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ハワード・ホークス監督『大自然の凱歌』その2

2019-11-30 06:30:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
「ラヴ・ミー・テンダー」の原曲が『大自然の凱歌』の主題歌「オーラ・リー」で、そもそもはアメリカ南北戦争のはじまった年、1861年に、ジョー・R・プールトンによって作曲された北軍の軍歌の一つだということなのだが、うっとりするような、甘く、やさしく、せつない、抒情的なメロディーで、映画のクレジットタイトルが終わり、ドラマがはじまって、酒場女のフランシス・ファーマーが、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督作品の美神(ヒロイン)、マレーネ・ディートリッヒを想起させずにはおかない投げやりな、ふてくされた、「男なんて、なにさ」といった身振り風情もなまめかしく、やわらかでセクシーなハスキー・ヴォイスで「オーラ・リー」を歌うときには、ほとんど絶好調という感じなのである。ほとんど絶好調、と書いたのは、まだ、そのあと、呆気にとられてしまうほど豪放で、めちゃくちゃな、男も女も円盤投げよろしくお盆を投げて大暴れする痛快無比の酒場の乱闘シーンがつづいて一つのクライマックスに達するからなのだが、じつはそこにたどりつくまでが、わずか二十分ほどとはいえ、すでに心おどるシーンの連続であり、冒頭の雪に埋れた大森林で木材を切り出すシーンなど、巨木が切り倒され、木材が木場に集積され、川一面に張った氷が発破で散らされ、木材が流されて製材工場に送られるという純粋に記録映画的な映像のつらなりにしかすぎないにもかかわらず、そのダイナミックな迫力に思わず息を呑んでしまう。雪崩(ながれ)のように丸太が次々に急な傾斜を滑って川に突っ込み、波しぶきを上げるたびに、そのあらあらしい攻撃的な画面に圧倒される。無数の木材がまるで銃声におどろいて次々にはばたき、飛び立つ鳥たちの群舞する光景のようだ。伐採、集材、運材のシーンの演出にはB班のリチャード・ロッスンの名前がクレジットされているが、ここは明らかに『ハタリ!』(1962)の猛獣狩りのシーンを予告する豪快なハワード・ホークス・タッチなのである。
 もう何度か前半のホークス篇を見たが、何度見ても、心がさわぐ。男のやさしさにほだされ、その野望に翻弄されて裏切られる女の悲しさがあの印象的な額やあごにしみついたようなフランシス・ファーマーの悲劇的な美しさを見るだけでも、胸をうたれる。二本の指を立てて、ちょっと上目づかいに挨拶するという、そのマレーネ・ディートリッヒ的なしぐさは『脱出』のローレン・バコールにも受け継がれていくのだが、実際、ハワード・ホークスはジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の映画でマレーネ・ディートリッヒが演じたヒロイン、とくに『モロッコ』(1930)のアミー・ジョリーと『上海特急』(1932)のシャンハイ・リリーが大好きで、彼の映画のヒロインのモデルにしたということである。男に対して無礼で横柄で生意気にふるまうことがそのまま女らしさ━━「ディートリッヒのABC」(福住治夫訳、フィルムアート社)によれば「男性がひきこまれていくかけがえのない磁場」━━になるという、マレーネ・ディートリッヒぶりを最も見事に体現したホークス的ヒロインの白眉とも言える典型をそこに見出すことの歓びだけでも、この映画は永遠にわが心の一本になることだろう。

