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大野裕之『「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市(こうのとらいち)東京展」に寄せて』その4

2019-04-14 16:04:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 その直前まで日米親善ソフトボール大会の副団長をつとめ、両国有効の架け橋となろうとしていた高野が、ここにきてアメリカを裏切るとは考えられない。だが結局、高野は戦後この事件について多くを語らなかったため、真相は闇のなかだ。それにしても、裸一貫で米国に渡った若者が一時は喜劇王の右腕として「ハリウッドの黒幕」と呼ばれたほどの権力を持ち、しかし別れたのちに軍のスパイ容疑で逮捕され、その後敵性外国人として6年間に渡って抑留されたとは何たる運命であろう。
 戦後は、戦中にアメリカ市民権を失った日系人たちの市民権回復運動に身を挺し、一段落ついた1957年に広島に帰郷した。そこで東嶋トミエさんと出会い、幸せな晩年を送った。トミエさんの姪の下村ますみさんは、高野がナイフとフォークを上手に使ってベーコン・エッグを食べていた姿を鮮明に覚えておられる。会話には広島弁に時折英単語が混じっていたそうだ。
 1961年に、チャップリンは四度目の来日を果たす。
 高野は周囲から勧められてもチャップリンには会わなかった。会っていたら、「日本人秘書、喜劇王と27年ぶりの再会」と大きな話題になっただろう。チャップリンが、原爆投下後の広島を訪ねていたら、それも事件になっていたに違いない。だが、二人は再会しなかった。感傷的な再会などせずに、平和になった日本を心行くまで楽しんでもらうこと。それが、「秘書・高野虎市」の最後の仕事だったのかも知れない。
 チャップリンは、すっかりコーノのことを忘れてしまったのか?
 チャップリン家の未公開資料のなかに、興味深いメモがある。チャップリンが事実上国外追放された頃のメモの中で、さる関係者が「コーノを解雇した理由を『米国に忠誠心がなかったからだ』ということにすれば、チャップリンは米国にとって好ましい人物となり、国外追放処分も解除されるだろう」と提案している。実際、当時アメリカに帰りたがっていた喜劇王にとって、その提案は渡りに船だった。だが、彼はかつての部下を売るような真似はしなかった。
 1971年3月17日、高野虎市は広島で死去した。世界の喜劇王を支え、戦争をめぐっての日米関係に翻弄された86年の生涯だった。東嶋トミエさんによると、晩年まで「あれほどの人物は二度と出ない」とチャップリンを崇拝していたという。1972年、父の代表作の再公開の時、「コーノに会いたい」とジョゼフィンは映画会社に申し出た。だが、その一年前に高野は亡くなっていた。
 死後も、その評価は高まるばかりのチャップリン。そして、すっかり忘却の彼方に追いやられてしまったコーノ。しかし、ここにきて、そんな高野虎市の存在に注目しようという動きがようやく出てきた。アメリカでは、日系4世俳優クライド・クサツ氏が、高野の足跡をたどるドキュメンタリー映画を製作中だ。日本でもいくつかのテレビ番組で高野虎市が紹介された。
           *
 そして、2006年3月。
 冒頭に述べたように、多くの方々のお陰で、京都で第一回チャップリン国際シンポジウム、「チャップリンと日本~チャップリン秘書・高野虎市遺品展」を開催した。そのレセプション・パーティーで喜劇王の娘と「フライデイ」の妻がはじめて出会った。ジョゼフィン・チャップリンは「父がコーノを語るときは、部下としてではなく、友達のように語っていました」と言い、東嶋トミエさんは「お会い出来て本当に嬉しいです。夢のようです」と、二人はいつまでも手を取り合っていた。生前は果たされなかった再会が実現した気がして、そばで通訳をしていた私はあふれ出る涙を抑えることができなかった。

