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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』その1

2018-10-31 05:57:00 | ノンジャンル
 川上未映子さんの20‘18年作品『ウィステリアと三人の女たち』を読みました。4つの短編からなる本です。
『彼女と彼女の記憶について』
 記憶に、もしもかたちというものがあったとしたら、箱、っていうのはひとつ、あるかもしれないなとは思う。(中略)箱はいつも自分じゃないところに存在していて、ある日とつぜん知らない誰かから不意に手渡されるようにしてやってくる。
 ふつうに考えれば、顔も覚えていない、もちろん会いたい人なんてひとりもいない、どこをどう探したって共通の話題があるとも思えない、田舎町で開かれる同窓会なんてものにどうして出てみようなんていう気になったのかは、自分でもよくわからない。(中略)だから、(中略)同窓会の知らせが三月の初めに事務所に届いても、出席の返信は出さなかった。なんにも連絡せずに当日とつぜんに行くのが、なんというか、効果的というような気がしたからだった。わたしはその日のために、ちょっとまえから目をつけていてずいぶん迷っていたバレンシアガの黒のジャケットを買って、バッグはサンローラン、それでジーンズにマノロのヒールをあわせてっていうコーデを頭のなかで何度も思い浮かべてチェックした。時計もピアスもなしで、首には小さなダイヤのついたゴールドの華奢なネックレスだけ。ぜんぶで五十万ちょっとくらい。値段はともかく、こっちのパーティーなんかにはさすがにカジュアルすぎる組みあわせだけど、でも田舎の集まりにはもちろんじゅうぶんすぎるぐらいで、それはいろんな意味で悪くなかった。(中略)有名人って全然違うよねって話になって━━(中略)━━差っていうか、違いっていうか、そういうものを? とにかくそのことでわたしたちがそのときそこに居合わせる唯一の意味が生まれるっていうか、まあそういうことを期待して━━わたしは(中略)その町に出かけていったんだった。
 会場は人気のないホテルの宴会場みたいなところで、何もかもがひどかった。(中略)当のフロアには受付用の長机があって、そこにゆるく巻いた髪を無造作にアップしてところどころにパールのついたピンを留めた━━(中略)女の子がふたりいた。(中略)わたしは、来られるかどうかわからなかったから返信できていなかったんですけど、ともうすごく感じのいい声でにっこり笑って話しかけた。かつては同級生だったはずのそのふたりの顔をみたところで、わたしにはもちろん思い出せない。(中略)会場に入ると、蛍光灯とほとんど変わらない色の照明の下にまるいテーブルがぼんぼんと置かれてあって、はしっこにはいくつかの料理を乗せた台とか長テーブルがあって、反対側には椅子がいくつか並べられていた。わたしはうつ向き加減でそちらへ歩いていって、それからいちばんはしっこの椅子に座った。(中略)何となく目に入ってくるそれぞれの顔を眺めていると、知ってる、と思える顔がひとつ、またひとつと増えていった。(中略)集まったのは七十人。(中略)しばらくすると、べつべつにかたまっていた男女がなんとなく交ざりだして、おしゃべりの音や食器がぶつかる音なんかがだんだん大きくなって会場は一気に騒がしくなった。(中略)わたしも飲み物が置いてあるコーナーまで歩いていってウーロン茶を手にとった。それからまた椅子にもどって黙ってそれを飲んでいると、(中略)女の子が笑いながら小走りでやってきて、ひさしぶりーと言いながら勢いよく隣に座った。(中略)「まさか来るなんて思ってなかったから、びっくりしたあ」(中略)「やっぱり全然ちがうもんなあ! こう、入ってきたときの感じとか、オーラっていうのかな。見えたもんなあ。も、全然ちがうよお」(中略)その気になればたぶんいつまでだって続けられそうなやりとりをしていると、ひとりまたひとりと手にグラスをもった女の子たちが近づいてきて、わたしのまわりにはちょっとした輪ができはじめていた。(中略)これももちろんわかりきっていたことだったけどわたしはここに何をしに来たんだったっけ、と、ふとそんなことを思った。そして思わず笑ってしまった。それは、ここにやって来るまえに、もしも、あの━━自分にとってはもう過去ですらないような場所の誰でもない人たちの集まりに出かけて行ったとしたら、きっとその場所でわたしはこんな気持ちになるんだろうなって想像していたとおりの気持ちで自分が今いることがあまりにも想像どおりだったからで、そして何よりも、意思とか気分とかそういったものを越えて、ありふれた物ごとが規則正しく、ありふれた道順を辿ってありふれた着地をむかえるその単純さに、どこか感心すらしていたからだった。(明日へ続きます……)

