‘14年に刊行された、稲生平太郎さんと高橋洋君の対談集『映画の生体解剖 恐怖と恍惚のシネマガイド』を読みました。
この本の中で紹介されている映画で見たいと思ったものは、『第三独房・地獄の待合室』(59)、『電子頭脳』(74)、『悪魔の赤ちゃん』(73)、『私はゾンビと歩いた!』(43)、『狂恋』(35)、『知られぬ人』(27)、『肉の蝋人形』(35)、『ドクターX』(32)、『メトロポリス』(26)、『ギロチンの二人』(64)、『悪魔の祭壇/血塗られた処女』(75)、『蠅男の呪い』(65)、『蛇の穴』(48)、『不意打ち』(64)、『顔のない悪魔』(58)、『妖怪巨大女』(58)、『怪奇! 呪いの生体実験』(66)、『ドウエル教授の首』(83)、『プロメテウス』(2012)、『成吉思汗(ジンギスカン)の仮面』(32)、『The Lost City(失われた都市)』(35)、『惑星アドベンチャー/スペース・モンスター襲来!』(53)、『来たるべき世界』(36)、『迷路』(53)、『Strangler of the Swamp(沼地の絞殺魔)』(46)、『脱出』(72)、『ビッグ・コンボ』(55)、『血だらけの惨劇』(64)、『ふるえて眠れ』(64)、『たたり』(63)、『恐怖省』(44)、『聖し血の夜』(74)、『Fear in the Night(夜の恐怖)』(47)、『らせん階段』(45)、『ジイコブズ・ラダー』(90)、『魔の家』(32)、『戦慄の殺人屋敷』(63)、『The Bat(コウモリ)』(26)、『The Bat Whispers(コウモリのささやき)』(30)、『俺たちフィギュアスケーター』(2007)、『X-メン』(2000)、『ハネムーン・キラーズ』(69)、『悪魔の人形』(36)、『フランケンシュタインの花嫁』(35)、『マニアック』(34)、『ディレンジド』(74)、『血を吸うカメラ』(60)、『惨殺!』(63)、『ツイステッド・ナープ 密室の恐怖実験』(68)、『エンドレスナイト』(71)、『サディスト』(62)、『戦後猟奇犯罪史』(76)、『悪魔のいけにえ』(74)、『悪魔の沼』(77)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56)、『セコンド』(66)、『未知への飛行』(64)、『駆逐艦ベッドフォード作戦』(65)、『太陽の爪あと』(67)、『双頭の殺人鬼』(59)、『第七の犠牲者』(43)、『悪魔のシスター』(73)、『第三の犯罪』(61)、『Devil Doll(デビル・ドール)』(64)、『女の香り』(68)、『甘い抱擁』(68)、『下女』(60)、『ロボット・モンスター』(53)、『火星人地球大襲撃』(67)、『トロール・ハンター』(2010)、『Mesa of Lost Women(絶壁の死美人)』(53)、『美しき生首の禍』(62)、『クリーピング・テラー』(64)、『ドニー・ダーコ』(2001)、『クロスボー作戦』(65)、『囚われの女』(68)、『地獄』(64)、『L’Enfer d’Henri-Georges Clouzot』(2009)でした。
また、この本で紹介されている本で読んでみたいと思ったのは、いけうち誠一『小ちゃくなあれ』(『呪いのかつら』所収)(227中後)、稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』&『聖別された肉体』&『アクアリウムの夜』&『アムネジア』、そして泉鏡花の『尼ヶ紅』と『懸香(かけごう)』でした。
また、本文の中で書き残しておきたかった文は、「多くの人が『昔の映画は古い映画』だと思っていて、どうやら世界的にそうなんですね。映画は消費されていくものだから、十年ぐらいで忘れられて当たり前。昔の映画を振り返って批評対象にしようなんていう傾向がある一定の勢力を持ったのは、どうやらフランスと日本だけらしい」、「映画製作が召喚の儀式であるとしたら、監督は、儀式を司る司祭だということになる。司祭は儀式に必要不可欠な人で儀式の中心ではあるけれども、主体ではない。そこがポイントだと思う。主体は“降りてくるもの”。ということは、降りてくるかどうかが問題なのであって、司祭自身を問題にしてもしょうがないということですよね」、「ドイツサイレント期の巨匠のフリードリッヒ・W・ムルナウなんかは、撮影隊全員が白衣を着てたんですよね(笑)。あれは映画は科学だってことなんだけど」、「70年代くらいに同時録音ができるようになって、オンタイムで、『ここで流れている時間も撮れる』みたいな錯覚が起きた」、「夢の中に時間がない感覚と映画の中に時間がない感覚はすごく近い感じがする」、「今、映画の世界では、いわゆる制作委員会制度が普及して、十人の出資者がいたら十人全員が納得する企画じゃないとなかなか通らないという状況になっています。結果的にどこに向かってるかわからない大作が増えちゃってる」というようなものがありました。
いずれにしても、一冊の本を読んで、これだけの映画を見たくなるというのは尋常なことではないと思いました。それほど挑発的な本だったと思います。
