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倉谷滋『怪獣生物学入門』その3

2020-06-22 13:00:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

・ユング博士ではないが、人間は現実にはあり得ない超常的なイメージを喚起する能力を持ち、それはいくつかの定型を伴っている。それがときに、共同幻想ともなる。宙に浮く有機的な未知の巨大な物体もそのひとつであり、これをベースにさまざまな説話が誕生し、文化を形成してきた。それと同時に、個々人の独特な体験としてそれを幻視する場合もある。私の見た幻想的な夢がそれだ。その体験の背景に、小学館の図鑑の挿絵や、あの頃街のあちこちで見かけた『宇宙大怪獣ドゴラ』のポスターが影響していなかったとは言えない。いや、確実に影響していたはずだ。街中に幾つもあったし、新聞の広告に載っていたのも覚えている。

・それでもよく見ると、ラテックスで作ったと覚しいそのクラゲ的な模型は、おそらく水槽の中で動かしていたからなのであろうが、中々味わいのある、良い動きを見せていた。ドゴラが北九州上空に浮かぶシークエンスは、思わず何度も観てしまう。これはこれで、なかなかに幻想的なイメージだと、次第に気に入るようになった。

・とりわけ凄まじいのは、東京上空に四体のドゴラが飛び回り、その巨大な触手で東京タワーをへし折っているという合成イメージである。素晴らしく幻想的なSFイメージだ。また、DVDのジャケットにあるように、豪華客船を持ち上げている二体のドゴラを夏木陽介と藤山陽子が見上げているという絵もあれば、富士山の前で新幹線を吊り上げているドゴラの絵もある。

・これらの合成イメージを単に「嘘だ」というのは簡単だ。が、しかし、60年代のSFイメージとしてかなり素晴らしいとは思わないか。インベーダーが地球にやってきて、都市の上空にいくつもの巨大な異形の宇宙船が浮かび、触手のような武器でビルや人間を攻撃するという絵は、ようやく最近になって映像化されるようになった。が、どの映画を観ても、みな似たり寄ったり。ところが、いまから50年以上も前に作られた邦画において、映像化こそされなかったものの、イメージとしてそれ以上のものが提示されていたことに、もっと我々は瞠目して良いのではなかろうか。CG特撮が可能になったいま、新しいシナリオで真っ先にリメイクするべき怪獣映画は、なにはともあれ『宇宙大怪獣ドゴラ』だと思うのだが。

・ドドンゴに似ているようで、よく見るとそれどころではない怪獣が『ウルトラマンA』(1972年)に登場した超獣ブロッケン(第六話「変身超獣の謎を追え!」)。これは宇宙怪獣とワニのハイブリッドという設定で、四肢に加えて一対の腕を持つ。しかも両手が顔になっており、二股の尾を持つとう点でキングギドラとも共通点を持つ。顔はドドンゴに多少似るが、水牛を思わせる角を持ち、鼻から火炎を吐き、二本の尾の先端から怪光線を出すという、ホンマ賑やかで景気のいい怪獣である。それだけに、ウルトラギロチンで殺されるシーンも、物凄く派手だった。
 というわけで、とても本書で解説できるような代物ではないのだが、私があまりに気に入っている怪獣(正しくは超獣)だもので、思わずここに書かずにはおれなかったのだ。
 どれぐらいブロッケンが好きかといって、神戸メリケンパークにこの怪獣が出現する小説(未発表)を書いてしまったぐらい好きなのだ。ただ、それだけ。(後略)

・『ウルトラQ』に登場したモンスターのうちで、最も気に入っているものをひとつあげよと言われたら、迷うことなくセミ人間(「ガラモンの逆襲」)をあげる。かの地球侵略用巨大ロボット、ガラモンを操る宇宙人である。もう、セミ人間が好きで好きでたまらず、市販のフィギュアを買い集めるだけでは飽き足らず、ブロッケンと同様、個人的にセミ人間の登場する中編小説まで書いてしまったぐらいだ(未発表)。

