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諏訪敦彦(のぶひこ)監督『ライオンは今夜死ぬ』その3

2020-01-31 05:05:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 野菜を買うジャン。その様子を録画し録音する子供たち。買い物袋を沢山両手にもっているジャン。(中略)歩き出すジャン。追う子供たち。公園の噴水の側に座るジャン。噴水の手前に隠れる子供たち。ジャン、荷物を置いたまま、自分だけ去り、振り返り、「ほら、持って来い。荷物を運ぶんだ。運んでくれ!」(中略)果物を子供たちに投げつけ始めるジャン。(中略)「これを運ぶんだよ、運べ」「ヤバい」。ジャンに近づくジュールに「ジュール、やめとけ」「運ぶのか?」「ジュール」「リンゴだぜ」「投げるなんて」。
通りかかった女の子「何してるの?」「やあ、よく分からない」「リンゴをぶつけられた」「頭がヘンなんだ」「行こう。皆と」。年上の娘「買い物は?」「すれば? 私は皆と行くから」「おいで、シャルリ」と犬を引いていく年上の娘。
「デカい家だろ?」「きれいじゃないけど」「何してるの?」「お礼ぐらい言いなよ」「ジイさん、お礼は? 運んだろ? 礼儀も知らないのか」「(ドアを)叩きすぎだ」。扉が開き、ジャンが出て来る。「あなたの家?」「今は住んでる」「お仕事は?」「俳優だ」。ジャン、扉を閉める。「俳優?」「僕らの映画に出てもらおうよ」。ノック。ジャン「まだ何か?」「ここで映画を撮れますか?」「この家で? いいとも」「出てもらえます?」(中略)「分かった。では最初に脚本を書くんだ」「きゃく…」「まず脚本を書かなくてはならん。皆で話し合って書くんだ」「必要ない!」「時間がかかるし…」「僕は必要だと思うけど」。子供たち、帰り出す。「撮影できるだけでいいさ」「特殊効果はフィリップに頼もう」「どんなお話なの?」「撮影を決めた後、ここを見つけたから…」「写真もたくさんある」「誰の家?」。
 鏡の中でジャンに近づくジュリエット。触れられて振り向くジャン。
 帰る子供たち。「ほら」「秘密基地だわ」「すぐ壊れそう」(中略)全員、入っていく。
「ジュリエット・ド・ギャロン 1949━1972」「まずお墓を撮影して」「他の場所も」「お墓とあの家でいい」「ここに書いたわ」「ジョンソン、応答せよ」「老女の死体がある」「97歳だな」「アイデアを!」「これは? あの暗い屋敷を幽霊屋敷にしたホラー」「いいね」「あの写真がジュリエット? お化け屋敷なの?」。
「ジュリエットは…」「写真の女」「そんなの平凡すぎて、つまんない」「こんなのはどうかな? ジャンは妻を亡くした男で、彼の行動を探っていると…」「これはどう? 復讐のため妻の幽霊が現れる」「夫が殺した」「それで復讐に舞い戻る」「家の外は撮らないようにして、魔女を殺そうとする。異様なハンターたちを中だけで撮る」「ハンターは誰がやる?」「自分でやりたい。ハンターだ」。ボクシンググローブをつけて殴る練習。(中略)
 夜。ローソクの光。ジャン、椅子に座ってる。「…“旦那さま”は今まで何をしてたの?」 「知ってるだろ? 俳優だ」「そうでしょうね。台詞を言って演じてみて」「無理だよ。できない」「どうして?」「分からない。ただ…何かを奪われた」「何を?」「神に与えられ、奪われ、そして返されたもの」「調子が悪いと神に頼り、良くなると…あとは希望を抱き、待つだけ」「希望は人を生かすが、育てない。怒ったの? 会えてうれしくない?」「うれしい。ただ…いない間にいろいろ考えてた」「どんなこと?」「話すと長くて」(中略)ジャン、立ち上がり、ジュリエットに向かい、「努力はしたがムダだった。仕方のないことだ」「やっと気づいた」「歩いてくる」「お散歩?」「この付近を」「置いてけぼり?」「深呼吸を」「ここでも」「違う空気を吸いたい」「いいわ」。ジュリエット、椅子に座る。「私が消えても驚かないで」「行くのか?」「私の勝手よ」「それでもいい。無理に引き止めたくない。来るも帰るも君の自由だ」(中略)走り寄り抱き締めるジャン。「もし君が僕を必要なら僕だって同じだ」「ほんと?」「本当だよ」「今度は抱いてくれたわ。“あてもなく呼びかける♪真夜中にあなたの名を呼ぶ♪”」「言葉はあっという間に消えるけど♪今日はあなたに届くかしら♪もしもし、私の声が聞こえる? あなたがいる所の空は晴れてる?」。ジャン、椅子に座る。「こっちは雨だけど、地中海の匂いを少しは思い出せる♪今は電話ボックスの中♪ガラスの檻に閉じ込められてる♪きっとあなたは海に面したバーにいるのね♪私の声が聞こえる? あなたがいる所の空は晴れてる? こっちは雨だけど、地中海の匂いを少しは思い出せる…」。(中略)去るジュリエット。「今は電話ボックスの中♪ガラスの檻の中に閉じ込められている♪言葉はあっという間に消えるけど♪今日は君に届くだろうか♪もしもし、僕の声が聞こえる? 君がいる場所の空は晴れてるかい?」。

