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福岡伸一さんのコラム・その7

2019-03-31 05:54:00 | ノンジャンル
恒例となった、朝日新聞の木曜日のコラム「福岡伸一の動的平衡」の第7弾。

 まず、2018年11月8日に掲載された「翡翠(かわせみ)の礼儀正しさ」と題されたコラム。その全文を引用させていただくと、
「ハサミを手渡す時は、指穴を相手側に、刃先を手元側に持ち直すこと。誰に教えられることのなく、いや正確には、親や教師から言われて、私たちはこんなマナーを身につける。
この前の休日の午後、野川が多摩川に合流する兵庫島のほとりを散歩していたら、水際を一直線に渡る、光る緑の軌跡を見た。翡翠(かわせみ)である。この美しい漢字はヒスイとも読める。翼は全体に美しい緑色で、背中のコバルトブルーは鮮やか。まさに飛翔する宝石だ。
求愛の時期になると、オスはメスにプレゼントを渡す。何度も水に飛び込んではようやく捕らえた魚を、まず枝や地面にたたきつけて動きをとめる。それから魚をくわえなおし、頭側をメス、尻尾を自分側に向けて差し出す。ヒレやトゲがメスの喉(のど)に引っかからないようこまやかな配慮をしているのだ。
 思えば、土手のある小さな河川が東京からほとんど消えてしまった。沿道をいう名の、ヒスイが生息できない暗渠(あんきょ)に変えられてしまったのだ。土手は愛が成立し、巣を作る場所だった。高度成長期と比べれば生息数が回復したとされるが、いまでも希少な野鳥だ。野川は源流(国分寺にある日立の研究所内にある湧水(ゆうすい))から河口まで、水の流れがおおよそ見える貴重な川だ。それにしても、翡翠のオスはこんな礼儀正しいマナーを、いったいいつ身につけるのだろう。」

 また2018年11月15日に掲載された「進化論 その成功と限界」と題されたコラムを転載させていただくと、
「何年か前の11月、とある地方の博物館に講演で出向いていたら主催者が『今日たいへんよい記念日に来ていただけました』と私を参加者に紹介した。創立何年か、そういうことかな、と戸惑っていると彼は言った。『今日は進化論が刊行された日です。』そうだ。その日、11月24日、チャールズ・ダーウィンがロンドンで『種の起源』を出版したのだった。1859年。日本でいえば江戸時代終盤、安政6年のことである。
物理学には理論物理と実験物理があり、前者が粒子の存在や構造の予測を立て、後者がそれを観測や実験によって確かめるという役割分担がある。生物学はその大半が観察や実験に費やされ、理論と呼べるものはほとんどない。それはいまだに生命現象をつらぬく基本原理がわかっていないからだ。
 進化論は生物学における数少ない理論である。創造主の力を借りずに、生物の多様性を説明することに成功した。主旨はシンプル。生物は絶えず少しずつ変化する。変化自体に方向や目的はない。でも環境が長い時間をかけてその変化を選び取っていく。それが進化だと。160年が経過しようとする今、生物学者はみなこの理論を学問の中心において研究を進めている。とはいえ進化論も万能ではない。なぜ、いちばん最初に生命が出現したのかは、進化論も答えることができない。」

 そして今年の2月28日に掲載されたコラム「『オフターゲット』責任は誰が」。
「厚生労働省は、ゲノム編集技術で作られる食品の取り扱いを『遺伝子組み換え』に基づく安全性審査を不要とする方針だ。遺伝子を切断した結果、DNAの塩基配列が1~数個変化しただけなら自然界でも起こる現象と同じだということらしい。驚くべきロジックである。
 自然界でおきていることは、DNAの任意の場所に、ランダムな変化が偶発的に起きることである。ゲノム編集でなされることは、DNAの特定の場所に、意図的な変化を人為的に導入することである。これを同等とみなすことはできない。後者は生命システムへの積極的な介入=組み換えに他ならない。しかも、ゲノム編集技術は潜在的な危険性を内包している。『オフターゲット』だ。意図とは異なる編集が、不可避的にゲノムの場所で起こってしまうことを指す。
 それは原稿データを検索し単語を一つだけ書き換えたら、似たような言い回しの、全く別の文脈の単語までもが変換され、違う意味になってしまうことに似る。高等生物のゲノムは数十億文字からなるい一大物語である。
 科学者は技術的に可能ならば挑戦しようとする。それは、ゲノム編集をヒト受精卵に応用しようとする性急な動きからも明らかだ。もし想定外のこと(オフターゲット)が起きた場合、誰が責任をとれるのか。」

