gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

サム・ペキンパー監督『砂漠の流れ者 ケーブル・ホーグのバラード』その2

2011-07-31 03:43:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 その後、ケーブルとジョシュアは力を合わせて、ついに立派な中継地を築き、駅馬車会社と晴れて契約を結ぶことに成功します。そのことを聞いてやって来た銀行家は、ケーブルに星条旗を贈り、感無量のケーブルはすぐにポールを立ててそれを掲げます。
 やがて、クローディアのことが忘れられないジョシュアはケーブルの元を去り、それに入れ替わるように、良識派の市民たちに町を追い出されたヒルディがやって来ます。ケーブルは精一杯のもてなしをし、二人の幸福な暮らしが始まります。ヒルディはダガートとボーウェンへの復讐に固執するケーブルに対し、そんなことは虚しいだけだとケーブルに言い、二人でサンフランシスコへ行こうと言いますが、ケーブルはあくまでここで二人が現れるのを待つと言い、クローディアの夫に追われてジョシュアがやって来たのを期に、ヒルディはケーブルの元を去る決心をします。ケーブルとジョシュアの二人を外に寝かせて最後の夜を一人家の中で過ごすヒルディでしたが、深夜こっそりとケーブルだけを家に招き入れると、ジョシュアが目覚める前に旅立ち、ジョシュアもいずこへか立ち去ります。
 そして3年半後、ついに仇の二人が駅馬車の客としてケーブルの前に現れます。ケーブルは今の成功は二人のおかげだと言い、またこれまで溜めて来た膨大な現金を家に隠しもっていることをも二人に伝えると、二人はケーブルの罠にまんまとはまり、金を奪おうとケーブルの留守を狙ってやって来て、ケーブルが掘っていた穴にはまります。ダガートは射殺され、ボーウェンは身ぐるみはがれて砂漠に放り出されそうになりますが、そこにやってきた自動車を見たケーブルは水の中継地に将来がないことを悟り、ボーウェンにダガートの死体を埋葬させると、中継地を彼に譲ってサンフランシスコに向かおうとします。そこへ運転手付きのリムジンに乗ったヒルディが現れ、二人して新たな目的地ニュー・オーリンズに向かうことにしますが、ケーブルはボーウェンをかばって自動車に轢かれてしまい、皆に惜しまれながら亡くなるのでした。

 「いい顔」を持つ俳優をふんだんに使った贅沢な映画でした。ラストの冗長さが少し気にはなりましたが、原題『ケーブル・ホーグのバラード(叙情歌)』そのままに(実際に歌が再三流れます)、ステラ・スティーヴンスの表情に象徴される甘く切ない(しかし、コマ落としやケーブル目線のオッパイの谷間のどアップショットなど、コミカルな場面もある)2時間を超える小品(?)であり、また砂漠に穴を掘るところから始まって、自力で立派な駅馬車の中継所にまでしていく「家の建設」の物語でもありました。自動車の出てくる西部劇としても記憶に残る映画だと思います。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

サム・ペキンパー監督『砂漠の流れ者 ケーブル・ホーグのバラード』その1

2011-07-30 04:45:00 | ノンジャンル
 最近、自民党政権下での原発推進政策のいいかげんさが続々と暴露されていますね。そのうち原発問題における自民党議員の「戦犯」の具体的な名前も出てくるのでは、と期待しています。そうすれば、現自民党の谷垣総裁も、菅さんをヤジってばかりいて震災復興を「邪魔」することに専念し続けている訳にもいかず、自らの身を処した上で自己批判し、積極的に菅さんの震災対策に協力せざるを得ない局面に追いやられるではないでしょうか。そんなことを思う、今日この頃です。

