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西加奈子『サラバ!』その4

2017-06-30 06:11:00 | ノンジャンル
 昨日数年ぶりに映画館に行って来ました。見た映画は川崎アートシアタで、今は亡きエドワード・ヤン監督の’83年作品『台北ストーリー』。車のクラクションやオートバイの爆音、時折荒げる声を除けば、“静かな”映画でしたが、それだけに急に起こる2つの暴力シーンが突出して感じられました。また主演を演じていた若き日のホウ・シャオシェンの男っぷりの良さに魅了されました。詳細に関しましては、改めてこの場でお知らせいたします。

 さて、また昨日の続きです。
 僕は現地の子供たちとの接し方に困っていた。時々指を差され、名指しで何かを笑われていて、その度僕は、体が縮むような思いがした。僕は何度も、大人たちが注意してくれればいいのに、そう思った。でも彼らは皆、子供たちの狼藉を取り立てて叱らず、対応を僕ら子供たちに任せているようなところがあった。「圷さんはどうして笑うんだ、あいつらは敵だぞ。」でも僕は、もし「彼ら」が敵であっても、いや、敵であればあるだけ、卑屈に笑いかけてしまうのだった。僕は、安全な場所で、誰にも石を投げられない場所で笑顔を作り、しかし圧倒的に彼らを見下していたのだ。
 僕らはカイロにいた4年間に、たくさんの国に出かけた。特にヨーロッパは、地中海を挟んですぐのところにあるので、「ちょっとそこまで」といった感じで、度々出かけた。父がパンフレットを広げ、どこに行きたいか、何をしたいかなどを僕たちに訊く。姉は「教会」と答え、母は「買い物!」の一点張りだった。母は、我々圷家のなかで、ダントツの俗物だった。そしてだからこそ、誰より旅行を楽しめる人でもあった。日本での圷家は、母の豪遊を許せるような経済状態にはなかった。だが、海外赴任というものは、とにかくお金が貯まる。父は母の奔放を許した。日本に帰ることが出来ないことを、一番悲しんでいたのは、僕だ。カイロ生活は楽しかった。楽しすぎると言ってもよかった。でも、僕にとってやはり日本はれっきとした故郷だったし、楽しい思い出のある土地だった。ある日、義一と文也から僕宛てに、裸の男の人が表紙になっている雑誌が送られてきた。僕はその雑誌を学校に持って行って、向井さんを驚かそうと思った。向井さんは絶句していた。そして僕らはその雑誌を、音楽教室の一番後ろの段ボール箱の下に隠した。だが翌週の全校朝礼で、校長先生が壇上に立ち、僕らにこう言い放ったのだ。「音楽室で、学校にふさわしくない雑誌が見つかりました。私はその雑誌を持ってきた生徒に言いたい。君は卑猥だとっ!」その言葉には、まるで、時間を止める呪文みたいな威力があった。(中略)
 「キミハヒワイダトッ!」事件とときをほとんど同じくして、僕に新しい出会いがあった。僕はその日、母に頼まれて、近所のスーパーに卵を買いに行っていた。目当てのケースに手を出したとき、同時に手を出した人物がいた。それが、ヤコブだった。ふいをつかれた僕は、思わずケースを手に取ってしまった。ヤコブはにこっと笑って、自分は違うケースを手にした。そのときのヤコブの笑顔を、僕は忘れられないでいる。大人の笑い方だった。それも、とても高貴な大人の。店を出たヤコブの後を、僕はつけた。そして僕らは、友達となった。僕はほとんどスキップせんばかりの勢いで、家に帰り、台所に向かった。中で、母が泣いているのが分かった。動けなかった。母が泣いているのを見たことなど、一度もなかった。圷家の不穏な時代が、幕を開けようとしていた。
 始まりは、一通の手紙だった。その日届いた手紙は、例に漏れずエアメールだった。一見してすぐに、女の人の字と分かった。僕が、アルファベットを読みあげたとき、母が立ち上がった。ガチャン、と、食器が大きく音をたてるほど、乱暴な立ち方だった。母は、急に僕の手から手紙を奪った。悪いのは僕じゃない。そう思った。でも、僕が読み上げた手紙のせいで、こんな不穏な雰囲気になっていることは、間違いなかった。
 それ以降、僕は母を、なるべく見ないようにしていた。母は、もう急に立ち上がったりしなかった。だが、父と目を合わせなかった。
 母が台所で泣いている声を聞いたとき、僕が最初に思ったのは、だから、「見たくない」ということだった。母はとうとう、リビングで堂々と泣くようになった。
 僕はヤコブに夢中になった。堂々とした体躯と、気品のある態度がヤコブを大人に見せていることは確かだったが、それ以上に、ヤコブには人を受け入れる度量のようなものがあった。今でも覚えている、別れの言葉がある。「サラバ。」ヤコブは単純に「サラバ」を気に入った。そして僕らの「サラバ」は果たして、「さようなら」だけではなく、様々な意味を孕む言葉になった。「明日も会おう」「元気でな」「約束だぞ」「グッドラック」「ゴッドブレスユー」、そして「俺たちはひとつだ」。(また明日へ続きます……)

