見直し、反省し、省エネルギーの暮らしにかじを切らねばならない」と強調し、脱原発に言及した。

転載おわり

いやもう、こんな真っ当な意見に不快感を出すあんたらに、不快感が出まくりですわっ!!


天皇陛下のお言葉(全文)

本日、東日本大震災から3周年を迎え、ここに一同と共に、震災によって失われた人々とその遺族に対し、改めて深く哀悼の意を表します。

3年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は、2万人を超す死者、行方不明者を生じました。
今なお多くの被災者が、被災地で、また、避難先で、困難な暮らしを続けています。
さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、
多くの人々が、住み慣れた地域から離れることを、余儀なくされています。
いまだに、自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと、心が痛みます。


この3年間、被災地においては、人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、
幾多の困難を乗り越え、復興に向けて、懸命に努力を続けてきました。
また、国内外の人々が、こうした努力を支援するため、引き続き様々な形で尽力していることを、心強く思っています。

被災した人々の上には、今も、様々な苦労があることと察しています。
この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなく、これからを過ごしていかれるよう、
長きにわたって、国民皆が、心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。
そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、
安全な国土を築くことを目指して、進んでいくこと
を期待しています。

被災地に、一日も早く、安らかな日々の戻ることを、一同と共に願い、
御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


伊吹文明衆議院議長(追悼の辞)

天皇・皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災三周年の追悼式が行なわれるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し述べます。

3年前のきょう、東日本を襲った大地震と津波により、東日本の国土は破壊され、多くの尊い命が失われました。
犠牲となられた方々と、ご遺族のみなさまに、改めてお悔やみを申し上げます。

そして被災された方々、また、福島での原子力発電所の事故により、避難を余儀なくされた方々のお気持ちを思うとき、
月並みなお見舞いの言葉を申し上げることすら憚られるのが、率直な心境
です。

多くの関係者のご努力により、復興に向けた歩みは、着実に進んでいます。
震災後、被災地の惨状に心を痛めた方々が、被災地を支援するボランティア活動に参加して下さり、
多くの、今日お見えの諸外国からの温かいご支援を頂いたことは、物心両面で、復興の大きな助けとなりました。
ご支援いただいた皆様に対し、深く感謝申し上げたいと存じます。

一方で、震災から3年が経過し、被災地以外では、大震災以前とほぼ変わらぬ日々の暮らしが営まれております。
しかし、被災地では、仮設住宅等で、ご不自由な生活を余儀なくされている方々もなお多く、
震災前の生活を取り戻すことは、容易ではありません。
特に、原子力発電所事故のあった福島県では、住み慣れたふるさとに戻ることができず、
今なお、放射性物質による汚染に苦しんでいる方々が、多くおられる現状を、私たちは忘れるべきではないでしょう。

そういった方々の事を思うと、電力を湯水の如く使い、物質的に快適な生活を、当然のように送っていた我々一人一人の責任を、
全て、福島の被災者の方々に負わせてしまったのではないかという気持ちだけは、持ち続けなりません。


思えば、私たちの祖先は、自然の恵みである太陽と水のおかげで、作物を育て、命をつないできました。
それゆえ、自分たちではどうすることもできない、自然への畏敬と、感謝という、謙虚さが受け継がれてきたのが、日本人の心根、文化の根底にあったはず
です。

科学技術の進歩により、私たちの暮らしは、確かに豊かになりましたが、
他方で、人間が自然を支配できるという、驕りが生じたのではないでしょうか。
そのことが、核兵器による悲劇を生み、福島の原発事故を生んだのだと思います。


3年目の『3.11』を迎えるに際し、私たち一人一人が、電力は無尽蔵に使えるものとの前提に立ったライフスタイルを見直し、反省し、
日本人として、言行一致の姿勢で、省エネルギーと省電力の暮らしに、舵を切らねばなりません。

主権者たる国民より、選挙を通じて主権を委ねられている我々国会議員は、被災地の復興に全力で取り組むとともに、
震災で得た教訓を元に、エネルギー政策の在り方について、現実社会を混乱させることなく、
将来の脱原発を見据えて、議論を尽くしてまいりたい
と存じます。

結びに、震災で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、追悼の言葉と致します。

平成26年3月11日 衆議院議長 伊吹文明
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目を覚ませ日本の大人!「『浸水』に対しては防波堤は無力」と、声を大にして叫べ!