 「遺品展」は、奈良、イタリアのサチーレでも開催され、このたびフィルムセンターの入江良郎さん、岡田秀則さんらのご尽力で東京展の開催となった。喜劇王の右腕を顕彰するこの展覧会が日本の映画研究の中心で開催されるということは、かつて映画界を支え乍らその後忘却された高野のことを思うと、感慨深いものがある。センターのお客さんなら、『サーカス』のセットであのチョビ髭の扮装のチャップリンが水谷八重子や牛原虚彦とともにおさまっている奇蹟のような写真の価値がお分かりだろうし、ローレル・アンド・ハーディーやジョー・E・ブラウンと高野が写っているのを見たときの驚愕を共有してくれるだろう。
 今回は、フィルムセンター所蔵のチャップリンの日本人模倣者の写真なども展示されるとのことだ。映画界のみならず、政治史や文化史など近現代の巨大なイコンでもあるチャップリンは、まだまだ知り尽くせているとは言えない。(中略)
 その前にもう一度、東嶋トミエさんに感謝の言葉を述べたい。トミエさんの亡き夫への思いが花開く瞬間に居合わせることができて、本当に嬉しく思う。」

大野裕之『「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市(こうのとらいち)東京展」に寄せて』その3

2019-04-13 18:27:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 チャップリンは高野のことを、かねがね「私のフライデイ」と呼んでいた。「フライデイ」とは言うまでもなく、ロビンソン・クルーソーの忠実なしもべのことだ。チャップリンの旅行記“A Comedian Sees the World”の中に、次のような記述がある。
 「コーノはなんでもした━━看護夫、従者、個人秘書、護衛、彼は日本人で何でも屋だった」。
 喜劇王の全幅の信頼を得た日本人秘書・高野虎市。『チャップリン自伝』にも、しばしば「コーノ」の名前は登場する。
 当時、チャップリンには「右腕」と呼べる人物が三人いた。
 チャップリン撮影所のマネジャーで、カーノー劇団時代のチャップリンの先輩でもあるアルフレッド・リーヴス、経理ほか実務面を取り仕切っていたトム・ハリントン、そしてチャップリンのプライベートにおける秘書であり私邸の使用人頭の高野虎市である。
 1920年代に届いた高野宛の手紙はすべて「チャップリン撮影所支配人 高野虎市様」となっていることからも分かる通り、撮影所の切り盛りにもある程度、采配をふるっていたのだろう。『昭和時代』(1927年)、『彼と東京』(1928年)などの作品で知られる松竹の牛原虚彦監督は、大正15年(1927年)の1月から7カ月ものあいだチャップリン撮影所で修行を積んだが、これも高野が仲介の労をとった。牛原の他には、チャップリン撮影所でこれほど本格的に弟子入りできた人物はいない。高野に対する信頼がいかほどであったか伺える。
 だが、不思議なことに、チャップリン研究の権威デイヴィッド・ロビンソンの『チャップリン』にも、チャップリンのことなら何でも載っているグレン・ミッチェルの『チャップリン・エンサイクロピーディア(チャップリン辞典)』にも、後年の高野についての記載がなく、没年すら不明となっている。映画史の中でも重要な人物でありながら、世間では忘れ去られているのだ。