・セミ人間が登場する唯一のエピソード、「ガラモンの逆襲」が放映されたあの日、1966年4月17日(日)午後7時25分頃の感激を、私はきっと死ぬまで忘れることはないだろう。それは、映画館で観た『モスラ対ゴジラ』において、倉田浜の干拓地からゴジラが現われたあの瞬間に勝るとも劣らないほどの感動であった。

 以上が転載させていただいた文章でした。私はこの250ページ足らずの新書を読んだおかげで、『マタンゴ』、『宇宙大怪獣ドゴラ』、『遊星からの物体X』、『モスラ対ゴジラ』のDVDを買うはめとなってしまいました。それほど刺激に富んだ本です。1959年生まれの私より1歳上の著者なので、東宝の怪獣映画、テレビのウルトラシリーズはほぼ同時に見ていることになります。そういった点でも親近感の湧く本でした。

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倉谷滋『怪獣生物学入門』その2

2020-06-21 12:28:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

・トリや人間が毒虫を避けるのは、その危険性を理屈として理解しているからではなく、生得的プログラム(本能)や経験により、尖った形やハチに類似の特定のパターンと、外傷を負う危険の間の因果関係を、無条件に情緒の中に組み込んだからに他ならない。一種の反射だ。そこには理屈などない。

・ドゴラいいねぇ、ドゴラ。これは1964年の東宝映画、『宇宙大怪獣ドゴラ』に登場した、早い話がクラゲ型の宇宙怪獣だ。この映画のポスターが街中に貼られたとき、五歳の私はその内容に思いを馳せ、限りなくドゴラ世界に憧れていた。

・なにをおいても、ギャング団の一員、夏井浜子を演じた若林映子(あきこ)の醸し出す雰囲気が素晴らしい。なにはなくとも、怪獣と彼女だけ観ていればいい。とりわけ仲間を裏切った彼女がボスに背後から撃たれ、燦燦と降り注ぐ南国の太陽の下で顔を歪め、絶命するシーンは特筆もの、まるでその部分だけ古いフランス映画を観ているような洒落た趣すらあり、同時にそのシーンが映画冒頭の「動くベッド」、あの夜のオープンカーのシーンと絶妙に調和している。こういうシーンが似合う女優は、若林映子以外あり得ない。あぁ、なんて美しい。これを軸にストーリーを練り直せば、そして夜のシーンを増やせば、もっと良い映画になったものを。