(また明日へ続きます……)

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諏訪敦彦監督『ライオンは今夜死ぬ』その2

2020-01-30 05:41:00 | ノンジャンル
 今日はちょうど斎藤寅次郎監督の生誕115年に当たる日です。寅次郎監督は喜劇、それもドタバタ喜劇の名匠で、現在まで残されているフィルムはわずかなのですが、「アジャパー天国」と「憧れのハワイ航路」、そして名作の誉れ高い「金語楼の子宝騒動」をDVDで観ることができます。私も題名は忘れたのですが、確かに過去に寅次郎監督の作品を観ているはずで、めちゃくちゃ面白かったという記憶があります。寅次郎監督に関しては、清流出版から『日本の喜劇王 斎藤寅次郎自伝』という立派な本も出版されています。映画好きな方でしたら、DVDに合わせて、こちらの本も読むことをお勧めします。

 さて昨日の続きです

 鏡に女性が映る。「ジュリエット! 君にまた会えるとは」「ほら、私よ」。抱き合う二人。「散歩すると出たっきり…」「ごめんよ。かつては君を苦しめ、今は僕が苦しんでいる」「“かつて”っておとぎ話みたい。かつて動物が話せる国に王様と女王様がいました。去ってしまったことに使う言葉よ」「この瞬間、僕らの物語は終わってないのか?」「だって一緒にいるでしょ」「よかった。結末は言わないでくれ」「結末? 私だって知らない」「今まで何してたんだ?」「待ってたの」「僕が戻ると信じたから?」「いいえ、一人ではいられないと分かってたから」「君は変わってるね」「あなたもよ。だから一緒にいられる。お互い恨みっこなし」「ああ、それは君は君で僕は僕だから……二人がいた。僕が愛したのは君だけだ」「ほんと?」「気づくのに時間がかかった」「私は気づいてたわ」。ジュリエット、去る。部屋を歩き回るジャン。
 蝉の声。昼の屋外。こっちに歩いてくるジャン。ついていく子供たち。彼らはジャンを撮影し、録音している。墓石に座るジャン。「さっき会ったね。あれは君だろ?」。去るジャン。尾行する子供たち。「何かしゃべってた」「ああ、お墓の名前は?」「ジュリエット…」「ジュリエット・ド・ギャロン 1949━1972」「いくつで……」「長生きじゃない」「ああ、あの男の妹かも」「奥さんもありうる」「かもな」「きっと妹だ」「友だちかも」「妻だよ」「奥さんってこと?」。
「パパ、仲間が来たわ」「やあ、元気か? 映写中だ」「見せたいものが」「撮ったのを見てくれる?」「もちろん」「あせるなよ」「映画を撮ったの?」「違うよ」「ただ撮っただけ」「カメラはジュール」「特技は地面と足元を撮ること」「そう言うなよ」「中は初めて?」「ああ、本の多い家だな」「古い本ばっか」「怪しげなルイ14世」「誰の手?」「ジュール」「親には秘密で勝手に入ったんでしょ?」「まあね」「だろうと思った」「静かに。聞こえない」「これは墓地。この人を見たのは2回目だ。家で脅かされて」「尾けたのか?」「正体を知りたくて。ヤバかった」「気づかれてない」「見られたさ」「見られてないって」「この映像で何をするんだ? あの家で撮りたいけど、この男が住んでるから……どうすればいいかな?」「撮りたい場所があれば、撮影許可が出る。人を撮る時も同じ。簡単なことさ」。
 壁を乗り越える子供たち。「双眼鏡を。いるかな?」。皆、顔にペインティングしている。「ジイさん、お昼寝は終わり!」「ジジイ!」「老いぼれ!」「どうした?」「耳が遠いんだ」「もういいよな。こんなふうに呼ぶのも悪いし」。眠るジャン。「クソジジイ!」「起きて来い!」。目を覚ますジャン。「へそ曲がり!」。窓から子供たちを見下すジャン。「出て来いよ。老いぼれ!」「何してる? 出ていけ! 人の家だぞ」。逃げ出す子供たち。「バカ」「失せろ」。
「誰かいるのか? どなたです?」「クロード!」「ジャン!」「ジュリエットに会ったろ。ここにいたらダメだ。病気だと聞いたが……。大丈夫か? 顔色が悪い」「彼女が死んだ年は?」「1972年だ。居場所が分からず連絡ができなかった」「自殺と聞いたんだが」「違う。事故か自殺か分からなかった」「この家にいてもいいか?」。ジャン、鍵を渡され、相手の肩を叩く。「ジュリエットと会った! 話しかけたら応えてくれた。この腕で抱きしめた。死んだのか?」「ああ」。フェイドアウト。
 フェイドイン。「壁はよじ登れないさ」「僕らの方が有利だ。追いつかれたら殴ればいい」「やりすぎだ」「それより…」「ドアが開いた!」「誰だよ」「あいつだ」「管理人じゃない」「隠れろ」「管理人だ」「違う」「ホームレスだ」。草陰に隠れる子供たち。

