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大塚英志『物語の体操』

2012-05-31 06:32:00 | ノンジャンル
 先日WOWOWシネマで、ハワード・ホークス監督・製作の'66年作品『エル・ドラド』を再見しました。ガンマンのジョン・ウェインが、女にふられて酒浸りとなっている保安官のロバート・ミッチャムを立ち直らせ、若者でナイフの名手にもかかわらず銃の腕前はだめなので散弾銃をぶっ放つジェームズ・カーンと、年老いた保安官助手とともに、小さい牧場を経営する一家から水の利権を強奪しようとしている大牧場主の雇った早撃ちのガンマンらと対決するという映画で、ほとんど『リオ・ブラボー』と同じストーリーでしたが、最初の方の酒場での銃撃戦の際、いきなりジョン・ウェインの顔のズームアップが短いショットで挿入されたり、最後の銃撃戦でも、一発一発の銃弾の重みが感じられる作りとなっているなど、新たに再認識した部分も多くありました。あらすじの詳細については、私のサイト・ Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Movies」の「ハワード・ホークス」のところにアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

 さて、岡野宏文さんと豊崎由美さんの対談本『読まずに小説書けますか』の中で紹介されていた、大塚英志さんの'03年作品・文庫本版『物語の体操』を読みました。
 著者はこの本を通じて、小説を書く力はどこからどこまでが凡人の真似できないもので、どこまでならば凡人にも真似したり学習できてしまうものなのか、その線引きをしてみようと書いていて、その作業は結果として小説を書くという行為を徹底してマニュアル化していくことにもつながり、そこで小説を書くという「宿命づけられた」行為をどこまで普通の人々に「開いて」しまえるかを実験してみようと書いています。そこで先ず普通の人が小説を書こうとする時に問題となるのは、どのような〈おはなし〉を作るか、ということです。著者は一つの試みとして、抽象的な24個の概念(例えば、「知恵」だとか、「生命」だとか、「信頼」だとか)をカードに書き、それから6枚をアトランダムに選んで並べ(その際、文字が逆さまだったら、そのままに並べ)、それぞれに「主人公の現在」「主人公の近い未来」「主人公の過去」「援助者」「敵対者」「結末」という意味を付与して、物語を作り出す訓練を提示します。次に、物語を抽象化していくと表面上の違いが消滅して「同じ」になってしまう水準があり、それを「物語の構造」と呼ぶとして、手塚治虫の『どろろ』の物語の構造を「盗作」して「英雄神話」の構造を体験し、その次には村上龍を「盗作」して、「みるみる物語が作れる」ようになる自分に驚いてほしいと著者は言います。次には、主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手に著者が以前に作った「死体運搬会社」のキャラクターを当てはめ、様々な物語を作る訓練を提示し、次に村上龍における小説技術の分化、すなわち「物語」と「世界観」の分離について説明し、さらに「行きて帰りし物語」や「仮の家」を通過して大人になる物語を自ら生み出せるようになった上で、つげ義春のマンガのノベライズを通して、私小説の陥穽について述べられています。
 この本で一番感動的なのは、高橋源一郎さんによる解説の部分で、この本自体が失われた、あるいは失われつつある「小説」、あるいは「文学」を探し求める物語となっているという指摘でした。そういった点でも、「小説」もしくは「文学」への愛にあふれた本だと思います。小説を書こうと思っている方以外でも楽しめる本です。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