・山奥の古い洋館に巣くう大グモや、夜空にわだかまる巨大なクラゲ状の宇宙怪獣が似合う女優は、世界広しといえど一人しかいない。それが、60年代の若林映子なのだ。

・ドゴラの幻想的なイメージの源泉は、紛れもなくそれが巨大であり、且つ、宙に浮いているということであり、さらにそのことによって、ドゴラが浮かんでいる空の下の街全体を、まるで深い海の底であるかのように見せているという、その奇妙な性質にある。
 たとえば、北九州市上空に浮かび、関門橋をその触手で粉砕するシーンはどうだ。北九州市全体が深い海の底に沈み、一匹の巨大なクラゲの意のままになっているといったような、不思議な錯覚を覚えなかっただろうか。ただ単に、現実の中に異界からの使者としての怪獣が現れたというのではなく、怪獣によって人間社会それ自体が異界に連れ去られてしまったような感覚を持たなかっただろうか。このようなイメージこそが、怪獣映画の醸し出す幻想の最たるものであり、その一点においてドゴラは、たとえ映画として失敗作であったとしても、他の怪獣たちを大きく引き離している。
 現実世界がまるでいつもとは違って見えるという、作家・稲垣足穂の言う「プラス・アルファ感覚」がおそらくはそれに近いのだろう。経験と常識を積んでしまった大人には、もはや無理なことだろうが、子供の頃は不思議で幻想的なイメージをいとも簡単に夢に見たり、想像したりすることができたものだ。そしてそれが楽しかった。私の場合、子供の頃は現実の受容とその理解に精一杯で、その反動の如く、想像力が活性化しており、その頃に私の目の前に現れた東宝怪獣は、もっぱら映画のポスターを通じ、その後の私の自然観や科学者魂に、大きく深く影響を及ぼすことになっていたらしい。そして、紛れもなくドゴラはその最たるものだった。それを最初に惹起したのは、ひょっとしたら兵庫県の須磨にある、あの水族館ではなかったか。
 60年代、幼い頃の私にとって、須磨海岸と須磨海浜水族館は夏の象徴だった。大きな水槽の、薄暗い水の中でじっとしている巨大なクエ(須磨海浜水族館では当時名物になっていた)であるとか、水槽を処狭しと泳ぎ回っているサメやエイの類であるとか、初めてそれらを目にしたとき、自分を取り巻くこの世界が、まさに書き換えられてゆくような感覚を覚えたものである。
 あれは、おそらく夏真っ盛りの頃だったと思う。水族館から帰ってきたその晩、私は不思議な夢を見た。街中が水の底に沈み、家の前の通りをサカナが泳ぎ回っている。すぐそこの交差点に大きな白いサメがいて、そいつは地面すれすれの高さを泳ぎ、ゆっくりと向こうの方へ去っていってしまった。その感覚を言葉で伝えるのは難しい。「幻想的な異界のイメージ」というしかないが、幼い私にそのような言葉が使えた試しもない。
(中略)『もうひとつの街』という小説(中略)の表紙に、家々を縫ってゆったりと泳ぐサメの絵が描かれているが、強いて言うならそれがまさに私の見た夢のイメージだ。またあるときは、宇宙空間と街が一体化し、近所の公園の砂場に、直径数メートルの淡く光る土星が降りてきていることもあった。(中略)このような夢想は、つねに自然観や科学知識と実体験の狭間に介在する。世界を知覚し、それを徐々に体系化してゆく最中の子供の脳の中では、その界面がダイナミックに相互作用していると思しい。

(また明日へ続きます……)

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倉谷滋『怪獣生物学入門』その1

2020-06-20 09:18:00 | ノンジャンル
 朝日新聞で紹介されていた、倉谷滋さんの2019年作品『怪獣生物学入門』を読みました。本文からいくつか文章を転載させていただくと、

・異様な生物を「モンスター」と呼ぶからには、その分類学的素性に興味を抱かずにはおれない。「ゴジラが哺乳類か爬虫類か」という疑問も、ゴジラの「モンスター性」の核心を問うものである。

・モンスターと純粋な生物学との間に関係がある必然性は一見ないが、人間が創作したものである以上、人間の感性が怪獣の設定やデザインに影響しないわけはなく、それを観る観客もまっとうな自然観や生物観の延長に恐怖の在所を見出すのである。(中略)あるいは、現実の自然を手本とし、その少し外側に「あったかもしれない別の進化の帰結」や「どこか他の星に存在するかもしれない、別の生態系」を夢想することもある。

・無論、「こんなのあり得ない」といった事柄に出くわすことは多い。生物学的変容や進化的多様性にはさまざまな限界が付きまとうが、人間の想像力はそこからある程度は逸脱することもできる。怪獣と呼ばれる異形の生物を夢想できるのである。
 とはいえ、「怪獣の不可能性」をあげつらうことが本書の目的なのではない。(中略)むしろ、あり得ないと分かっていることであっても、「もしそれが本当に起こったなら、科学的事実や法則の中でどれを捨てなければならないか、どこに矛盾が生ずるか」と考えてみたい。

・1958年生まれの私は、当然の如くして幼い頃から怪獣に嵌まり込み、いまもその嗜好は消えやらず、国産・外国産を問わず怪獣の造形については言いたいことが山のようにある。まずもって、モンスターは不可思議で、加えて「異形」の存在でなければならない。しかし、異形と言っても、木に竹を接いだようなへんてこなものは笑いすら誘えない。生物学的に自然で、かつ見たことがないようなものでなければならない。そこが中々に難しいところなのだと思う。

