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山田詠美『珠玉の短編』その10

2017-11-08 15:10:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 私は新入りに飛び掛かり、彼女を倒して馬乗りになった。しかし、新入りの方が若いから身のこなしは敏捷で、あっと言う間に形勢は逆転した。何度かくり出した私のパンチは、どれも空振りで宙を切っていた。その内に、私は彼女のいいようにされ、何発も殴られた。カウンターの中から出て来たチーフにバケツの水を浴びせられた。「二人共、愁嘆場、演じてる暇があったら、ひとりでも多く同伴して来い!」美樹生は、事の顛末を知って、私を激しくなじったのだった。「あーもー、ジェリーちゃん、おれの大事な客なのに!」ねえ、その女、何人目のジェリーちゃん? 私の心は、怒りのあまりに、ほとんど爆発してしまいそう。ロックなんか、とんと縁のなかった私だって、今となっては、ミック・ジャガーがジェリー・ホールというモデルと結婚していたのを知っている。「今、メールしてたの、何人目のジェリーなの?」「ジェリーじゃねえよ」「じゃあ、誰?」「マリアンヌちゃん」私は、その昔、ミック・ジャガーがマリアンヌ・フェイスフルという歌手と恋人同士だったことも知っている。殺したい。もう、何回、そう思ったっけ。十回? 二十回? 百回?それこそ百万回思うまで続くんじゃないだろうか、この深い仲。殺したいほどの憎しみ。でも、すぐにリセットされて、新しい愛情は湧いて来る。リセットボタンになるのは、たった一度の口づけで充分。あるいは、たったひと言の甘い言葉でも。見くびられている。それは、解る。でも、必要ともされているのだ。愛憎相なかばする充実した日々を精一杯生きていた私だ。しかし、とうとう恐れていた日がやって来てしまったのだった。私は、美樹生との憐れな勉強から覚えた佳人薄命という言葉が怖くてならなかった。某美人女優が病気で早死にしたという話題が出た時に、だから私は長生きする、という結論を導き出した彼が使った言葉。「おれみたいな美少年は、だから、わりに早く死んじゃうのかも」美樹生との関係は、唐突にちょん切れた。ある日の明け方、彼は、路上で死んでいた。彼は、ホストとして働いていた店で、ずい分とあこぎな枕営業を持ちかけていたという。恨みを持つ人間が多過ぎて、誰にぶちのめされたのかが解らないらしい、とは、別の店で働く真紀の恋人の報告だ。道端で嗚咽していた私に、大丈夫ですか? と声をかける人がいた。明美ちゃん、と彼は、私を呼んだ。たまに寄る薬局のお兄さんだった。明美ちゃんか。ミックと一緒にビアンカも死んじゃった。私は、バッグから、いつも持ち歩いているあの絵本を出して、お兄さんに渡した。彼は、とまどいながら受け取り、その後で、今度、映画にでも行きませんか、と誘った。私は、まず、その絵本を読んでみて下さい、と言った。「泣いてしまったかどうか、後で教えて」と、私は言った。でも、それを聞いたからどうなるっていうの? ねこと違って、あの人は永遠に死んだままだ。はちみつみたいな、私のスウィート ダーリン。

