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天童荒太『巡礼の家』その10

2022-01-31 20:39:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「でも……あの……おじいさんは、息を、してなくて……」
「雛歩ちゃんは、動揺してたから、はっきり確認できなかったんじゃないかな」
 飛朗さんが、雛歩の顔をのぞき込むようにして言った。(中略)
(コサカさんは)
「ご親戚は(中略)むしろおじいさんのことを押し付けて、悪かったとおっしゃっとる。(中略)家庭内で話し合うのが最善でしょう」
 女将さんの手が、雛歩の肩に置かれた。
「なので、いまからご親戚のお宅へ帰りましょう。わたしが送っていきます。飛朗さなんもついてきてくれるそうです」(中略)
 わたしは、人を殺していなかった……それを知ったのに、雛歩の心は少しもはれない。(中略)
「ここに置いてください。さぎのやにいさせてください。なんでもします。どんなことでも我慢します。だから、ここにいることを許してください。お願いです、お願いします」(中略)
「みぃんな、そう思うんよなぁ、女将さん」
 コサカさんの声だ。(中略)
 雛歩は、両肩にぬくもりを感じた。女将さんの手だと、いままでの感触からわかる。
「雛歩ちゃん、頭を上げて」
 雛歩は、いやいやと首を横に振った。(中略)

 昨日の午後、雛歩は、女将さんと飛朗さんと一緒に伯父の家へ行った。(中略)
 話が一段落したところで、雛歩はあらためて今回の件を謝罪し、いままでお世話になったことのお礼を述べたあと、これからは、さぎのやで暮らしたい、と申し出た。
「雛歩ちゃんが、さぎのやを気に入ってくれただけでなく、さぎのやの者もみな、雛歩ちゃんのことが大好きになったのです。(中略)もしも雛歩ちゃんがしばらくさぎのやにいてくれるのなら、わたしたちにとっても大変嬉しいことです。学校も歩いて通える距離にありますし、責任を持ってお預かりいたします」(中略)
 さぎのやへの信頼もあり、伯父たちは、雛歩がそこまで言い、女将さんたちも受け入れてくださるのなら、と承知した。ただし……、
「やはり、雛歩に一番近い者の許しも必要だろう」
 雛歩の兄のことだった。
 伯父たちは、雛歩の捜索願を出した時点で、自衛隊にいる兄に連絡していた。兄は、訓練中だったため、すぐには動けず、(中略)あらためて連絡をしあて、道後温泉駅のバスターミナルで降りれば、そこで雛歩が待っていると伝えた。

 低く太いクラクションの音が響き、雛歩は顔を起こした。(中略)雛歩はベンチから立った。(中略)
「ヒナ、雛歩、何やってんだ」
 背後から呼びかけられた。
 兄の声に間違いなく、振り返ると、一番先に降りた男の人が雛歩のほうを見ている。(中略)
「そんな立派になってんなら、どうして迎えに来てくれなかったの。一人前になったら、絶対迎えに来るって約束したでしょ」(中略)
「いやぁ、まだ全然一人前じゃないんだなそれが……訓練についていくのでいっぱいいっぱいだし、ヒナを迎えたい気持ちはあっても、ずっと寮住まいだしな」(中略)
「雛歩、おまえ、大丈夫なのか。ずいぶんひどい目にあったんだって」(中略)
「違う」(中略)
「何が違うんだ」
「素晴らしい目だよ……とっても素敵な目にあったの。とにかく来て。歩きながら話す」(中略)

 雛歩は、鹿雄の顔を横から見て、さぎのやにこのままいられることを確信した。(中略)

(さぎのやに着いた鹿雄は、ショウコさんの作ってくれた朝食を、腹一杯食べた。)
 女将さんが、バスでの長旅を気づかい、空いている部屋で眠ることを勧めてくれた。だが鹿雄は、どこでも眠れる訓練を受けていますし、快適なバスだったので大丈夫です、と答えた。
「だったら、雛歩ちゃん、お兄さんに道後の町を案内して、一緒に温泉にも入ってらっしゃい」
 と女将さんは、(中略)浴衣とはきもの、温泉の入浴券まで用意してくれた。
 雛歩は、(中略)道後温泉の本館に入った。(中略)
「先に来ちゃったね」
「うん? 何が先に来たって?」
「みんなで来ようねって話したでしょ……家族四人で、道後温泉へ行こうねって。(中略)お父さんとお母さんもきっとじきに帰ってくるから、今度は四人で入ろう、ね」
 鹿雄の返事がない。(中略)
「いや……そうだな……先に来ちゃったけど、いつか四人で入りたいな」(中略)