 さて、サム・ペキンパー監督、ルシアン・バラード撮影の'69年作品『砂漠の流れ者 ケーブル・ホーグのバラード』をスカパーの洋画★シネフィル・イマジカで再見しました。
 ケーブル(ジェースン・ロバーズ)は、ネヴァダの砂漠の真ん中で、長身のダガート(L.Q.ジョーンズ)と小男のボーウェン(ストローザ・マーティン)に水と馬を強奪され、置き去りにされます。二人への復讐を誓い、水なしで4日間進んだケーブルでしたが、、襲いくる嵐の中でもはやこれまでと諦めかけた時、足元の砂から水がにじみ出ているのに気付き、そこがオアシスであることを発見します。
 生き延びたケーブルは、やがて駅馬車の街道に行き当たり、やってきた駅馬車の御者(スリム・ピケンズ[キューブリックの『博士の異常な愛情』でカウボーイを演じた俳優])から、この辺りには水の中継所がなく、水が出れば金にも相当すると言われると、彼は水がにじみ出ていた場所に自力で水飲み場を作り、やって来た人や馬に有料で水を飲ませる商売を始めます。
 やがてそこへやって来た牧師のジョシュア(デイヴィッド・ワーナー)から登記が必要だと教えてもらった彼は、そこにジョシュアを置いて、彼の馬で町へ行き、有り金全てをはたいて登記を済ませ、駅馬車の会社に行って中継地にしてくれと頼みに行きますが、相手にされません。しかし、進退極まって州立銀行に行ってみると、何とその銀行家は彼の話を信用してくれ、彼が35ドルの借金を申し出たに対し、100ドルの貸し付けをしてくれます。
 彼はその足で町で見かけた美人の娼婦・ヒルディ(ステラ・スティーヴンス)の元を訪れますが、ふいに置いて来たジョシュアへの疑いが沸き出して、自分の体を洗ってくれた彼女に一銭も払うことなく、急いで水飲み場に帰ります。裏切っていなかったジョシュアを連れて、改めてヒルディの元を訪れたケーブルは、彼が彼女の元と急いで去った際、彼女が彼目がけて投げて割ったナベの新品を贈り物として持って行き、彼女の機嫌を直すと、さっそく一戦交えます。ケーブルは一緒に暮らそうと彼女に言いますが、彼女はサンフランシスコに出てレディになる夢を語ります。一方、ジョシュアは町で一目惚れしたクローディアの家を訪ね、泣いていた彼女を慰めながらやはりコトに及ぼうとしますが、ふいに現れた彼女の夫(ジーン・エヴァンス[フラーの『鬼軍曹ザック』を演じた俳優])から逃げ出します。(明日へ続きます‥‥)

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/


宮田珠己『だいたい四国八十八ケ所』

2011-07-29 04:42:00 | ノンジャンル
 鈴木則文監督の'68年作品『忍びの卍』をスカパーの東映チャンネルで見ました。家光の時代、家光に世継ぎを産ませまいとする根来衆の忍者ら(何とリーダーは桜町弘子!)と、それと対立する甲賀忍者(リーダーは白塗りの潮健児!)の戦い、それに大奥を仕切る春日局、大老に雇われた柳生一族の浪人(夏八木勲)と桜町弘子との恋を描いた作品で、次々と繰り出される摩訶不思議な忍法や迫力ある殺陣、そして見事な画面の連鎖で魅せる傑作忍者映画でした。隠された名作だと思います。