 どれも生物多様性を尊重しなければならないということと、それに人為的に(悪い意味で)介入するのはよくないという文章だったと思います。自然のままの生物多様性は、これからも守っていかねばなりません。

ポール・ヴァーホーヴェン監督『インビジブル』他&越川道夫監督『海の生と死』

2019-03-30 05:56:00 | ノンジャンル
 WOWOWシネマで、ポール・ヴァーホーヴェン監督の2000年作品『インビジブル(ディレクターズ・カット版)』を見ました。ゴリラを透明にして、それをもとに戻すことに成功したセバスチャン率いる研究チームは、セバスチャンの意向で人間にも実験することにします。実験体はセバスチャン本人がなり、透明化には成功しますが、元に戻すことには失敗します。そんな中、セバスチャンの元恋人が同僚と同棲していることを知ったセバスチャンは、怒りに駆られ、研究員を地下の研究所に閉じ込め、一人ずつ殺していきます。最後まで残ったセバスチャンの元恋人と同僚は力を合わせて、セバスチャンを退治することに成功するのでした。
 透明人間の特殊効果は見事で、ラストのやっつけてもやっつけても生き返ってくるセバスチャンの恐怖も面白く見せてもらいました。

 またWOWOWシネマで、同じくポール・ヴァーホーヴェン監督の2006年作品『ブラックブック』も見ました。“事実に着想を得た物語”“1956年10月イスラエル”の字幕。聖地バスツアーに夫と参加していたロニーは、第二次世界大戦の戦時中に知り合い、現在はキブツで小学校の教師をしているエリスとの再会を果たします。“1944年9月オランダ”の字幕。エリスは公証人の協力のもと、両親と弟とともに他の多くのユダヤ人とともに船に乗って国境を越えようとしますが、ドイツ軍の船に発見され、エリス以外は皆殺しにされます。チフスによる死者を装い、再びドイツ軍支配下のオランダに再入国するエリス。“その5ヶ月後”の字幕。彼女はレジスタンスに参加し、ドイツ軍将校のムンツェの情婦になる任務を担い、彼の執務室に隠しマイクを設置するのに成功します。ドイツ軍将校の暗殺に成功したレジスタンスでしたが、ドイツ軍はその報復としてユダヤ人の活動家40人の処刑を行おうとします。活動家の奪回に及んだレジスタンスでしたが、流されていた情報は罠で、活動家の救出に失敗します。誰が情報をドイツ軍に流していたのか、疑心暗鬼になるレジスタンス。一方、活動家の処刑に反対するムンツェは、同じくドイツ将校のフランケンが裕福なユダヤ人の財産を自分に流用していると上層部に告げますが、フランケンの金庫の中は書類とワインしか入っておらず、逆にフランケンによって、レジスタンスと交渉していることがばらされ、逮捕されてしまいます。スパイだったはずがムンツェに心奪われてしまっていたエリスは、ムンツェを仲間に救出してもらい、終戦を迎えますが、ムンツェは暴徒に捕まり、ドイツ軍に身柄を渡され、銃殺されてしまいます。エリスはレジスタンスのヒーローとなったアッカーマンスに殺されそうになりますが、かろうじて彼の手から逃れ、逆に彼がフランケンから奪った財産を持ってオランダから逃げようとするのを阻止します。そして現在、エリスは“ユダヤ人犠牲者の資金により設立”された“キブツ・シュタイン”で家族とともに幸福に暮らしているのでした。
 サスペンスに満ちた映画で、見応えは十分あったと思います。

 またWOWOWシネマで、同じくポール・ヴァーホーヴェン監督の2016年作品『エル ELLE』も見ました。黒いスキー帽に黒い全身タイツの男に自宅でレイプされるテレビゲーム会社の社長(イザベル・ユペール)。彼女の父は大量殺人で終身刑に処せられ、再審が認められず、娘との面会が翌日にあると聞いて自殺します。再度レイプに会いそうになった主人公が黒いスキー帽を引っ剥がすと、それは隣人の男でした。彼女はレズビアンの相手と手を携えて立ち去り、映画は終わります。
 2時間30分に近い大作でしたが、映画の宣伝文句である「サスペンスの傑作」だとは少しも思いませんでした。