 さぎのやに戻ったあと、申し訳ないけれど、少し寝させていたあけませんか、と鹿雄が女将さんに申し出た。(中略)
 食いしん坊の鹿雄が、昼食もとらずに客室の一つを借りて眠りつづけ、日が傾きかけた頃、一階に下りてきた。さわやかな顔で、制服に着替え、制帽を手にしていた。(中略)
「妹が心配で、訓練中なのに無理を言って休みをもらってきました。ですが、みなさんにお任せすれば、妹はもう何の心配もいりません。安心して隊へ戻れます。それに……」(中略)「もう一日ここにいささえてもらったら、隊に戻れなくなるんじゃないかと心配なんです」

(また明後日へ続きます……)

天童荒太『巡礼の家』その9

2022-01-30 00:39:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

おじいさんのからだはあっけなく後方に飛び、居間の壁際に置かれていたタンスに後頭部からぶつかった。激しい音が響き、雛歩が自分のしたことに気づいたときには、おじいさんはタンスの前に座り込み、力なくうなだれていた。
 雛歩は、おじいさんに声をかけた。返事はなく、軽く揺すってみても反応はない。タンスの一部に血が付いているのが見え、おじいさんの後頭部に出血が見られた。
 殺してしまった……雛歩は恐怖にふるえた。(中略)おじいさんの鼻のところにあ、指を運んだ。何も感じない。息をしていない。やっぱり死んでる。刑務所、いや、死刑だ。(中略)
 突然、からだの内側で爆発が起きた。
 なんでこんなことになったの、わたしがどんな悪いことをしたの。(中略)
 あの日からずっと我慢して、ため込んできた叫び声が、腹の底からふき上げてきた。気がつくと、家の外へ裸足のまま飛び出していた。(中略)
 足を怪我し、道は悪くなり、雨も降ってきた。泥に滑り、転んで、雨が目の中に入ってきた。もう立つ気力も湧かなくなり、いっそこのまま死んでもいいと思った。
 どこからか、ヒナ、雛歩、と両親が呼ぶ声がした。生きていないと、いつか帰ってくる両親に会えない。そう思って、立ち上がって、足を動かした。
 いつか辺りは霧におおわれ、からだも疲れ切り、一歩も足を動かせなくなった。
 そのとき……霧の向こうから、大きな白い鳥が現われた。
 鳥は、美しい女の人に姿を変え、雛歩を抱きとめてくれた。
 女の人は、雛歩を見つめて、あるあことを尋ねた。
 それは、雛歩がずっと胸の内に秘めていた、みずからへの問いかけであり……誰にもふれられたくない問いかけである一方、いつだって誰かに尋ねてほしいことだった。
 帰る場所はありますか。
 あなたには、帰る場所はありますか。

 あのときと同じだ。旧へんろ道で動けなくなって座り込んでいたとき、霧の向こうから現れた女の人に……女将さんに、抱き寄せられたときと同じぬくもりを、雛歩は感じた。
「よく話してくれましたね」(中略)
「もう、あなた一人に、抱えさせたりしない」(中略)

 不意に、電気が灯ったような感覚で目を覚ました。
 眠気もなく、頭の中のもやもやとした霧もはれている。(中略)
 六時半を少し回ったところだ。(中略)
 ロビーに下りたら、正座をして、皆さんにお礼を言う。そして別れを告げる。
 何もお返しができないままで心苦しいのですが、ご恩は一生忘れません。
 そのあとはっきりと……わたしはいまから警察に“自習”します……と告げるのだ。(中略)
 よし、と決意を固め、雛歩はロビーに下り立った。(中略)熱気のこもった朝の喧騒が、一気に雛歩を包み込む。(中略)
「あー、雛歩ちゃん、ちょうどよかった」(中略)カリンさんが広間からあロビーに出てきた。手に何やら包みを持っている。
「いま出かけられたばかりの三人組のお遍路さんが、お弁当、テーブルの下に忘れていかれたの。申し訳ないんだけど、追いかけて、渡してもらえないかしら(中略)」
「わたし、行きます。行けます」(中略)
「……じゃあ、雛歩ちゃんにお願いしましょう」
 女将さんが言ってくれた。(中略)
(駅に着くと、三人組の乗った列車は、つい先ほどに出発したばかりだという。雛歩は走って、次の駅で停車している列車を追うことにし、鳩の大群に行先を妨害されていた列車に何とか追いつき、弁当を無事届けることができた。)