西加奈子『サラバ!』その3

2017-06-29 04:31:00 | ノンジャンル
 冤罪で10年間刑務所生活を強いられていた原口アヤ子さんの再審が決定しました。原口さんは逮捕後から一貫して無罪を主張。裁判でも自白という状況証拠だけで有罪となり、出所後、一度は再審開始の決定が地方裁判所で出たものの、高裁が取り消していました。現在話題になっている青森の青酸カリ連続殺人事件もそうですが、状況証拠だけで有罪というのは、いいかげん止めてほしいと思います、裁判の鉄則「疑わしきは罰せず」。この原点に戻って、裁判所、検察、警察いずれにも猛省を促したいと思いました。

 さて、また昨日の続きです。
「第二章 エジプト カイロ、ザマレク」
 僕たちは、慌ただしくエジプトに引っ越しする準備を始めた。ホームルームが終わると、同級生たちはみな、僕の周りに集まってきた。僕は幼稚園と同じく、小学校のクラスでも人気があったが、持ち前の性格から、率先して皆の中心になろうとはしなかった。引っ越しの準備をする段になって初めて、僕と母は姉の部屋を見ることになった。姉が毎日壁に、天井に何を描いていたのか、とうとう知ることが出来たのだ。姉の部屋に足を踏み入れた途端、僕と母は絶句した。壁や天井の一面に、巻貝が描かれていた。すべての巻貝が同じ形、同じ大きさだった。しかもそれは絵ではなく、壁を削り取って描かれたものだった。カイロに着いた僕が眩暈に襲われたのは、酸っぱい、目に染みるようなにおいだった。空港を出ると、また新しいにおい、豆をフライパンで炒ったようなにおいが漂っていた。有料トイレの管理人に腹を立てた母と姉は、本当に珍しく、意見を交わしていた。僕は嬉しかった。
 空港には父が迎えに来てくれていた。僕たちの住むのは、フラットと呼ばれる建物だった。マンションのようなものだ。これを豪邸と言わずして、何を豪邸と言うのだ。僕は一夜にして、王様になった気分だった。
 エジプトの人は圧倒的にイスラム教徒が多かった。「僕らもイスラム教になるん?」「ううん、ならんでええよ。」「そもそも、あたしたちって何教徒なの?」姉は、この質問を今まで思いつかなかったことを、驚いていた。「仏教徒や。正確に言うと、浄土真宗ってやつ。」熱い紅茶を飲んで、口の中を火傷し、僕はこれからエジプトで暮らすんだと思った。
 休みの日、父の運転で外出をした。ここでは車線がないので、どの車がどこを走るかは、運転手任せなのだった。追い越しや合流もひどく父は何度もブレーキを踏み、クラクションを鳴らした。そんな乱暴な道路を、おじさんやおばさん、子供までが横断していることに驚いた。
 僕は、3,4日もすれば、「カイロはこういう街なのだ」と思うようになっていた。肉屋の新鮮な軒先に牛がそのまま吊り下げられているのも、すれ違う男の人たちの強烈なにおいも、すぐに日常になっていった。
 お手伝いのゼイナブは、母に生活する上で必要な様々なことを教えた。ゼイナブが来てからというもの、母はみるみる輝きだした。一方、ゼイナブがお祈りのやり方を教えると、姉はゼイナブよりも正確な時間に、熱心に祈りをするようになった。エジプシャンは、とにかく人懐っこい。そして子供が大好きだ。
 僕と姉は、日本人学校に通うことになった。姉は5年生、僕は1年生の9月からの編入だ。僕の関西弁は、皆を驚かせたが、僕も、新しい環境に驚かされた。ひとつは、学校がひとつの邸宅を改造したものだということだった。クラスメイトの皆が「さん」づけで呼び合うことにも驚いた。とにかく、僕たちはとても自由な環境にあったのだ。その環境は、姉にもいい影響を及ぼした。姉のクラスメイトはおおむね大人だった。理由のひとつに、僕たち子供と大人たちとの、距離の近さがあった。同級生のお父さんが教師でいるような場所だ、少ない人数を担当している教師と僕らの距離は、日本のそれとは比べ物にならなかった。姉は、自分があまりに速やかに受け入れられたことに、初め戸惑っていたが、それをきちんと喜べるくらいには、大人になっていた。その変化を、母はもちろん喜んだ。姉が、どこで見つけてきたのか分からないボロボロの作業着や、父のワイシャツをちぎったものではなく、母が選んだ服を着るようになったのだから。ということで、カイロでの圷家の生活は、いくつかの驚きと共に、ほとんど健やかに、そして明るく流れて行った。
 夏枝おばさんは、冬服と一緒に手紙を同封してくれていた。母が手紙を読んでいる間、姉はソファに座って、頬杖をついていた。姉はいったい、このソファというやつを、とても気に入っていた。僕はというと、女の子のことを、誰も好きにはなっていなかった。その代わり、僕にとって非常に重要な出来事があった。学校で親友が出来たのだ。向井輝美(むかいてるみ)という。女じゃない。僕は会員証を作ってもらい、向井さんと、ことあるごとにスポーツクラブに入り浸った。ここにいる皆は、いつか会えなくなる友達なのだ。幼かった僕らは、どこかでそれを分かっていた。だからこそ、その時間を大切にした。(また、明日へ続きます……)