溝口健二監督『女性の勝利』その2

2012-05-30 05:05:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 河野の家にいずらくなったみち子は実家に帰り、母から河野家を出て戻って来いと言われ、ひろ子からも「お姉さんは自立すべきだ」と言われますが、思い切れず、とぼとぼと河野家に戻っていきます。
 そんな折り、浅倉の母が姿を消し、自宅に戻っているところを発見されますが、浅倉の母は自分がみち子の家に面倒をかけていると思い、身を引こうとしているのでした。そんな浅倉の母を温かく迎えるみち子の家族。みち子は河野から借りたものを全て返してしまいたいので、家を売ってほしいと母に言うと、母もうなずきます。
 いよいよ浅倉の裁判の結審が始まろうとしているその時、山岡が危篤との連絡がひろ子に届きます。駆けつけたひろ子は山岡から励まされ、自分個人のためでなく社会みんなのために闘って来てくれと言って、ひろ子を送り出します。
 浅倉の裁判の結審が始まります。検事の河野は、計画的殺人として、浅倉に懲役5年を求刑しますが、ひろ子は河野が女性の社会的立場に対して無知であると指摘し、男性優位の封建的社会が今回の事件の背景にあり、なぜ浅倉がわが子を窒息死させるに至ったかを詳細に語ります。それに対して、法律にしたがって厳正に処罰すべきだと河野が反論すると、ひろ子は河野が戦時中に軍閥の言いなりになって、自由主義者を次々に刑務所に送った過去を暴くと、河野は下を向いてしまいます。ひろ子はさらに、浅倉の夫が工場の不正の犠牲者となって死んだことを述べ、法は民衆の敵であってはならず、裁判、そして法は人を罰するためにあるのではなく、人を愛せる社会を作り出すためにあるのだと主張します。
 そこまでひろ子が述べたところで、法廷は一旦休憩となり、浅倉の母は感激してひろ子に駆け寄り感謝の言葉を言って泣き出します。そこへ山岡が亡くなったとの知らせが入り、彼が最後までひろ子に感謝していたということも伝えられます。ひろ子が動揺しているところへ、開廷の知らせが入りますが、ひろ子の母はみち子の手紙をひろ子に渡し、みち子も実家に帰って自立する決心をしたことを知ります。そして決意にあふれた表情で法廷に向かうひろ子の姿を正面からとらえて、映画は終わります。

 浅丘がひろ子の家を訪れ、わが子を死なせてしまったことを告げるシーンはワンシーン・ワンカットで撮られていて、このシーンは浅丘を演じた女優さんの素晴らしい演技とともに、溝口監督しか撮れないであろう、見事なシーンとなっていました。それ以外にも奥の障子に人影が写ってから人が部屋に入って来るシーンなど、印象的なシーンが数多くあったと思います。知られざる溝口監督の名作の一つです。

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溝口健二監督『女性の勝利』その1

2012-05-29 05:56:00 | ノンジャンル
 溝口健二監督の'46年作品『女性の勝利』をWOWOWシネマで見ました。
 女性弁護士のひろ子(田中絹代)は同僚の女性弁護士と司法の民主化に取組もうとしています。ひろ子の婚約者だった自由主義者の山岡は戦時中に思想犯として懲役5年の刑を終え、出所しますが、結核を悪化させ、そのまま入院します。山岡が刑務所に入る時には彼との関係を絶つと母(高橋豊子)と約束していたひろ子でしたが、母との約束を破っても、これからも山岡を支えていくと彼女は宣言し、母もひろ子を山岡と結婚させるつもりだと言ってくれます。
 ある日、ひろ子の家に赤ん坊をおぶった女性が肉を売りに来ますが、それはひろ子が女学校の時の同級生の浅丘でした。それを指摘された浅丘は逃げるように去って行きます。彼女は病気で寝たきりの夫と年老いた母を一人で支えて生きているのでした。フェイドアウト。フェイドイン。
 山岡はひろ子に、自由を自分のものにすることが大事だと語ります。山岡に師事する学生たちも見舞いに来ます。ひろ子の姉・みち子(桑野通子)の夫である河野は検事で、戦時中に山岡を有罪と断罪した過去を持ち、戦後も検事を務めていました。みち子が山岡を見舞うと、山岡は河野への反感から彼女を追い返します。
 河野は帰宅すると、みち子が山岡を見舞ったことを叱り、自分のおかげでひろ子が弁護士になれたことを忘れるなと、みち子に言います。
 しばらくして、また路上で浅丘に会ったひろ子は、浅丘から彼女の窮状を聞き、別れますが、浅丘が家に帰ると夫は死んでいました。
 初七日を済ませた浅丘はひろ子宅を訪れ、遠慮する浅丘をひろ子は家に上げますが、浅丘はすやすやと眠るわが子を見て不憫に思い、抱きしめていたら子供が窒息死しまったこと、自分も夫とわが子の待つところへ行こうとしたが、残る母のことを考えて思いとどまったことをひろ子に言って泣き崩れ、ひろ子は彼女をなだめて出頭させることにします。
 浅丘に面会に行ったひろ子は、浅丘の母を自分が面倒みると言って浅丘を安心させます。一方、河野は女を馬鹿にする発言を家でし、みち子は障子の陰でそれを聞きます。
 山岡の結核はひどくなる一方、みち子は自分の誕生日なので自宅に来てほしいとひろ子を呼び出し、河野と対面させます。河野は法にしたがってさえいればいいという自分の主張をひろ子に押し付けようとしますが、ひろ子は男性中心主義の封建社会を打破する司法の民主化を主張し、みち子が仲を取り持とうとしますが、ひろ子は席を立ちます。河野は改めてひろ子を呼び、今回の裁判で自分が負ければ、ひろ子らが作る弁護士会に詰め腹を切らされ、出世できなくなるので、今回の裁判だけは手を引いてくれとひろ子に頼みますが、ひろ子は断り、別の人に浅丘の弁護人を替わってほしいと言うみち子に対しても「私はお姉さんを軽蔑します」と一刀両断に斬り捨てます。恐ろしい妹を持っていると言って、みち子をなじる河野の母。(明日へ続きます‥‥)