 またWOWOWシネマで、越川道夫監督・脚本の2017年作品『海の生と死』も見ました。南の島に特攻隊長として赴任してきた若者と、地元の小学校教師との間の恋を描いたもので、長さが2時間30分を超える長篇でした。
 島尾ミホさんの原作ということで見たのですが、極端に少ないカットと、沖縄語(?)と沖縄語を普段の言葉として話す主人公の満島ひかりさんの共通語の話し方の見事さが印象に残りました。

シュテファン・ドレスラー『かの素晴らしきオーソン・ウェルズ』その4

2019-03-29 00:14:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
「未完成作品の取り扱い方」
 1995年、オヤ・コダールがウェルズ個人の遺品の中に見つけた映画素材の大半をミュンヘン映画博物館に寄贈した際、復元された作品を特集上映することを条件とした。オーソン・ウェルズが晩年の20年間にどのような作品を作ったのか、世界に知らせてほしいという意図であった。1999年以来、ミュンヘン 映画博物館では、世界各国で開催される「知られざるオーソン・ウェルズ」特集上映を企画し、支援している。断片的に残っている大量の映像や未編集の素材をつなぎ合わせることにより、上映可能な短篇作品や作業プリントが生まれた。どのプロジェクトの場合も、入念に検討した独自のコンセプトで準備しているが、昔も今も批評家たちの中には、ウェルズ以外の誰も彼の作品に手を付けるべきでないという人もいる。だからと言って、代替案を出せる人はいるだろうか? 何度も繰り返しテイク、ラッシュ、アウトテイクを見て、あるいは台詞、音、アフレコなど(どの順番かは別として)を聞いて、作品全体を把握することはできるのだろうか? こういう方法で、オーソン・ウェルズの意図した作品に本当に近づくことが可能なのだろうか? それとも、莫大な量の素材と編集ヴァージョンのせいで作品の輪郭すら失ってしまい、まさしく「消滅」の危機に瀕している状況なのか?

 全ての入手可能な情報を得た上での復元作業は、つねに映画作家が考えていた目論見の一つの解釈となり得る。たとえ、ジェス・フランコが統合したDon Quixote de Orson Welles(オーソン・ウェルズのドン・キホーテ)(1992年)のように間違った解釈であっても、反面教師的な形で、未編集の素材よりずっと多く、ウェルズおよび彼の製作意図についての情報を得る手段となる。幸運な場合は、前の失敗を避けてアイデアや認識、手法、技術などを駆使し、改めて復元作業にとりかかる契機となる。どんな素晴らしい復元も、未完の作を完成に近づけるだけで、けっして 完成そのものに至るものではない━━結論は作家自身にしか出せない、出すことが許されないものである。

 そのような訳で、ウェルズの映画は、彼の死後何年たっても、同世代や同僚の作家に比べ、非常に高い関心を集めている遺産だと言える。オーソン・ウェルズは、芸術家として20世紀のマスメディアを利用し、その可能性を限界まで知りつくしていた。そして、演劇、ラジオ、映画、テレビにおいて評価の基準になった。おそらく彼が現在も生きていたとしたら、製作者に対してもプリント作成にも自由度が高く、革新的な新技術の可能性をもたらした。デジタルメディアを積極的に導入したであろうことは想像に難くない。