 さて、宮田珠己さんの'11年作品『だいたい四国八十八ケ所』を読みました。
 「何のために、なんて考えていると、旅はいつまでたっても始まらない。意味を考える前に計画を立て、結論が出る前に出発してしまう。これが大切である。」と語る著者は、「一周してみたい(四国)・全部回ってみたい(八十八ケ所)・いっぱい歩きたい」という三つの理由だけから、四国のお遍路を思い立ち、すぐに実行に移します。第一番の札所・徳島の霊山寺を訪れた著者は、そこの何もなさに拍子抜けしますが、弘法大師の化身として「同行」させなければいけない杖は持たず、しかし、「へんろみち保存協力会」が出している地図は手に入れ、道中で親切にしてくれた人に渡す「納め札」も購入して出発します。各札所の本堂と大師堂で納経するという作法は守って進みますが、三つ目の札所でさっそく朱印をもらうのを忘れて、来た道を戻るはめに‥‥。お遍路さんの行動パターンに見事に対応している宿のシステムに感心し、中高年のお遍路さんが多いことから、四国遍路は適度に誰かと打ちとけたい中高年に最適の旅のルートではないかと考え、やがて素朴な地元の自然信仰の上に弘法大師信仰が塗り重ねられたのがお遍路ではと気付き、5日目にはネパール山間部の景色を彷佛とさせる峠に至ります。そして高知の海では、今見ている風景が、弘法大師の頃と変わっていないということがうまく実感できなかったり、付かず離れずの快適な距離感での他のお遍路さんとの交流を楽しんだり、瀬戸内海の大島での潮流体験船に大興奮したり、宿坊の朝の勤行にうっとりしたりしながら、数々の困難を経て、また数々の「いい道」を歩み、数々の絶景に魅せられて、無事に3年にわたった「区切り打ち」のご遍路を終えます。その結果は「あー面白かった」であり、具体的な情報としては、お遍路は、夏は大平洋、冬は瀬戸内を歩くのが正解かもと教えてくれ、印象深かった札所については304~5ページで、歩いて楽しかった道、楽しくなかった道については254~7ページで紹介してくれています。
 もちろん以上の内容以外にも、道中の様子が克明に書かれていて、先の長い道のりで、手許に残された二つのパンをどのように食べるかを考える77~8ページの部分など、ささいなことの描写で笑わせてくれる宮田さんの筆力はここでも健在でした。「旅の醍醐味の最たるものは、今自分がその場所にいるという実感ではないだろうか」など、ためになる「哲学的言説」も多く含まれ、300ページを超える分量ながら、1日で読んでしまえる、「あー面白かった」と言うしかない本でした。常に身近に置いておきたい本の一つです。なお、もっと詳しい内容に関しては、私のサイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Books」の「宮田珠己『東南アジア四次元日記』」の場所にアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

鈴木則文監督『緋牡丹博徒 一宿一飯』

2011-07-28 00:03:00 | ノンジャンル
 先日届けられたソニーCDクラブの9月号を読んでいたら、10年ほど前、あるジャズ専門誌が“好きなジャズ・アルバム”の人気投票を実施した結果、その第1位にビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』が選ばれたと書いてありました。そのジャズ専門誌が日本のものなのか、アメリカのものなのか、ヨーロッパのものなのか、判然としませんが、おそらく日本のものだったと思われます。それにしても、今でもビル・ファンがたくさんいるというのは、何とも心強いというか‥‥。へそ曲がりの私としては複雑な気分です(笑)。以前オークションで知り合った方のお兄さんがジャズに詳しい方で、その方もビルのベスト・チューンは『ワルツ・フォー・デビー』に収録されている『My Foolish Heart』だとおっしゃっていたことを思い出したりもしました。

 さて、鈴木則文監督・共同脚本の'68年作品『緋牡丹博徒 一宿一飯』をスカパーの東映チャンネルで見ました。
 赤一面の中、仁義を切るお竜(藤純子)。タイトル。祭り太鼓を叩くお竜。「明治の中頃」「上州 富岡」の字幕。タイトルロール。高利貸しの倉持(遠藤辰雄)に苦しめられる農民たちは、戸賀崎郵便を営む戸賀崎組の親分(水島道太郎)に窮状を訴えます。お竜は賭場荒らしの男女(西村晃、白木マリ)がいると聞いて、賭場へすぐに向かい、お竜を負かして名を上げようというその男女を賭けで徹底的にやっつけます。戸賀崎の弟分の笠松(天津敏)は、裏で倉持と組み、借金の証文で身動きの取れなくなった農民たちを使って工場を新設し、上州の主要産業である生糸の生産を独占しようと狙っていました。その不穏な動きに心を傷めるお竜は、戸賀崎の元に留まって力を貸したいと思いますが、戸賀崎はお竜に矢野組の再興を一番に考えるべきだと諭し、九州の熊寅(若山富三郎)の元へお竜を送り出します。そして‥‥。
 とここまで見たところで、先を見ることを断念しました。やたらに明るく平板な画面、多用されるズームアップ、魅力が感じられない登場人物たちなどなど、どれが決定的な原因なのか分かりませんが、2時間近いこの映画を最後まで見たいという欲望はみるみる消えていってしまいました。おそらく加藤泰監督の同シリーズの作品と見比べてみれば、その謎が解けるような気がします。ということで加藤監督作品への欲望を掻き立ててくれる、そんな一本ではありました。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

