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川上未映子対話集『六つの星星』

2011-10-11 08:33:00 | ノンジャンル
 川上未映子さんの'10年発行の対話集『六つの星星』を読みました。精神科医・評論家の斎藤環さん、生物学者の福岡伸一さん、作家の松浦理英子さん、歌人の穂村弘さん、作家の多和田葉子さん、哲学者の永井均さんとの対談集です。
 面白いと思ったのは、体に対する他者性みたいなものは男性にはあまりないということ、運動して汗をかきたがる男性が多いのも、負荷をかけることで自分の身体を確認したいということ、男性の体には要するにペニスしかないということ、ペニスというのは操縦するだけのものではなく、むしろ自分を操縦する別の主体のようなものであること、男性の欲望が所有欲なのに対し、女性の欲望は基本的に関係欲であること、男性は90秒に一回はセックスのことを考えるということ、女性は自分を明け渡すことに快楽を覚えるということ、川上さんは母がずっと働いてきたことに対して罪悪感を持っていて、自分が快感を得ることを抑圧してきたということ、母娘関係の特異なところは、身体性と罪悪感で、息子に後者は希薄で身体化されず、情があまり入ってないので、物語としてはわりに美しいものができやすいということ、女性は小さい頃から、半ば無意識的に女の子らしさを周囲から強要され、欲望される主体であるための知識を学ばせられること、ケヤキの葉っぱの葉脈の形がケヤキが枝分かれしている姿を写し取っていること、ミミズでさえも、その場に応じて何らかの「判断」を」していること、ページ上の活字を模様として見ることで、本を開けたときに「いい顔だな」と思えるということなどでした。
 ただ、私がこの本の中で一番美しいと思ったのは、川上さん自身によるあとがきの部分で、そのまま引用させていただくと、「『雪は溶け、水になった。それはわかる。しかし雪の白さはどこへ行ってしまったのだろう』 
 十代の頃、たしかシェイクスピアだったと思うんだけど、そんなような一文を読んだときに、おお、そうだ、とても怖くて、とても全部で、とてもとても知りたいことはきっとその白さについてなんだ、とはっきりと感じたことを覚えています。
 百年といわなくても六十年もすれば、ここに登場くださったみなさんもわたしもいなくなって、もっと長い時間がたてば、記憶や思い出がやどる場所、それを語り継ぐ運動、痕跡を認識するそのもの、―そういったすべてがまるっと消滅してしまう日が来ます。でも、無限か有限かも、もうわからないような遥かなときのなかで、いま、こうして、ここで、人々は存在して、出会って、思いをやりとりした、生きていた、ということはやっぱり事実で真実で、誰もいなくなっても、何もなくなっても、この瞬きのようなできごとは本当のことだったんだと言えるような、そんな気がします。雪の白さも消え、星も人も燃え尽きるけれど、世界にあったそのきらめきは誰が何と言おうとあったことなのだと、そんな思いをこめて、この対話集は『六つの星星』という名になりました。
 刊行するにあたって、文藝春秋の大川繁樹さんに、そして装丁は大久保明子さんにお世話になりました。どうしようもなくエレガントにしてほしい、という願いを素晴らしく実現してくださいました。紺色の夜空にうかぶ白色の星という字をみたとき、胸がぐんと鳴りました。ありがとう、ありがとう。
 そして、その仕事に、あこがれ、驚嘆し、信頼し、少しでもそのひみつに触れたいと思ってきた綺羅星たるみなさんと、とても大切だと思えることについて語りあえたことは最高に贅沢でうれしいことでした。おなじ時代に生きて、言葉を交わすことができたことは、日々炸裂している奇跡のうえにかさなるさらなる奇跡です。みなさまに、未来永劫、心からの感謝を。そしてなにより、この対話集を手にとってくださったあなたに。ここに収められた対話が、あなたのなかの何かと結ばれることがあれば、こんなにうれしいことはありません。それこそが文字通り、世界にとってこんなにも有り難い、星の、白い、きらめきそのもの。」
 美しい対話集です。是非手に取ってお読みください。

