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山中恒『すっきりわかる「靖国神社」問題』その1

2015-10-31 06:52:00 | ノンジャンル
 山中恒さんの’03年の本『すっきりわかる「靖国神社」問題』を読みました。
 本の内容で書き残しておきたいことを、こちらに写させていただこうと思います。「戦災死もまた戦争によって発生したのです。戦災死者は『お国のせいで死んだ人』です。靖国神社は『お国のために死んだ人』と、『お国のせいで死んだ人』を歴然と差別していますが、一体この差別の基準はなんなのでしょう」、「満20才の男子の中から、体格が良く、体力もあり、健康な者を必要なだけ選抜して入隊させ、軍事訓練を受けさせます。満20才で兵営に入る者を現役徴集といいます。大学に現役で合格するようなものです。現役で兵営に入らなかった者は、兵役期間中は自宅待機で、時々集められて軍事訓練を受けます。そしていざ戦争になると、必要に応じて自宅待機の者も動員して戦場に派兵します」、「大日本帝国では、すべての戦没者を平等に扱うのではなく、まず、戦没者名簿から靖国神社の神様に祀る者を選びだして、霊璽という特別の名簿を作ります。次に天皇が霊璽に記載されている者を靖国神社の神様に祀ってよいと許可します。そこでようやく靖国神社に合祀されるのです」、「靖国神社に戦没者を合祀することで、大日本帝国は戦争や戦没者を美化することができたのです。(中略)いい方をかえれば、徴兵制度にとって必要な軍事施設であり、反戦思想や平和主義を排除するための象徴的な施設だったのです」、「また『お国のために尽くした殉国の士を祀ってなぜ悪い』といいだせば、東京裁判で戦争犯罪人として処刑された人達を当然合祀してもよいことになります」、「1869年(明治2年)6月2日、政府(太政官)は第1回武勲賞を発表し、これに合わせるかのように東京招魂社(靖国神社の前身)を創建したことになります。戦死者のご褒美として立派な東京招魂社を創建して慰霊することにしたのです」、「神道では人が便宜上一定の場所に神霊や神様を招いて鎮め(とどめ、据え)、祭祀を行うことにしたのです」、「『カミ=上』説は、『上とは、人間以外の不思議なもの』と説明しており、これが最も妥当だと考えられています。したがって神には、正しい神も邪な神もあり秀でた神もあれば、劣ったつまらぬ神もあるのです。今日でも狐や蛇や巨木を神様に祀って信仰の対象にしたり、男女の性器を豊穣の神として祀っている神社もあります」、「神社の神様を敬うように国が国民に強制するのは、昭和初期の国体明徴運動以後のことでした」、「もともと明治までは人々は、狐でも蛇でもなんでも神様として祀っていました。吉田家の許しを得て神社を造って、お札やおみくじや暦を売っていました。つまり規制なしの民営化された状態でした。明治になったとたん、政府は民営化を廃止、規制を強化して国営化したのです」、「倒幕、維新、王政復古の指導原理は復古神道だとのべました。神道の歴史と伝統からみると、実は、復古神道は極めて特殊なものでした。イスラム原理主義と同様に、神道原理主義とでも名づけたくなるようなものです」、「実は明治維新から数年間、日本でもタリバン政権と同じように仏像を破壊しました。(中略)全国各地で『廃仏毀釈』運動が荒れ狂い、仏教関係の重要な文化財や国宝級の美術品が消失したり散逸したりしました」、「神道と仏教の最も大きな違いは、仏教は人々が最も嫌悪する『死』の問題を扱っていることです。神道では死を穢れとして忌み嫌いました。(中略)一方仏教では、『死』は生命の終わりではなく、次の生への出発点であると説き、生と死の問題に解決を与えました。輪廻転生、過去・現在・未来の三世(さんぜ)を統合し、人世よりさらに永遠にして高邁な浄土を具体的に解き明かしました。この仏の教えは、当時の日本人にとっては実に深淵で偉大で素晴らしいものでした。仏教に対して神道には、体系的な教義も教典もありませんでした」(明日へ続きます……)