(また明日へ続きます……)

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諏訪敦彦(のぶひこ)監督『ライオンは今夜死ぬ』その1

2020-01-29 03:46:00 | ノンジャンル
 諏訪敦彦監督・脚本の2017年作品『ライオンは今夜死ぬ』をWOWOWシネマで観ました。

 ジャン(ジャン=ピエール・レオ―)に「私が分かる?」「これは現実か? 君に出会えるなんて」「夢じゃないわ」「死が迎えに来たのかと思った」「バカね。昔と同じだわ」「ヴァンサン、リハ、終了。来てくれ。今ので良かったか?」「とても良かったです」「こんな感じは? “これは現実か?”」「夢じゃないわ」「死が迎えに来たのかと」「それもいい、どうかな、一つ問題が…」「聞いてくれよ」「すぐ戻る。どうだ?」「もう3時間になるが、彼女は閉じこもったままです」「何とかしろ。ともかく部屋から出せ。(ジャンに)すみません」「カメラが2台あるから、どっちを向いても演じればいい」「アンナと自分自身に演じて、集中して」「根本的な問題もある。死を演じられるのかどうか」「別のシーンですね。話は後で。今は…どうした?」「今日は無理だと思うので他のシーンを」「考えてないよ」「忠告しただろ?」「分かったよ。なぜかアンナが部屋から出て来ない。なので……」「中止か?」「今日は中止して明日撮ります」「“乗って”きたのに」「二人の演技を見たかった。マノン、楽屋にいて。後で行きます」「感じをつかめたのに」「あとで」「ああ」「残念ね」「難題がある。どうやれば死を演じられる?」「泣いてはダメ」。
ジャン「アンナは?」マノン「大丈夫。病気じゃないから。恋わずらいよ」「恋か」「若いダンサーと出会ったの。だいぶ年下よ。彼女は首ったけで、彼の方もそう見えたわ。ところがクランクイン直前に失踪。いくら探しても見つからず、彼女は泣きの毎日よ」「その手の恋は何日かすれば忘れるさ」。ノック。監督「僕です。大丈夫? 今の様子じゃ再開まで数日かかる。撮影が延びても?」「ああ、君に任せる」「ありがとう」「ただ悩んでいることがある。君が撮ろうとしているのは死なんだ」「はい、死はある種の安らぎでは? 消滅するが、とても穏やかなものだ」「違う。死は“出会い”なんだ。その“出会い”を準備する。70歳から80歳の間に。一生で一番大切な歳月だ。老境を賛美するつもりはないが事実だよ。だから死は体験ではなく、その訪れを見ることだ。その考えで…」「構いません。ただ安らぎも」「それは全然違うと思うよ」「アンナと共演した『果てなき対話』に感動し、僕は15歳で映画を志しました」「僕にもとても大切な作品だ。だが当日はフィルムで撮影してた。予算が極端に少なくて、撮影は1回のテイクのみ。長いシーンも。だから責任感がのしかかって押しつぶされそうだった。でもやり遂げてカルト作品に」「あれ以来、なぜか誰も共演作を撮りません。アンナが元気になればいいけど」「死について考えてくれ」「もちろんです。では失礼。連絡します。後で」。監督、去る。ジャン「鏡ってやつを見ろ。奥深さを自慢して、卑劣なやり方で実像をひっくり返す」「監督は数回と言ったけど、もっと長引きそう。バカンスと思うことね」「ああ、近くに昔の女友だちが住んでるから、挨拶に顔を出してくるよ」。フェイドアウト。
 フェイドイン。花束を抱え階段に座っているジャン。「大丈夫ですか?」「ああ、ありがとう」「お水、持ってきます?」「大丈夫だよ。マリー・ベルチエさんはここに住んでる?」「私のおばあちゃんよ。出かけてるけど。家で待つ?」「いや、君の名前は?」「ユキ」「ユキか。僕はジャンだ。これを渡して、心からの友情をと」「伝えるわ。手を」「大丈夫」。らせん階段を降りていくジャン。