2014年03月10日 | 日本とわたし
目からウロコでしたので、一ヵ月前の記事ですが、紹介させていただきます。

↓以下、転載はじめ

これでも『津波』と言い張る社会
武田邦彦・中部大学教授

この写真は、福島原発が爆発してほどない時の上空からの写真で、写真の上が陸側、下が海だ。




福島原発を襲った津波は海から来たから、「下から」来た。
津波の一撃を受けた海岸線の建物や機械は、わずかに残骸を残しているだけだ。

でも、海岸線から少し入ると、津波の勢いは少し弱まったのだろう。
中央部にある、横に長い建物(タービン建屋)の前のタンクは、上空から見た感じでは、無傷で残っている。
そして、その上に長い建物があり、この建物の高さは35メートルほどある。

福島原発を襲ったとされる津波は15メートルだから、このタービン建屋を超えることはできない。
だから「建物が残っているということは、津波はタービン建屋で止まった」、ということを示している。

タービン建屋のさらに陸側に、原発が4つ並んでいる。
右から1号機、2号機、3号機、そして4号機だ。
1号機、3号機、4号機は、爆発したので骨組みが見える。

2011年3月11日、津波は、海岸線から福島原発を襲ってきたが、タービン建屋に阻まれて、「津波」は原発まで達しなかった
これほど明瞭な事実があるのに、日本社会はまだ、
「福島原発は津波で破壊した。だから、防潮堤を高くすれば安全になる」と言っている。

事実を見る目を完全に失っている
津波がきて破壊されるというのは、津波の強い力で家が押し流されるからで、
ゆっくりと浸水することを、「津波にやられた」とは言わないし、対策も変わってくる。
津波が原因なら「防潮堤」だが、単に浸水したので爆発したなら、「浸水対策」になる
からだ。

浸水に対しては、防潮堤は無力だ。
津波の力を避けることはできるが、遠くから迂回して入ってくる水を止めることはできない。
原発の建物を、「津波や高潮で予想される最大高さより、標高を高くしておく」ことになる。
「津波対策」と「浸水対策」は全く違う
のだ。

でも、今や日本社会は、「口先男」の世界になり、事実を見ないで原因を特定し、
写真を見れば小学生でもわかることでも、NHKが空気を作れば、それで押し通せる。

なぜ「津波」にしているかというと、「浸水」となると、原発を一度分解して、高台に移す必要があるからだ。

もともと原発は、耐震性が震度5(総合的に)ぐらいなので、地震でかなり損傷し、さらに浸水で破壊された、というのが正しいだろう。
私たち日本人の親は、「ウソをつき続けて日本をダメにし、それを子供に引き継ぐ」ことを、すぐやめなければならない。

(平成26年2月6日)


↑以上、転載おわり


で、これが最近の、浜岡原発の様子です。






中電にも、みなさんの愛情のこもった忠告をして差し上げましょう。
もうやめときって、何度でも何度でも、諭してあげましょう。
もう原発は過去の産物であり、超難儀なお荷物であり、中電どころか中部地方、さらに日本国のみならず地球に対しても、危害を与える、
甚大な危害を与える、どうしようもないバケモノなんやからと。
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これが『アンダーコントロール』の正体!ど~ん!

2014年03月10日 | 日本とわたし
先日、3月3日に行われた参議院予算委員会においての、那谷屋正義(民主党)議員の質問に答えた安倍総理の言葉について記事を書きました。

ある野党議員が、オリンピック誘致に際して『アンダーコントロール』という言葉を使った安倍氏に、福島県民の心情への配慮はなかったのか、という質問をしたところ、
「もちろん政府としては、汚染水問題をはじめとする多くの問題が、現実に存在していることは十分承知している。
そのために対策を講じようと努力もしている。
けれども、すでに東京がそのような状況下にあることを案じている相手に、コントロール不能というようなことを言えないではないか。
だからわたしはあの場で、アンダーコントロールという言葉を使った」
と、堂々と、いや、原稿を読むためにずっと頭のてっぺんを見せながら、言い切った安倍氏。

その答を聞いて、どう切り込んでいくのかと期待しながら聞いていると、

「いや、英語だと(どうのこうの……)、だから、日本語でもう少し(なんちゃらかんちゃら……)と、わけのわからないことを言い出してボツ。

がっかりしましたが、とりあえず、安倍氏本人が、アンダーコントロールではないのを承知で、
あの場を取り繕うために使った言葉である、ということだけははっきりしました。

完全にブロックできている、などという戯言も、徐々に言い回しを変えて、微調整していると、三宅雪子議員もおっしゃっていますし。

あの答弁の動画を、翻訳して世界に!とおっしゃる方がたくさんおられます。
もちろんそれも大事ですけれども、まず日本語がスッと理解できる日本人のみなさんに、どないかして伝えることはできないのでしょうか。
日本のマスコミに、強烈に要請して、報じさせることはできないのでしょうか。

あの男は、年に指で数えられるぐらいの回数、被災地に行って、あれやこれやを食べて見せては、
「復興は着実に進んでいる。風評被害を払拭する」と胸を張って言っていますが、

用意されたフリガナ付きの原稿を、早口で読むことしかできない、心も知識もペラペラに薄い人間に、いったい何がわかり、何ができるというのでしょう。


↓以下のビデオは、福島県大熊町を、車で通り過ぎながら、除染(この言葉はだから完全に誤り)の凄まじい状況を撮影したものです。
いかに政府が無責任、かつ無能であるかを、あの黒いプラスティック袋が物語っています。