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「北海道・登別、白老、苫小牧の旅」その2

2015-10-30 07:41:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 2日目。早朝に起きて、朝のバイキングを食べると、新登別大橋へ。見事な紅葉を堪能した後、山に向かい、道端につながれたポニーや、黒毛和牛の牧場を見た後、海に向かい、海岸が見渡せるアヨロ温泉の露天風呂へ。浜辺へ出て、釣りをしている若者の傍らで、しばし太平洋の静かな波を見つめ、その後、海沿いに車を走らせると、浜辺で翼を休めるウミネコの大群が! 
 そして鮭の遡上ウォッチングのガイドさんと待ち合わせた萩野駅へ。早く着いたので、無人駅を探索していると、幼い男の子を連れたお母さんと出会い、しばし歓談。旦那さんの仕事の関係で2週間前に越してきたばかりとのこと。学校では転校生が来ることが既に話題となっていて、通い始める前に近所の子が遊びに誘いに来てくれたらしく、安心したとおっしゃっていました。
列車の通過をいくつか見た後、お母さんらと別れ、ガイドの鈴木さん到着。鈴木さんの車に乗せてもらい、ウヨロ川へ。すぐ目の前で遡上する鮭の大群に感動! これほど近くで鮭の遡上を見られるのは世界でも珍しいそうで、カナダから見に来る人もいるほどだとか。帰路、鈴木さんは中国や韓国の人は言うことを全然聞いてくれないので、最近は受け入れていないと言っていました。
その後、鈴木さんのお勧めで、「牛の里」にて黒毛和牛の炭火焼きを堪能。次の目的地であるアイヌ民族博物館へ。入口脇にあるお土産屋さんを覗いたところ、従業員の中年女性の激しい営業トークに会い、母へのお土産にと、手掘りのストラップを買い、他のお客さんへ中年女性が向かったすきに、木彫りの像のコーナーへ。そこにいた従業員の方は手掘り職人が高齢の3人に減ってしまったことを嘆いていたのですが、しばらくするとこちらも強烈な営業トークを開始し、「買う金も飾るスペースもない」と言って、何とか振り切り、博物館へ。ちょうど始まったアイヌ文化の解説とムックリの演奏、民族舞踊を楽しんだ後、アイヌの伝統料理オハウを食べたのですが、皮を剥いたジャガイモと人参がまるまる1個入った薄い汁もので、私は七味唐辛子をバンバンかけて、腹がパンパンになりながらも何とか完食。博物館で貴重なフィルムを見て、檻の中に閉じ込められた北海道犬と熊を見学した後、次の目的地、苫小牧の科学センター・ミール展示館へ。
入口脇の事務所で、なぜミールがここにあるのか訊いたところ、館長さんの相内宏司さんがわざわざ出てきてくれて、マンツーマンで説明をしてくれました。ソ連の宇宙ステーション・ミールは役目を終えた後、太平洋に突入し燃え尽きましたが、予備として作られていたミールを日本の建設会社が16億円で買い取り、各地のイベントで展示した後、苫小牧の企業が再び買い取り、やはり各地で展示し、苫小牧市の市制何十周年かを記念して、苫小牧市に寄贈されたとのこと。実物の宇宙ステーションが見られるのは世界でもここだけで、これまでアメリカやソ連の宇宙飛行士も何人かここを訪れているらしく、ミールに関する展示がいろいろなされていました。そして既に引退した救助ヘリの実物も置いてあり、さらに私が小学生の時に度々訪れた「こどもの国」にあった自走式自動車の「ダットサンベビー」の実物も陳列してあり、浅からぬ因縁を感じたりもしました。(大人になって「こどもの国」を再訪した時には、既にダットサンベビーは撤去されていて、かなりガッカリしたことを覚えています。)
相内さんと別れ、道央自動車道を経て、石水亭に戻り、2日目の観光は終了。やはり早めにベッドにもぐりこみました。
最終日。早朝にチェックアウトし、倶多楽(クッタラ)湖へ。途中車に轢かれた狐がいました。紅葉に囲まれ、冷たい風で静かに波立つクッタラ湖は水質日本一だけあり、その澄んだ水を見て、つい口に。深さも日本第4位ということで、中心部が藍色に染まった湖面は美しいの一言。誰一人いない湖畔にしばし佇んだ後、車で出発。大湯沼の裏を経由して、登別温泉街へ。
そして道央自動車道にて新千歳空港へ。ラーメン店が集まるコーナーで苫小牧の味噌ラーメンを食べ、12時30分発のANA62便で羽田へ。高速バス、タクシーに乗り、17時前には自宅に着きました。
初めての北海道旅行でしたが、その景色の雄大さ、道の広さに感動しました。都会のゴミゴミした生活に疲れた方、北海道、おススメですよ。