「おばあちゃん、その人がおばあちゃんに花を」「ジャン!」「撮影で来たんだ。近くだと思って」「でも私の住所は?」「昔もらった手紙で」「そうだった。もう帰るの?」「ああ」
「あなたって変わらないわね」。ジャン、マリーを抱く。「会えてよかった。さよなら」「本当にここに来たかったの?」「ジャン、会いたいのは私じゃないわね」。マリー、去る。フェイドアウト。
 桟橋。花束を持ったジャンは路地へ。階段に座る。音楽が流れだす。邸宅の門。風と波の音。裏の門から敷地に入ると、そこには“死の危険”の看板が。室内へ。階段で2階へ。ベッドに花束を置く。若い娘の写真を見るジャン。音楽が鳴り出す。
 ベッドで眠るジャン。虫の音。階段を上る子供たちの足音。「どうしたんだよ?」「誰かいる」。ジャン、大声で「あー!」。子供たち、逃げる。「逃げろ!」「おかしなデブの男だった。頭がヘンなんだよ」。窓に出るジャン。子供「お前の家じゃないだろ?」「意地が悪いぞ!」。子供たち、去る。「ダメ男!」「ビョーキだぞ!」。

(明日へ続きます……)

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『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』その2

2020-01-28 06:31:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 さて、こうした有馬の語りによる「映画史」を編んでいる今もなお、「映画女優」有馬稲子は現役で世界のスクリーンを駆けている。2018年のベルリン国際映画祭でひときわ注目を浴びたのは、煙草を手に憂いの表情を浮かべてもの思うショートカットの有馬稲子の肖像であった。それはクラシック部門のオープニングを飾った『Tokyo Twilight』こと小津安二郎監督『東京暮色』4Kデジタル修復版のポスターで、主演の有馬のふたつの肖像を大きくあしらった洒脱なデザインは好評を博した。
『東京暮色』の公開は1957年4月30日のことなので、この有馬稲子はおそらく24歳だろう。デジタル技術で鮮やかに蘇った有馬稲子の美貌と演技は、61年後のベルリンの観客たちをしたたかに魅了した。最後の小津の白黒作品である『東京暮色』は、当初名匠として評価が安定していた小津作品のなかでは毀誉褒貶かまびすしく、小津自身は自信作であったものの、キネマ旬報ベスト・テンでは珍しく19位にとどまり、この評価は小津としてはかなり不本意だったようである。
 しかしベルリン映画祭の上映に招聘されたヴィム・ヴェンダース監督は、『東京暮色』はフィルム・ノワール的な白黒映画の傑作であり、当時のフランスの実存主義の思潮にもつながる作品だと激賞している。この映画が公開当時不評にまみれたのは、戦後の小津作品のなかでとびきり暗澹たる内容であり、しかもナイトシーンが少なくなかったので全体が実際暗い画面によって占められていたことのせいだろう。そして何より主演の有馬稲子が一貫してアンニュイな表情であった。
 しかし、ヴェンダース監督が、本作を事もあろうに「フィルム・ノワール的な傑作」と呼ぶに及んで、その暗さにまつわる全てのたくらみはようやくにして報われることとなった。そして岸惠子が豊田四郎監督『雪国』のスケジュール遅延で出演がかなわなくなったためにこの役が回ってきた有馬稲子だが、今やこの役に有馬以外の女優を思い浮かべることは難しい。