シュテファン・ドレスラー『かの素晴らしきオーソン・ウェルズ』その3

2019-03-28 05:38:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「編集作業について」
 ウェルズが最後に完成させた大作『フェイク』で、彼は最も好んでいた映画作家という役を演じている。━━まるで手品師のような口調で、実話から空想話まで、必要に応じて映像素材を実際に編集する様子を見せながら、観客に話しかけている。ウェルズが、インタビューの中で何度も強調しているのは、映画を創る上で最も重要で楽しい仕事は編集であるとのこと。彼の型破りな編集法は、未完成の作品The Deep(ザ・ディープ)の素材を見るとよく分かる。━━ウェルズは、まず各ショットのラッシュ素材で気に入ったものをつなぎ合わせ、その後にキーポイントとなるシーンの色々な編集ヴァージョンを並べ、ファイナルカットを試みた。映像が不足していると思うところは「空フィルム」でマークしておき、撮り直した素材を補う。ウェルズは、しばしば異なる場所で異なる編集者と作業をしたが、自分でも編集に手を加えることが多かったので、未完成の作業プリントにはコピーが存在した。それをウェルズが編集し直し、さらにコピーした。その際、彼はカット単位まで切り刻むこともあり、それを仮に編集用テープでつないだり、撮影時に間違って左右逆の動きを撮ってしまい、編集でつながらなかったようなカットがあれば(サウンドトラック右側になってしまっても)フィルムを裏返して使ったりもした。あるいは、製作費が足りないために、モノクロで撮影した素材をカラー映像に混ぜて編集したこともあった。また、ウェルズは可能な限り短く編集することをモットーとしていたが、時には短くし過ぎて再度カットを長く調整したため、後から補ったような跡も見受けられる。

 以上のように複雑きわまりない素材の状態から、ウェルズの未完成の作品を復元するのは非常に難しい。おそらくウェルズ本人は、映画の封切り後でさえ作業を終えることができない程、編集の深みにはまってしまったのであろう。彼自身が製作した最初の劇映画『オセロ』には、1951年11月ローマとミラノで上映されたイタリア版と、1952年5月にローマとミラノで上映されたイタリア版と、1952年5月にカンヌで公式上映された封切り版、1952年9月のフランス配給版、1955年にユナイテッド・アーティスツによって配給されたアメリカ版が存在している。それぞれのヴァージョンがそれ以前のものと異なっているが、台詞やショット、あるいはカットの順番が若干変更されたもの、またプロローグ後のクレジットがタイトル画面で映されているヴァージョンや、画面には現れずにウェルズ自身が読み上げているヴァージョンもある。1978年にウェルズが最後の公開した作品Filming Othello(オセロの撮影)を完成した時、彼はそれまでに撮影していた『オセロ』ヴァージョンをそのまま使うのではなく、全てのカットを新しく編集し直した。各ショットは少なくとも2~3コマ分短縮され、場合によってはシーン全体が変更された。彼がセリフ場面を使用せずBGMのみを使った理由でもある。

 ウェルズの『Mr.アーカディン』にも数多くのヴァージョンが存在する。製作過程において資金不足に悩まされたこの作品は、ヨーロッパ各国で混乱状態に陥った。完成版を期限までに納入できず、ウェルズは作品の権利を失ってしまったのだ。ウェルズが様々な場所で異なる作業コピーを残していること、またスペイン版とイギリス版を創る必要があったことで、今日この作品には多くの編集ヴァージョンが存在している。後になって、ウェルズはインタビューの席で、それら残っている作業プリントのどれも認めず、映画がダメになったと述べている。2006年、残された全ての記録や、ウェルズが元々のコンセプトについて語ったことをまとめ、『Mr.アーカディン』が復元されたが、それは入手できるあらゆる編集ヴァージョン、作業プリントのシーン、カット、音声などを組み合わせたものである。それによって、ウェルズ映画の様々なヴァージョンの歴史は現在まで引き継がれることになった。同じような形で、1992年には映画『オセロ』に、改めて録音された音楽のサウンドトラックが作成された。さらに、1969年には『黒い罠』を、ウェルズが1957年に書いていた58ページに及ぶメモをもとに編集し直し、音楽も改めた。最近では、今年(2016年)、1969年に撮影されたものの未完成で、これまで8mmの断片しか残っていなかったシェイクスピア作品の翻案The Merchant of Venice(ヴェニスの商人)が復元された。この新しいヴァージョンでは、ウェルズが映画製作の30年前にレコード録音していた音声が、欠如した部分に加えられている。(また明日へ続きます……)

