先日WOWOWシネマで、ハワード・ホークス監督・製作の'66年作品『エル・ドラド』を再見しました。ガンマンのジョン・ウェインが、女にふられて酒浸りとなっている保安官のロバート・ミッチャムを立ち直らせ、若者でナイフの名手にもかかわらず銃の腕前はだめなので散弾銃をぶっ放つジェームズ・カーンと、年老いた保安官助手とともに、小さい牧場を経営する一家から水の利権を強奪しようとしている大牧場主の雇った早撃ちのガンマンらと対決するという映画で、ほとんど『リオ・ブラボー』と同じストーリーでしたが、最初の方の酒場での銃撃戦の際、いきなりジョン・ウェインの顔のズームアップが短いショットで挿入されたり、最後の銃撃戦でも、一発一発の銃弾の重みが感じられる作りとなっているなど、新たに再認識した部分も多くありました。あらすじの詳細については、私のサイト・ Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Movies」の「ハワード・ホークス」のところにアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。
さて、岡野宏文さんと豊崎由美さんの対談本『読まずに小説書けますか』の中で紹介されていた、大塚英志さんの'03年作品・文庫本版『物語の体操』を読みました。
著者はこの本を通じて、小説を書く力はどこからどこまでが凡人の真似できないもので、どこまでならば凡人にも真似したり学習できてしまうものなのか、その線引きをしてみようと書いていて、その作業は結果として小説を書くという行為を徹底してマニュアル化していくことにもつながり、そこで小説を書くという「宿命づけられた」行為をどこまで普通の人々に「開いて」しまえるかを実験してみようと書いています。そこで先ず普通の人が小説を書こうとする時に問題となるのは、どのような〈おはなし〉を作るか、ということです。著者は一つの試みとして、抽象的な24個の概念(例えば、「知恵」だとか、「生命」だとか、「信頼」だとか)をカードに書き、それから6枚をアトランダムに選んで並べ(その際、文字が逆さまだったら、そのままに並べ)、それぞれに「主人公の現在」「主人公の近い未来」「主人公の過去」「援助者」「敵対者」「結末」という意味を付与して、物語を作り出す訓練を提示します。次に、物語を抽象化していくと表面上の違いが消滅して「同じ」になってしまう水準があり、それを「物語の構造」と呼ぶとして、手塚治虫の『どろろ』の物語の構造を「盗作」して「英雄神話」の構造を体験し、その次には村上龍を「盗作」して、「みるみる物語が作れる」ようになる自分に驚いてほしいと著者は言います。次には、主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手に著者が以前に作った「死体運搬会社」のキャラクターを当てはめ、様々な物語を作る訓練を提示し、次に村上龍における小説技術の分化、すなわち「物語」と「世界観」の分離について説明し、さらに「行きて帰りし物語」や「仮の家」を通過して大人になる物語を自ら生み出せるようになった上で、つげ義春のマンガのノベライズを通して、私小説の陥穽について述べられています。
この本で一番感動的なのは、高橋源一郎さんによる解説の部分で、この本自体が失われた、あるいは失われつつある「小説」、あるいは「文学」を探し求める物語となっているという指摘でした。そういった点でも、「小説」もしくは「文学」への愛にあふれた本だと思います。小説を書こうと思っている方以外でも楽しめる本です。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
さて、岡野宏文さんと豊崎由美さんの対談本『読まずに小説書けますか』の中で紹介されていた、大塚英志さんの'03年作品・文庫本版『物語の体操』を読みました。
著者はこの本を通じて、小説を書く力はどこからどこまでが凡人の真似できないもので、どこまでならば凡人にも真似したり学習できてしまうものなのか、その線引きをしてみようと書いていて、その作業は結果として小説を書くという行為を徹底してマニュアル化していくことにもつながり、そこで小説を書くという「宿命づけられた」行為をどこまで普通の人々に「開いて」しまえるかを実験してみようと書いています。そこで先ず普通の人が小説を書こうとする時に問題となるのは、どのような〈おはなし〉を作るか、ということです。著者は一つの試みとして、抽象的な24個の概念(例えば、「知恵」だとか、「生命」だとか、「信頼」だとか)をカードに書き、それから6枚をアトランダムに選んで並べ(その際、文字が逆さまだったら、そのままに並べ)、それぞれに「主人公の現在」「主人公の近い未来」「主人公の過去」「援助者」「敵対者」「結末」という意味を付与して、物語を作り出す訓練を提示します。次に、物語を抽象化していくと表面上の違いが消滅して「同じ」になってしまう水準があり、それを「物語の構造」と呼ぶとして、手塚治虫の『どろろ』の物語の構造を「盗作」して「英雄神話」の構造を体験し、その次には村上龍を「盗作」して、「みるみる物語が作れる」ようになる自分に驚いてほしいと著者は言います。次には、主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手に著者が以前に作った「死体運搬会社」のキャラクターを当てはめ、様々な物語を作る訓練を提示し、次に村上龍における小説技術の分化、すなわち「物語」と「世界観」の分離について説明し、さらに「行きて帰りし物語」や「仮の家」を通過して大人になる物語を自ら生み出せるようになった上で、つげ義春のマンガのノベライズを通して、私小説の陥穽について述べられています。
この本で一番感動的なのは、高橋源一郎さんによる解説の部分で、この本自体が失われた、あるいは失われつつある「小説」、あるいは「文学」を探し求める物語となっているという指摘でした。そういった点でも、「小説」もしくは「文学」への愛にあふれた本だと思います。小説を書こうと思っている方以外でも楽しめる本です。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)