同年、福井県宮崎村の越前陶芸村に築窯します。
1988年 ドイツにて窖窯「ヤン・コルビッツ陶房」を築きます。
マークスツェルナープロダクション制作の記録映画「炎より生まれる」に出演。
1989年、ドイツにて作陶、初窯を焚きます。
個展: 名古屋(丸栄、豊橋など)、東京(日本橋三越、銀座黒田陶苑など)、大阪(高島屋、
JR大阪三越伊勢丹など) 各地で開催しています。
② 山田和氏の陶芸
幼い頃より焼物に親む環境で育った為、15~16歳頃には轆轤が挽けたそうでます。
) 山田氏には二度の決定的な転機があったとの事です。
それは、八木一夫氏を中心とする、京都の走泥社で新しい陶芸活動に共感を覚えます。
更に、当時の米国で持てはやされた、アメリカン・ポップアートの影響とされています。
もう一つは、加藤唐九郎との出会いであると語っています。
a) 日展で活躍する、親のやっている伝統的な陶芸とは異なる陶芸をやりたいと思い、
アメリカの陶芸に憧れて大阪芸大に入学します。
当時の大阪芸大の柳原睦夫先生が、アメリカからどんどん仕入れて来て、米国の
陶芸をスライドを使い、授業で見せられる事が、大変刺激的であったと述べています。
・ アメリカには、伝統の影響はない事から、日本人が全く気がつかないところで、
又全く自由な考えで、なんでも有りの状態の風土が刺激的で合ったようです。
・ 注: 走泥社とは、1948年、京都で八木一夫、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫の
5人によって結成された陶芸革新運動の結社です。
(山田氏の高校時代に影響し、しばしばその作品展を見に行ったそうです。)
b) 最初の個展を、陶芸村で行った際、父の知人でもある加藤唐九郎氏が見にきてくれ
そこで知り合いになります。唐九郎氏の志野茶碗を手にとって見てみたいと思い、
美術商の処に連れて行って貰います。その時までは茶碗としてではなく、オブジェとして
関心があったようです。しかし、唐九郎氏の志野茶碗を見たら、「アメリカの陶芸なんて、
屁みたいなもんだと思う」様になり、志野にのめり込んで行きます。
・ 「唐九郎氏が生きている間は、心酔して僕にとっては教祖的な存在でしたね。」と述べて
います。勿論唐九郎氏に作品を見せ、批評も受けています。
・ 唐九郎氏の「越前の土でいい志野ができる」との言葉で、越前の土で志野を中心として
青織部、黄瀬戸、瀬戸黒などを手掛ける様になります。
) 志野宣言の後の、90年代以降は志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒などに加え、独自の
赫釉(かくゆう)を持って各地の個展で発表し、高い評価を得ます。
③ 山田氏の作品: 主に抹茶々盌や水指などの茶道具と、酒器、食器、花入を作っています。
) 炎舞志野茶盌(えんぶしのぢゃわん)」 :1999年発表し、自ら名付けた彼の代表的な
作品の一つです。文字通り、赤い炎が舞い上がっている様な表情をしています。
即ち土見せ(高台脇と高台、高台内)部以外に、釉がたっぷりかかった作品です。
尚、この赤い色は、鉄釉によって発色させているとの事です。
) 赫釉(かくゆう)織部茶盌:この作品は山田和の独特の織部です。
白化粧された白い器肌(又は白い素地)に、流し掛けされた釉や、真っ赤な文様が描か
れた茶盌で、線刻模様に黒を入れたと思われる、抽象的(意味不明)な絵が描かれて
います。
・ この赤は、上記炎舞志野よりも、透明感のある強烈な赤になっています。
日本海に沈む夕日をイメージし、そこからヒントを得たとの事です。
・ この釉の発端はオブジェ時代(米国の陶芸に憧れていた時代)に作った釉だそうで、
当時は鳥籠に入った人形が血を吐いている作品を作り、その血の色だったそうです。
) 志野手斧目(ちょうなめ)茶盌: 手斧で削った痕が残る志野手茶盌です。
手斧とは: 大工道具の一つで、木肌を削り仕上げる物で、削り痕が独特の文様に
なります。
) 伊賀花入. 伊賀花入. 伊賀花入. 青織部花入. 青織部花入などの作品。
茶盌類が、伝統的な形をしているのに対し、花入はかなりオブジェ的な作品になって
います。若い頃手掛けた作品の名残の様なものを感じる作品です。