・(前略)トリには表情を作る筋肉が存在しないのだから。

・(前略)脊椎動物の原腸胚には「オーガナイザー」と呼ばれる特殊な部分があり、これを他の胚に移植すると、体軸が重複して出来てしまう。(中略)体軸を作る術を持たない周囲の細胞群を調教的に組織化し、新たにパターンを作り出すわけだ。こういった現象を「誘導」という。オーガナイザーの誘導能があるからこそ、動物は前後や背腹のある、メリハリの付いた体を持つことができるのである。

・数ある日本の怪獣・怪人映画の系譜にあって、『マタンゴ』は屈指の人間ドラマであった。久保明演ずる主人公の青年、村井が、最後まで英雄的行動を貫き通したことに関しては、いろいろと解釈がありうるだろう。が、それより何より、極限状態におかれた人間が、次第に人間性を失ってゆくドラマ性が素晴らしい。(後略)

・そもそも名前が凄いじゃないか、「マタンゴ」。ひとたび口にしたらもう元には戻れない。南の島にだけ棲息するという夢のキノコ、「マタンゴ」。その芳醇な風味と、それがもたらすえもいわれぬ恍惚感。マタンゴ経験は文字通り、あなたを一生変えてしまうだろう。なんか、日本酒の宣伝文句か、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の歌詞のようだ。いや、まさにその通りだ。いいなぁ、マタンゴ。美味しそうだなぁ、マタンゴ。でも、決して食べちゃいけないのだ。

・(前略)中2の少年の心にも深々と突き刺さる、それはそれは見事な人物描写であったというべきだった。しかしまぁ、あの水野久美や、佐原健二や、土屋嘉男など、いつも東宝特撮映画で話の分かるお兄さん、お姉さんを演じてくれていた俳優たちが、いわゆる「本物の大人」として、人間の本性剝き出しの醜い争いを演じていたわけで、それは子供にしてみれば、親の喧嘩を延々と見せられているようなものだったのであろう。これで辛くないわけがない。

・いずれにせよ、50年代以降、放射能は日米の映画の中でさまざまな怪物を作り出してきた。まるで万能薬のように。『隔週刊 ゴジラ全映画DVDコレクターズBOX VOL.54 マタンゴ』には、漫画版『マタンゴ』が付録で付いているが、これがなかなか素晴らしい出来で、読み応えがある。それもそのはず、石森章太郎(故・石ノ森章太郎)の作だった。

・理屈では正しくとも、情緒や本能がそれを拒むというのが人間である。ハチに擬態した昆虫がいくら無害であるからといって、その正体が分かっていてもなお、素手でそれを掴むのに抵抗感を覚えるのが人間である。動物学者で昆虫好きの私でさえそうなのだから、情緒や本能をつかさどる大脳辺縁系の支配力というのは相当に強いのだ。論理的思考が、しょせん後付けのものに過ぎないからそういうことになる。

(明日へ続きます……)

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斎藤美奈子さんのコラム・その61&前川喜平さんのコラム・その22

2020-06-19 11:52:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず6月10日に掲載された「国際ニュースの闇」と題された、斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「NHKが日曜日に放送している国際ニュース番組「これでわかった!世界のいま」がツイッターに投稿した動画を削除して謝罪した。七日放送の番組で使われたCGアニメで、テーマは「拡大するデモ アメリカでいま何が」。いかつい風貌の黒人男性が「俺たち黒人と白人の貧富の格差があるんだ」などと話すがデモの背景の説明はなく、人種差別だとして抗議が相次いだという。
 国際ニュース番組とはいうものの、この番組は子どもの視聴者を意識した作りである。今回は黒人差別だったが、前から私が気になっていたのは嫌韓反中の姿勢である。特に最近は中国を悪役にした内容が多い。
 中国を批判してきた香港を弾圧する国家安全法制(5月31日)。WHOとてドロス事務局長は中国のいいなり(4月19日)。中国がEUの一部の国に資金援助をしているという話も最後は「こうやって経済的に苦しい国を助けて中国寄りにしてきたんだよ!」(5月24日)。一面の事実を含んではいるとしても、竜の姿で描かれた中国は常に世界支配を狙う悪の帝国扱いだ。
 複雑な国際情勢を語るのに、そもそも善玉悪玉を設定した一分半程度のアニメはそぐわない。いちいち国家間対立を煽(あお)るような描き方をする意図も図りかねる。子ども向け番組なのに、ネトウヨの頭の中を覗(のぞ)き見している気分。」