 最後にどんでん返しのあるものがいくつかあり、短編ごとに「ですます」調のものとそうでないものが混在していました。

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山田詠美『珠玉の短編』その9

2017-11-06 06:31:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 自分と彼女は、鍵と鍵穴の間柄。あれから幾星霜。長い長い間、そう思い続けていたのに何故でしょう。ある日、京子は、家から不審な男と腕を組んで出て来たのです。守は自分を責めました。あれほど注意していたというのに、京子を守れず、悪党の手に渡してしまったのです。守は、愛に殉ずる覚悟で、携帯していたナイフを取り出しました。そして、最初に自害してしまったら、京子がどれほど悲しむだろうかと思いやり、取りあえず彼女に飛び掛かって、何度も何度も刺しました。次に守は自分の喉に刃を向けましたが、いつのまにかやって来た警官たちに取り押さえられてしまいました。返り血を浴びて真っ赤に染まったまま、彼は、ふと顔を上げて、あ、そっか、ようやく解った、と呟きました。マモちゃんの鍵は、子供部屋の鍵だったんだ。間違っちゃった。
『100万回殺したいハニー、スティート ダーリン』
 あの人から『100万回生きたねこ』という絵本をプレゼントされたんだよ、と自慢したら、女ともだちの真紀は、途端に意地悪な目つきになって言うのだった。で、まさか、それ読んで、あいつの前で泣いて見せたんじゃないでしょうね。私に、あの絵本をくれた男は美樹生といって、皆に、ミックと呼ばれていた。え? ミュージシャンかって? 全然、違う。ただのホストだ。いや、ただの、なんて付けたらホストに失礼だ、と彼を知る女たちは言う。一流どころのホストと彼には雲泥の差があるのだそうだ。ただ女をたらし込んで、日々の糧を得ている。私は、ホステス。キャバクラで働くには、少しばかりとうが立って来たので、ちょっとだけ場末のクラブに降りて来た。源氏名は、ビアンカ。ミック・ジャガーの奥さんだった人の名前だと言って、彼が付けた。ミックとビアンカって、何だか古い感じがするし、シド アンド ナンシーみたいなクールなイメージもない。そう告げたら、ぶたれた。下手すっと、おれが美樹生だからミッキーとミニーとか呼ばれかねないからな、と彼がぶるっと身震いしたので頷いた。美樹生は、私が絵本のページをめくる間、ずっと側にいた。そして、食い入るような目つきで私を見詰めていた……と思う。私は、ねこの世界に入りこんで行き、彼は、ねこの世界の終わりで待ちかまえていた。やがて、私がそこに行き着いて、はらはらと涙を落としながら本を閉じて顔を上げた時、よくやった! とでも言いた気な表情の彼がいた。私、どうやら合格したらしい。おれの女、と言われて抱き締められた。「みんな、あの手この手を使って、どうにかして、おれに取り入ろうと思うのな。この本で泣くか泣かないかで心の綺麗さをテストする」「ミックは、泣いたの?」「めちゃ泣きだよ! でも、ビアンカなんて名前は、ちょっと、嫌。」と、そこで殴られたのが、すべての始まりだった。何の、かのというと真紀が吐き捨てるように口にした「運のつき」の始まり。美樹生は、私に、よく手を上げた。でも彼が悪いと一方的に責めることは出来ない。きっかけは、たいていの場合、私が彼をなじったことに端を発していたから。問題は、ここ。『100万回生きたねこ』を読まされて、泣いた、あるいは泣いて見せた女が、ものすごく多かったということなのだ。彼は、そのたんびに、いとも簡単にほだされてしまったという訳。美樹生は、いつも、ふらりとやって来る。なかなか来なかったことに対する不平などを申し立てていたら、あーっ、うっせえ女! といううんざりした声と共に突き飛ばされ、壁にぶち当たって崩れ落ちるのが関の山。さすがに店では、そこまでやらないけど、他の人に見つからないようにソファの背もたれで隠れた腰のあたりの肉をぎりぎりとつねる。だから、ドレスに覆われた私の皮膚のあちこちには痣がある。そんな暴力男とはさっさと別れちゃいなよ、と真紀は言うけれども、彼女は全然解っちゃいないなって思う。確かに美樹生は、時々、私を痛めつける。でも、それは、その後で私を極楽に連れて行ってくれるためなのだ。前に、たったひとりの身内であった母が死んだ時、私は打ちひしがれた。美樹生は、背中をさすってくれた。そして、何度も何度もこう言った。「そんなに愛してたんなら、母ちゃんは死んでも、ビアンカの愛は死なないよ。死んだら、母ちゃんは母ちゃんのままじゃないんだよ。幸せな空気とかになるんだよ!」以来、私は、幸せな瞬間にだけ深呼吸をするようになった。母を取り込んでいたのだ。幸か不幸か、彼のせいで、私の語彙は着々と増えて行くのである。この間は、愁嘆場という言葉を覚えた。新しく店に入った女の子が、美樹生と私の深い仲を知らずに、彼とやったと吹聴したのだ。やった、だって! 何という下品な言い方だろう。しかもたいしたことなかった、なんて言い放った。(また明日へ続きます……)