(中略)

(帰宅した雛歩は巫女さん姿になり、大女将に会いに行くはめになった。そこには既に巫女さん姿のまひわさんが来ていた。そして昨晩星見台で話を聞いた男女も来ていた。大女将さんは、その男女を石手寺まで送ってあげなさい、と雛歩に言った。)

(石手寺まで二人を送った雛歩は、帰りの人力車で空を飛んだ。帰宅すると警察の方が待っていると言われた。)

 ついに来た……雛歩は、怖いよりも、ほっとした。(中略)
(食事中の警察官はさぎのやがいつもお世話になっている人だと女将さんが教えてくれた。)
「雛歩ちゃん、あなたの名前をコサカさんに伝えて、捜索願が出ていないか、調べていただいたの。そこからわかったことだけど……よく聞いてね」(中略)
「あなたは、誰も死なせていません」
 え……。
「あなたが話してくれた、おじいさん……いまも元気でいらっしゃるそうです」
「頭の後ろにちょこっと怪我をしとったけど、とっくに良うなってあ、たんこぶもへっこんどるらしいよ。本人は、なんにも覚えてないらしいしね」(中略)
「(中略)意図的な家出かと考えて、(中略)一日、二日は様子を見ることにしたみたいよ。(中略)けど、三日経っても帰ってこん。(中略)(そして捜索願をようやく出したのが昨日だったらしい。で、女将さんに相談されて、問い合わせてみたら、ドンピシャでね。(中略)ご親戚も安心されとるよ)(中略)

(また明日へ続きます……)

斎藤美奈子さんのコラム・その104&前川喜平さんのコラム・その65

2022-01-29 00:08:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず1月19日に掲載された「議論が9割」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「昨年一番売れた本は永松茂久『人は話し方が9割』だった。ものすごく今っぽい本である。
 話している相手をけっして否定しない。自分が「話す」のではなく、相手の話を「広げる」。「正しい話」より「好かれる話」をしよう。「好かれる」前にまず「嫌われない」努力をしよう。
 こんな教えがいっぱいで、要は衝突しない話し方のオンパレード。議論は極力したくない。激論なんてもってのほか。「口は悪いが本当はいい人」などいないそうで、嫌いな人と無理に話す必要はないし、苦手な相手に遭遇したら逃げるが勝ち。
これじゃ議論も廃れるはずだ。「聞く力」を強調し、激論になりそうな案件を施政方針演説から外した岸田首相も、「野党は批判ばかり」という声にビビッて「批判より提案」の方向に逃げを打った立憲民主党の泉代表も、この本の読者だったのかもしれない。
 でもさ、人生も国会もそれだけじゃダメなのよね。生きていれば、どうしても相手を批判しなければならない場面、自己主張をしなければならない局面というてのがあって、コミュニケーション術は本来そういうときのためにあるはずだし、野党もそのために存在する。
 本日から国会での論戦がはじまる。有権者に好かれる話術に意味があるのは選挙戦までだ。国会は議論が9割、衝突を恐れるな」。

 また、1月23日に掲載された「佐渡金山を世界遺産に」と題された前川さんのコラム。
「昨年の暮れに文化審議会が佐渡金山をユネスコ世界文化遺産への推薦案件として選定した際、文化庁は今後政府内で総合的に検討すると異例の注釈を付けた。韓国政府の反発を予見していたのだろう。佐渡金山は戦時中に動員され連行された朝鮮半島出身者が過酷な坑内労働に従事させられた現場だ。案の定、韓国政府は撤回を求めるコメントを発表した。
 韓国の反発には理由がある。軍艦島(端島炭坑)など明治産業革命遺産が2015年に世界遺産に登録された際、日本政府は「意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者」の存在を認め「犠牲者を記憶にとどめる」情報センターの設置を公約した。ところが20年6月、東京・新宿に設けた産業遺産情報センターには公約した内容の展示がなかった。世界遺産委員会は21年7月、情報センターでの説明が不十分だとして改善を求める決議をした。この問題を放置したままで佐渡金山の登録が認められるはずがない。
 今年の推薦を見送ろうとする政府に対し、自民党の高市政調会長や「保安団結の会」の議員たちは強硬に推薦を求めている。僕も佐渡金山は世界遺産にふさわしいと思うが、それは負の歴史も含めての話だ。まずは産業遺産情報センターについて国際公約を果たすことが先決だろう。」