 高野は、1885年に、当時アメリカ移民の3分の1を占めていた広島に生まれ、親戚を頼って密航同然でシアトルに着く。雑貨屋などで働いた後、友人の紹介でチャップリンの運転手となった。とくにチャップリンが日本人を求めていたわけでも、高野がチャップリンを好きだったわけでもなかったようだ。チャップリンは高野の几帳面さを気に入り、また当時の経理係が金を使い込んでクビになったこともあって、家の切り盛りをすべて高野にまかせるようになる。
 高野を通じて、チャップリンは日本を知ったのだろうか、例えば『移民』のNGテイクの中には、日本の折り紙を折るシーンが出てくる。またすっかり日本人のことを気に入って、一時は料理人や庭師など17人ほどの家の使用人全員が日本人だった。二番目の妻リタ・グレイが「日本のなかに住んでいるようだった」と回想するほどの日本好きだった。
 それにしても、1931年から1年半に渡ったチャップリンの世界旅行のほぼ全行程に同行した唯一の人物となった側近中の側近・高野虎市の存在が、わが国においても意外と知られていないのはなぜか?
 1934年に、チャップリンの当時のパートナーのポーレット・ゴダードと衝突し、高野はチャップリンのもとを去る。ポーレットにとってみれば、家のことまで口出しする高野の存在が疎ましかったのだろう。高野としては、当然チャップリンは自分の味方になってくれると思っていたようだ。だが、チャップリンは新妻を取った。「あのとき、俺よりも女のほうを取った」と晩年まで高野は悔しそうに語っていたそうだ。チャップリンは、何度か高野のもとを訪れて戻ってきてほしそうなそぶりを見せたが、高野は戻らなかった。チャップリンを支え、当時の日系人としては異例の出世を遂げた高野のプライドが許さなかったのだろう。
 この時点で、高野は歴史の表舞台から消えてしまう。だが、高野が忘れ去られてしまった理由はこれだけではない。実は、高野はのちに日本軍のスパイ事件にまきこまれているのだ。
 1941年に高野は、友人の日本海軍の軍人をかつてチャップリン撮影所で働いていた元米軍将校に紹介する。そのことで、関係者は全員スパイ容疑で逮捕されたのだが、まったくの微罪のためもちろん元米軍将校は即釈放され、日本軍関係者たちも政治的配慮からすぐに日本に強制帰国という処分に落ちついた。しかし、何の後ろ盾もない高野だけは長く拘留され、「スパイ行為をした」と自白してようやく釈放された。ところが、この「自由」がのちに仇となってしまう。半年後に日米開戦。高野は、スパイ行為を認めた危険人物として抑留所に入れられてしまうのだ。(また明日へ続きます……)

大野裕之『「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市(こうのとらいち)東京展」に寄せて』その2

2019-04-12 18:31:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 思いがけなく、東嶋トミエさんは、それら貴重な資料を研究のために京都に持ち帰ることを許可してくださった。ここまで信頼してくださったからには、恩返しをしなければならない。トミエさんは、後世に高野虎市の存在を伝えていくために、展覧会がしたいとおっしゃっていた。ぜひ実現させよう。

 2005年の新年早々に、京都の称名寺のご住職・岡見弘道さんから、京都木屋町の元・立誠小学校を使って何か文化的なイヴェントは出来ないだろうかとご相談を受けた。元・立誠小学校と言えば、稲畑勝太郎が日本ではじめてシネマトグラフの実験上映に成功したといわれる場所だ。即座に高野虎市遺品展を開催しましょうと答え、京都市の門川大作教育長も全面的にご協力くださることになった。
 その年の7月に私はチャップリン国際会議のために渡英し、「チャップリンと歌舞伎」についてお話ししたのだが、その席上で「高野虎市の奥さまがご健在で、高野虎市遺品展を企画している」と述べると、大きな反響があった。「ぜひ京都で国際シンポジウムをするべきだ」との声があがり、昔からの友達であるフランク・シャイドは即座に日本に行くと言ってくれた。他にチャップリン研究の権威デイヴィッド・ロビンソン、以前京都で私のインタビューを撮影したオーストラリアのキャスリン・ミラード監督が手を挙げてくれた。他に、ハリウッド俳優で高野虎市についてのドキュメンタリー映画を制作中のクライド・クサツ、アメリカの高野研究者コンスタンス・クリヤマ教授も参加を快諾してくれ、イタリアのチャップリン・プロジェクトのチェチェリア・チェンチアレーリとキーストン映画の修復をしているダヴィデ・ポッツィ、シカゴ大学の著名な理論家ユリ・ツィヴィアン教授も来日した。