 それにしてもこの『東京暮色』の肖像を筆頭に有馬稲子はどこか不機嫌な、または憂いのある表情をする時に、えも言われぬ引力を発した。映画デビュー間もない頃、『鬼火』などで知られる東宝の千葉泰樹監督が、いつも屈託のない笑顔をふりまいている有馬の、ふっと自然体でいる時の立ち姿を見て、「なんという暗さをたたえた子なのだろう」と戦慄したという逸話がある。
 その暗さが有馬の生まれ育った環境の複雑さに由来することは間違いないだろうが、一方で有馬はその暗さを自らの色として利用することはせず、むしろそういった自らの暗黒面から逃れ、忘れ去ることをこそ目指していたはずである。だから、有馬のそういう横顔に密接していたともいえる『東京暮色』の暗い女子のような役柄を選ぶことは数多くなく、むしろ『ひまわり娘』の明るさ満点の女性、『泉』『わが愛』のように強さを秘めた女性、『浪花の恋の物語』のように純で一途な女性といった、後ろ向きな暗さを排除したヒロインをすすんで演じ続けた。
 にもかかわらず、好んでけなげなヒロインを志向する有馬には、常にそこにはえも言われぬ陰翳がつきまとうのだった。さしずめ暗さの引力から脱しようとするけなげさ、それを追いかけて来る影、それがもろともに醸す危うさ、儚さのごときものが、有馬稲子のイメージを芳醇なものにして、単なる美貌の女優という枠からはみ出させていた。そういう暗部を背負わず、ただあの愛くるしい美貌だけで特徴づけられる女優であったとしたら、有馬稲子は銀幕のマスコットとして愛玩されるにとどまったかもしれない。
 ところで、ささくれだった家庭環境にくわえて、有馬稲子の暗さや憂鬱をまとわせた今ひとつの要因は、ほかならぬ彼女自身の突出した美しさと色香であろう。有馬には美徳ならぬ美貌の不幸がつきまとった。それは映画の企画の多くが彼女の美貌を売ることだけに終始していたことに加えて、実生活で彼女の実像ならぬ美しさに惹かれた男たちに翻弄されることもあったであろうし、その美し過ぎるがゆえの憂鬱はじわじわと彼女を染めあげ、しかしまた残酷なことにその陰翳が女優としての魅力を引き立てることにもなった。
 そんな有馬が、たぐいまれな美貌と色香に惑溺した男どもに翻弄される人妻を描く『夜の鼓』などに出演した日には、もう有馬本人のありようと役柄とが分かちがたく二重映しになって、とてつもない説得力を生んだ。そして私はここに、美しさが禍々しさを呼び寄せること、美しいがゆえの女の「宿命」を思うのだった。(後略)」

 「わが愛と残酷の映画史」という題名から、どんな数奇な人生なのかと思って読みましたが、「残酷」にあたる点は不倫相手との間にできた子を中絶することだけでした。また一時宇野重吉に師事していたことをこの本で初めて知りました。

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『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』その1

2020-01-27 05:52:00 | ノンジャンル
 樋口尚文さんが有馬稲子さんにインタビューして2018年に刊行した『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』を読みました。本の最後に掲載されている、樋口さんの文章「補章 映画女優としての有馬稲子」をできるだけ転載させていただくと、

「戦後まもない頃から平成をまたにかけて活躍を続ける有馬稲子は、こと映画に関しては1950年代から1960年代前半までの日本映画黄金期を中心に、小津安二郎、今井正、内田吐夢、小林正樹、山本薩夫、五所平之助、渋谷実、野村芳太郎といった巨匠、名匠の監督たちの作品で輝いた。本書は、そんな有馬稲子の「映画女優」としての活躍に絞って、その半生を語りおろしていただいた。ここで改めて、鳥瞰図的に駆け足で有馬の横顔をふりかえっておきたい。