そして、1月26日に掲載された「当主のご乱心」と題された斎藤さんのコラム。
「この国では、数年の一度、与党軍と野党軍の間で天下分け目の戦(いくさ)が行われる。もっともこのところは与党軍の圧勝が続いており、城下の人々は悪政に苦しんでいた。
 ことの発端は、野党軍を長く陰から支えてきた連豪家ほ当主ひ芳野御前が選ばれたことだった。何を思ったか、就任早々芳野は野党軍の要である立剣家との協力関係を破棄するといいだした。
 「妾(わらわ)は立剣家と同盟を結んでいる京算家が気に入りませぬ。京算と手を切らぬ限り、今後立剣に協力するつもりはないから、そのつもりで」
 突然の心変わりに驚いたのは立剣家の重臣。
 「ま、まこごか。京算と共闘しない限り与党軍に勝つことはできぬ。それは芳野殿とてご存じのはず。連豪は与党軍を利するつもりか」
 歴史をさかのぼれば、連豪家と京算家はもともと犬猿の仲だった。とはいえ今は非常時。同盟相手を好む好まぬといっている場合ではない。
 「このままでは士気にかかわる。この際、連豪を切るべきではござらぬか」と意見する家臣もいたが、戦のたびに兵の動員を連豪に頼ってきた立剣家にはそれもできない。その一方では、与党軍の地民家当主が芳野御前に秋波を送り、さらにこの内紛をひそかに歓迎している勢力もあった。新興の異芯家である。
 決戦は半年後。剣呑(けんのん)な日々が当分続きそうである。」

 どの文章も一読に値するものだと思いました。

マッツ・ブリュガー監督『ザ・レッド・チャペル』

2022-01-28 03:56:00 | ノンジャンル
 マッツ・ブリュガー監督の2009年作品『ザ・レッド・チャペル』を「あつぎのえいがかんkiki」で観ました。
 チラシから紹介文を転載させていただくと、
「ブリュガーは、知られざる北朝鮮の人々の素顔を暴くため、異文化交流と称し舞台公演の許可を得ることに成功。韓国系デンマーク人で脳性マヒを持つヤコブとシモンの2人のコメディアンとともにお北朝鮮に向かう。熱烈な歓迎を受ける一方で、行動は常に母のように接する案内役の女性によって監視され、本番までの間、北朝鮮の意思により2人のコントは幾度となく修正された。そんな中ヤコブは、金日成広場での軍事パレードに強制的に参加させられる。軍事パレードの圧倒的な威圧感じブリュガーも恐れる中、障害を持つヤコブだけが金一族により独裁政権が誕生したその聖地で、一人反旗をひるがえすのだtった。」
 この映画が世界中で評価され、数々の賞を受賞するとともに、この映画制作以後、ブリュガーが北朝鮮を出禁になったこともチラシに書いてありました。
 この映画を観た感想としては、とても難解な映画でしたが、エンディングロールで,ヤコブが、めちゃくちゃに下手ながら、ジョン・レノンの「イマジン」を熱唱するシーンがあり、それが頭から離れない、そんな映画でした。北朝鮮を描いたドキュメンタリーとしては、とても優秀な映画だと思います。北朝鮮の市井の人々(といっても、北朝鮮の検閲を受けた上での、という条件がつきますが……)の様子を見るには最適な映画なのではないでしょうか?

 →ブログ「今日の出来事」(https://green.ap.teacup.com/m-goto/
(お暇な時間があったら、是非お立りください。<m(__)m>)

天童荒太『巡礼の家』その8

2022-01-27 01:48:00 | ノンジャンル
 また一昨日の続きです。

「(中略)いままでずっとつらい想いをしてきたのに、最後も孤独のままで突き放すなんて、できなかった……。(中略)二人のあいだに生まれて、幸せだったよ。わたしはもう一生分愛されたと思ってる。だから、もう苦しまないで。つらく思わないで。(中略)……本当にありがとう……」
 突然、強い力で雛歩は抱きしめられた。(中略)
 女の人が、雛歩の胸に顔を押しつけ、声を上げて泣いていた。
 男の人が、雛歩の手を強く握りしめ、やはり声を大きく上げて泣いていた。