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ハワード・ホークス監督『空軍』その2

2011-10-10 06:28:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 メリー・アンはルソン島のクラーク基地に到着しますが、マニラに着任していたホワイトの息子は既に戦死していました。輸送船団を守る10倍の敵機が来襲し、急いで離陸して迎え撃ったメリー・アンでしたが、被弾して航行不能となり、銃弾を受けたクインキャノンは全員を脱出させた後、操縦桿で意識を失います。一人残ったウィノッキはメリー・アンをクラーク基地に胴体着陸させることに成功しますが、機体は大きく損傷します。皆に看取られてメリー・アンを発進させる幻を見ながら亡くなるクインキャノン。
 敵に渡さないためにメリー・アンの焼却を命じる司令官に、乗員たちは直談判して24時間以内にまた飛べるようにすると約束します。乗る飛行機がなくなり一旦は歩兵を志願していたレイダーも合流し、修理に励む乗員たち。日本軍の空襲で急遽戦闘機に乗った砲撃手は、パラシュート降下の際にゼロ戦によって殺されます。尾部のカバーを取り除いて、そこに機銃を設置するウィノッキ。
 燃料をバケツリレーで充填したメリー・アンは進撃してきた日本軍を前に焼却されそうになりますが、何とかエンジンがかかって飛び立つことができ、オーストラリアに向かいます。途中、日本軍の機動艦隊を見つけたメリー・アンは各基地に連絡し、それぞれから迎撃機が発進します。彼らを日本艦隊に導き、その後自ら戦闘に参加するメリー・アン。激しい戦闘の結果、彼らは完膚なきまでに日本艦隊を叩くことに成功します。
 「作戦指令室 砲撃隊H部隊 日本へ862マイル」の看板。遂に東京空襲を行う日が来て、司令官は第1部隊長をウィリアムズ、第2部隊長をレイダー、全隊の航空士をハウザー、全体の指示をマクマーティンに託します。暁の中、次々に発進していく爆撃機。
 「この物語に終わりはない。今もアメリカ国民は陸海空で戦い続ける。我々が平和を勝ち取るその日こそ、真の結末を迎えるのだ。米空軍に感謝の意を現す。その協力なしには、この作品は実現しなかった」の字幕で、映画は終わります。

 最初に字幕なしで見た時の機銃の迫力は、今回あまり感じませんでした。暁や夕暮れのかすかな光の景色や、暗く光る金属の触感を撮ったジェームズ・ウォン・ハウの撮影は見事で、戦争映画というだけでなく、男の友情を描いた映画としても楽しめると思いました。

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ハワード・ホークス監督『空軍』その1

2011-10-09 09:31:00 | ノンジャンル
 岡野宏文さんと豊崎由美さんの対談本『読まずに小説書けますか』の中で紹介されていた、宮沢章夫さんの'09年作品『時間のかかる読書 横光利一「機械」を巡る素晴らしきぐずぐず』を読みました。改行が極端に少なく独特の文体で書かれている『機械』という小説を、少しずつ読み解いていく評論でしたが、宮田珠己さんの文体に似た「つっこみ」が面白く、最後まで飽きずに読むことができました。

 さて、ハワード・ホークス監督・製作の'43年作品『空軍』をDVDで再見しました。
 「序文 この地で戦った人々の未完の仕事の完遂に生きている者は身を捧げるべきである。我々に残された大いなる責務とは、神の導きのもと、この国に自由を新たに誕生させること。人民の人民による人民のための政府を、この地上から絶やさないことである。A・リンカーン」の字幕。
 通信局に届いた「第48航空団司令官 カリフォルニア州ハミルトン基地」のテレックスは、情報局で「B-17 9機をハワイのヒッカム基地へ 全機完全装備のこと」のように暗号が解読されます。9機のうちの1機“メリー・アン”の整備が進む中、新しい砲手としてウィノッキ(ジョン・ガーフィールド)がやって来ますが、もうすぐ除隊すると言ってはばからない彼の人を食った態度に、機付き長のホワイト軍曹(ハリー・ケリー)は嫌な顔をします。パイロットのクインキャノン中尉は、航空学校で死亡事故を起こしたことでウィノッキが退学した時の指導教官であり、今は砲手として優秀なウィノッキを評価しますが、ウィノッキの態度は改まりません。
 9機のB-17はハワイに向けて飛び立ちますが、それは41年12月7日のことでした。機上で会話するうち、新人の航空士ハウザーの父は名パイロットであることが分かります。ヒッカム基地との交信で日本語と銃撃音を傍受する通信士。基地からは敵襲を受けているので着陸するなと言われ、マウイ島の緊急基地に着陸しますが、荒れた滑走路で着陸装置が故障します。修理しているところを日本軍の歩兵の襲撃に会い、急遽飛び立ったメリー・アンからは、燃える真珠湾が上空から見え、クインキャノンはこの光景を絶対に忘れるなと部下に命じます。
 日本軍によって破壊されたヒッカム基地に着陸したメリー・アンの乗員たちは、爆撃手のマクマーティン(アーサー・ケネディ)の妹のスーがケガをして入院しているのを見舞い、彼女と一緒にいたレイダー中尉が無傷でいるのに怒りを向けますが、やがて彼がゼロ戦を4機も撃墜したことを知ります。
 メリー・アンはレイダーをマニラに運ぶ任務を新たに受け、夜のうちに出発しますが、夜明けにはスーはもう心配ないという知らせを受けます。機内で大統領演説を聞く乗員たち。悪天候の中、ハウザーの活躍で中継地のウェーク島に無事着陸したメリー・アンの乗員たちは、重傷を受けながらもウェーク島を死守するという中佐を残して、マニラへ向け出発します。(明日へ続きます‥‥)