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「北海道・登別、白老、苫小牧の旅」その1

2015-10-29 06:06:00 | ノンジャンル
 先週の20日から22日にかけて、北海道の登別、白老、苫小牧を旅してきました。この場を借りて、その報告をさせていただきたいと思います。
 20日の午前8時45分に家を出て、タクシー、高速バスで羽田空港へ。12時ちょうど発のANA63便で新千歳空港へ向かい、13時35分に新千歳空港着。そこからレンタルカーで道央自動車道を経由して登別温泉の巨大なホテル、石水亭へ。(生まれて初めてカーナビというものを使いましたが、高速の合流地点で「まもなく合流地点です。左からの自動車にご注意ください」と度々言われ、最初は「うるさいなあ」と思ったのですが、次第にその節回しをおかしく思えるようになりました。)
ホテルの車回しで駐車場の場所を訊こうとすると、なぜか従業員は日本語がかたこと。「アイヌの人を雇っているのかなあ?」などと、その場では深く考えず(のちに真実が明かされます)、16時にはチェックインし、「この季節はどうしてもカメムシが集まってくるので、夜になったら窓とカーテンを閉めてください」との説明を受けたあと、日暮れが17時30分と聞いて、3階のエレベーターに最も近い部屋に荷物を置くと、さっそく地獄谷と大湯沼に向けて出発。
地獄谷の駐車場に有料で車を停めると、岩が空に向かって乱立する地獄谷の風景が目の前に! この辺で観光客の大半が中国人であることに気づきます。紅葉の見事な散策路を歩いて、温泉が湧いてできた大湯沼に到着。そこからまた山の中の散策路を歩き、最大の目的地、天然足湯に到着。湯気に煙るその場所は、すでに薄暗く、1組のご夫婦しかいらっしゃいませんでした。てっきり中国から来た方だと思って、英語で話しかけたところ、「?」の表情。奈良から来た日本人の方と分かり、記念に写真を撮らせてもらい、「撮った写真、お送りしましょうか?」と尋ねたところ、「そちらの写真も撮ってあげましょうか?」と言われ、腰かけて足湯を楽しむ私の姿を撮っていただきました。
しばらくすると中国人の一団がやってきて、私は隣に座った中年男性に「A little warm」と話しかけると、「I expected it’s very hard. So I’m disappointed.」と流暢な英語で返され、その英語力にちょっとビックリ! あとで、「普段ビジネスで英語を使っている富裕層の男性だったんだろうな」と思ったりしました。
かなり暗くなってきたので、帰路につくことにしましたが、何の明かりもない山の中の散策路。「カーカー」と鳴いていたハシブトカラス。いきなりバサバサとすごい音がしたと思って空を見上げたら、そこにはカラスの大群が! 「暗くなっちゃったらやばいぞ」と段々あせってきて、速足で道を急ぐと、やがて駐車場の明かりが見えてきて、一安心。
地獄谷の中心方向へ、点々と明かりのついた散策路があり、かなり起伏があるので、そこから戻ってきた日本人であろう1組の女性に「行く価値、ありますか?」と訊いたところ、「ありますよ。ブクブクしてましたよ」の答え。かなり疲れていましたが、勇気を奮い起こして、硫黄の臭いがプンプンするその道を下っていくと、その先は行き止まりになっていました。囲いの中を見ると、確かにブクブクいっています。しかしやがてそのブクブクが静まり、少ししたら今度はすごいブクブクが! そこは鉄泉池と呼ばれる間欠泉なのでした。1人でそれを見ていると、やがて幼い子供を連れた若い夫婦がやってきて、間欠泉であることを伝えると、お母さんがしきりに子供にそれを教え、お父さんも間欠泉を一眼レフでしっかり撮っていました。
そして私はわずかな夕暮れの明かりに照らされる、幻想的な地獄谷の風景を見ながら、来た道を戻り、広場に来ると、そこでは集団がガイドの話を聞いていて、私はそこでクッタラ湖の存在を知ります。(ガイドさんは「クッタラ湖があるおかげで、温泉の水は枯れない」と話していて、後でクッタラ湖について調べてみると、水質が日本一で水深でも日本で4番目の湖であることが分かりました。)
その後、土産物屋で、磁石でくっつく熊の頭と、かわいい狐の置物(ぬいぐるみ仕様)を買い、ホテルに帰って1日目の観光は終了。夕食はバイキング。風呂は屋上の露天風呂を楽しみましたが、部屋に帰ってパソコンをいじっていると、ブーンという音とともに頭にカメムシが! 手で振り払い、床に落ちたカメムシをティッシュでつまみ、ゴミ箱に捨てましたが、時すでに遅く、手にカメムシの強烈な臭い。どこから入ってきたのか。その時は分からず、とりあえず「カメムシ、恐るべし」と思ったのでした。(今思うに、露天風呂でタオルとともにカメムシを拾ってきたのかもしれません。)先日読み終わった本の内容をパソコンに入れているうちにオネムになり、初日は終了。『報道ステーション』の冒頭だけ見て、窓の外のせせらぎの音を聞きながら、早々とベッドにもぐりこむのでした。(明日へ続きます……)