 また、6月17日に掲載された「これも民意」と題された斎藤さんのコラム。
「河野太郎防衛相がイージス・アショアの配備計画のプロセスを停止すると唐突に表明した。
 イージス・アショアに関しては、もともと批判が百出していた。なぜ秋田と山口なのか。
 秋田は北朝鮮とハワイを結ぶ線上に、山口は北朝鮮とグアムを結ぶ線上に位置している。ほんとは日本の国土ではなく米国の防衛のためなんじゃないの? あまりにおもしろすぎるので、いまでは日本中の人が知ってるイージス疑惑だ。
 配備候補地の選定に際し、防衛省の調査報告書に事実と異なるデータが記載されているとスクープしたのは秋田魁新報。昨年の六月五日だった。これで秋田の世論は反対に傾き、七月の参院選でも野党統一候補の寺田静氏が当選。2019年の日本新聞協会賞は、同社のスクープと一連の報道に与えられている。
 河野防衛相はゴチャゴチャ言い訳しているが、要は「高い・危ない・使えない」ってことですよね。わが国の弾道ミサイル防衛には絶対必要だと強弁してきたが、じつはそうでもなかった、と。「高い・危ない・使えない」ならほかにもある。オスプレイとは、ステルス戦闘機F35とか。もちろん沖縄県名護市辺野古に建設中の新基地も。
 政権は絶対違うというだろうけど、結果的には民意の力。強気だった政権でも、支持率が下がればサプライズが起きるのだ。」

 そして、6月14日に掲載された「小池都知事とコロナ」と題された前川さんのコラム。
「小池百合子東京都知事の新型コロナウイス対策には、首をかしげることが多い。東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まるや、翌3月25日の記者会見でいきなり「感染爆発の重大な局面」と言い出した。オリ・パラの開催まで感染拡大を隠そうとしていたのではないか。
 都立学校の休校は三カ月に及ぶ。一時九月入学論を唱えたが今は黙っている。段階的に分散登校を行う方針だが、6月15日からやっと週三~四日の登校だ。学習塾への休業要請は6月1日に解除した。学校の再開の方が先ではないのか。
 「夜の街」を問題視してきた小池氏は、6月7日の西村康稔担当相との会談で、ホストクラブのホストが定期的にPCR検査を受けられる態勢作りを確認したという。それなら介護士、保育士、教師などにも同様の措置をとるべきだろう。
 6月2日にレインボーブリッジを赤く照らした「東京アラート」は、11日深夜に解除したが、12日零時にカラオケやパチンコ店への休業要請も解除した。19日には接待を伴う飲食店も緩和するという。これも解せない。何のための「アラート」だったのか。同じ12日、小池氏は都知事選への出馬を表明した。休業要請解除は出馬表明の「お土産」なのではないか。小池氏はコロナ禍を自分の選挙に利用しているのではないか。」

 どれも一読に値する文章だと思います。

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バッド・ベティカー監督『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』その2