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山田詠美『珠玉の短編』その8

2017-11-05 07:16:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 母とはしばらく顔を合わせていませんでした。今回も、しばし放浪の旅に出ると言い残して、高足ガニを食べに西伊豆に行ってしまったのでした。「珠美さんのお母さんなのに悪いけど、あの人がいなくなると、この家の湿度がいっきに下がって、快適ですね」盛生が、ほっとしたように言うのを聞いて、途端に気を良くしてしまう珠美です。彼こそが「むしやしない」の長と抜擢するのに相応しいのだわ、と珠美は胸を熱くしました。それなのに、いったい、何が起きたのでしょう。ある日、外出から戻って、浴室掃除をすべくドアを開けたところ、そこには、放浪の旅をしている筈の母と、そんな母など眼中にない筈の盛生が、仲良く湯舟につかっていたのでした。「珠美さんの軽みの魅力が何故、後を引くかと言ったら、それは、お母さんの存在が隠し味となっていたんですよ。あっさりとしているのに濃厚な風味……ああ!」「何、言ってんの?『むしやしない』の分際で」「おれが、あんたの『むしやしない』なら、あんただって、おれの『むしやしない』だったんだ!」怒号の応酬です。その様子をしばらくながめていた母でしたが、とうとうげんなりしたらしく、止め止め、と言いながら手を叩きました。「二人共、たまには、おなかがくちくなるまで、ちゃんと食べなきゃ」珠美は目眩を覚えながら、改めて自分に問い直してみます。ええっと、どっちだっけ? 虫が養うの? それとも養われるの?
『鍵と鍵穴』
 時は昭和。愛の崇高さを信じていた頃のこと。そのためなら命を賭するものも厭わない若者たちが、少なからず存在したのです。このおはなしは、そんな一途な男たちの内のひとり、坂元守、愛称マモちゃん、の恋の行方について。それは、初恋でした。高校に入学してまもなく守を襲ったその感情が、世の中で恋と呼ばれるものだというのが、彼にはすぐさま解りました。生まれてからずっと、家族の間では、マモちゃんと呼ばれて来ました。自分でも自身をそう呼びました。甘やかされている、とは思いませんでした。常に温かい家族に囲まれている恵まれた自分を意識して、感謝の気持でいっぱいになる謙虚な守なのでした。幼い頃から慈愛に満ちた家で育って来た守にとって、外の世界は脅威でした。殺伐とした気持ち、すさんだ有様。高校に入学してからしばらくは穏やかな日が続いていました。偏差値の高い学校であったので、守と同じ中学を卒業した者は、さほど多くなく、彼は新鮮な気持であたりを見渡していました。そんなある日のことです。守は、ホームルームの時間に、うっかり失策を犯してしまいました。それは、彼の世界を一変してしまったのです。議題は、これからの家族のあり方についてという抽象的なものでした。誰もが積極的に発言しようとはせず、指名された者が曖昧に雑感を述べるだけにとどまっていました。聞きながら、守は、終始苛々してきました。家族に対して、こんなにもつまらない考察しか持てないなんて、と思ったのです。早く自分の家族を誇りたい、と切望して、教師を執拗に目で追い回しました。守のまとわり付く視線にとうとう観念したのか、教師は「坂元」と名を呼びました。守は話し始めました。自分を慈しんでくれる理想の家族の有様を。それは、独壇場でした。教師は言いました。坂元、そこまで自分の家族を理想化するのは、かえって不健全なんじゃないのか? その言葉に、守は、かっとなりました。「……でも、マモちゃんちはねえ……」おっと、失言。程度の軽い失策のつもりで、守は口に手を当てました。しばしの間、沈黙が支配しました。その後、教室は爆笑の渦と化したのでした。「いい加減に止めなさいよ。私だって、家族の前では、今でも自分のこと、京ちゃんって呼ぶんだから!」クラス委員の波野京子でした。それが、彼に初恋が訪れた瞬間でした。蜜月は始まりました。学校では目立つことを良しとしないと思われる京子の意思を尊重して、守は、きわめて控え目に彼女と接触していました。離れた席であっても、二人は一日に何度となく目を合わせて、互いの想いを確認し合うのでした。守と一緒に校門を出て、冷やかされるような事態を招いて、守に迷惑をかけたくないのでしょう。京子は、いつも女友達数人と連れ立って学校を後にします。京子の周囲をがっちり固めているように見える嫉妬集団の女子たちですが、電車に乗り、ひと駅ごとに数は減って行きます。二人きりになると、彼は、愛しい人めがけて走って行くのです。もう何度、肩を寄せ合って歩いたことでしょう。怪しい訪問者が京子を脅かさないかどうかというのも、守の気掛かりの種でした。守は一生を京子に捧げようと決意しました。(また明日へ続きます……)