 以上が山田宏一さんが『大自然の凱歌』のために書いた文章です。
 
 これ以上あらすじを私がここで書いたところで、しょうがないと思うので(というか、場が白けてしまうのが火を見るよりも明らかなので)『大自然の凱歌』についての紹介文は山田宏一さんの文章をそのままお借りして終わろうと思います。ちなみに山田宏一さんはビデオで何回も見たと書かれていますが、現在ではなんとアマゾンでDVDが7円(!)で売られています。(配送料は別。)私は現在59歳ですが、大学時代にはホークスどころか、ヒッチコックの映画さえ実際には見ることができず、本を読んで想像するしかなかったのです。現在がいかに恵まれているか、おそらく今の若い方々には想像もつかないのではないでしょうか。
 そして今回、渋谷のシネマヴェーラで行われた「ハワード・ホークス監督特集Ⅱ」(4.20━5.21)のおかげで、私は新たに未見だったホークス作品を8本見ることができました。そしてハワード・ホークスもアルフレッド・ニューマンの作曲とタッグを組むことが多かったことを知りました。(ちなみにこの『大自然の凱歌』も音楽はアルフレッド・ニューマンです。)渋谷のシネマヴェーラは全国のシネマテーク的小劇場とも連携していて、その数は全部で25館もあります。東京近郊に住んでいらっしゃらない方もお近くの小劇場で近い将来ホークスの映画を見ることができるかもしれません。その時が来たら「のがさず手に取れ!(Come and get it)」です。(ちなみに『大自然の凱歌』の原題が「Come and get it」です。)

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ハワード・ホークス監督『大自然の凱歌』その1

2019-11-29 05:25:00 | ノンジャンル
 先日、渋谷のシネマヴェーラで、ハワード・ホークス監督の1936年作品『大自然の凱歌』を観ました。こちらでは山田宏一さんの本「ハワード・ホークス映画読本」に掲載された「やさしく愛して━━『大自然の凱歌』」という文章を転載させていただくと、

 生まれる前から見たかった映画なのである。そして、五十年以上も待って、やっと見られることになった━━それも、映画館のスクリーンではなく、ビデオ用の小さな受像機で、東芝EMIから出た「サミュエル・ゴールドウィン」シリーズの一本だったのである。
 もちろん、それでも、待った甲斐があったのである。
 1936年のモノクロ作品。監督はハワード・ホークスとウィリアム・ワイラーの共同になっている。ホークスが撮りはじめたが、途中でプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンと意見が衝突して監督を降ろされ、ワイラーがその後を受け継いだ。
 戦前から戦後にかけて『ショウボート』『シマロン』『サラトガ本線』『ジャイアンツ』などの原作者として知られるアメリカの女流作家、エドナ・ファーバーの小説(「Come and get it」━━邦訳はあるのだろうか?)の映画化で、ハワード・ホークスがこの原作に興味を持ったのは、彼自身の祖父をモデルにした物語だったからだという。
 材木の切出し人夫たちの飯場(キャンプ)の監督から製材所の社長の娘婿になり、材木王として億万長者に成り上がっていく男の野望の物語だが、最初のシナリオでは飯場でウェートレスとして働く小児麻痺で足の悪い娘に二人の男が同情する、あるいは歌が下手で男たちに野次られっぱなしの哀れな酒場女に集まったあらくれ男どもをたちまち静かにさせてしまう圧倒的な魅力と歌声を持つ女が二人の男に愛される物語、見てくれはあばずれだが、じつは心意気の女であるという、『脱出』(1944)、『三つ数えろ』(1946)のローレン・バコールや『リオ・ブラボー』(1959)のアンジー・ディキンソンにつらなるホークス的美女の典型をヒロインとする話に書き替えてしまった。そのためにプロデューサーの怒りを買い、結局、監督を交替させられる、というような事情は、じつは映画を見れば一目瞭然なのである。
 前半がホークス篇、後半がワイラー篇になるのだが、ホークスのハードボイルド・タッチにワイラーの文芸メロドラマ調と、演出の調子があまりにも異なるので、まるで二本立てを見たような気になる。前半のホークス篇が1884年の物語、そして深い、深いフェイド・アウトとともに、それから二十三年後の物語が後半のワイラー篇になる。一時間四十分足らずの映画にもかかわらず、『人生劇場』さながらの大河ドラマ的な物語でもあるから、前半を野望に生きる主人公(エドワード・アーノルド)の青春篇、後半をその残侠篇と見ることもできるだろう。後半のいかにもウィリアム・ワイラー調のメロドラマ(1939年の名作『嵐ヶ丘』がウィリアム・ワイラー監督作品だ)もなかなか見ごたえがあり、とくにフランシス・ファーマーが母と娘の二役を演じ、かつて母が酒場で歌った歌を娘が同じように美しい声で歌うところなど、フランスのアベル・ガンス監督のメロドラマの傑作『失われた楽園』(1939)を想起させる感動的なシーンになっているのだが、前半のホークス・タッチの息を呑むすばらしさのあとでは後半のゆるやかなドラマが少々色あせて見える。とはいえ、フランシス・ファーマーとう映画史から消えてしまった、あるいはむしろ消されてしまった、幻の女優を、それも彼女の二役を、二重のイメージを、見るだけでも、胸がつまる思いだ。1982年にジェシカ・ラング主演で映画化された『女優フランシス』(グレーム・クリフォード監督)という彼女の伝記映画にはもちろん、ケネス・アンガーの血なまぐさい名著「ハリウッド・バビロン」にも、その不幸な生涯がスキャンダラスに語られていることは周知のとおりだが、この「美しく繊細で、きわめて刺激的な女優」の最も幸福なイメージを、「新しいガルボ」とそのクールな美貌がうたわれ、1936年のハリウッドの「最も衝撃的な発見」とまでいわれたときのフランシス・ファーマーを、見ることができるだけでもすばらしく、その意味では彼女をヒロインにした二本の連作と見ることもできよう。。
 まず、クレジットタイトルとともに流れる主題曲のなかに、かつて聴きなれた懐かしいメロディーがあって、おやっと首をかしげながらも心なごむ。間違いなく、エルヴィス・プレスリーが1956年に映画初出演したロバート・ウェッブ監督の西部劇、『やさしく歌って』の主題歌と同じメロディーだ。(中略)それから四年後の1960年にプレスリーが白人とインディアンの混血児を感動的に好演したドン・シーゲル監督の鮮烈な西部劇、『燃える平原児』のイメージがなぜか救いのようにそこにダブって、忘れがたいのである。