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小島信夫『馬』

2012-05-28 05:44:00 | ノンジャンル
 岡野宏文さんと豊崎由美さんの対談本『読まずに小説書けますか』の中で紹介されていた、小島信夫さんの'54年作品『馬』を読みました。
 僕はトキ子に愛の告白をしたことから結婚しましたが、未だに彼女からの返事は聞くことができず、ことあるごとに、僕が告白したことで彼女に負い目を感じながら生活しています。僕がある夜、家に帰ってみると、妻のトキ子が僕のために新たな家を建て始めていました。翌日、トキ子は棟梁を始め、大工たちから「ダンナ」と呼ばれて、テキパキと指示を出していて、僕はやがてそれが馬小屋であり、僕は2階に住むことになることを知ります。梯子を登り棟梁を追いかけようとした僕は、電線に触れて感電して転落し、気が付くと精神病院のベッドの上でした。トキ子は知人の競走馬・五郎を預かり、その預かり料で家が建つことになったことを新たに告げますが、その夜、病室の窓からは家の闇に消えるトキ子と男の姿が見えます。翌朝詰問する僕に対し、その男は僕だったと語るトキ子。僕は男は棟梁だったと考え、その夜、病院を抜け出しますが、すぐに病院の職員に捕まり、注射を打たれて眠らされます。気付くとトキ子は、家は既に完成し、馬ももう来ていると告げ、僕はトキ子と家に帰りますが、馬の部屋は家具調度まで取り揃えられた豪華な部屋で、トキ子は日中、馬とともに過ごし、馬は僕を軽蔑のこもった目で見るようになります。夜になると馬はドアを蹴って「奥さん、開けてください」と言いますが、僕は自分の頭がおかしくなった気がして階下に降りていけません。翌朝、昨夜のことをトキ子に尋ねると、逆に「馬が人間の言葉をしゃべって何が悪いの」と言い返されてしまいます。僕は馬は自分だったのかもしれないと思いますが、仕事を終わって家に帰ると、トキ子は自分の鏡台まで馬の部屋に持ち込み、馬のセーターまで編み始めます。さすがに頭に来た僕は馬に乗って走らせますが、逆に馬が僕に乗っている錯覚に陥り、家に帰ってくると、家からは棟梁が出てきます。それを見た馬は僕を振り落として「この野郎!」と言うと、棟梁の後を追って走り出します。僕は心身の疲労に堪えられず、トボトボと自分から精神病院めざして歩いていこうとしますが、それを見ていたトキ子は「あなた、待ってよ」と叫ぶと、「あなたは私を愛しているんでしょ。私のいう通りにしていればいいの、あなたはだんだんよくなるの。このあたりで、あんな二階のある家がどこにあって? あなたがいやなら私が出て行くわ‥‥私はホントはあなたを愛しているのよ。私のような女がいなければ、あなたはまともになれないの、ねえ分って?」と言って、僕ははじめてトキ子から「愛の告白」を聞くのでした。
 豊崎さんは村上春樹さんが著書『若い読者のための短編小説案内』の中における、この小説の粗筋紹介が素晴らしいと書いていましたが、実際に短編を読んでみて、どこがそんなに素晴らしいのか、よく分かりませんでした。村上さんは「家」や「棟梁」や「馬」に象徴的な意味を見い出すことで、この短編の「意味」を読み解いているのですが、私などは単純に「不思議な話」、「訳の分からない話」として読んだほうが楽しく読めるような気もしました。特に馬の存在感が圧倒的に面白かった短編だったように思います。