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山田詠美『珠玉の短編』その7

2017-11-04 06:49:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 「ぼくね、世の中に数限りなくなるフェチの世界を統括するのが夢なんですよ」「世の中に、ゼンタイプレイのようなゲームが、他にもいっぱいあるってことなんですか?」「ゲーム? 貴様、今、ゲームと申したか! 違う。愛の真剣勝負だ」「そ、その真剣勝負の種類が他にいくつもあると……」「その通り!」全身タイツの後、しばらくの間はタカをくくって、蛍子自身もおおいに楽しんだ。どこかで変態のやることと馬鹿にしていたのかもしれない。何故なら大上段に振りかぶった西条の物言いに反して、くすぐりプレイや泥んこまみれごっこ、包帯ぐるぐる巻き、メイドや看護婦のコスプレなどの軽いものばかりだったからだ。しかし、やがて、その遊戯が子供のものでなく、大人のためのお医者さんごっこに変容して行くのを蛍子は知ることになる。彼女は、SMプレイ専門のラヴホテルの一室で、産婦人科用の診察台にくくり付けられていたのであった。通い始めることになったそこでは、毎回、西条による診察もどきがくり返され、蛍子に与えられる快楽と苦痛は、どんどん激しさを増して行った。二人は、加虐、被虐に関してはリヴァーシブルであった。そしてそろそろ指の切断なんてのも良いねえ、と夢見るように西条が呟き、蛍子を歓喜のはるか手前で震え上がらせたある夜、事件は起きたのである。フェティシズム三昧専門のホテルで、西条と蛍子の部屋に、突如、ひとりの中年女が出刃包丁を手にして踏み込んで来たのである。「この女か! この女なんだなっ!」すまん! そう大声で言って、西条は女の足許に土下座したのであった。「本当に本当にごめん。愛する妻であるおまえを裏切ったなんて、こんなの初めてなんだよ!」眩暈を覚えた蛍子は、たまらず後ろに手を突いた。手の平には、しぼんで縮んだ師匠の性器から落ちてしまい、抜け殻のようになったコンドームが張り付いている。卒業証書か。
『虫やしない』
 先の震災以来、非常事態に備えて、夜、バスタブに溜めた湯は、次回の入浴前の風呂掃除まで抜かないようにしています。掃除のために中に入ると、湯舟から上がった水蒸気のせいで、天井にはびっしりと水滴が付いています。ある日、ふと天井を見上げて驚きました。そこに付いた少なからぬ数の水滴の中で小さな虫が死んでいるのです。台所の生ごみの中に湧くショウジョウバエと呼ばれるものです。しばらくの間、原因を探ってみて思い当たったのは、天井に設けられた換気口の存在です。季節は夏、虫たちは、水を求めて、そこから入って来たのでしょう。そして、ようやくありついたそれに、ごくごくと喉を鳴らしている内に溺れてしまった。そうに違いありません。そう考える珠美なのでした。珠美が「むしやしない」という言葉を知ったのは、京都へのひとり旅の最中でした。すきっ腹にぐうと鳴るおなかの虫をなだめる軽い食事のことだと、給仕の女の子が教えてくれました。我が意を得たり、と嬉しくなりました。自分のこれからの人生のスローガンとも言えるのでは、と感じたのです。まだまだ野心を胸に秘めていてもおかしくない妙齢の婦人である珠美が、既に慎ましやかな生活を念頭に置くようになったのには訳があります。それが何かというと、強欲の権化のような母親の存在なのです。ものすごい食欲に、ものすごい性欲。そして、それらが満たされるとぐーぐーと寝てしまうのです。こんな母ですから、珠美の父は、彼女の幼ない頃に、身体的、精神的、両方の過度の疲労が重なって死んでしまいました。珠美は食事においてもセックスにおいても深くを求めませんでした。そんな彼女の周囲には、理解者たちが続々と集まって来ていました。いわく、小腹を満たすスナック程度の出費で、一夜を共にしれくれ、しかもあーだこーだとしち面倒臭い前戯を要求されることもなく、さっくりと射精したら、朝まで一緒にいてえ? などと忌々しい要求を出されることなく、すみやかに解放される、それが珠美訓である。珠美に集まった男たちは、静かに自分の番を待つのでした。ところが、とうとう、その平和が乱される時がやって来たのです。いつものように並ぶ身軽な男たちからひとりをつまもうとすると、突然、それを遮る大きな声が響き渡りました。「待たれい!」見ると、身すぼらしい格好の若者が、よろめきながら、こちらにやって来るではなりませんか。「あなたの母親の虫を養うべく奮闘していたら、このような状態になってしまいました。自分の目的は、珠美さんの虫を養うことであったのに……でも信じて下さい」「信じて良いのね? 私を口直しに使ったりしないと約束出来る?」若者は、立てた小指を珠美の前にかざしました。さて、薄味の蜜月が始まりました。かすかに欲情した珠美の手の届くところに盛生がいるようになりました。(また明日へ続きます……)