西加奈子『サラバ!』その2

2017-06-28 02:52:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 姉の家出時間が7時間を記録した翌日、とうとう両親は、新居を見つけてきた。家族4人が初めて住む家として、これ以上理想的な家はなかった。ベランダが、そして自分だけの部屋が嬉しかったのか、姉は矢田のおばちゃんや夏枝おばさんを、それほど恋しがらなかった。姉は早々に自分の城を築き上げることに専念し、一日のほとんどを部屋で過ごすことになった。
 姉は小学校に行くことになった。僕はいつだって良い子にしていた。子供にとって大切なものは、食事から取る栄養だけではない。母や、母に類するものや、やはり大人からの愛情である。
 当時、僕の通う幼稚園では、クレヨンを交換する、ということが流行っていた。ピンク色を一番多く集められている女の子が一番人気で、青色を一番集められてい男の子が一番人気、というわけである。結果一番ピンクを集めていたのは「なかの みずき」という女の子だった。「なかの みずき」はクレヨンのトレードが始まって数ヵ月経っても、彼女のクレヨン箱の中には、まだ青が残っていた。そして「なかの みずき」の他に重大な決定を下していない園児がいた。僕だ。だが僕はすでに渡していたのだ。僕の「心の中のピンク色のクレヨン」を。それは「みやかわ さき」という女の子だった。彼女は大体いつもひとりでいた。僕が「みやかわ さき」に惹かれたのは、まさにそういうところだった。「みやかわ さき」は、「クレヨンを、好きな色と交換する」という、表面上の遊びの方に夢中になったのだ。「みやかわ さき」の好きな色は、緑色だった。僕は「これあげる。」と言って、「みやかわ さき」に緑色のクレヨンを見せると、「みやかわ さき」の大きな黒目が、ぎゅうんと横に伸びた気がした。見下した「みやかわ さき」のクレヨン箱の中には、ピンク色がまだ残っていた。それは「みやかわ さき」が自主的に取っておいたピンク色だった。「ほな、これあげる。」「みやかわ さき」が選んだのは「はだいろ」だった。僕はその場で、立ち尽くしてしまった。
 姉は相変わらず、小学校の問題児だった。幼いときは、ただただ泣き喚く、暴れる、といった態度を取っていた姉だったが、長じるにつれ、何か思う通りにいかないときには、てんかんの発作のようなものが出るようになった。母は僕に優しい言葉をかけてくれたが、それが本心から発されている言葉でないということは、幼い僕でも分かった。母は、こんなことは何でもない、私たちは万事OK、そう自分に言い聞かせるために、優しい母をことさら演じたのだ。その頃の僕にとって、毎日はばら色、とまではいかなかったが、おおむね良い色だった。
 僕は、姉と同じ小学校に入学した。小学校では相変わらずやらかし続けていた姉だったが、姉の周囲にいるクラスメイトの態度には、変化が見られるようになっていた。低学年のときは、皆姉を恐れた。乱暴者、得体の知れない人物として。姉を遠巻きに見ていた。だが中学年になり、高学年になってくると、皆姉の狼藉を疎ましく思うようになった。そして、ある日、姉を徹底的に傷つける言葉が誕生してしまった。「圷さんって、ご神木みたいやない?」その瞬間の皆の、けたたましい笑い声を、姉は忘れなかった。彼らは自分たちの間に格差があることを知り、世の中には傷つけてもいい人がいることを認識した。「おい、ご神木!」姉は皆のその感情を一身に受けた。中学入学後2日目に、姉の同級生が、僕のクラスに顔を出した。「お前の姉ちゃん、ご神木って呼ばれてんねんぞ。知ってるか?」だが、僕がとりたてて突っ込むべき要素がないのを見て取ると、去っていった。姉は夕食にもほとんど手をつけなかった。「アンネ・フランクの人生を思うにつけ、自分はのん気にご飯を食べることなんて出来ない。ご飯を食べないことによって私はアンネの気持ちになろうとしているのだ。」姉の思いは強かった。一方、いとこのまなえは、そんな姉を馬鹿にした。「ほなあんたは、アンネみたいに毒ガスで死ねるん?」姉のマイノリティ願望が「辛い思いを知っている人間になりたい」というものなら、まなえのそれは、「自分はお嬢様でしかも可愛い。選ばれた人間になりたい」というものだった。また僕のいとこの義一と文也は僕にゲイの雑誌を見せて、僕を笑った。5月に入って、僕と姉は誕生日を迎えた。ある日、珍しく早く帰ってきた父が、僕に一緒に風呂に入ろうと言ってきた。そこで父は僕らの家族がエジプトに行くことになったことを告げた。(また明日へ続きます……)

