昨日数年ぶりに映画館に行って来ました。見た映画は川崎アートシアタで、今は亡きエドワード・ヤン監督の’83年作品『台北ストーリー』。車のクラクションやオートバイの爆音、時折荒げる声を除けば、“静かな”映画でしたが、それだけに急に起こる2つの暴力シーンが突出して感じられました。また主演を演じていた若き日のホウ・シャオシェンの男っぷりの良さに魅了されました。詳細に関しましては、改めてこの場でお知らせいたします。
さて、また昨日の続きです。
僕は現地の子供たちとの接し方に困っていた。時々指を差され、名指しで何かを笑われていて、その度僕は、体が縮むような思いがした。僕は何度も、大人たちが注意してくれればいいのに、そう思った。でも彼らは皆、子供たちの狼藉を取り立てて叱らず、対応を僕ら子供たちに任せているようなところがあった。「圷さんはどうして笑うんだ、あいつらは敵だぞ。」でも僕は、もし「彼ら」が敵であっても、いや、敵であればあるだけ、卑屈に笑いかけてしまうのだった。僕は、安全な場所で、誰にも石を投げられない場所で笑顔を作り、しかし圧倒的に彼らを見下していたのだ。
僕らはカイロにいた4年間に、たくさんの国に出かけた。特にヨーロッパは、地中海を挟んですぐのところにあるので、「ちょっとそこまで」といった感じで、度々出かけた。父がパンフレットを広げ、どこに行きたいか、何をしたいかなどを僕たちに訊く。姉は「教会」と答え、母は「買い物!」の一点張りだった。母は、我々圷家のなかで、ダントツの俗物だった。そしてだからこそ、誰より旅行を楽しめる人でもあった。日本での圷家は、母の豪遊を許せるような経済状態にはなかった。だが、海外赴任というものは、とにかくお金が貯まる。父は母の奔放を許した。日本に帰ることが出来ないことを、一番悲しんでいたのは、僕だ。カイロ生活は楽しかった。楽しすぎると言ってもよかった。でも、僕にとってやはり日本はれっきとした故郷だったし、楽しい思い出のある土地だった。ある日、義一と文也から僕宛てに、裸の男の人が表紙になっている雑誌が送られてきた。僕はその雑誌を学校に持って行って、向井さんを驚かそうと思った。向井さんは絶句していた。そして僕らはその雑誌を、音楽教室の一番後ろの段ボール箱の下に隠した。だが翌週の全校朝礼で、校長先生が壇上に立ち、僕らにこう言い放ったのだ。「音楽室で、学校にふさわしくない雑誌が見つかりました。私はその雑誌を持ってきた生徒に言いたい。君は卑猥だとっ!」その言葉には、まるで、時間を止める呪文みたいな威力があった。(中略)
「キミハヒワイダトッ!」事件とときをほとんど同じくして、僕に新しい出会いがあった。僕はその日、母に頼まれて、近所のスーパーに卵を買いに行っていた。目当てのケースに手を出したとき、同時に手を出した人物がいた。それが、ヤコブだった。ふいをつかれた僕は、思わずケースを手に取ってしまった。ヤコブはにこっと笑って、自分は違うケースを手にした。そのときのヤコブの笑顔を、僕は忘れられないでいる。大人の笑い方だった。それも、とても高貴な大人の。店を出たヤコブの後を、僕はつけた。そして僕らは、友達となった。僕はほとんどスキップせんばかりの勢いで、家に帰り、台所に向かった。中で、母が泣いているのが分かった。動けなかった。母が泣いているのを見たことなど、一度もなかった。圷家の不穏な時代が、幕を開けようとしていた。
始まりは、一通の手紙だった。その日届いた手紙は、例に漏れずエアメールだった。一見してすぐに、女の人の字と分かった。僕が、アルファベットを読みあげたとき、母が立ち上がった。ガチャン、と、食器が大きく音をたてるほど、乱暴な立ち方だった。母は、急に僕の手から手紙を奪った。悪いのは僕じゃない。そう思った。でも、僕が読み上げた手紙のせいで、こんな不穏な雰囲気になっていることは、間違いなかった。
それ以降、僕は母を、なるべく見ないようにしていた。母は、もう急に立ち上がったりしなかった。だが、父と目を合わせなかった。
母が台所で泣いている声を聞いたとき、僕が最初に思ったのは、だから、「見たくない」ということだった。母はとうとう、リビングで堂々と泣くようになった。
僕はヤコブに夢中になった。堂々とした体躯と、気品のある態度がヤコブを大人に見せていることは確かだったが、それ以上に、ヤコブには人を受け入れる度量のようなものがあった。今でも覚えている、別れの言葉がある。「サラバ。」ヤコブは単純に「サラバ」を気に入った。そして僕らの「サラバ」は果たして、「さようなら」だけではなく、様々な意味を孕む言葉になった。「明日も会おう」「元気でな」「約束だぞ」「グッドラック」「ゴッドブレスユー」、そして「俺たちはひとつだ」。(また明日へ続きます……)