 昭和7年(1932年)4月3日、現在の大阪府池田市で生まれた有馬稲子は本名を中西盛子(みつこ)といい、幼少時は社会主義のシンパだった父親が大阪を転々と逃げ回っていた。見かねた祖母の芳枝に連れられて、釜山にいた伯母の中西かねの養女となり、以後、有馬は伯母が亡くなるまでママと言って慕い続けた。敗戦後は命からがら密航で引き揚げるも、大阪のすさんだ実父母の家に伯母ともども身を寄せることとなり、辛い日々を過ごす。
 この状況から脱するために昭和23年(1948年)に宝塚音楽学校を受験して合格、翌年には花組に編入されて初舞台を踏む。実は養母も大正期に宝塚に在団しており、芸名が「有馬稲子」だったことをこの頃初めて知り、歌劇団の意向もあって「二代目襲名」となった。可憐な容貌で一気に人気スタアの仲間入りを果たすも、彼女の魅力に注目した東宝の藤本眞澄が宝塚に映画出演を打診してきた。歌劇団側は断ったが、東宝のたゆみない説得の結果、有馬は退団を決意して、昭和28年(1953年)1月に東宝専属となる。
 東宝では市川崑監督『愛人』などに出演するも、なかなか手ごたえのある企画に恵まれなかった。出演を希望して提案した企画は実現されない一方で、岸惠子とともに出演が望まれた今井正監督『ここに泉あり』など外部の意欲的な作品への出演も許されず、やっと手にした豊田四郎監督『夫婦善哉』への主演がいきなり中止になるに及んで、東宝に辞表を提出する。これに先立って昭和29年(1954年)4月に岸惠子と久我美子が、邦画各社の縛りに拘束されない自由な立場で出演作を決められるよう「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立しようとしていたが、有馬もそこに誘われて参加した。有馬の辞表はにんじんくらぶが預かって、翌昭和30年(1955年)3月に東宝を円満退社し、4月には松竹と優先本数契約を結ぶ。
 松竹時代の有馬は、小津安二郎監督『東京暮色』『彼岸花』、今井正監督『夜の鼓』、小林正樹監督『泉』『黒い河』『人間の條件』、五所平之助『わが愛』、山本薩夫監督『赤い陣羽織』、野村芳太郎監督『ゼロの焦点』、中村登監督『白い魔魚』などの巨匠、名匠の傑作に次々と出演し、戦後を代表する名女優としての地位を築いた。
 そんな代表作のひとつに内田吐夢監督『浪花の恋の物語』があるが、この作品で共演した中村錦之助から求婚され、昭和36年(1961年)11月の日本映画のトップスタアどうしの結婚は大きな話題となった。(1965年に離婚)。折しも日本映画は高度経済成長期のレジャーの多様化やテレビジョンの普及もあって一気に興行が不振に陥り、有馬の活躍を裏づけた映画黄金期のような映画づくりは質においても規模においても難しくなっていった。この趨勢のなかで、有馬の女優としての関心は映画から舞台へと移ってゆく。あまつさえ芸術座『奇跡の人』のアニー・サリバン、帝国劇場『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラなどの当たり役で華々しい成功をおさめ、有馬は舞台の魅力にとりつかれる。邦画各社の経営が低迷をきわめた1970年以降、有馬の映画出演は途絶え、新劇から商業演劇まで従来の映画スタアの華やかさとは大きく隔たった地道な公演に傾倒するようになる。
 こうして見てくると、そもそも宝塚の「舞台女優」であった有馬は、セントの映画興行の隆盛とともに映画界に招かれて「映画女優」になり、映画業界の凋落とともに新劇や商業演劇の「舞台女優」に帰還したわけであり、言葉を換えれば有馬は映画会社の撮影所システムを背景に活躍した「映画女優」なのである。厳密にいえば有馬は既成の映画会社の企画にあきたらず、いくつもの独立プロ作品にも出演しているが、これらとておおむね撮影所システムの培った人的インフラと大手映画会社の配給ルートを活かした作品群なので、今でいるところのインディーズ映画とは異質なものである。

(明日へ続きます……)

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