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高野秀行『イスラム飲酒紀行』

2011-10-08 08:39:00 | ノンジャンル
 高野秀行さんの'11年作品『イスラム飲酒紀行』を読みました。イスラム圏における飲酒事情を描いたルポです。
 イスラムにおける酒とは、日本における「未成年の飲酒」のようなもので、公には原則的にダメで、もし飲むとしたら、自分の家の中で人に見られないようにやらなければならないのだそうです。ところが、パキスタンのイスラマバードでは、路上でたまたま出会った大学生に、普通の人の半分くらいは酒を飲んでいると言われ、医者の診断書を持って「許可所」と呼ばれる数少ない売り場に行くと酒が買えることが分かります。アフガニスタンのカブールでは、中国人の経営する「置き屋」で酒が供されていました。チュニジアは西側諸国と親密な関係を保っているため、酒にも寛容で、オアシスのヤシの森の中で夜に地元のエリートたちによって繰り広げられていた酒盛りに参加でき、法律で完璧に飲酒が禁止されているイランでも、タクシー運転手から酒が入手でき、やがて瞑想や踊り、音楽などを通して陶酔し、神と一体になるのを究極の目標とするイスラム神秘主義「スーフィー」の人々が特に飲酒にふけっていることを知ります。また、イランでは「建前」と「本音」を使い分け、飲酒がその最たるもので、酒はかなり普通に飲まれていることも分かり、著者らは地元で有名な酒の肴を食べながらビールやウオッカを楽しむことにも成功します。マレーシアでは、最初は中華料理屋でしか酒が飲めませんでしたが、やがてポルトガルの子孫が経営する店で、地元の人たちとともに様々な酒を楽しむことができます。トルコのイスタンブールでは、モスクのすぐ隣に酒を供する隠れ家的な高級レストランを発見し、新宿のゴールデン街のような飲み屋街まであることが分かります。シリアでは、南部のドルーズ派が作る美味いワインを求めますが、なかなか入手できず、現地の靴屋でやっと入手でき、地元で消費されるだけの幻の銘酒であったことを知ります。ソマリランドでは、エチオピアから密輸されていたジンを飲むことができ、バングラデシュではリキシャの男に案内され、暗闇バーに潜入し、ミャンマーとの国境近くの少数民族の村では、4月の水掛祭りのときだけは、3日間どこでも酒が飲めることを知るのでした。
 この本で初めて知ったのは、イスラムでは公共の場所で男性が女性に大変気を配るということで、例えばイエメンでは乗り合いバスが混んでくると、目的地でなくても男子は車を降りて、女性のために場所を空け、ドバイでも、エレベータに女性が乗ってくると、それまで乗っていた男性が全員降りなければならないということ、イエメンとソマリランドでは、覚醒と酩酊を同時に起こす「カート」という植物性嗜好品が広く用いられていること、ソマリランドは国土がオランダより広く、人口も3百万人くらいいて、内戦も終結して平和を達成し、複数政党制にも移行し、普通選挙による大統領選出にも成功、治安のよさでも民主主義の発達度にしても、アフリカ諸国の標準を超えていると言われる一方で、国連の承認はなく、日本でもほとんど紹介されていない「未確認国家」であることなどでした。読みやすい文体で、高野さんの今までの本と同じく、楽しく一気に読破してしまいました。気さくで、融通がきき、冗談が好きで、信義に篤い、そんなイスラムの人たちの生の姿に触れることができる素晴らしい本だと思います。是非直接手に取って、読まれることをお勧めします。