原発事故「風化感じる」77% 福島県民、共同世論調査
【朝日新聞】2014年3月4日



朝日新聞社と福島放送による、福島県民を対象とした世論調査で、
国民の間で、福島第一原発事故の被災者への関心が薄れ、風化しつつあると思うか、と尋ねたところ、
「風化しつつある」は77%で、「そうは思わない」の19%を引き離した。

昨年3月の調査では、72%対25%だったので、風化を感じる人が少し増えている。
今年2月の全国世論調査で、同じ質問をしたところ、69%対27%だったので、福島県民の方が、より風化を感じていることがうかがえる。

また、福島の復興に道筋がついたかどうか、尋ねたところ、
「大いに」「ある程度」を合わせた「ついた」は17%で、
「あまり」「まったく」を合わせた「ついていない」は82%に達した。

昨年3月の18%対80%と、ほとんど変わっていない。
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父よ、母よ、子どもよ、海よ、山よ、ふるさとよ、

2014年03月09日 | 音楽とわたし
父よ、母よ、子どもよ、

海よ、山よ、ふるさとよ、

地震で、津波で、奪われたすべての命に向かって、いのりを捧げたい。

その願いを心に創った曲です。

だから歌うことに決めました。

今日はヴァイオリニストのサラとの合わせ練習その③。

本番リハーサルまで、あと10日強、となってしまいました。

ここは津波がだんだんと押し寄せてくるところ。
そして多くの命が一瞬にして、容赦なく奪われてしまった。

サラは黙って、音符を見つめながら、わたしの話を聞いてくれます。

「ここ、サラのメロディーを2オクターブ下で歌ってもいい?日本語で」

録音してみました。
ちょっと変かもしれないけれど、心がずしんと落ち着きました。


ガリガリに痩せ細って戻ってきた家猫は、だいぶ落ち着き、食欲も戻ってきました。
餌の量を以前より減らし、しかも嫌いな練り餌(カリカリではない)なのですが、
腹が減っては文句も言えません、とりあえずいやいやながら、茶碗を空っぽにできるようになりました。
目力も、それとともに戻ってきたような気がします。




やっとやっとの春のしっぽが見えてきましたが、根雪はまだまだデ~ンと居座っています。


でも、こんなふうにきれいだったりもするので、まあ許せたりします。


ケムトレイルという言葉を知ってから、よく空を見上げるようになりました。
うちの家の上空には、けっこう頻繁に現れます。


全然良くないことなんですけれども……。


思いやりのある旦那は、今夜も、練習ばっかしてる妻に代わって、夕飯を担当してくれました。


感謝!!
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「原発は事故が起きれば電力会社が破綻する。原発を止め、中電の為に愛を注ごう」アーサー・ビナード氏

2014年03月09日 | 日本とわたし






初参加家族ら『原発NON』

反原発運動を進める市民団体などが、超党派で企画し、山口市の維新百年記念公園で8日にあった集会、
『上関原発を建てさせない山口県民大集会』
集まった約7千人(主催者発表)の中には、同様の集会に参加したことがなかった人の姿も目立った。

山口で県民大集会

「何とまあすごいねえ」
集会の共同呼びかけ人の児童文学作家那須正幹さんは、壇上での第一声で、感嘆の声を漏らした。
駐車場は、約50台のバスが出入りし、県内外からの車で埋まった。
会場内の約50の飲食や展示のブースも、家族連れなどであふれ、売り切れる店も続出した。

集会では、広島市在住の詩人、アーサー・ビナードさんが講演。
今日は、中国電力を愛する人たちの集まり。
原発は事故が起きれば、電力会社が破綻する。
原発を止め、中電のためになる愛を注ごう
」と、ユーモアを交えて語った。

東北などから県内に移住した人らでつくる『県避難移住者の会』の浅野容子代表は、
「上関原発が建たなかったおかげで、山口に安心して避難することができた」と話した。

反原発集会に初めて参加する人も目立った。
宇部市の医師、松本聡さん(44)は、家族5人で参加した。
原発に賛成ではなかったが、3.11後に(原発反対の)思いがより強くなった。
上関原発を造るのは現実的でなく、国は原発がないことを前提にした、エネルギー政策を考えてほしい


広島市中区の喫茶店経営、佐伯尚利さん(32)も、家族3人で参加。
原発は安全だと思っていたが、震災後に考えが変わった。
上関原発は、山口だけの問題ではなく、広島も関わっている。
最前線で闘ってきた人たちの、生の声が聞けて良かった
」と話した。


上関と『3.11』の橋渡し役に

集会の実行委事務局長を務めたのは、防府市の牧師、草地大作さん(40)。
上関原発に、長年ノーを訴えてきた人と、3.11後に原発の危険性に気づいた人との、橋渡しがしたかった

幼少期を東京で過ごし、11歳の時に神戸に移った。
NGOで働いていた父の故・賢一さんは、世界各地へ支援に向かい、家に戻ると、紛争や災害を写した写真を見せた。
「世界の理不尽さを、父を通して学んだ」