 これを機会に日本チャップリン協会を設立しようと動き始めた。以前からお世話になっているチャップリンの次女ジョゼフィンに最高顧問になってくださいとお願いしたところ、二つ返事で快く引き受けてくださった。でも、忙しくて日本には行けないということだった。そこをなんとか来てくれないかと再度お願いしたところ、1カ月ぐらいして「行くとしたら一つ条件があります。お金はまったくいらないし、飛行機代も半額ぐらい貰えればいいわ。でも、大野さん、父の愛した京都の観光案内をしてくれる?」そんなのおやすい御用です!ということでご出席くださることになった。京都でなければ国際シンポジウムは難しかったかも知れない。
 名誉会長にはやはりチャップリンに直接お会いになった黒柳徹子さんしかいらっしゃらない。以前「徹子の部屋」に出演させていただいた縁で、思い切ってお手紙を書いてみた。すると、思いがけなく、直々にお電話をいただき、「京都にもぜひ行きます」とおっしゃってくださった。黒柳徹子のチャップリンへの思いに感動した。
 元女優の山口淑子さんにもご連絡をとり、恐れ多くもご自宅まで押し掛けて、チャップリンとの長年の交遊について貴重なインタビューをさせていただいた。初対面にも関わらず、宝物のチャップリンとのお写真をすべてお貸し下さった。今回も展示している日本舞踊を踊るチャップリンの写真などだ。
 チャップリンの次女に、黒柳徹子さん、高野虎市さんの奥さまに、デイヴィッドをはじめとする世界からの超一流の研究者や映画監督、そしていずれも初公開の貴重なコレクション……かつてないほどの豊かな内容のシンポジウム/展覧会である。
 しかし、当然のことながら、私は展覧会をしたこともなければ、国際シンポジウムを企画した経験もない。とりあえずは、図録を作ろうと思い、お世話になっている印刷会社テンプリントさんにご相談した。全面的に協力くださると即答してくださった山口保義社長のご尽力がなかったら、この催しはなかっただろう。ステッキ専門・チャップリンの山田澄代社長は噂を聞きつけてお電話をくださり、スポンサーに名乗り出てくださった。
 チャップリンが1936年に宿泊した京都の最高級旅館・柊家の女将・西村明美さんは、ジョゼフィン夫妻の宿泊をご提供くださった。チャップリンとのご縁を大切にしてくださるお気持ちが嬉しかった。京都に本社を置く鉄鋼会社ケイハンの西田康郎社長からは「京都でやるなら」と、西陣の老舗・菱屋善兵衛さんからも「京都を盛り上げるために」と御協賛いただいた。地元の商店街も、フラッグや看板を作ってくださった。多くの方々の応援をもって京都でのチャップリン国際シンポジウムと「チャップリンと日本~チャップリン秘書・高野虎市遺品展」は実現した。
                *
(また明日へ続きます……)

大野裕之『「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市(こうのとらいち)東京展」に寄せて』その1

2019-04-11 18:26:00 | ノンジャンル
 国立映画アーカイブが2007年に催した「没後30年記念 チャップリンの日本 チャップリン秘書・高野虎市遺品展」に寄せられた大野裕之さんの『「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市(こうのとらいち)東京展」に寄せて』の全文を転載させていただこうと思います。

