また昨日の続きです。
出馬すると決めた里美は、翌日から毎日家を空けるようになった。サルビアの会の事務所内に選挙対策本部が作られ、マニフェスト作りに追われている様子なのである。告示まで一月ないのだから、準備も大変なのだろう。ホームページには現職議員が写真入りで掲載されていて、ホステスみたいな派手な女や、学生と見紛うほどの若い男もいた。なるほど国政とちがってかなり緩そうである。19歳の双子の子供たちは母の立候補に乗り気だった。「もしおかあさんが市議になったら、忙しくて毎晩ご飯を作るなんてことも出来なくなるぞ」「いいよ、別に。どうせ平日はほとんど家で食べないし。困るのはおとうさんだけだって」
康夫の執筆量はかなり落ちている。康夫自身、作家稼業に少し倦怠感を覚えていた。本が以前ほど売れなくなったのだ。これはという自信作でも売れないので、今さらながら世間の儚さを思い知った。そして夫と入れ替わるように、妻が世に出ようとしているのだから、これも天の配剤なのかもしれない。里美は連日、市内のあちこちで会合を開いていた。
その夜は編集者と打ち合わせを兼ねた会食があり、康夫は銀座に出かけた。「もう一度、犯罪小説にチャレンジしてみたいんだけどね」編集者の松原の表情が一瞬曇った。康夫は三年ほど前、これまでのユーモア小説路線からの脱却を図るべく、犯罪小説を修英社から上梓(じょうし)していた。「大塚さん、〈井端さん一家〉シリーズはもう書かないんですか?」「もう書けないんだよね。アイデアが浮かばないし」新人だった頃を除けば、小説の内容に編集者が注文を付けることはなかった。もしかしたら、今夜が作家人生の変わり目なのかもしれない。康夫はバーの喧噪の中で、老人になったような気分を味わっていた。
翌日、今度は編集長から電話がかかってきた。松原の報告を受けての念押しだった。「井端さん一家シリーズをお書きになる気がないそうで、とても残念です。秋からの連載の件なんですが……。ご存知と思いますが、うちの雑誌じゃなくてウェッブマガジンで連載するのはいかがかなあと……。ご存知だと思いますが、うちの文芸局で運営しているサイトで、エッセイや連載小説も掲載してるんですけどね」「うん、いいよ。締め切りがない方がじっくり書けるし。また前回みたいに長くなりそうだし」電話を切った康夫は深々とため息をついた。
夕方になって里美からメールがあった。今夜は遅くなりそうなので、申し訳ないけど晩御飯は出前をとってくださいという内容だった。康夫は寿司を食べに行ったあと、家には誰もいないので、居間のオーディオ機器を結構な音量で鳴らし、昔のロックを聞いた。酒の勢いもあって長男の恵介にメールを打った。〈おまえ、おかあさんが市議選に立候補するのは知ってるか?〉5分ほどして返信があった。〈知ってるけど、何かあった?〉〈知ってるならいい〉それでメールのやりとりは終わった。
次回作は書下ろしと決めたら、締め切りがなくなり、なんとなく緊張感まで失せた。里美には今起きていることを話さなかった。ただ確定申告の結果を見ているので、亭主の収入がずいぶん減っていることだけはわかっているだろう。
昼近くになって玄関チャイムが鳴った。誰だろうと思って出ると、町内の山田だった。子供たちが小さい頃は何かと親切にしてくれた老人である。「この前の懇談会で、奥さんの公約は聞いたけど、そのあと町内のシニア会で話し合ったところ、こっちにも条件があって、地域バスの巡回路を公園横まで持って来てくれること、それから町内の用水路に蓋をしてくれること、この二点を確実にやってくれるなら考えてもいいって、そういう結論になったから、わたしが代表して伝えに来たんだけどね。隣の弥生町から出てる現職の市議は……渡辺さんって人だけど、二つともやるって約束してくれてるのね。だから大塚さんの奥さんは、それプラス何かを打ち出さないと、正直なところシニア会の票は得られないかなって……。近所だから応援したい気持ちは山々なのよ。だからできればもうひとつ……」「はあ、わかりました」なるほど、これがドブ板選挙というやつか。康夫は妻の顔を思い浮かべ、少し切なくなった。(また明日へ続きます……)