関西学院大神学部で学んでいた時、阪神大震災が起きた。
兵庫県西宮市の下宿先は全壊。
避難先の学校には、多くの遺体が運び込まれた。
「生かされている以上は、命を人のために使わないといけない」
卒業後は教会に入り、『行動派の牧師』として、災害時に支援活動に出かけていった。

2007年に、防府教会の牧師に就き、
非暴力で理不尽さと闘う祝島の人たちを、何とか支えなければと思った
上関原発の準備工事が始まった際には、座り込みにも出かけた。

集会を終えて、充実感を覚えている。
「これまで関わりがなかった人も来てくれた。
それだけでも、僕が事務局長をやった意味があったかな」
(小川裕介)



上記の草地さんのお話の中にもある、非暴力で理不尽さと闘ってこられた祝島の人たち。
この、神々しいまでに美しい島、祝島には、腹の据わった大人がたくさん暮らしておられます。


何十年もの間の、毎週行われる反対運動が、彼らの暮らしをどれだけ蝕んできたか、そのことに思いを馳せるたび、軽い目眩を感じます。


非暴力を通すお年寄りに、電力会社はあの手この手で、時には夜襲などの方法で、そして時には、強面の男たちを雇い、強引に物事を進めようとしてきました。




わたしらは海は売らん。


祝島の根性と信念のおかげで、原発がひとつ、増えずに済んでいます。


これが日本人魂。
海を愛し、土を愛し、食べものにこだわり、代々受け継がれてきた文化や慣習、つながりを大切にする。
平和を愛し、戦争を拒み、丁寧で心のこもった仕事をするための努力を惜しまず、誇りを持つ。

日本人の良いところを、今の混沌を機会に、どんどん世界にアピールしていきませんか。
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「私は、オリンピック誘致に勝利するため、アンダーコントロールという言葉を使った。それがなにか?」

2014年03月08日 | 日本とわたし
今日から急に、暖かくなりました。
朝晩はまだ零下ですが、昼間はぼちぼちと、零より上になってきました。
根雪はそれでもしつっこく、カッチカチに凍ったまま、太陽の熱と我慢比べをしています。

今月1ヵ月で、ヴァイオリニストのサラと一緒に仕上げなければならない、被災地への、そして不条理なことに苦しめられている人々への祈りを込めて創った曲「いのり」
毎日録音して、聞いて、弾き直して、また聞いて、コツコツやるにはかなり時間が足りませんが、
22日のドレスリハーサルには、100%の仕上がりを要求されているので、なにがなんでも仕上げなくてはなりません。
みなさんへの熱い想いを胸に、両手小指にテーピングをして、老脳にムチ打ちながら、頑張っています。
旦那は、練習がし易いようにと、仕事が終ってから、友人の所に遊びに行ってくれました。
こういう気遣いをサラリとしてくれる、良き相棒です。

さて、練習の合間に、ふんふんとフェイスブックを眺めていたら、
こんな記事を見つけました。

Yoshinobu Hoizumiさんという方の投稿です。

今日の笑えない話

昨日のテレビで、参議院の委員会の論争の様子を見ましたが、
野党議員から、
「福島原発で汚染水が漏れているけど、総理は世界に向かってコントロールできていると言ったけど、あれはウソだったんですか」と質問されたら、
なんと開きなおって、
「オリンピックの誘致がなかなか厳しいというから私はああ言ったんだ、それでオリンピックが日本に招致出来たじゃないですか」と自慢していました。
内輪の話ならいいけど、国会での答弁です。
「私は世界に向かってウソをつきました」って言っちゃたんです、日本の最高責任者の総理大臣が。
最近の安倍晋三の言動を見ていると、過信満々ですね。
恐いのは、そんな姿を見て、若者が、安倍晋三を強い日本のリーダーだと思い始めていることです。
ヒットラーも同じように、若者から支持を受けていったのです。

March 4 at 9:11am



えぇ~!!っと驚き、練習どころではなくなってしまい、思わず140文字にまとめてツィートで流しました。
その後どんどん、このツィートがリツィートされていき、そのおかげで、少しずつ細かなことがわかってきました

その①
これは、3月3日に行われた、参議院予算委員会においての、那谷屋正義(民主党)議員の質問であったこと。

その②
質問は単独ではなく、複数の質問のひとつで、アンダーコントロールという言葉を聞いた福島の市民の方々の心情について尋ねていること。

その③
オリンピックの誘致時についたウソについて、問い質したものではないこと。

その④
安倍氏の答弁後の問い直しが無く、答を受けた者としての切り返しができなかったこと。
英語だから、などと言ってお茶を濁し、結局は意味がぼやけてしまったこと。


実際に、オリンピック誘致に際して、コントロールができていないという状況では無理だと判断し、あのような言葉を使った、とは言っていますが、
本人としては、状況は把握しているし、然るべき対処を十分に検討していると思い込んで?いるので、
ウソをついた、などとは毛頭思っていないし、私は正しいと堂々としたものです。