 「チャップリン秘書・高野虎市の奥さまが広島にいらっしゃると聞いて、ぜひともお会いしたいと手紙を書いたのは、2004年8月のことだった。見ず知らずの私とお会いしていただけるだろうかと、恐る恐るお電話をさしあげると、高野虎市夫人・東嶋トミエさんは、「まあ、ありがとうございます。高野もあの世で喜んでいます」と朗らかな声でお話ししてくれた。
 その年の12月に、私ははじめてトミエさんのお宅を訪れた。高野とともに暮らし、その最期を看取られた方とともにいるという奇蹟を噛み締めながら、一言も聞き漏らすまいとお話をうかがった。数年前まで「木瓜」という小料理屋を営んでおられたトミエさんの手料理をおいしくいただく。高野も親しんだであろう上品な味のおでん。一緒に少しお酒も頂いて、トミエさんはふるさとの福岡の歌を歌ってくださった。その晩は、二階に泊めてもらった。
 翌日、大きな木箱に保管された資料を見せていただきながら、私は信じられない気分でいた。チャップリンの直筆のサインがある、エドナ・パーヴァイアンスやジャッキー・クーガンの直筆のサインがある……水谷八重子とチャップリンの写真、そして、チャップリン来日時の鉄道フリーパス!世界の宝ともいうべき貴重な資料が木箱一杯に詰まっていた。
 チャップリン撮影所を訪れたハリウッドの大スターたちの素顔……ダグラス・フェアバンクスと「アメリカの恋人」メアリー・ピックフォード、アイダ・ルピノに『街の灯』のヒロインのヴァージニア・チェリル、ローレル・アンド・ハーディーにジョー・E・ブラウン……サミュエル・ゴールドウィンとチャップリンが『サーカス』のセットでポーズをつけ、最初のトーキー映画で歌声を披露したアル・ジョルソンが、『街の灯』のセットでサイレント芸術を最後まで守ったチャップリンと談笑している。それにしても、ロス・アンジェルスの日本料理屋で開かれた剣劇の遠山満一座歓迎パーティーの真ん中で、チャップリンとキング・ヴィダーが肩を組んでいる写真はどうだ。日本のチャンバラと世界の喜劇王との交流に、綺羅星のごとく輝く映画人たちのまさに「ビッグ・パレード」だ。
 高野虎市の遺品は当時のハリウッド・スターたちのポートレートに留まらない。500点もの写真のなかには、牛原虚彦、山田五十鈴、上山草人などの監督・俳優から城戸四郎や森岩雄、六車修などの映画会社の幹部までがおさまっており、作家の久米正雄も含めて多くの日本の文化人がチャップリン撮影所詣でをしていたことが伺える。1,000点を超える手紙のなかには、城戸四郎が「チャップリンこそ私の唯一の師匠」と高野に宛てたものもある。城戸がその後の松竹の路線を確立したことを思うと、映画史の系譜に新しい視座をくれる資料だ。
 撮影中のチャップリンは大の来客嫌いであった。門には「面会お断り 例外なし」と掲げてあり、当時の広報担当のカーライル・ロビンソンの回想によるとイギリスの舞台時代の友人ですら撮影の見学は出来なかったという。チャーチルが訪ねてきたときも、私服・素顔で対応している。ところが、高野の遺品を見ると、例外的に日本人の来客とは、俳優のみならず、「**大学野球団」のメンバーたちとまで気軽にあの扮装で写真を撮っている。これは、チャップリン研究に携わる私にとっては、ほとんど大スクープのような事実だった。牛原虚彦は、「高野への信頼がそのまま日本人全体への信頼になっている」と言っていたが、チャップリンの高野への信頼は破格のものだったことがあらためて分かった。
 1932年のチャップリン初来日の際の資料も面白い。松竹の大谷竹次郎とおでんを食べているところや、歌舞伎座の楽屋に土足で上がり込んでいる写真などのほかに、高野がせっせと集めていたチャップリン関連記事の切り抜きのスクラップブックも貴重だ。滞在中に五・一五事件が勃発。実はチャップリンこそ海軍将校による暗殺の標的となっていた。この影響で、チャップリンは京都行きを取りやめるのだが、そんな非常時に京都ホテルから届いた「わが京都を見ずに帰ることは遺憾」とう手紙が面白い。
 書簡類のなかの海軍関係者からの手紙は、五・一五事件でチャップリンが難を逃れたのは、高野の情報収集のお陰でもあったことを示す。親戚同士のやりとりは映画研究に留まらず日系人移民の生活を知る上でも貴重な資料だ。(明日へ続きます……)