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ジャン=ピエール・メルヴィル監督『モラン神父』

2011-10-07 08:40:00 | ノンジャンル
 ジャン=ピエール・メルヴィル監督・脚色の'61年作品『モラン神父』をDVDで見ました。
 隣町から自転車で夜帰る途中、公園で帽子に羽がついた若者の武装集団が集まっているのを私(エマニュエル・リヴァ)は見かけます。それは町を占領しに来たイタリア軍兵士でしたが、彼らは荷車で若い女性を運ぶなど威圧的ではなく、手紙の検閲だけが戦争を思い出させるものでした。私は通信教育の学校で添削指導をしていて、哲学科のエデルマン教授は戦争のあおりでここへ来ています。私は校長の秘書のサビーヌの魅力の虜となっていましたが、やがてドイツ軍も進駐してきて、死んだ夫がユダヤ人だったため、それを隠そうと仲間の妻とともに娘のフランスに洗礼を施すことにします。私は神父と信者の関係を知るために、モラン神父(ジャン=ポール・.ベルモンド)の懺悔室で彼に論争を挑みますが、彼は司祭館に本を借りに来るように言います。カトリックも変わりつつあると言う彼は、カール・アダムという大学教授の本を貸してくれ、2日後にまた来るように言います。それ以降、私たちは週に1、2回会うようになりますが、やがてイタリア軍がドイツ軍に不服従の戦いを始め、市民の国外追放も始まり、エデルマン教授は偽名で国外脱出を図ります。フランスを預けていた農家に知人の子を預けた後、私は同僚のクリスティーヌと司祭館で鉢合わせになります。彼女から自分のことを神父に話されるのを怖れた私は、自分からサビーヌへの思いを過去のものとして神父に話します。農家から一旦引き取ったフランスは、ある日「神様がいることが分かった」と言って興奮して帰ってきます。フランスの預け先として新たにプランタン姉妹を紹介されますが、その隣の土地では毎日のようにドイツ軍の演習が行われ、フランスは若いドイツ兵士のグンターと仲良くなります。夏になり8時以降の外出がドイツ軍によって禁止され、私は神父に会いに行けなくなりますが、土曜日の朝、教会に神父を訪ねると、彼は信者の前で司祭館の鍵を私に渡します。司祭館で言い争いになる私と神父。やがてサビーヌの兄がゲシュタポに逮捕され、彼女は以前の美しさを失います。屋根裏を掃除している時に天啓を覚えた私は、カトリックに改宗することを神父に言い出しますが、神父は慎重に考えるように言います。神父に対して行った懺悔は苦痛で、やがてフランスも私に内緒で教会に通っていたことが分かります。親独派になった同僚のクリスティーヌと議論する私。結婚願望のある同僚のアルレットを神父に私が引き合わせた後、私は心ここにあらずで、爆破されたホテルの前を通ってもそれに気付きません。クリスティーヌは5人の愛人を持ち離婚を控える同僚のマリオンを神父に引き合わせ、マリオンは神父を誘惑しますが、神父に拒まれ、新しい男と町を出ていきます。やがて町にドイツへの抵抗の気運が高まり、ある朝、町はドイツ軍から解放されていました。プランタン姉妹から娘を引き取る際、荷物を持ってくれたアメリカ軍兵士は私の部屋に入れてくれなければ荷物を返さないと言い張りますが、私は何とか抵抗します。娘を一人家に残して会いに来ることはもうできないと神父に告げると、神父は私の家に会いに来てくれるようになり、娘もすぐに彼になつきます。ある夜、神父と抱き合う夢を見る私。神父でなかったら私と結婚したかと聞くと、神父は怒ったように立ち去ります。しばらく会わない日が続き、久しぶりに訪ねてきてくれた彼を私は誘惑しようとしますが、彼は飛び退いて帰っていきます。やがて彼は神父などいない地方の村へ行くことになったと告げ、最後の晩に私が司祭館に訪ねていくと、閑散とした部屋の中には、ほとんど持ち物のない神父が待っていて、来世でまた会おうと言います。泣きながら館を去る私の後で、神父は静かに扉を閉めるのでした。
 ナレーションの多用、そして淡々と積み重なって行くエピソードは『海の沈黙』などメルヴィルの他の作品との共通点が目立ち、場面転換での様々な技法の使用にはヌーヴェルヴァーグの時代を感じさせ、アンリ.ドカの見事な屋外撮影も素晴らしいと思いました。エマニュエル・リヴァの代表作の一つだと思います。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/