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三崎亜記『手のひらの幻獣』

2015-10-28 07:51:00 | ノンジャンル
 三崎亜記さんの’15年作品『手のひらの幻獣』を読みました。『小説すばる』2011年11月号に初出の中編『研究所』と、『小説すばる』2013年12月号~2014年2月号に初出の中編『遊園地』を収めた本です。
 『研究所』 「ここは、檻に囲まれた場所だ。」という文で始まるこの中編は、表出という能力を持つ若い女性である私が、自分の身に起こることを第一人称で語る物語です。私は、その能力を使って、檻の中にいる自分の姿を、念じた動物の姿に変え、観客に見せる仕事をしています。戦前には、この能力を持つ者、すなわち“表出者”はすべて軍の管理下に置かれ、本土決戦における隠し玉として育成されていましたが、戦後になって、民間の5つの会社が独占的に組織化し、表出が暴走しないようにマニュアル化した上で利用していました。私は、この5つの会社の1つに属し、高い表出の能力を持つ社長と“交わった”経験を持っていました。社長の妻の玲子さんは、ライバル会社の社長でもあり、本気で私の会社をつぶしにかかっているように見えます。新しくできた研究所では、戦時中に軍部が利用しようとして、そのあまりの能力の高さから封印せざるを得なかった表出者、つまり表出実体を、コントロール下に置いて再び目覚めさせる実験がなされていて、多くの来賓を招待し、表出実体を目覚めさせる開所式の日に、私は外部からの表出波を防ぐため、表出による『天蓋』で研究所を守る仕事を与えられます。開所日の前に現れた表出実体は、伝説として語り継がれる、美しいナナイロ・ウツツオボエでした。その夜、私は久しぶりに社長と“交わり”ますが、社長の内部は予想をはるかに超えて空虚でした。それは表出の能力を何度も使うことによって生じた結果であり、もし今度また強い表出を行えば、社長は廃人になってしまうかもしれません。開所式の当日、私は研究所の隣の敷地で、禁じられている並列表出を玲子さんが行ない、研究所の中にもう一つのナナイロ・ウツツオボエを出現させようとしているのを発見します。並列表出とは、複数の同じ表出を同方向に同時に行うことにより、非常に強い表出を現出させる方法でした。ナナイロ・ウツツオボエは縄張り意識が強く、同種の表出体を前にすると、暴走します。私は社長が望んでいた、強い表出者との戦いを、玲子さんが実現させようとしているのだと気づきますが、時すでに遅く、枷を外された表出実体は、自分を利用していた者に対する怒りに燃えて、そのあらん限りの力で社長と渡り合い、周囲に衝撃が走ります。その後、ナナイロ・ウツツオボエは一段と輝きを増し、光そのものとなって上昇し、秩序の戻った研究所に、社長の姿はなかったのでした。
 『遊園地』 「六体の相似形の生物が、正六角形の配列で立ち並ぶ。」という文で始まるこの中編は、『研究所』の後日譚です。研究所の事件から12年経ち、39歳になった私は、たくや君と組んで表出を行う仕事をしています。4年前、「子ども夢文化創造事業」により、次世代遊園地が全国5カ所につくられ、子どもだけが入場できる「子どもの王国」の日にはそこに幽霊が出るという噂がありました。たくや君は仕事の帰り、遊園地で誰かが呼んでいると言い、私たちは調査に向かいます。遊園地はドームで覆われ、周囲から隔離されていました。子どもたちは完璧に守られている。違う見方をすれば、厳重な監視下に置かれているわけです。子どもは親に干渉されずに自由に遊ぶことができ、親にとっても、子どもの手を離して息抜きができるとあって、子育て世代からは、おおむね好評をもって受け入れられていました。私たちが排気口から遊園地に入ろうとすると、そこは表出波防御システムによって警備されていて、入ることはできません。翌日、私たちは玲子さんに会いました。玲子さんは自分の会社と私の会社を合併させ、その会社の社長代行をしていて、自分が本当は私がいた会社の社長の実の姉であったことを、私に打ち明けてくれていました。玲子さんらの父親である先代の社長の最期の言葉は、「表出実体を解放しない限り、表出者にとっての戦後は終わらない」というものだったそうです。昨夜のことを玲子さんに報告すると、玲子さんは早速調べてみるとのことでした……。