西加奈子『サラバ!』その1

2017-06-27 03:49:00 | ノンジャンル
 西加奈子さんの’14年作品『サラバ!』を読みました。
「第一章 猟奇的な姉と、僕の幼年時代」
 僕はこの世界に、左足から登場した。とても僕らしい登場の仕方だと思う。まるきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。僕の後の人生を暗示したかのようにその出産は、日本から遠く離れた国、イランで起こった。母の人生は直観によって成り立っていた。僕の名前である「歩」を決めたのも、母だった。父の赴任先であるイランを決定したのも、母の直観だった。僕がこの世界に登場したとき、ふたりはまだ、別れていなかった。それどころか深く愛し合っていた。1977年、5月のことだ。母は僕を28歳で産んだ。なので、そんなに若い、というわけでもなかった。だが、僕の友人たちは、度々母のことを綺麗だと言ったし、綺麗とは言わないまでも、若いとは絶対に言うのだった。父は身長が183センチもあった。ハンサムではないが、それこそ、一見して信頼に値すると言っていい、実直さにあふれた顔だった。僕の誕生の3年前に、姉が生まれた。僕の家を、のちに様々なやり方でかき回すのがこの姉、貴子なのだっだが、世界にたいして示す反応が、僕の場合「恐怖」であるのに対し、姉は「怒り」であるように思う。とにかく姉は、その場所で一番のマイノリティであることに、全力を注いでいた。姉は容姿にも少し問題があった。あの両親から生まれて来た割に、可愛い、とは言えなかったのだ。母にとって姉は、得体の知れない、手に負えない子供だった。だから我々圷家では、「母vs姉、そしてその間をオロオロと揺れ動く父」という図式が、盤石な態勢で、長きに渡って顕在していた。僕は、母と姉の対立には、徹底して静観を貫いていた。しかし、日本から遠く離れたイランで、僕たち4人は、とても幸福な家族だったのだ。
 出産しても、自分の生活スタイルをなるべく変えたくない母だったが、だからこそ、なるべく子供の意見を尊重したいと思っていた。とにかく幼かった姉は、「話をすれば分かってくれる」「愛情をこめて接すれば理解してくれる」という範疇にはなかった。様々な新しい何かを始める姉に対し、母はほとんどノイローゼのようになっていたのだ。僕はテヘランには、1歳半くらいまでしかいなかった。ホメイニによる革命が勃発したからである。
 帰国した僕たちは、大阪の小さなアパートで暮らした。僕たちが住んだのは、2階の角部屋だった。矢田のおばちゃん(母がそう呼んでいた)は、その下の階に住んでいた。おばちゃんはあれこれと世話を焼いてくれた。矢田のおばちゃんは、姉を手なずけることに、完全に成功していた。おばちゃんの背中には、立派な弁天様が彫られていた。とにかくともて優しいが、迫力のある人だった。アパートには、母の母、つまり僕たちの祖母も来てくれていた。母の一番上のおばさんは好美おばさん、二番目は夏枝おばさんといった。姉は、この夏枝おばさんにも、よくなついた。おばさんは、三人姉妹の中でひとり、結婚していなかった。祖母も、好美おばさんも、僕たちのことを可愛がってくれた。でも可愛がり方が大げさだった。しばらく遊んでいると、飽きてしまい、いずれ大人たちだけで話を始めてしまうのだ。そんな中、いつまでも遊んでくれるのが夏枝おばさんだった。美人で、しかもひとりで生きていける能力を持った女、ということで、最強だったのは祖母だ。祖父が死んだのは、僕の母が12歳になった頃だった。それから祖母は好美おばさんを短大にやり、14歳の夏枝おばさんと母の学費をひとりで払った。遅れてイランから帰国した父の膝に、姉は母を睨みつけながら乗り、絶対にそこから降りなかった。風呂に入りたい父が降りてくれと頼んでも、夕飯を食べる段になっても、決して。また我慢できなきうなった母が姉を怒鳴ったが、姉は母に怒鳴られれば怒鳴られるほど、頑なに動こうとしなかったのだった。姉のようなタイプには、早々に自分の部屋を与えたほうがいいのだ。ということで両親は、父が帰国してすぐに家探しを始めた。夏枝おばさんは、僕らを毎日、近所の神社に連れて行ってくれた。新居が見つかるまでの数週間、姉の中で「葬式ごっこ」というのが流行った。いずれ捨ててゆくこの家に、姉なりの郷愁を感じていたのかもしれない。そこで父が姉に買ってきたキツネのぬいぐるみが早々と土に埋められることになった。それを知った母は激怒した。「あんたには悪魔がついてんのか!」母は母なりに、姉に愛情を注いでいた。しかしそれは姉が望んでいたものではなかった。姉は、私は悪魔の子なのだ、という、いかにも姉の好きそうなストーリーを、でっちあげてしまったのだ。(明日へ続きます……)