シュテファン・ドレスラー『かの素晴らしきオーソン・ウェルズ』その2

2019-03-27 05:46:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 ウェルズは、ラジオや映画の仕事で身につけた光と音の効果的な演出で、舞台演出にも特別の興味をもっていた。1938年には舞台作品Too Much Johnson(トゥー・マッチ・ジョンソン)の劇中に、俳優たちを使って3幕の映像シーンを撮り、挿入しようとした(実際には使われずに終わった)。しかし実験の場としては、劇場よりもラジオの方が適していた。━━何年もの間、毎週ライブで古典をアレンジした放送劇を製作した。ウェルズには、自分が他の仕事に携わっていても、ラジオ番組の準備を任せられる有能な仲間たちがいたのだ。それが「マーキュリー劇団」であった。彼の有名な劇映画第1回作品『市民ケーン』も「マーキュリー劇団製作」で、出演者全員が写真とともにクレジットタイトルで紹介されている。ただウェルズの顔だけはマイクの写真で代用された。━━というのも、観客にとっては彼のラジオの声の方が知られていたからである。その2~3年前H・G・ウェルズの小説を翻案したラジオ劇「宇宙戦争」(1938年)を放送した際、火星人たちがアメリカを攻撃しようとするのを実況中継のように生々しく演出したため、聴取者をパニックに陥れたことがあったのだ。このことは世界中に大見出しで報道された。

 『市民ケーン』が大成功した(アカデミー賞の9部門でノミネートされた)後、ウェルズに対する扉は大きく開かれた。しかしながら、世界中が平伏し、全てが簡単に手に入るかのように見えた「神童」にも無理があったのだ。つづいて3本の映画企画を同時に実現しようとしたが失敗に終わった。壮大な叙事詩『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942年)はウェルズ抜きのチームで完成し、スリラー『恐怖への旅』(1943年)は大幅に短縮され、吹き替えられた。南アメリカで撮影された『イッツ・オール・トゥルー』(1941━42年)は未完成のままである。その後、ウェルズはいくつかのハリウッド・スタジオで低予算のB級映画(『ストレンジャー』(1946年)『上海から来た女』(1947年)『マクベス』(1948年)を製作・監督し、失われた信頼を取り戻そうと努力したが、芸術家としての自由が認められることはなかった。彼の作品は全てスタジオ側の手によって改変された。舞台の企画もまた破滅的な形で終わっている。コール・ポーターの作曲、オーケストラ演奏、豪華な衣装と大道具、映画シーンも挿入された1946年のレビュー作品「80日間世界一周」は、ウェルズ個人に多大な借金を残した。

 1948年以降、ウェルズは主としてヨーロッパに滞在した。「映画作家」として高く評価されていたフランス、イタリア、スペインで、自主製作あるいは独立プロの製作者と『オセロ』(1951年)『Mr. アーカディン』(1955年)『審判』(1962年)『フォルスタッフ』(1966年)『フェイク』(1973年)などの映画を作った。だが、資金的条件の厳しい綱渡り状態の製作を、つねにクリエイティブな想像力で補わなければならなかった。
 現実を超えた矛盾に満ちたシェイクスピアの人物は、ウェルズにとって魅力的であった。彼は何度もシェイクスピア作品を演じ、あるいは翻案し、あらゆるメディアを活用して発表した。シェイクスピア作品を映画化した対策『マクベス』『オセロ』『フォルスタッフ』はヨーロッパの映画祭で好評を得、批評家の賞賛を得たものの、アメリカではほとんど評価されなかった。アメリカのテレビで足場をかためようと努力したが、それも実らずに終わった。1953年、ピーター・ブルックの脚本で「リア王」に主演して大成功を遂げた後、1956年にはテレビドラマとしてThe Fountain of Youth(ザ・ファウンテン・オブ・ユース)を演出した。しかし、斬新な映像美にあふれる豪勢なこの作品も番組制作局から非難される結果となった。それに続く1958年のViva Italia(ヴィヴァ・イタリア)、1969年のワンマンショー、Orson’s bag(オーソンズ・バッグ)、1977年に自主制作したThe Orson Welles Show(オーソン・ウェルズ・ショー)も同様であった。ウェルズは、ルシル・ボール、エド・サリヴァン、デービッド・フロスト、ディック・カベット、ディーン・マーティン、ダイナ・ショア、ジョニー・カーソン、マーヴ・グリフィンなどが司会するショーにゲスト出演し、そこで逸話を紹介したり、シェイクスピ作品の朗読や、マジックを見せたりしながら、視聴者を楽しませた。これらテレビ番組や他の監督の映画に出演することで得たギャラを、自分自身の企画[Don Quixote(ドン・キホーテ)、The Deep(ザ・ディープ)、The merchant of Venice(ヴェニスの商人)、The Other Side of the Wind(風の向こう側)、The Dreamers(ザ・ドリーマーズ)]の製作資金に充てようとしたが、どの作品も完成することはなかった。(また明日へ続きます……)