先日、母が見ていたワイド番組に出演されていた青木理さんが、番組内で、最近『絞首刑』の文庫版を出されたとおっしゃっていたと、母が教えてくれました。ユーチューブでは、単行本出版時の青木さんへのインタビューが見ることができ、それを見た私はすぐに文庫本版の『絞首刑』をアマゾンで注文しました。日本で今でも行われている残虐刑=絞首刑の実態をお知りになりたい方は、是非一読されることをお勧めします。
さて、ロバート・オルドリッチ監督の'81年作品で、遺作でもある『カリフォルニア・ドールズ』(原題は『‥‥All the Marbles』で、“一等賞”とか“死力を尽くす”などの意)をシアターN渋谷で見ました。
この作品を紹介するには、私に2時間近くかけて渋谷まで足を伸ばし、この映画を再見する気にならせてくれた、『群像』2012年12月号の、蓮實重彦先生の「映画時評」の文章をそのまま転載させていただきたいと思います。(ちなみに、映画の世界以外では、“アルドリッチ”ではなく“オルドリッチ”の表記の方が標準なのだそうで、私の文章では“オルドリッチ”で統一させていただきます。)
「アクロン・アリーナという名前が夕暮れのネオンに映えていたから、この作品の導入部の舞台となっているのは、どうやらオハイオ州のいかにも地味な地方都市であるらしい。そこでの夜の試合に何とか勝利した女子プロレスのタッグ・チームのカリフォルニア・ドールズが、敵方の2人とともに薄汚れた楽屋で着替えをしている。その直前、殺風景な廊下のフィルムノワールめいた照明を受けとめながら、興行主から契約金を値切られているマネージャーのハリー(ピーター・フォーク)の諦念が描かれているから、この美貌のタッグがわずかなギャラでのその日暮らしの日々の移動を余儀なくされていることが、ほんの数ショットで明らかとなる。
画面が唐突に楽屋に移ると、やや離れた距離からのキャメラが、鏡の前で思いきり腰をかがめて長い金髪にブラシを入れているモリー(ローレン・ランドン)を構図の右の奥まったところに小さな全身像でとらえる。と、いきなり上半身を起こしてその豊かな髪を背中に振り上げる彼女の背後にキャメラが位置を変え、汚れきった鏡に映るその晴れやかな笑顔をバストショットで浮きあがらせる。それに、長いブルーネットの髪を揺らして笑っている相棒のアイリス(ヴィッキ・フレデリック)のクローズアップが続いて会話が成立するのだが、この間髪を入れぬ「アクションつなぎ」の編集のリズムに、胸を突かれる思いがする。
活劇とは、フィルムそれ自身が組立てるショットの連鎖にほかならない。前にたらしていた豊かな髪を一息に振り上げる瞬間、その女性ならではの艶やかな身振りを契機として、ロングショットからバストショットへと継起する胸のすくようなアクションの連鎖について、2つのことを指摘しておきたい。1つ目は、乱れた長い髪を思いきり振り上げて背中で整える仕草を、カリフォルニア・ドールズの2人が、いつか、それも晴れがましい舞台で反復してみせるに違いないという確かな予感がその身振りにこめられているということだ。実際、クライマックスでその身振りの艶やかな反復を目にして、誰もが思わず息をのむ。その瞬間を見そびれたら、この映画を語る資格などありはしないと断言しておきたい。
2つ目は、この古典的な「アクションつなぎ」がアメリカ映画から失われて、「長い」という形容詞では語りえぬほどの時間が過ぎようとしていることを記憶によみがえらせねばなるまい。実際、63歳で撮ったロバート・アルドリッチの遺作『カリフォルニア・ドールズ(初公開時は『ドールス』だった)』(1981)が封切られてから30余年後に、贅沢にもニュープリントで『カリフォルニア・ドールズ』として日本のスクリーンに再公開されるとき、70歳に近いスピルバーグやそれよりやや高齢のスコセッシはいうまでもなく、80歳を超えたイーストウッドでさえ、この鋭利な編集のリズムを見失ったまま活劇を撮っている現実を思い知らされ、愕然とするしかない。アルドリッチがごく自然にやってのけていたこの小気味よい画面処理――小津や成瀬やマキノ雅弘にとっても、それは編集の基本だった――が、アメリカのみならず、世界から姿を消してしまっているからだ。それは、21世紀の「巨匠」たちの怠慢だろうか。それとも、なにがしかの歴史的な必然があるのだろうか。」(明日へ続きます‥‥)
→Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
さて、ロバート・オルドリッチ監督の'81年作品で、遺作でもある『カリフォルニア・ドールズ』(原題は『‥‥All the Marbles』で、“一等賞”とか“死力を尽くす”などの意)をシアターN渋谷で見ました。
この作品を紹介するには、私に2時間近くかけて渋谷まで足を伸ばし、この映画を再見する気にならせてくれた、『群像』2012年12月号の、蓮實重彦先生の「映画時評」の文章をそのまま転載させていただきたいと思います。(ちなみに、映画の世界以外では、“アルドリッチ”ではなく“オルドリッチ”の表記の方が標準なのだそうで、私の文章では“オルドリッチ”で統一させていただきます。)
「アクロン・アリーナという名前が夕暮れのネオンに映えていたから、この作品の導入部の舞台となっているのは、どうやらオハイオ州のいかにも地味な地方都市であるらしい。そこでの夜の試合に何とか勝利した女子プロレスのタッグ・チームのカリフォルニア・ドールズが、敵方の2人とともに薄汚れた楽屋で着替えをしている。その直前、殺風景な廊下のフィルムノワールめいた照明を受けとめながら、興行主から契約金を値切られているマネージャーのハリー(ピーター・フォーク)の諦念が描かれているから、この美貌のタッグがわずかなギャラでのその日暮らしの日々の移動を余儀なくされていることが、ほんの数ショットで明らかとなる。
画面が唐突に楽屋に移ると、やや離れた距離からのキャメラが、鏡の前で思いきり腰をかがめて長い金髪にブラシを入れているモリー(ローレン・ランドン)を構図の右の奥まったところに小さな全身像でとらえる。と、いきなり上半身を起こしてその豊かな髪を背中に振り上げる彼女の背後にキャメラが位置を変え、汚れきった鏡に映るその晴れやかな笑顔をバストショットで浮きあがらせる。それに、長いブルーネットの髪を揺らして笑っている相棒のアイリス(ヴィッキ・フレデリック)のクローズアップが続いて会話が成立するのだが、この間髪を入れぬ「アクションつなぎ」の編集のリズムに、胸を突かれる思いがする。
活劇とは、フィルムそれ自身が組立てるショットの連鎖にほかならない。前にたらしていた豊かな髪を一息に振り上げる瞬間、その女性ならではの艶やかな身振りを契機として、ロングショットからバストショットへと継起する胸のすくようなアクションの連鎖について、2つのことを指摘しておきたい。1つ目は、乱れた長い髪を思いきり振り上げて背中で整える仕草を、カリフォルニア・ドールズの2人が、いつか、それも晴れがましい舞台で反復してみせるに違いないという確かな予感がその身振りにこめられているということだ。実際、クライマックスでその身振りの艶やかな反復を目にして、誰もが思わず息をのむ。その瞬間を見そびれたら、この映画を語る資格などありはしないと断言しておきたい。
2つ目は、この古典的な「アクションつなぎ」がアメリカ映画から失われて、「長い」という形容詞では語りえぬほどの時間が過ぎようとしていることを記憶によみがえらせねばなるまい。実際、63歳で撮ったロバート・アルドリッチの遺作『カリフォルニア・ドールズ(初公開時は『ドールス』だった)』(1981)が封切られてから30余年後に、贅沢にもニュープリントで『カリフォルニア・ドールズ』として日本のスクリーンに再公開されるとき、70歳に近いスピルバーグやそれよりやや高齢のスコセッシはいうまでもなく、80歳を超えたイーストウッドでさえ、この鋭利な編集のリズムを見失ったまま活劇を撮っている現実を思い知らされ、愕然とするしかない。アルドリッチがごく自然にやってのけていたこの小気味よい画面処理――小津や成瀬やマキノ雅弘にとっても、それは編集の基本だった――が、アメリカのみならず、世界から姿を消してしまっているからだ。それは、21世紀の「巨匠」たちの怠慢だろうか。それとも、なにがしかの歴史的な必然があるのだろうか。」(明日へ続きます‥‥)
→Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)