アキ・カウリスマキ監督『ル・アーヴルの靴みがき』その2

2012-05-27 05:42:00 | ノンジャンル
 昨日、水道橋で行われた光市事件弁護団報告会に行ってきました。事件当時18才1ヶ月だった被告人が最高裁差し戻し控訴審で死刑判決となった光市母子殺害事件のことです。報告会では4つの鑑定について鑑定を行った先生方の発表が約30分ずつあり、その後、供述再現実験ビデオ、そして最後に21名の弁護団の中から8人の弁護人の方が登壇され、安田好弘弁護人の司会の元、各弁護人への質疑応答という形で報告会が行われました。被告人、そして弁護団へのマスコミ、全国民挙げてのバッシングの中での判決でしたが、実際は計画性のない犯行であり、また父のDVにさらされ、母の首吊り死体を見て育った被告人の情状酌量部分も多くあることを初めて知りました。被害者の夫の方ばかりがマスコミによって喧伝された事件でしたが、再審開始を切に願うとともに、それに向けて努力されている多くの方を目の前にして感動しました。

 さて、昨日の続きです。
 リトル・ボブのコンサートは成功しますが、その日にアルレッティに服を届けるはずだったマルセルは自分が日時を間違えていたことに気付き、アルレッティへの服を紙に包み、イドリッサに届けさせます。
 翌日、モネ警視は早朝にマルセルを訪ね、すぐに荷物を捨てるように言うと、その直後、警察がやって来て家宅捜索を始めます。家宅捜索はイヴェットやジャン=ピエールの店にも及びますが、ジャン=ピエールは野菜を積んだ人力車にイドリッサを隠し、チャングとともに彼を港へ運びます。港で待っていたマルセルはイドリッサを漁船に乗せますが、そこへモネ警視が現れ、船底に隠れているイドリッサを発見します。そこへ警察の捜索隊がやって来ますが、モネ警視はこの船にイドリッサはいないと言って、彼らを去らせます。船は出港し、船底からデッキに出たイドリッサはル・アーヴルの町に別れを告げ、ロンドンの方向へ振り返ります。
 アルレッティの病院を訪ねたマルセルは、アルレッティのベッドが空で、届けさせた服の紙袋がその上に置いてあるのを発見します。看護婦に医者の元へ案内されるマルセル。医者は、これは奇跡で、以前上海で一度起こったことが報告されているだけだと言うと、カメラは黄色いドレスを着て立っているアルレッティの姿を捕らえ、彼女は「病気が治った」と言うのでした。
 二人して家に帰ると、庭の桜が満開に咲いていて、アルレッティが「食事の支度をする」と言うと、カメラはその満開の桜を画面一杯に捕らえるのでした。

 密告者が、以前やはりカウリスマキ監督の『コンタクト・キラー』で見たジャン=ピエール・レオに酷似しているように感じ、内心「レオに間違いない!」と思った瞬間から涙ぐんでしまいました。レオの顔は壮絶な顔となっていて、あの嵐のような60年代後半のフランス映画を、身を引き裂かれるような思いで生きたであろう彼の人生をまさに体現している顔であり、密告者の顔として(あるいは「映画」の顔として)、この映画の中でも突出したものだったと思います。ラストの大どんでん返しも、とても清清しいものでした。(場内で泣いていた方も結構いたようです。)また、静物を身近から撮るショットが、途中から「ブレッソンに似ているなあ」と思うようになったのですが、公式パンフレットに収められている監督へのクリスティーヌ・マッソンのインタビューの中で、映画的言及として最初に挙げられている名がブレッソンだったので、「やはり皆、そう感じているんだなあ」と思った次第です。マッソンは他にもベッケル、メルヴィル、タチ、ルネ・クレール、マルセル・カルネ(これはパンフレットのイントロダクションでも、主人公マルセル・マルクス、その妻アルレッティという名前に言及していました)という名前も挙げていましたが、私が思うには、圧倒的にブレッソンの映画に近いという印象があり、なるべく少ないショットで、ストーリーを観客に伝えていく手法がそっくりだと思いました。この映画がカウリスマキ監督の最高傑作だと言う人もいるそうなので、映画ファンの方は必見だと思います。映画館での上映はもうほとんどの地域で終わってしまっているようですが、少ないながらまだこれから上映する地域もあるようなので、是非ネットでチェックしてみてください。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/