ポール・ヴァンホーヴェン監督『ショーガール』その3

2017-06-26 04:59:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 クリスタルに皮肉を言うノエミ。モリーに「あなたの言う通りだった」。ケイ「ショーよ! 行って!」。
 ショーが始まる。娘のことで悪口を言われたダンサーが、ビー玉を舞台に転がす。それで転ぶ、さっき娘の悪口を言ったダンサー。
 「脚が……」「原因はこれだ。可哀そうに」「全治3か月だ」。ノエミに「お母さんが来てるぞ」。前の職場の巨乳ダンサー、ヘンリーとアルが来ている。アル「ここの仕事、楽しいか?」「あんたがいなくなって淋しいわ」「ショーを見たけど良かったよ。頑張れよ」。(中略)
 ノエミ、ザックの車に乗っている。「こんな車、初めて」。
 ザックの家。シャンパン。「クリスタルは好き?」「シャンパンの銘柄にはこだわらない」「いく時のあなたが好き」。ノエミ、全裸になりプールへ飛びこむ。噴水が出る。ザックも全裸になりプールへ。プールで乾杯し、抱き合い、キスし、ノエミ、潜り、フェラ。プールの中でセックス。激しく動くノエミ。ザックがイッた後キスする2人。
 「帰るなよ」「もう朝よ。タクシーが来るわ」「新しい代役がある。正午にオーディションだ」。
 タクシーで自宅へ。モリー「朝帰りね。ザックにあまり深入りしない方がいいわ」。
 オーディション。ザック、クリスタルに「君はもう若くない」クリスタル「くそったれ」。1人で踊るノエミ。「あの子とやったのね」「嫉妬で狂ったか? 図星だろ?」。クリスタル、去る。
 「代役を狙って彼と寝たわね」「いろんな才能をお持ちね」と他のダンサーの冷たい目。
 ノエミ「今朝までオーディションがあることは知らなかった」クリスタル「ネイルは負けるわ」「いつかしてあげる」「優しいのね。友だちだから? でもどうしよう。私の年にあなたのようなネイルは合わないわ。娼婦のネイルね」。ノエミ、去る。
 ネオンを浴び、屋上で食事をするノエミ。
 舞台上にジェームズ。ヤジとブーイング。舞台を降りたジェームズにノエミ「素敵だった」「何しに来た? 俺はクソアマと結婚する。妊娠したんだ。踊りも諦める。雑貨屋でもやる。ベビーフードも安く手に入るしな」。ノエミ、ジェームズの頬にキス。(中略)
 「クリスタルが弁護士を立てて来た」。
 クリスタルとその取り巻き。「ネイル、してくれる?」。