さきほど、三宅雪子議員が意見をくださったのですが、
「招致プレゼン以来、ニュアンスが少しずつ変わってきており、
『完全にブロック』から微調整をしているように感じる」、とおっしゃっていました。

ウソだったことはやはり、本人も承知していて(あるいは周りから言われて)、だからバレない程度にコソコソと、言葉を変えているのでしょう。
それにしても、ここまで無恥厚顔な人間は、それほど多くはいません。
そんな世にも珍しい男が、今だに総理でいられるのは、いったいどうしてなのでしょう。


興味のある方は、動画の27分あたりからご覧ください。



前に聞いたことがあるのですが、
このような国会における質疑応答の内容は、実際に行われるより前に、どちら側にも原稿が渡されていて、
その質問も答もだから、どちらもすでに知っている内容なのだそうです。
だから、切り込むことなどできないのでしょうかね。
そんなことすると、約束違反だ!などといって、後でイジメられるのでしょうかね。

それなのにこの程度なのか……と、わたしはそちらの方が情けなくなりました。
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沢山の被害者がいるのに、加害者がいないのはおかしなことです。これでも罪を問えないのですか?

2014年03月07日 | 日本とわたし
3.11。

こちらでも、追悼式や集会、シンポジウムなどが行われる予定です。
マンハッタンのアッパー・ウエストサイドの教会では、追悼式典が。
コロンビア大学では、『3年後の福島:残る者、去る者』と題したシンポジウムが開催されます。

3年という節目、と言う人もいますが、あの日から毎日、一日も欠かさず、被災地に思いを馳せてきた者にとっては、
そして誰よりも、当事者のみなさんにとっては、
なにが3年だ、3年がどうしたというのが、という思いが、どうしても拭いきれないのではないでしょうか。

3年経って、なにか良くなったことはあったでしょうか。
なぜこうまで、人々の尊厳がおざなりにされ続けたままなのでしょうか。
これが、国の経済を支える、ということなのでしょうか。
国は、このように非情で傲慢で残酷でなければ、続いていけないものなのでしょうか。


『福島原発告訴団』の、被害者証言集会における3人の女性の方々の言葉を、きーこさんが文字起こししてくださいました。
続けてここに、転載させていただきます。

↓以下、転載はじめ

「沢山の被害者がいるのに、加害者がいないのはおかしなことです」武藤類子さん3/1(文字起こし)

福島原発事故から3年
これでも罪を問えないのですか 『被害者証言集会』






武藤類子さん:
皆さんこんにちは。
雨模様の中を沢山お集まりいただきまして、本当にありがとうございます。
いよいよ2月が終わって、今日から3月ですね。
もうすぐ春がやってきます。

福島では、2月に2度、大雪が降りました。
厚く積もった雪に、地面からの放射線が遮られて、線量が下がっていました
しかし、春と共に雪解けがあり、また線量が戻りつつあります
そして、何よりも楽しみな山菜を、今年は口にできるでしょうか?

あの日から、3年の時が流れました。
原発事故は今も終わらず、被害は形を変えて拡大しています

日に日に深刻さを増す汚染水の放射能濃度が、間違えて少なく計算されていた事が、報道されました。

いまだに大量の放射性物質を放出する原子炉の周りでは、
1日3000人の作業員が、過酷な被ばく労働をしています
4号機の燃料棒取り出し作業の現場では、毎時90マイクロシーベルトが計測されています。

帰還政策が盛んに進められていますが、果たして、この家に帰れるのでしょうか?

被害が無視され、必要な救済がされていません



川内村のこの場所は、もとは、青々と稲が育つ田んぼでした。
今は、除染で出た放射性廃棄物が、累々と積まれています。
田村市都路(みやこじ)地区は、最初に避難区域が解除されます。
4月には、学校も元に戻ります。
避難先から、バスで40分かけて、通う子どもたちがいます。

今年の2月段階で、18歳以下の甲状腺癌、またはがんの疑いが、75人になりました
三春町に出来る福島県環境創造センターでは、子どもたちが集められ、放射能に関する教育が行われます
IAEA、JAEA、国立環境営業所が、常駐します。



そして、私たちの告訴告発は、全員不起訴となりました。
現在ここ、東京の審査会に、申し立てをしています。
11人の東京都議が、検察の判断の是非を審査しています。

甚大な被害を前に、だれも責任を問われないことは、理不尽です。
沢山の被害者がいるのに、加害者がいないのはおかしなことです。

事故を終わりにしてしまってはいけません。
真実を明らかにし、このような事故が二度と起きないようにするために、
私たちは被害を語り続けなければいけません。
それが、被害を受けた者の責任だ、と思うからです。

今日は、10人の証言者が、実際にここで、そして映像で、また、手紙の形で、自分に起きた被害を語ります。

事故から3年。
疲れ果てた心で、「自分は被害者だ」と意識し続けることは、大変なことです。
でも私たちは、リスクを受け入れ、黙って生きる道は選びません
何度でも何度でも、「理不尽な被害に遭ったものだ」と思い起こします。
目をそらさずに、向き合っていきます