 いつのまにか女将さんが、そばにいた。(中略)
「雛歩ちゃんも」(中略)「部屋に入って、おやすみなさい」(中略)
 雛歩の中に、いつしか真実に向き合う勇気が生まれていた。本当のことを告げなきゃいけない、という想いが芽生えていた。
「女将さん」(中略)
「こまきさんも、聞いてください」(中略)
「飛朗さんも、よかったら聞いてください」(中略)
「わたしの苗字は、鳩の村と書いて、鳩村です。鳩村雛歩です。わたしは、人を殺しました」(中略)
 そこから言葉があふれ出してきた。(中略)
 雛歩のふるさとは、秋祭りを明日に控えた日、豪雨に襲われた。(中略)町を貫く川が氾濫する恐れが生じた。山あいの町のため、土砂崩れも懸念された。
 雛歩は、両親と五歳年上の兄の四人で暮らしていた。近所に父方の祖父母がいた。(中略)雛歩たちの家は川から近く、四人は町の小学校の体育館に避難した。山沿いに暮らしていた祖父母と連絡がとれなくなり、まだ川は氾濫していなかったため、両親が車で助けに向かった。(中略)
 しばらくして父の携帯から、兄の携帯に連絡があった。父は沈痛な声で、じいちゃんとばあちゃんの家が土砂でつぶれている、と語った。家は跡形もない。(中略)車に乗って戻ってくる途中で、母から電話があった。自分たちは無事だから、心配するな、という連絡だった。(中略)
 だが、両親の車は帰ってこなかった。(中略)
 二日後、祖父母の遺体がああ、土砂で押しつぶされた家の中から発見された。(中略)
 災害から一か月が過ぎ、体育館で暮らしているのは、雛歩たちだけとなった。(中略)父方の叔母が、兄妹一緒に越してこられるようにする、と約束してくれた。(中略)
 そして期限のきた三日目、川をずっと下った先の海で、両親の車が発見された。
 ただし、車内に人の姿はなかった。

 雛歩は、父方の叔母の家へ移った。(中略)
 叔父は自衛官で、雛歩の兄と今後について話し合い、兄にも自衛官になることを勧めた。大学進学をあきらめ、就職を考えねばならなくなった兄には、現実的な選択だった。(中略)
 雛歩は、引っ越した先の生活にも学校にも、まったくなじめなかった。失われたものの大きさからすれば、新しい環境に慣れるには、多くの時間が必要だった。(中略)
 兄との別れの日、一人前の自衛官になって迎えに行くから、それまで我慢するんだぞ、と兄は雛歩の頭を撫でた。長く泣くことも忘れていた雛歩だが、さすがに不安のあまり涙がこぼれた。(中略)
 お母さんは、もうすぐ帰るから、待ってて、って言ったのにあ、まだ帰ってこないよ。(中略)お兄ちゃん、行かないで。(中略)
 そして兄は去り、雛歩は松山の伯父の家に送られた。

 伯父の家の人たちが、ことさら冷たい心の持ち主だったわけではないと、雛歩もいまはわかる。いろいろなタイミングが悪かっただけなんだろう。(中略)
伯父が内臓に重い疾患を抱え、長期の入院と短い退院を繰り返すようになり、その家のおじいさんには認知症の症状が出はじめた。
 え、きみは九九の計算もできないのか。
 かつてはできたが、学ぶことに意味を感じられなくなり、すっかり忘れてしまった。
 うそ、おまえアルファベットも書けないの。
 そう、一字だって書けなかった。(中略)
 そんな子に対して、周囲はいじめるつもりはなくても、無視や嘲笑など、いじめに似た行為をしぜんととってしまったのだろう。雛歩は授業に出ず、図書館にいることが多くなった。
 家では、家事だけでなく、どんどん認知症がひどくなるおじいさんの介護も任されるようになった。(中略)

(中略)
 その日、登校時間になっても起きられずに、学校を休み、おばあさんが近くのクリニックに薬をもらいに出たので、雛歩とおじいさんしか家にいなかった。(中略)おじいさんの呼ぶ声が聞こえた。仕方なく居間に出て行くと、おじいさんがズボンを濡らして、ぼうっと立っていた。雛歩は、絶望的な気持ちになりながら、おじいさんのズボンのベルトを外し、紙おむつを替えようとした。すると、おじいさんは頭にスイッチが入ったみたいに、いやらしいこあとを口にしはじめ、雛歩のからだをさわってきた。たださわるのでなく、下半身をすりつけてこようとしたため、雛歩は恐怖のあまり相手を突き飛ばした。

(また3日後に続きます……)