この本の中で紹介されている映画で見たいと思ったものは、『第三独房・地獄の待合室』(59)、『電子頭脳』(74)、『悪魔の赤ちゃん』(73)、『私はゾンビと歩いた!』(43)、『狂恋』(35)、『知られぬ人』(27)、『肉の蝋人形』(35)、『ドクターX』(32)、『メトロポリス』(26)、『ギロチンの二人』(64)、『悪魔の祭壇/血塗られた処女』(75)、『蠅男の呪い』(65)、『蛇の穴』(48)、『不意打ち』(64)、『顔のない悪魔』(58)、『妖怪巨大女』(58)、『怪奇! 呪いの生体実験』(66)、『ドウエル教授の首』(83)、『プロメテウス』(2012)、『成吉思汗(ジンギスカン)の仮面』(32)、『The Lost City(失われた都市)』(35)、『惑星アドベンチャー/スペース・モンスター襲来!』(53)、『来たるべき世界』(36)、『迷路』(53)、『Strangler of the Swamp(沼地の絞殺魔)』(46)、『脱出』(72)、『ビッグ・コンボ』(55)、『血だらけの惨劇』(64)、『ふるえて眠れ』(64)、『たたり』(63)、『恐怖省』(44)、『聖し血の夜』(74)、『Fear in the Night(夜の恐怖)』(47)、『らせん階段』(45)、『ジイコブズ・ラダー』(90)、『魔の家』(32)、『戦慄の殺人屋敷』(63)、『The Bat(コウモリ)』(26)、『The Bat Whispers(コウモリのささやき)』(30)、『俺たちフィギュアスケーター』(2007)、『X-メン』(2000)、『ハネムーン・キラーズ』(69)、『悪魔の人形』(36)、『フランケンシュタインの花嫁』(35)、『マニアック』(34)、『ディレンジド』(74)、『血を吸うカメラ』(60)、『惨殺!』(63)、『ツイステッド・ナープ 密室の恐怖実験』(68)、『エンドレスナイト』(71)、『サディスト』(62)、『戦後猟奇犯罪史』(76)、『悪魔のいけにえ』(74)、『悪魔の沼』(77)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56)、『セコンド』(66)、『未知への飛行』(64)、『駆逐艦ベッドフォード作戦』(65)、『太陽の爪あと』(67)、『双頭の殺人鬼』(59)、『第七の犠牲者』(43)、『悪魔のシスター』(73)、『第三の犯罪』(61)、『Devil Doll(デビル・ドール)』(64)、『女の香り』(68)、『甘い抱擁』(68)、『下女』(60)、『ロボット・モンスター』(53)、『火星人地球大襲撃』(67)、『トロール・ハンター』(2010)、『Mesa of Lost Women(絶壁の死美人)』(53)、『美しき生首の禍』(62)、『クリーピング・テラー』(64)、『ドニー・ダーコ』(2001)、『クロスボー作戦』(65)、『囚われの女』(68)、『地獄』(64)、『L’Enfer d’Henri-Georges Clouzot』(2009)でした。
また、この本で紹介されている本で読んでみたいと思ったのは、いけうち誠一『小ちゃくなあれ』(『呪いのかつら』所収)(227中後)、稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』&『聖別された肉体』&『アクアリウムの夜』&『アムネジア』、そして泉鏡花の『尼ヶ紅』と『懸香(かけごう)』でした。
また、本文の中で書き残しておきたかった文は、「多くの人が『昔の映画は古い映画』だと思っていて、どうやら世界的にそうなんですね。映画は消費されていくものだから、十年ぐらいで忘れられて当たり前。昔の映画を振り返って批評対象にしようなんていう傾向がある一定の勢力を持ったのは、どうやらフランスと日本だけらしい」、「映画製作が召喚の儀式であるとしたら、監督は、儀式を司る司祭だということになる。司祭は儀式に必要不可欠な人で儀式の中心ではあるけれども、主体ではない。そこがポイントだと思う。主体は“降りてくるもの”。ということは、降りてくるかどうかが問題なのであって、司祭自身を問題にしてもしょうがないということですよね」、「ドイツサイレント期の巨匠のフリードリッヒ・W・ムルナウなんかは、撮影隊全員が白衣を着てたんですよね(笑)。あれは映画は科学だってことなんだけど」、「70年代くらいに同時録音ができるようになって、オンタイムで、『ここで流れている時間も撮れる』みたいな錯覚が起きた」、「夢の中に時間がない感覚と映画の中に時間がない感覚はすごく近い感じがする」、「今、映画の世界では、いわゆる制作委員会制度が普及して、十人の出資者がいたら十人全員が納得する企画じゃないとなかなか通らないという状況になっています。結果的にどこに向かってるかわからない大作が増えちゃってる」というようなものがありました。
いずれにしても、一冊の本を読んで、これだけの映画を見たくなるというのは尋常なことではないと思いました。それほど挑発的な本だったと思います。