最後までお聞きいただければ幸いです。
今日はどうかよろしくお願いいたします。


【手紙:伊達市】
「今日、ここに言葉を寄せる事でさえ、身構えてしまいました。 それだけ相手は大きいのです」


伊達市にお住まいの、シマアケミさんの手紙
1:16:25~

3年目を迎えて

本日は、発言の場所を頂きながら、この場所に伺えなくて残念です。
皆さんのお声をお聞きしたかったですし、私も直にお伝えしたかったのですが、
家族の入院のため、福島を離れることができませんでした。

私の住む伊達市の現状を、少しお話したいと思います。
伊達市は、福島県の北部に位置し、計画的避難区域になった飯館村の西側で、特定避難緩衝地点に指定、1年半後に解除された地域を含む市でもあります。
この、特定避難緩衝地点については、住民はかなり翻弄させられました
いまだに解決はされていません
住民同士の分断もそのままです。
学校教育現場においても、子どもたちは、精神的にズタズタにされたままです。

そのような環境であるにもかかわらず、行政からは、安全安心を刷り込む様な広報が配られ
教育現場でも、「放射線教育」と称して、放射能の安全刷り込み教育がなされている状況です。

復興や風評被害防止の流れの中では、真実さえも見えなくなり
起きてしまったことも、まるでなかった事のようになってきています。

放射能の危険性はいつしか、個人個人の、「気にするか、気にしないか」という、精神論にすり替えられてしまいました

確かに、事故から3年経ち、セシウム134の半減期が過ぎたおかげで、なにもしなくても、モニタリングポストが表示する、空間線量は下がりました。
下がったとしても、事故前に比べると、それでも10倍ぐらいです。

土壌汚染は、かなりひどいままです。
通学路の路肩の土壌で、約10万ベクレル/kg
地上近くで、3~10マイクロシーベルト/h以上の汚染も、点在しています。

「その部分を取り除いてほしい」とお願いしても、行政では放置したままでした。
「仮置き場がない」という理由からです。

だったら、線量が高い場所を、除染が終わるまで立ち入り禁止にするとか、何かわかるように目印をつけて下さいとお願いしても、放置されたままでした。

高い場所があっても、その場所にずっといる訳ではないでしょう
道路ならば数秒で移動するでしょう、だから影響はありません
と、行政や国から言われました

その場所の線量が、高いと知らない人達、特に子どもたちが、その場所だけを避けて、遊んだり歩いたりする筈がありません
子どもたちの行動を見て下さい。
そんな場所で座り込んで、砂をいじって遊んでいます。
そんな遊びも事故前なら、微笑ましい事でした。
今はもう、そうではありません。
この環境での砂遊びや草むしりが、健康に影響を与えないなんて、誰も言えないと思います。

もちろん、子どもたちへの影響だけではありません。
私は、通学路をどうしてもそのままにはしておけず、汚染された土壌を自分で取り除いて、自分の庭に保管するしかありませんでした。
自宅の庭も、自分で除染しました。
土嚢袋、100袋以上になりました。

「自分で除染するなんて」と、否定的な意見もあるでしょう。

でも、避難できない私にとって、毎日の生活をそこで続けていくためには、自分でやるしかなかったのです。
そんな住民は、沢山います。
子どもたちのために、今すぐ線量を低くしたいと思えば、それしかありませんでした。

そんなお母さんたちに対して、
「子どもたちの被ばくを選んだ、バカな母親」という事を言う人もいます。
とても、胸が張り裂けそうになります。
自分のしている事はこれで良いのか?、このままでいいのだろうか?という葛藤も、もちろん出ています。


そのような3年間を、福島で過ごした私の中では、ある言葉を受け付けなくなりました。

それは「絆」「復興」「風評被害」
とてもじゃないですが受け入れられません。
全てごまかしの言葉に聞こえます

「復興」ってなんでしょうか?
現実を見て下さい。
「風評被害」って、誰のための言葉でしょうか?
生産者のための言葉ではないはずです。


2011年、激しい余震が続く中、多くのお母さんたちが、なぜか毎日毎日涙が出ていた、という話を聞きます。
もちろん私も、家族がいない時には、涙がこぼれ落ちていました。
子どもの前では明るく元気にと、毎日必死でした。
そうしないともたなかったのかもしれません。

2012年、現実がだんだんと見えてきました。
しかし何故か、「原発事故での影響はなし」という、結論ありきの県民健康管理調査が行われ、
福島県の医療機関に対して、疑問が出てきました

県民健康管理課に直接電話をしたり、国に電話をしたりしても、ますます不信感が募りました。

2013年、現状はなにも変わらないのに、帰還事業が盛んになりました。
なにも変わっていないのに

伊達市は、「地上1cm3マイクロシーベルト/h以下ならば、安全だから除染はしない」という方針でした。
除染にはお金がかかるし、置く場所もないから、どこかで線引きをしないといけないから、という判断です。
私たちは、そんな線引きで、どうやって暮らしていけばいいのでしょうか?
放射能汚染を忘れて生活しなさい、という事ですか?
だいたい、福島県伊達市というひとつの市が、放射能汚染の線引きをしていいのでしょうか?
伊達市だけの基準は、私にはどうしても納得ができませんでした。