 『遊園地』の真ん中の辺りから、先を読み進めるのが苦痛になってきて、何とか最後までたどりつきました。細かく書き綴られた架空の話のエピソードと、登場人物の心の動きになかなかついて行けなかったことが、その原因なのかな、とも思います。また、ここまで作りこまれると、逆に息苦しくなってしまうようにも感じたのですが、みなさんはどうお考えになるのでしょうか? なお、上記以降のあらすじに関しましては、私のサイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Novels」の「三崎亜記」の場所にアップしておきますので、興味のある方は是非ご覧ください。

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東京工芸大祭・ジャズ研究会のライヴ

2015-10-27 05:56:00 | ノンジャンル
 一昨日の日曜日、東京工芸大の厚木キャンパスの学園祭にて、ジャズ研究会のライヴを聴いてきました。
 午前10時に毎年演奏会が行われている学生会館に行くと、「今年は野外ステージからスタートです」とのこと。その学生たちに付いていき、学生会館の裏に作られた小さなステージに向かい、しばらくすると演奏スタート。エレキギター(以下、ギターはすべてエレキギターのことです)とエレキベース、キーボードにドラムスという編成で、2曲。皆なかなかの腕で、特に2曲目は途中で4拍子・3拍子が連続する変則的なリズムになるのを完璧に弾きこなしていて、感心。次はテナーサックス、ギター、エレキベース、キーボード、ドラムスという編成でグローヴァー・ワシントンJr.の『Just The Two Of Us』を。テナーサックスの忍び泣くような響きに感動でした。演奏が終わると、折悪しく吹いてきた風で、1枚の楽譜がステージから落ち、私が駆け寄ってそれを拾い、やはり駆け寄ってきた女子学生に渡しました。無言でステージを去とうとするメンバーに「メンバー紹介は?」と言うと、ベースの男の子は「いやいや」と照れながら手を振って答えてくれました。
 ステージはこれにて終了。場所を学生会館に移し、私が席に着くと、「先ほどはありがとうございました」との声が。何とさっきのうまいテナーサックス奏者本人が楽譜を拾ったお礼に来てくれていたのでした。
 昨年までは参加グループの紹介が書かれた小さなリフレットをくれていたのですが、今年はなしとのこと。スタッフの人に無理を言って、机の上に置いてあるプログラムの余りを分けてもらい、グループ紹介の画面を映し出しているプロジェクターを置いた机の横の、会場右寄りの席に座ったところで、演奏スタート。最初のセッションが終わったところで、机のそばにいたスタッフに演奏者の名前を聞いたところ、さきほど私にお礼を言ってくれたサックス奏者は石川くん、野外ステージの時のうまいキーボードは中尾くん、同じくエレキベースは深谷くん、ドラムスは村井くん、セッションのウッドベースは加藤くんとのことでした。(以下、tsはテナーサックス、asはアルトサックス、tpはトランペット、tbはトロンボーン、bはウッドベース、ebはエレキベース、keyはキーボード、dsはドラムスを指します。)