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今村昌平監督『豚と軍艦』

2018-10-30 09:18:00 | ノンジャンル
 国立映画アーカイブの小ホールで、今村昌平監督、姫田真左久撮影の1961年作品『豚と軍艦』を見ました。
 チラシから作品の説明を転載させていただくと、
「基地のある横須賀の『どぶ板通り』を舞台に、養豚で一儲けを狙う落ち着きのないチンピラ(長門裕之)と、彼を慕う純情な女(吉村実子、この映画がデビュー作)のはかない恋の行方を描き、敗戦国日本の底辺をえぐり出した作品。今村昌平の作風はしばしば『重喜劇』とも称され、人間の泥臭いエネルギーを発散する映画が多いが、その本格的な始まりとなった一本である。」
 出演者は他に南田洋子、大坂志郎、中原早苗、小沢昭一、三島雅夫、東野英次郎、西村晃、殿山泰司、加藤武、丹波哲郎、菅井きんという、すごい演技陣で、喜劇の面は、本当は胃潰瘍でしかないにもかかわらず、胃がんであと3日の命だと思い込む丹波哲郎が一手に引き受けていて、冒頭で「この話は架空の話である」という字幕で示されているように、姫田さんのキャメラの貢献もあって、ほとんどドキュメンタリーを見ているような気分になりました。
 特に素晴らしかったのは吉村実子の体を張った演技で、フランスでの公開当時、映画誌『カイエ・デュ・シネマ』の若き同人たちが彼女に熱狂し、当時留学生でパリにいた山田宏一さんに今村昌平論を書かせたというのもうなずけると思いました。
 この映画が日本で公開された1961年というのは、フランスでヌーヴェル・ヴァーグが産声を上げて数年しか経っておらず、そういう点で見ると、日本ヌーヴェル・ヴァーグといえば大島渚や吉田喜重と言われますが、この時期の今村昌平もそのうちの一人に挙げていいのでは、と思えました。

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斎藤美奈子さんのコラム・その25& 山口二郎さんのコラム・その10

2018-10-29 09:36:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラム。
 まず8月22日に掲載された「百姓一揆」と題されたコラム。全文を転載させていただくと、
「SNS上では数日前から『#平成最後の百姓一揆』というハッシュタグが飛びかっていた。むろん金足農業高校の話。新聞やテレビは『百姓』という語を避けたいかもしれないが、大丈夫よね、四字熟語の『百姓一揆』は歴史用語ですから。
 滞在費の不足分を補うための寄付金を呼びかけて『金足りん農業』などといわれながらも、金農ナインが義民に思えてしまうのは、私立の強豪校が全国の有力選手を結集させた『武将の軍団』に思えるからだろう。
 出身中学の所在地で比べると、西東京代表の日大三校の場合、ベンチ入りした十八人のうち都内の中学出身者は六人で、ほかは関東一円から集めた先鋭チーム。大阪桐蔭の場合、大阪府の中学出身者は五人で、ほかは関西をはじめとする全国のエリート集団だ。中学日本代表選手やU18日本代表選手もごろごろいるし、もちろんみんなリトシニア(中学生の硬式野球チーム)の出身者だ。関ケ原合戦に結集した武将と同じ。そりゃ強いよ。
 一方の金農は全員秋田の出身で、シニアと軟式野球の経験者が少しだけいる程度。鎧兜(よろいかぶと)で武装した武士階級に竹槍(たけやり)チームが挑んだ、まさに一揆の体だった。なんて話はしかし、今日の朝刊には溢(あふ)れているだろうからもうやめる。難攻不落の大阪城を落とせなかったが江戸城は陥落させた。爽快だったよ。」

 また、8月19日に掲載された、山口二郎さんの「自民党総裁選」と題されたコラムを転載させていただくと、
「8月も後半に入り、自民党総裁選が政治の最大の関心事となった。自民党が国会で多数を占めているので、この党の党首は日本の総理大臣となる。ゆえに政治報道が総裁選に大きな関心を払うのは当然だ。しかし、いくつか奇妙な点がある。
 自民党総裁選はあくまで一結社のリーダー選びであり、それに参加できるのは国民のごく一部の自民党員だけである。しかも、これらの有資格者は自民党の政策・理念に共鳴する点で一般国民のサンプルとは言えない。この選挙で勝っても、国民の負託を得たなどと主張することはできない。
 安倍首相は地元での講演で、次の国会に憲法改正案を提出したいと発言し、石破茂氏はこれに反発している。憲法改正が総裁選の最大の争点となりそうな展開である。しかし、自民党の内輪の権力争いで憲法改正について世論の支持を得たというのはとんでもない錯誤である。
 国会議員票で大きく差をつけられているとみられる石破氏は、総裁選に当たって公開討論を実施することを求めているが、安倍首相はこれに取り合わないと伝えられている。これまた不思議な話である。この機会に国民に訴えたいことがあれば、堂々と議論すればよいではないか。議論不在で逃げ切り勝ちを収め、改憲へのお墨付きを得たというのは、詐欺のようなものである。」

 また8月26日に掲載された、山口二郎さんの「国民民主党」と題されたコラムも全文を転載させていただくと、
「国民民主党の代表選挙が始まった。自民党総裁選挙の陰に隠れて、ほとんど注目されていないが、日本政治における別の選択肢を作るためにはこの党にも奮起してもらわなければならない。
 国民民主党については、支持率が低い、何をやりたいのかわからないという冷笑が常套句(じょうとうく)になっている。支持率を気にしても仕方ない。ただ、党の性格付けがはっきりしないのでは、政党を作った意味がない。
 この党の立ち位置を考える際、同時に行われている自民党総裁選挙を対照材料にすればよいと思う。今の自民党は、安倍総裁の下、右向け右の号令の下、ほとんど一枚岩のように動こうとしている。かつての日本を支えた穏健保守勢力、内におけるそれなりの平等、外に対する平和路線を担った経世会や宏池会は絶滅寸前である。
 代表選に立候補した玉木、津村両氏には、細かい政策よりも、経世会、宏池会の良い部分を継承し、現代に適応させて、豊かで平和な国を再建するという構想を打ち出してほしい
 穏健な保守層の中にも、最高指導者としての廉恥心を欠いた総理大臣が長期政権を続け、日本社会を分断することに心を痛める人々が大勢いるはずである。
 他党と組む、組めないなどと形の話から入るのは、見当外れの極致である。」

 今回も勉強になりました。

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