「除染なんかしたって仕方ないでしょ」とも言われます。
私だってよく知っています、除染の限界も。
でも、どうすればいいのかわかりませんでした。
やはり、自主避難しか道は無いのでしょうか?
出来たなら、もうすでにしているでしょう。
それが出来なかった。

いろいろな人から、
「自己破産して、家も土地も、全て捨てて行きなさい」と言われました。
「年老いた親も親戚も、全て捨てて行きなさい。行ける人だけでも行きなさい」と。

自主避難は、そうも簡単ではありません。
タイミングもあるでしょう。
今現在、それができる状況ではないのです。

国や行政からは、帰還事業の声ばかり聞こえてきます。
その中で、声を上げることもできない状況です。
原発事故の責任はうやむやにされ、今度はすべて自己責任、こんなことってありますか?

あれから3年になります。
遠い昔の様な気もしますが、でもまだ3年です。
何一つ始まってさえいない、と思っています。

今年1月26日に行われた、伊達市長選挙で、現職の市長は公約を追加、除染に急きょ転換して当選してしまいました
しかし、残念ながら市長の考えは、年間5ミリシーベルト被曝容認のまま、変わりありません
行政だって、板挟みで苦しいのかもしれません。
でも、もっと住民の声を吸い上げて、国にあげていってくれないと、行政の意味がありません

声を上げられない人達もいます。
だからこそ、気が付いた人から、声を出せる人から、どんどんあげていかないといけません。
3年経ちましたが、何も変わっていないし、逆に諦めも出てきて、悪化しているように見えます。

「風評被害」とか「復興」という言葉で、ごまかさないでください
私たちはこれ以上、切り捨てられたくありません。

果たして日本政府は、本当に、放射性物質の汚染について、全体日本の事で分からなかったのでしょうか?
広島・長崎での原爆経験、チェルノブイリ原発事故、原水爆実験でのマーシャル諸島などでの被爆、
第5福竜丸事件も、世界にはもっともっと、放射能汚染のデータがあったはずです。

飛行機の搭乗とか、医療被曝と比較しなくても、過去の放射性物質の被ばくと比較すればいいじゃないですか。
データもある筈です。
知っているでしょ?
知っているからこそ、この3年間、国や東電や県のやってきた事は、被害を小さく見せる事だけだったのではないでしょうか?

県の健康管理調査を見ても、ハッキリわかると思います。
被害をできるだけ小さく見せよう、とすること。
そのために、私たちはあらゆる方向で翻弄させられ、住民自ら分断するように仕組まれてしまったのではないか、と思っています。

被害者本人から、被害を語れなくされています
被害を語っても、自分たちにはなんにもよいことがないからです。
「実害」なのに、「風評被害」という言葉でごまかされてしまっています
差別される恐怖。

この原発事故被害は、矛盾ばかりを生み出しました
被害にあったのに、無かったかのようにしていくのです。
全て切り捨ての考えでしょう。
私たちは、今までの被ばく者の方々が味わった事を、無駄にしてはいけないのです。
どんなに苦しく悲しかったか。
声を上げることも、どんなに勇気が必要だった事か。

私は、当事者になってまだ3年ですが、被ばく者の方々の悲しみや苦しみが、ちょっとだけ理解できました。
今日、ここに言葉を寄せる事でさえ、身構えてしまいました
それだけ相手は大きいのです。
でも、泣き寝入りはしたくありません
切り捨てられたくありません

事故から3年です。
まだ3年です。

おかしいことはおかしいと、声を出させて下さい。


【自主避難:鏡石町→北海道】
「『考えたら避難なんかできない。何も考えず、娘の将来だけを考えよう』と自分に言い聞かせました」


鏡石町から北海道へ、家族で自主避難されている、ホンダジュンコさんからお話を伺います。


1:56:35

私は、福島県の中通り鏡石町から北海道札幌市に、家族で自主避難しました。
私が避難を決断したのは、娘の身体に異変が起きたからでした。

福島で原発事故が起き、その直後の4月から学校へ行き出した、当時、中学3年生の娘の顔じゅうに、
今まで見たこともない様な赤い発疹が出て、さらにとびひの様になり、母親の私は驚いて、病院へ連れていきました。
医師から、これは「とびひではない」と診断され、
後になって、チェルノブイリの症例で、皮膚が弱い人に、虫刺されのような症状が出ていたと知り、愕然としました。

学校に電話をかけて、
放射能の被害が心配だから、地産地消の給食と、屋外での活動を止めて欲しい」とお願いしましたが、
校長先生から、
国が安全だと言っているので、全く問題がありません」と、説明されました。