 その後の演奏グループは、午前中はセッション(ts(大西)、b(加藤)key、ds(村井))を経て、「ジャージマン研」(tp、ts、key(中尾)b(加藤)、ds)、「wow!」(tp、tb、as、key(中尾)、b(加藤)、ds(村井))、「azul」(as、tb、key、g、eb(深谷)ds)、「modernist」(ts(石川)、tb、tp、eb、ds)、「zidjan」(ts(大西)key、eb(深谷)ds)の演奏。午後はセッション(as(石川)、ts(大西)、key、eb、ds、途中でebは深谷へ、dsも交代)を経て、「AverageYellowBand」(g、b(深谷)、key(中尾)、ds(村井))、「奴隷バンド」(ts、tp、key(中尾)g、b、ds)、「山田の宅急便」(tp、key、g、eb(深谷)、ds)、「CAVALEY」(ミラーボール付き、ts(石川)、key)、「愛バン」(as、key、eb、ds)、「FAPS」(ts(石川)、g、b(深谷)、key、ds(村井))、「みんなトモダチ(よいこのばんど)」(as(石川)、ts(大西)、tp、key(中尾)、g、eb、ds(村井))、「RUI’s TRIO」(key(中尾)、b(加藤)、ds)、「water melon(Boys&Girls)」(g、key(中尾)、eb、ds、途中からas加わる)、最後のセッション(as(石川)、ts(大西)、key(中尾)b、ds、途中でバリトンサックスのOBの方が加わり、dsもOGの方に替わる。途中でbはebの深谷くんに交替。最後にバリトンサックス、as(石川)、key、b、ds(村井)、途中からtbの女の子加わる)という演奏順でした。
 私が好きだった演奏は演奏順に列挙すると、野外ステージの3曲、室内に移ってのセッション『酒とバラの日々』と『On The Sunny Side Of Street』、「ジャージマン研」の『Four』、「modernist」の『Chicken』、「zidjian」のスタンダード2曲、午後の最初のセッションの『You’d Be So Nice To Come Home To』とあと2曲、「AverageYellowBand」の『Red Barron』と『Red Boots』、「CAVALEY」の『スウィート・メモリーズ』、「FAPS」のスタンダード曲と『Just The Two Of Us』、「みんなトモダチ」の2曲、「RUI’s TRIO」の『大きな古時計』とスタンダード曲2曲、「water melon」のフュージョン系の曲と『Close To You』ともう一曲、最後のセッションのスタンダード曲3曲などでした。
 なかでも「FAPS」の『Just The Two Of Us』のうなるようなアルトサックスを聴いた後、「みんなトモダチ」の3ホーンの迫力ある演奏は圧巻で、今回のライヴの白眉と言えたのではないでしょうか? ラストのセッションでうまいどころが演奏する中、「CAVALEY」の演奏の時に、長い間必死で腕を上げてミラーボールを回していた女の子が、トロンボーンを高らかに鳴らしてステージに躍り込んで来た時も、会場中やんやの喝采で、印象的でした。
 ということで、今年も楽しみにしていた工芸祭のジャズ研究会の演奏で、楽しい1日を過ごさせてもらいました。これだけのレベルの演奏を様々な構成で、しかも無料(!)で聴けるなんて、ジャズ好き名利に尽きます。特に今年は実力者が多く、また選曲も私好みで大変うれしいものでした。工芸祭以外でも演奏が聴けるそうなので、これからはツイッターをフォローして、また聴きに行きたいと思っています。(以上、Bill Evans『We Will Meet Again』を聴きながら書かせていただきました。)

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