ジョナサン・キャロル『我らが影の声』その2

2011-07-27 05:34:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 そしてその3日後、ポールは急死します。一ヶ月後、ぼくとインディアは山荘に行き、二人でベッドに入りコトに及ぼうとしますが、生前ポールがマジックで使っていた金属の鳥がふいに現れ、ぼくたちを襲ってきます。危険を感じたぼくらは翌日ウィーンに向けて帰ろうとしますが、その帰途でも5人のポールが乗った車に追い抜かれます。インディアはぼくに、ポールが生前ぼくとインディアの関係を知っていたことを話し、ぼくとインディアが今本当に愛し合っていることをポールが知れば、もう嫌がらせは止めるだろうとも言います。ぼくらはそれをポールに知らせようと努力し、一旦はぼくらの思いがポールに届いたと思って安心しますが、ぼくが父からの便りでボビーが警官によって射殺されたことを知った後、ぼくとインディアが車に乗っていると、車は路地で子供をはねてしまい、ぼくらはその直後にそれが実は木彫りの人形であり、ポールの仕掛けたいたずらであると知って、ポールが少しもぼくらを許す気になっていないことが判るのでした。
 インディアの提案でぼくはしばらくウィーンを離れることにし、ニューヨークへ行きます。ぼくはそこでキャレンという女性と知り合い、恋に落ちますが、2ヶ月後、ポールの嫌がらせに悩まされて気が変になりそうなのですぐに帰ってきてほしいというインディアからの連絡を受け、ぼくはキャレンを残してウィーンを旅立ちます。
 ニューヨークに帰ったぼくは、夜の公園でインディアと時を過ごしていると、突然ポールの飼っていた犬に襲われ、かろうじて犬からインディアを守ったぼくは、そこに現れたポールから、インディアのことをぼくが心から愛していると判ったので、以後嫌がらせを止めると言われます。
 その数日後、インディアに呼ばれて、彼女の部屋を訪れたぼくは、そこに、ポールの皮を被っていたボビーと、インディアの皮を被っていたロスを発見し、恐怖に駆られて逃げ出します。キャレンの元に戻ることが唯一の希望となったぼくは、高架駅のホームに逃げ込み、ウィーンに向けて旅立とうとしますが、背後からふいに現れたキャノンは、ロスに姿を変えていくのでした。暗転。
 エピローグ。世捨て人となったぼくが、ギリシャの小島で余生を静かに過ごしている様子が語られて、小説は終わります。

 豊崎さんは本書を評して「見慣れた世界に生きている等身大の人物たちが、何らかの事件をきっかけにこことは違うルールで成立している別の世界を垣間見てしま」うと書いていますが、私は冒頭のロスと母の描写を読んだ段階で、既に彼らの住む世界というのが、ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』ばりに歪んだ世界であり、テート夫妻に関しても最初からある種の危うさを感じさせ、そういった点では、「見慣れた世界」ではなく最初から「異常」な世界を描いた小説であり、別の世界への跳躍を始めから予感させる一方、ヒリヒリとしたリアルな皮膚感覚をも感じさせる小説だったと思います。「30年代から40年代にかけてのアイダ・ルピノ」といったような描写もふんだんに見られ、読む側の映画的素養が試される面白い小説であったことも付け加えておきたいと思います。