「アトピーという理由ならば」と、何とか了解をもらうのが精いっぱいでした。
そのような環境に、子どもを置いておくわけにはいかないと判断し、
娘の健康被害を恐れ、事故から3か月後の6月に、夫と娘が先に、
私は経営していた美容室の自宅兼店舗を閉め、支店へ御客様を1ヶ月で引き継ぎ、7月に札幌へと移りました。

愛する故郷。
15年かけて、人をにぎわせてきた美容室。
お客様、スタッフ、親友。
そして両親と●の別れ。


考えたら避難なんかできない。何も考えず、娘の将来だけを考えよう」と自分に言い聞かせました。

住み慣れた自宅の整理を、たったひとりで行いながら、子どもたちが小さい頃に撮ったアルバムの写真を眺め、
「どうしてこんなことになってしまったのかな」と、虚しさでいっぱいになりました。

生まれて初めて訪れた、北海道の暮らしは、思っていた以上に辛く、厳しい現実がありました。
夫は、数カ月後に仕事が決まったものの、給料は月10万ほど。
私は、一人で一から美容室を始めましたが、当然、はじめは赤字からのスタートです。

美容室をオープンして1週間目に、疲労が重なり、全身が硬直して動けなくなり、丸1日寝込み、自信を消失しました。
専門学校に通っていた息子の学費が払えなくなり、中途で学校を辞めてもらいました。
受験生だった娘は、高校受験を控えての転校。
どんなにか心細かったでしょう。

私たち家族は、お互いに涙を見せないように、毎日隠れて泣いていました。
右も左も分からない札幌での生活は、家族が協力しなければ、とてもやっていけない。
慣れない環境で、180度変化した生活に、精神的にも肉体的にも、ギリギリの状態でした。

自主避難のため、東電からの補償は無く、激減した収入、貯金を切り崩しての生活
持ってきた車を手放し、生命保険を解約して、最低限の生活を維持するために、ほとんどの財産を捨てました

避難してから1年後には、残してきた支店も、ローンの残した●も、手放しました。
福島に残るスタッフや、近所の人との関係も、ぎくしゃくしていき、友人や両親と簡単に会う事も出来ない、
放射能への考え方から、お互いの心に溝を作ってしまいました

私が避難した事に対し、地元では、
「経営がうまくいっていなかったから避難したんだろう」と噂になっていると聞きショックでした。

あまりの辛さに、東電に電話して、泣きながら怒鳴り散らしたことも何度かありましたが、
電話の後には、相手を傷つけてしまった罪悪感に、落ち込みました

札幌では、今動かなければ、国や東電に原発事故の被害をもみ消されてしまう、という思いもあり、
やったこともないラジオやテレビ取材を受け、避難体験を話すイベントなど、自分がやれる事は全て受けました。
デモも行きました。
東電への訴訟や、原発告訴へも加わりました
生活もままならない中、●がこえていました。

何故私たちは、こんな思いをしなければならなかったのかと、
怒りと悲しみで、苦しくて、毎日毎日眠れない夜が続きました。
笑っていないと、今にも崩れていきそうで、人の前では笑って、心の中では泣いていました。


避難してから2年半が過ぎ、なんとか生活も落ち着き、やっと心から少し笑えるようにもなってきましたが、
それでも、福島の時の様に、安定した生活を取り戻すことはもう無理だ、と思います。

私には、国や東電に対する、強い不信感があります。
子どもの甲状腺検査にしても、国の対応があまりにも遅いため、自費で検査をしましたが、
1年前に検査した時よりも、甲状腺ののう胞が増えていたこともあり、
医師は「大丈夫」と言いますが、私はまったく安心できません。

最近では、避難した当初の話を聞いてくれた札幌の人達も、メディアで報道されないためか、
もう原発は落ち着いた」と思っている人、
そんな暗い話は、もう3年も経つし聞きたくない」という、言えない雰囲気が漂ってきました。

私は、本当の被害はこれから出てくるのではないか、と危惧しています。
母子避難者である友人の中には、私の知り合いの中だけで、4人も離婚した人がいます。
やはり、放射能に関する考え方の違いで、ずっと家族がぶつかってきた結果、選択せざるを得なかったのでしょうが、
どれだけの苦しみを、みんなが味わってきたのだろう、と想像します。

しかし、私はもう泣かない、と決めました。
悲しみや怒りの感情は、自分自身の細胞を傷つけ、負の感情は、大切な家族や周りの人をも、傷つけてしまいます

何のために避難したのか?
わが子を守るために避難したのだから、病気になったのでは意味がない。
泣いて暮らす事よりも、動く事が大事。
笑って動くしかないと、苦しみぬいた時間から、答えをもらいました。


私が強くなれたのは、ある意味、この体験があったからだと思います。
だからといって、私たちの平穏な生活を奪い、原発事故の被害を隠蔽し、
子どもたちを被ばくさせ続ける国や東電を、許すことはできません


人として間違った道を歩む、国と東電に対して、
私たち大人が言わなくて、誰が言うのでしょうか。
コメント (2)
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