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山田詠美『珠玉の短編』その6

2017-11-03 06:46:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 この前なんか、女をいたぶって清々したい、それこそが、おれの命の洗濯になるんだが、どうしたら良いってんだ、と訴えるお客様がありましてね。そのお客様……仮にS男氏としておきますが、その方と来たら、あろうことかSMクラブまで連行……いや御案内していた私の妻に目をつけやがったのです。私の妻が、これまた出来た女でして、スローガンは夫唱婦随、あなたとどこまでも歩いていきます、と言ってはばからない、まさに恋女房。その日から妻はS男氏の専属になりました。男性客の場合は、まだ良いのです。風俗店に通うという手もあります。問題なのは女です。その際は、やはり男性客の方々と同じくカウンセリングに時間をかけて、しかるべき絶倫男などを紹介するのですが、これが昨今の風潮から人材不足でして……草食男子とか言うんですか? 捨て身のセックスのためにひと肌脱ごうという勇士、激減! だからでしょうか、あんな事件が起きてしまったのは。店番を息子にまかせて出張サービスに出かけた私が馬鹿でした。店での御予約のお客様が、命の洗濯のためにセックスを所望なさっていたとはつゆほども気付かず……。潔とお客様は戻って来た私に気付かず、店先で交わっていました。「おれ、美人のお客さんの御要望には、基本全部応じる主義だから」馬鹿も休み休み言え! もし、お客様に、あんたを殺して、すっきりしたいの。ねえ、命、洗濯させてえ、などと言われたら、どうなるというんでしょう。その方が絶世の美女であったりしたら。そんなことになったら商売繁盛どころの話ではなくなります。命の洗濯……屋、一代限りにすべきでしょうか。
『蛍雪時代』
 正月に実家に帰った際の、のんびりした昼下がりのひとときのことである。元旦の清々しい心持に満ちた空気も少しずつ緩み、家族は炬燵を囲んで思い思いにくつろいでいた。その一員である蛍子も、上掛けにもぐり込み座布団を枕にして、うつらうつらしていた。「あれー、まだ『蛍雪時代』なんて雑誌あるんだ」半身を起こして見ると、母が弟の開いた雑誌を覗き込んでいる。普通の中に普通。それが野崎蛍子という女。と、たったひとりを除いたすべての人々に思われているだろうが、それは、実はまやかしなのである。蛍子は、人生の大部分をまやかしのパートに割いてきた。ところが、ある男によって、少しずつ少しずつ、まやかしの皮は剥がれて、本性があらわになって行ったのである。男は、蛍子の勤める会社に出入りする取り引き先の営業担当で、西条といった。偶然、外で会って食事に誘われた時は面食らった。二十五になったばかりの自分より、ずい分年上だし、その洒脱な雰囲気からして、共通の話題がありそうには思えず一度は断ったものの、再び声をかけられた時には承諾してしまった。何故なら、彼がこう言ったからだ。「野崎さんね、あなたには才能がありますよ。でも、それは、まだ埋もれている。僕に、それを引き出すお手伝いをさせてもらえませんか」「私に埋もれている才能って、どういうものなんですか?」今度は打って変わって狡猾な様子で唇を歪める西条に気付いて、しまったと蛍子が思った時には、もう肩を抱かれていた。そして、促されるままに歩いて数時間後、彼女は、一度素っ裸にされた全身を、次にはタイツ状のもので覆われ、ホテルの床に転がされていたのである。混乱している内に、腕をつかまれ引き寄せられた。そして、そのまま抱擁されてみて、西条も同じ全身タイツに身を包んでいるのが解る。手付きで示された通りに両手を移動すると、張り切った繊維の裏側から溜息が洩れ、少しずつ湿り気を帯びて、やがて濡れる。とてつもなく変! それなのに、促されてこする男の性器は、どんどん固さを増して行き、とどまるところを知らない。突然「怒張」という言葉を思い出した。途端にたまらなくなってしまい、必死に笑いをこらえた。それなのに、西条は押し殺した声で言った。「もっと、スリスリせよ」たまらず噴き出した。蛍子の笑い声があたりに響いた瞬間、西条は体を離した。そして、そのまま気配を消してしまったのだった。どうしたのか、と頭の後ろにあるジッパーを降ろして両目を出すと、離れた所で、西条は膝を抱えてうなだれているのだった。世にも憐れな存在のように、彼女の目には映った。彼女は、咄嗟に、一度は剥き出しにした自分の頭半分を、再びタイツにくるんで後ろのジッパーを上げた。そうして大急ぎで西条の許に這って行ったのであった。初めて親しく口を利いた男と突拍子もない時間を共有している。西条が最初に蛍子に手ほどきしたのは、全身タイツプレイと呼ばれるものである。熱烈なマニアは世界中に存在する。(また明日へ続きます……)

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