上野昴志『成瀬巳喜男の1960年代と現在』その3

2019-04-10 18:29:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 これを、同時代的な迷妄として切り捨てることは簡単だが、当時ひとりの若い観客だったわたしなども、そのような時代感覚や価値観を暗黙のうちに共有していたのだ。しかも、そこには若さゆえの反骨意識もあったから、すでに評価の定まった大家や巨匠に対してはことさら冷淡に振る舞ってもいた。だから増村保造や大島や吉田、あるいは三隅研次や森一生のことは云々しても、小津や成瀬を積極的に評価しようなどとは思わなかったし、仲間内でも取り立てて話題にすることもなかった。東京オリンピックの年(63年)に見た『乱れる』に思わず涙をこぼしてしまっても、そんなことはおくびにも出さない。下手に口にでもしたら、笑われてしまうと思っていたのだ。いまから振り返れば、なんとも愚かというしかないが、それをそうは思わせない、むしろ逆に考えさせるのが時代の気分であり、意識なのである。しかし、これを外しては、ある種の強制力としてもある時代性そのものが雲散霧消してしまうだろうし、歴史もただの抽象になってしまうだろう。いうまでもなく、そのような愚かさに居直ることはさらなる愚行を重ねることにしかならないが、だからといって、現在の相対的な「正しさ」を自明の前提であるかのように振舞うのも、歴史を無視した抽象にほかならない。そして成瀬巳喜男という作家も、60年代においては、一方で大家であることが自明視されながら、まさにそれゆえに、その作品の具体的なありようは、なかば括弧に括られて祭り捨てられていたのである。
 そこで等閑に付されていたのは何か。映画である、というのが、いまでは自明化した答えであろう。まさに、しかり。それが、正しい答えであることは否定できない。だが、60年代当時においても、映画ということが完全に忘れられていたわけではない。ただ、戦後においては、映画というメディアそのものにワクワクするような感動や期待を抱いて対した1920年代、30年代の批評の初心が自動化し、代わって戦後的な時代意識や社会意識が前面に出てきたために、映画はなかば忘れられたのである。それを駆動していたのは、進歩という時間意識である。「新しさ」ということが、評価のキーポイントになっていたのもそのためだ。現役作家の新作は、それ自体が時間的なものとして現れるから、否応もなく旧作に対する「新しさ」が問われることになる。それでも小津のように、作品そのものが端的に、そのような映画を取りまく時間意識に抗うようなフォルムを示している場合は、小津映画の特質なるものが問われやすいが、成瀬の場合はそうではなかった。
 そして、このような進歩する時間意識に浸された批評の転換が計られるのが、60年代末のことである。わたし自身にも関わりがあるので、いささか手前味噌になるが、「シネマ69」や「季刊フィルム」など新しい映画批評家の登場がそれを促したのである。そこで何よりも問題になったのは、映画とは何かを改めて問うことであり、いかに映画の具体性を批評の基軸に据えるかということだったからである。これらの雑誌が、若い世代の戦後民主主義批判と時期を同じくして登場したのは偶然ではない。そこで60年代前半まで自明化していた戦後的な時代意識や社会意識が批判されたように、映画批評における戦後的な観念の解体が目指されていたのである。
 だが、当時の「シネマ」では、加藤泰やマキノ雅弘や深作欣二や鈴木清順が論じられ、彼らの作品の映画としての力を探る試みはなされたが、成瀬巳喜男が正面切って論じられることはなかった。誰かの口の端にのぼったかもしれぬが、それ以上に、作家成瀬は視野のうちには入っていなかったのである。それはやはり、彼がすでに既存の大家であったからであろう。(中略)成瀬の存在が改めて視野に入ってくるのは、早く見ても70年代半ば頃からである。また、そのためには見る側が、直線的な時間意識から自由になる必要があった。つまり、ポストモダン的な時間意識が浸透してくる必要があったのである。そのなかで改めて作品が作られた時代や社会という外的な側面が括弧に入れられて、作家・成瀬巳喜男の映画が前景化することが可能になったのである。しかし、忘れてならないのは、そのこと自体も歴史の所産であることである。現在の成瀬について語られる言葉は、60年代とは比較にならぬほど豊かではあるが、それが作家成瀬を自明化し、映画を自明化するならば、そこでの批評もまたいずれ好事家(おたく!?)的ものいいに堕してしまうであろう。作品も映画も常に生きて動いているものであって、決して固定したものではあり得ないのだから。そのことを身をもって示したのが、ほかならぬ成瀬巳喜男という存在である。