2020-06-18 12:11:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 路上で2人組に撃たれたレッグスは、タクシーで彼らを追跡し、殺し返す。そこはちょうどアリスの部屋のすぐ近くだった。
 アリスの部屋を訪れたレッグスは弟に電話をかけて、医者を手配してくれるようにアリスに頼む。
 「散弾銃の弾が厄介なのを知ってるのか?」と医師。レッグスは弟に持病の肺にいいデンバーにすぐに発つように言い、昨日の証人はタクシーの運転手のウナスキーだけしかいないと言う。「あなたの思い通りにする」とアリス。(中略)
 フレンチはエディから辿っていけばレッグスに会えるはずだと言い、モランをサナトリウムへ送る。エディに「俺がお前を撃ったことを兄に必ず伝えろ」と言って、エディに2発の銃弾を食らわすモラン。
 「レッグスはもう死んだに違いない」と言っていたモランの許にレッグス本人から電話があり、モランは待ち伏せするが、窓から侵入したレッグスはモランの一味を皆殺しにする。
 “暗黒街の闘争、3人殺害される”の新聞の見出し。刑事はレッグスを逮捕しようとし、証人としてアリスを立てようとするが、レッグスはアリスはレッグスの妻であり、法律上、妻は夫の証人はなれないと言う。(中略)
 “ホッツィ・トッツィ・クラブ”。売上の50%を水曜日ごとに取りに来るとレッグスはフレンチに言い、フレンチのものであるこのクラブも自分がもらうと言う。アリスに「俺たちの店だ」と言って、喜ぶ二人。そこへ電話がかかってきて、エディの入院費が3か月分滞納されていると言われたレッグスは、これまでエディを守るために2度も死地を歩んできたのだから、今後はもうエディには関わりを持たないと言う。酒におぼれるアリスに「ヨーロッパに行こう」と言うレッグス。
 パリの映画館。“禁酒法撤廃のために数千人のデモ。ニューヨークでは10万人を超える抗議行進”の字幕。「ビール密造者は税金未払い」のナレーション。“ニューヨーク市長は政治生命をかけて闘う。アルバニーでは市長を応援”の字幕。
 別の都市の映画館。“禁酒派の捜査官が目を光らせる。ノドの渇きを市民の前で密造酒を廃業”の字幕。
 ベルリンの映画館。“アル・カポネは11年の懲役。暗黒街の顔役たちは法廷で裁かれる”の字幕。
 別の都市の映画館。“暗黒街を一斉検挙。ニューヨーク市長が暗黒街の大物を急襲”の字幕。「検察は犯罪組織との戦争を宣言。並べられる数々の悪事は賭博、麻薬、密造」のナレーション。「帰ったほうがいい」とレッグスはアリスを発たせる。
 ニューヨーク。“禁酒法違反によりこの店は閉店とする”の張り紙と鍵。「全員ムショで、リオだけが起訴中だ」レッグス「じゃあリオのところへ行こう」。
 大きな机を大勢が囲む部屋に入ってきたレッグス「あんたらは?」。一人一人紹介していく男は「新しい構想がある」と言う。「リオには貸しがある」と言うレッグスに男は「盗みは流行遅れで、あんたはやりすぎた。世の中は変化している。あんたも潮時だ」と言う。レッグス「ジャージーの賭博は月の売り上げは17万ドルで俺に50%、密売は25万ドルで取り分は50%のはずだ」男「もうあんたの言うことには何の効力もない」「フレンチやリオと組んだな」「そうだ。我々は組んで全国組織になる。ここの全員を殺すとでも?」「顔を覚えておく」。
 アリスの部屋。「軍曹が出て行って、ファッツも戻らない。エディも死なせたくせに。あなたは独りぼっちよ」と言ってアリスは去る。レッグスはロススタインの元情婦に電話し、「愛してると言ってくれ。ここにすぐ来てくれ」と自分のいる場所を言う。
 アリスのベッドで寝ているレッグス。ロススタインの拳銃2丁を持ち出し、外の車で待つ男たちに渡す元情婦。アリスの部屋には2人が襲撃をかけるが、一人はレッグスの迫力に負けて逃げ出す。もう一人に対しても「撃てるもんなら撃て!」と挑発するレッグス。男は2発撃ってレッグスが倒れるのを見届けると、もう3発撃ってその場を去る。
 雨。大勢の野次馬。アリスは「周りの人たちからは愛されたが、自分からは誰も愛さなかった」と言って、救急車に同乗し、映画は終わる。

 ルシエン・バラードの美しい画面が印象的でした。

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