恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。
まず5月18日に掲載された「光州とコザ」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「五月18日は、先週の本欄でもちらっとふれた光州事件(韓国では「5・18民主化運動」と呼ばれる)の日である。
1979年に朴大統領が暗殺された後、全斗煥が軍を掌握。民主化を求める学生や市民の運動が拡大する中、80年のこの日、全羅南道の光州市で学生のデモ隊に戒厳軍が発砲。市民が加わって両者の衝突は十日間続き、死者・行方不明者は二百人以上、負傷者は千数百人とされる。
権力の圧政に対して市民が蜂起し、市街戦に発展する。権力と市民、どちらの側に立つかで、こうした事件の評価は大きく変わる。韓国でも光州事件は内乱騒擾(そうじょう)扱いだったが、87年の民主化で韓国政府は評価を変えざるを得なくなり、現在は、民主主義を象徴し、犠牲者を追悼する記念日になっている。
戦後の日本で市民が蜂起した事件といえば、思い出すのは復帰前の70年12月、沖縄県コザ市(現沖縄市)で起きたコザ騒動(コザ暴動)だ。米兵の車が住民をはねたのを発端に数千人の群衆が米軍関係の車を次々に焼き払った。一人の死者も出ず一晩で収束したとはいえ、民衆の怒りが爆発した点では、光州と重なるところがある。
15日は沖縄返還五十年の日で、沖縄関連の報道があふれたが、コザ騒動は今も暴動扱いだ。沖縄が今なお日本政府と米国の圧政下にある証拠に思える。」
また、5月22日に掲載された「神宮外苑はみんなのもの」と題された前川さんのコラム。
「神宮外苑にはいろいろな思い出がある。秋になると銀杏並木(いちょうなみき)の黄葉が見たくなる。名前だけ知っていた「なんじゃもんじゃの木」が絵画館の前にあると聞き、確かめに行ったこともある。
秩父宮ラグビー場では高校ラグビー都大会の開会式で入場行進をした。超弱小チームだったから試合をする機会はめぐってこなかったが、大学時代にはテニスコートを抽選で予約し、サークルの練習でよく利用した。利用料は安かった。コート脇で四つ葉のクローバーを見つけたことをなぜか覚えている。
六大学野球もよく見に行った。大空に向かって応援歌や学生歌を歌うのは心地良かった。「情熱かけて友よ、友よ、その火絶やすな、自由の火を」。好きだった歌詞だ。
神宮外苑にはたくさんの人のたくさんの思い出が詰まっている。しかし現在の再開発計画では、何百本もの樹木が伐採され、警官を損ねる高層ビルが建ち、市民に開かれた軟式野球上、テニスコート、フットサルコートなどが潰(つぶ)されて会員制テニスクラブなどに生まれ変わるのだという。
神宮外苑は都市公園ではない。その地権者は大半が宗教法人明治神宮だ。しかし全国からの寄付や勤労奉仕でつくられた経緯から見ても、極めて公共性の高い空間だ。安易に商業化してほしくない。市民の参加で計画を見直すべきである。」
そして5月25日に掲載された「2年前の今日」と題された斎藤さんのコラム。
「ちょうど二年前、2020年5月25日は四月に発出された最初の緊急事態宣言が、全国で解除になった日だった。
当時の安倍首相は会見で「(わが国は)わずか1カ月半で今回の流行をほぼ収束させることができました。まさに、日本モデルの力を示したと思います」と胸を張った。
実際には、収束どころかコロナをめぐるドタバタ劇はここからが本番だったのだけれど。
二年たったいま、コロナウイルスは文芸の境にも進出し、物語にコロナ禍を取り込んだ小説はもう珍しくない。エッセーも同様である。
綿矢りさ『あのころなにしてた?』は20年1月から12月までの日記で、当時の気分がまざまざと思い出される。
〈(そういえば重大な事態が起きてたんだっけ……あ、コロナか)と思い出してから一日が始まる〉。常時つけるようになってみると〈マスクはハンカチよりもむしろ下着に近い〉。深刻視と楽観視がくるくる入れ替わる状況は〈洗濯機のなかで洗浄モードと脱水モードが延々とくり返されるなかで、ちょっとずつ生地のすり減っていく洗濯物みたいな気持ち〉。
23日、都内でも飲食店などへの規制が1年半ぶりに解除された。だが元の日常が即戻るとも思えない。二年前の今日だって私たちは半信半疑だった。すり減った洗濯物がシャキッとする日は来る?」。