 ショー。クリスタル、ノエミとのからみで、彼女を押し倒す。挑発するクリスタル。ショーの後、ノエミはクリスタルを階段で押し、クリスタルは階段を転がり落ちる。
 ストレッチャーに乗せられるクリスタル。
 「軽い脳震盪、それに骨盤を複雑骨折」「しかしショーは続けねば」「復帰させるには1年かかる」ザック「方法は一つだ。ここはベガス。賭けるんだ」。
 「新しい女王、ノエミ・マローン!」の呼び出し。挑発的に踊るノエミ。ザック微笑む。拍手喝采。
 インタビューを受け、絶賛されるノエミ。ザックとキス。
 「君のためのパーティに。アンドリュー・カーヴィーも来る」とザック。(中略)
 パーティでも注目の的のノエミはティアラをもらう。モリーはアンドリューを紹介される。“ノエミ・マローン 女神”と仕掛け花火。
 ザックとノエミはメローなダンス。一方、モリーはアンドリューに連れられ別室に行くと、男2人が待っていて、暴力を振るわれ、レイプされる。傷だらけの体で現れるモリーは倒れる。
 医師「ショック状態で、鎮静剤を打ってある。鼻の骨折、膣に裂傷」(中略)
 ノエミ、警察に電話をしようとすると、ザック「やめろ、ポリー。なぜ分かったかって? クラブで逮捕されたときに指紋を照合したのさ。本名ポリー・コステロ。父は妻を殺し自殺。’90年12月に里親の許から逃亡。デンバーで逮捕。容疑、売春。サンホゼでも逮捕。容疑、売春。シャイエンでも逮捕。容疑、売春。クラック、コカイン、武器を使った暴力。どうして客を取るのをやめた?」「生きるためよ」(中略)「アンドリューはスターだ。いずれここにも出る。モリーにはブティックを開く金を渡そう。君の値段は?」「50ドル、時に100ドル」「安すぎだな」。ノエミ、ザックの顔に唾を吐きかけて去る。「褒めたんだぞ」。(中略)
 アンドリューの許を訪れたノエミはナイフで脅し、コテンパンに蹴っ飛ばす。(中略)
 薬のせいで眠っているモリーに「モリー、カーヴィーに会ってきた。死ぬほど蹴とばしてきた。好きよ」と涙ぐむ。
 ノエミ、クリスタルの病室も見舞う。「私も昔同じことをして役をつかんだ。そろそろ引き際だった。キスして。お別れね」と帽子をノエミに被せる。
 ノエミ、ヒッチハイク。「お前、ついてるぞ。ギャンブルに勝ったのか? 何を手に入れた?」「自分よ」とナイフを取り出す。「スーツケースを返して」。“ノエミ・マローン 女王”の看板を映したカメラが上がっていき、映画は終わる。

 見ていてヒリヒリするような皮膚感覚を覚えた映画でした。演出がすごいと思います。