出馬すると決めた里美は、翌日から毎日家を空けるようになった。サルビアの会の事務所内に選挙対策本部が作られ、マニフェスト作りに追われている様子なのである。告示まで一月ないのだから、準備も大変なのだろう。ホームページには現職議員が写真入りで掲載されていて、ホステスみたいな派手な女や、学生と見紛うほどの若い男もいた。なるほど国政とちがってかなり緩そうである。19歳の双子の子供たちは母の立候補に乗り気だった。「もしおかあさんが市議になったら、忙しくて毎晩ご飯を作るなんてことも出来なくなるぞ」「いいよ、別に。どうせ平日はほとんど家で食べないし。困るのはおとうさんだけだって」
康夫の執筆量はかなり落ちている。康夫自身、作家稼業に少し倦怠感を覚えていた。本が以前ほど売れなくなったのだ。これはという自信作でも売れないので、今さらながら世間の儚さを思い知った。そして夫と入れ替わるように、妻が世に出ようとしているのだから、これも天の配剤なのかもしれない。里美は連日、市内のあちこちで会合を開いていた。
その夜は編集者と打ち合わせを兼ねた会食があり、康夫は銀座に出かけた。「もう一度、犯罪小説にチャレンジしてみたいんだけどね」編集者の松原の表情が一瞬曇った。康夫は三年ほど前、これまでのユーモア小説路線からの脱却を図るべく、犯罪小説を修英社から上梓(じょうし)していた。「大塚さん、〈井端さん一家〉シリーズはもう書かないんですか?」「もう書けないんだよね。アイデアが浮かばないし」新人だった頃を除けば、小説の内容に編集者が注文を付けることはなかった。もしかしたら、今夜が作家人生の変わり目なのかもしれない。康夫はバーの喧噪の中で、老人になったような気分を味わっていた。
翌日、今度は編集長から電話がかかってきた。松原の報告を受けての念押しだった。「井端さん一家シリーズをお書きになる気がないそうで、とても残念です。秋からの連載の件なんですが……。ご存知と思いますが、うちの雑誌じゃなくてウェッブマガジンで連載するのはいかがかなあと……。ご存知だと思いますが、うちの文芸局で運営しているサイトで、エッセイや連載小説も掲載してるんですけどね」「うん、いいよ。締め切りがない方がじっくり書けるし。また前回みたいに長くなりそうだし」電話を切った康夫は深々とため息をついた。
夕方になって里美からメールがあった。今夜は遅くなりそうなので、申し訳ないけど晩御飯は出前をとってくださいという内容だった。康夫は寿司を食べに行ったあと、家には誰もいないので、居間のオーディオ機器を結構な音量で鳴らし、昔のロックを聞いた。酒の勢いもあって長男の恵介にメールを打った。〈おまえ、おかあさんが市議選に立候補するのは知ってるか?〉5分ほどして返信があった。〈知ってるけど、何かあった?〉〈知ってるならいい〉それでメールのやりとりは終わった。
次回作は書下ろしと決めたら、締め切りがなくなり、なんとなく緊張感まで失せた。里美には今起きていることを話さなかった。ただ確定申告の結果を見ているので、亭主の収入がずいぶん減っていることだけはわかっているだろう。
昼近くになって玄関チャイムが鳴った。誰だろうと思って出ると、町内の山田だった。子供たちが小さい頃は何かと親切にしてくれた老人である。「この前の懇談会で、奥さんの公約は聞いたけど、そのあと町内のシニア会で話し合ったところ、こっちにも条件があって、地域バスの巡回路を公園横まで持って来てくれること、それから町内の用水路に蓋をしてくれること、この二点を確実にやってくれるなら考えてもいいって、そういう結論になったから、わたしが代表して伝えに来たんだけどね。隣の弥生町から出てる現職の市議は……渡辺さんって人だけど、二つともやるって約束してくれてるのね。だから大塚さんの奥さんは、それプラス何かを打ち出さないと、正直なところシニア会の票は得られないかなって……。近所だから応援したい気持ちは山々なのよ。だからできればもうひとつ……」「はあ、わかりました」なるほど、これがドブ板選挙というやつか。康夫は妻の顔を思い浮かべ、少し切なくなった。(また明日へ続きます……)