どれも一読の値のある文章だと思いました。
まず5月18日に掲載された「光州とコザ」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「五月18日は、先週の本欄でもちらっとふれた光州事件(韓国では「5・18民主化運動」と呼ばれる)の日である。
1979年に朴大統領が暗殺された後、全斗煥が軍を掌握。民主化を求める学生や市民の運動が拡大する中、80年のこの日、全羅南道の光州市で学生のデモ隊に戒厳軍が発砲。市民が加わって両者の衝突は十日間続き、死者・行方不明者は二百人以上、負傷者は千数百人とされる。
権力の圧政に対して市民が蜂起し、市街戦に発展する。権力と市民、どちらの側に立つかで、こうした事件の評価は大きく変わる。韓国でも光州事件は内乱騒擾(そうじょう)扱いだったが、87年の民主化で韓国政府は評価を変えざるを得なくなり、現在は、民主主義を象徴し、犠牲者を追悼する記念日になっている。
戦後の日本で市民が蜂起した事件といえば、思い出すのは復帰前の70年12月、沖縄県コザ市(現沖縄市)で起きたコザ騒動(コザ暴動)だ。米兵の車が住民をはねたのを発端に数千人の群衆が米軍関係の車を次々に焼き払った。一人の死者も出ず一晩で収束したとはいえ、民衆の怒りが爆発した点では、光州と重なるところがある。
15日は沖縄返還五十年の日で、沖縄関連の報道があふれたが、コザ騒動は今も暴動扱いだ。沖縄が今なお日本政府と米国の圧政下にある証拠に思える。」
また、5月22日に掲載された「神宮外苑はみんなのもの」と題された前川さんのコラム。
「神宮外苑にはいろいろな思い出がある。秋になると銀杏並木(いちょうなみき)の黄葉が見たくなる。名前だけ知っていた「なんじゃもんじゃの木」が絵画館の前にあると聞き、確かめに行ったこともある。
秩父宮ラグビー場では高校ラグビー都大会の開会式で入場行進をした。超弱小チームだったから試合をする機会はめぐってこなかったが、大学時代にはテニスコートを抽選で予約し、サークルの練習でよく利用した。利用料は安かった。コート脇で四つ葉のクローバーを見つけたことをなぜか覚えている。
六大学野球もよく見に行った。大空に向かって応援歌や学生歌を歌うのは心地良かった。「情熱かけて友よ、友よ、その火絶やすな、自由の火を」。好きだった歌詞だ。
神宮外苑にはたくさんの人のたくさんの思い出が詰まっている。しかし現在の再開発計画では、何百本もの樹木が伐採され、警官を損ねる高層ビルが建ち、市民に開かれた軟式野球上、テニスコート、フットサルコートなどが潰(つぶ)されて会員制テニスクラブなどに生まれ変わるのだという。
神宮外苑は都市公園ではない。その地権者は大半が宗教法人明治神宮だ。しかし全国からの寄付や勤労奉仕でつくられた経緯から見ても、極めて公共性の高い空間だ。安易に商業化してほしくない。市民の参加で計画を見直すべきである。」
そして5月25日に掲載された「2年前の今日」と題された斎藤さんのコラム。
「ちょうど二年前、2020年5月25日は四月に発出された最初の緊急事態宣言が、全国で解除になった日だった。
当時の安倍首相は会見で「(わが国は)わずか1カ月半で今回の流行をほぼ収束させることができました。まさに、日本モデルの力を示したと思います」と胸を張った。
実際には、収束どころかコロナをめぐるドタバタ劇はここからが本番だったのだけれど。
二年たったいま、コロナウイルスは文芸の境にも進出し、物語にコロナ禍を取り込んだ小説はもう珍しくない。エッセーも同様である。
綿矢りさ『あのころなにしてた?』は20年1月から12月までの日記で、当時の気分がまざまざと思い出される。
〈(そういえば重大な事態が起きてたんだっけ……あ、コロナか)と思い出してから一日が始まる〉。常時つけるようになってみると〈マスクはハンカチよりもむしろ下着に近い〉。深刻視と楽観視がくるくる入れ替わる状況は〈洗濯機のなかで洗浄モードと脱水モードが延々とくり返されるなかで、ちょっとずつ生地のすり減っていく洗濯物みたいな気持ち〉。
23日、都内でも飲食店などへの規制が1年半ぶりに解除された。だが元の日常が即戻るとも思えない。二年前の今日だって私たちは半信半疑だった。すり減った洗濯物がシャキッとする日は来る?」。
どれも一読の値のある文章だと思いました。