さて、また昨日の続きです。
僕は現地の子供たちとの接し方に困っていた。時々指を差され、名指しで何かを笑われていて、その度僕は、体が縮むような思いがした。僕は何度も、大人たちが注意してくれればいいのに、そう思った。でも彼らは皆、子供たちの狼藉を取り立てて叱らず、対応を僕ら子供たちに任せているようなところがあった。「圷さんはどうして笑うんだ、あいつらは敵だぞ。」でも僕は、もし「彼ら」が敵であっても、いや、敵であればあるだけ、卑屈に笑いかけてしまうのだった。僕は、安全な場所で、誰にも石を投げられない場所で笑顔を作り、しかし圧倒的に彼らを見下していたのだ。
僕らはカイロにいた4年間に、たくさんの国に出かけた。特にヨーロッパは、地中海を挟んですぐのところにあるので、「ちょっとそこまで」といった感じで、度々出かけた。父がパンフレットを広げ、どこに行きたいか、何をしたいかなどを僕たちに訊く。姉は「教会」と答え、母は「買い物!」の一点張りだった。母は、我々圷家のなかで、ダントツの俗物だった。そしてだからこそ、誰より旅行を楽しめる人でもあった。日本での圷家は、母の豪遊を許せるような経済状態にはなかった。だが、海外赴任というものは、とにかくお金が貯まる。父は母の奔放を許した。日本に帰ることが出来ないことを、一番悲しんでいたのは、僕だ。カイロ生活は楽しかった。楽しすぎると言ってもよかった。でも、僕にとってやはり日本はれっきとした故郷だったし、楽しい思い出のある土地だった。ある日、義一と文也から僕宛てに、裸の男の人が表紙になっている雑誌が送られてきた。僕はその雑誌を学校に持って行って、向井さんを驚かそうと思った。向井さんは絶句していた。そして僕らはその雑誌を、音楽教室の一番後ろの段ボール箱の下に隠した。だが翌週の全校朝礼で、校長先生が壇上に立ち、僕らにこう言い放ったのだ。「音楽室で、学校にふさわしくない雑誌が見つかりました。私はその雑誌を持ってきた生徒に言いたい。君は卑猥だとっ!」その言葉には、まるで、時間を止める呪文みたいな威力があった。(中略)
「キミハヒワイダトッ!」事件とときをほとんど同じくして、僕に新しい出会いがあった。僕はその日、母に頼まれて、近所のスーパーに卵を買いに行っていた。目当てのケースに手を出したとき、同時に手を出した人物がいた。それが、ヤコブだった。ふいをつかれた僕は、思わずケースを手に取ってしまった。ヤコブはにこっと笑って、自分は違うケースを手にした。そのときのヤコブの笑顔を、僕は忘れられないでいる。大人の笑い方だった。それも、とても高貴な大人の。店を出たヤコブの後を、僕はつけた。そして僕らは、友達となった。僕はほとんどスキップせんばかりの勢いで、家に帰り、台所に向かった。中で、母が泣いているのが分かった。動けなかった。母が泣いているのを見たことなど、一度もなかった。圷家の不穏な時代が、幕を開けようとしていた。
始まりは、一通の手紙だった。その日届いた手紙は、例に漏れずエアメールだった。一見してすぐに、女の人の字と分かった。僕が、アルファベットを読みあげたとき、母が立ち上がった。ガチャン、と、食器が大きく音をたてるほど、乱暴な立ち方だった。母は、急に僕の手から手紙を奪った。悪いのは僕じゃない。そう思った。でも、僕が読み上げた手紙のせいで、こんな不穏な雰囲気になっていることは、間違いなかった。
それ以降、僕は母を、なるべく見ないようにしていた。母は、もう急に立ち上がったりしなかった。だが、父と目を合わせなかった。
母が台所で泣いている声を聞いたとき、僕が最初に思ったのは、だから、「見たくない」ということだった。母はとうとう、リビングで堂々と泣くようになった。
僕はヤコブに夢中になった。堂々とした体躯と、気品のある態度がヤコブを大人に見せていることは確かだったが、それ以上に、ヤコブには人を受け入れる度量のようなものがあった。今でも覚えている、別れの言葉がある。「サラバ。」ヤコブは単純に「サラバ」を気に入った。そして僕らの「サラバ」は果たして、「さようなら」だけではなく、様々な意味を孕む言葉になった。「明日も会おう」「元気でな」「約束だぞ」「グッドラック」「ゴッドブレスユー」、そして「俺たちはひとつだ」。(また明日へ続きます……)