(明日へ続きます……)

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雑誌『エトセトラ vo.2 Fall / Winter 2019 特集 We ❤ 田嶋陽子!』その2

2019-11-28 06:27:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 今度は田嶋陽子さん自身の文章。
「抑圧されていると、自分が腹の底でなにを感じているのかわからなくなってしまいます。自分の気持ちがつかめません。自分というものが大きな濡れ毛布で包まれてしまったみたいで、外界が感じられなくなります。自分自身の感性でほんとうになにかを感じてしまったら、その人は行動せざるをえなくなります。行動したら、これまでの枠をはみでることになるかもしれません。「感じる」って、そういうことなんですね。だからこそ、おおかたの人たちは、もう感じることを放棄しているのです。なぜなら、この大きな社会が決めたところからはずれることは、やっぱりすごく恐ろしいことだからです。こうして、ほんとうに感じることを抑圧していく。それでも、みんななにか自分の胸のなかでうざうざしているものがあるはずです。それをすくいだして、自分に正直に生きてみたらいい。まわりが味方してくれなくても自分を味方につけたらいい。まわりに、自分に、負けないでほしい。
 ドレイ船の船底から一歩、踏みだして、甲板の上にのぼってみることは、とても勇気と決断力のいることです。経験がないですから、とても大変です。一人では大変だから、みんなで手をつなごうと言ってみても、手をつないだ人みんながおなじ「女らしく」生かされた人だと、どこにも行きつかない。ドレイ状況に置かれているというのは、とても恐ろしいことです。とても生きにくい。そういう生き方を、文化は暗黙のうちに女に強制してきたということです。いま、悩んでいて決断力がなかったとしても、自分のことをイヤな女だと思っていたとしても、それがわかったら、いまあなたが悩んでいるのはあなただけの責任ではない。そう思えたら、もう少し気がラクになる。気がラクになったところで、こんどは、そんな文化に負けてはいられません。二つに引き裂かれている自分をひとつにしたら、力が出ます。失われたエネルギーを取りもどしてほしい。
 いま、悩んでいる人、引き裂かれて苦しんでいる人は、自分だけがだめだと思わずに、力強くそういう状況を生きぬいてほしいのです。くれぐれも、「私に能力がないんだ、私の性質が悪いんだ」などと思わないで下さい。まず引き裂かれている自分に気づくこと、なんとか自分らしく生きるためにどうしたらいいか考えはじめること、それが新たなる出発じゃないでしょうか。
 人は、他人のために闘うほうが闘いやすいのです。でも、自分のために闘いだしたとき、人はやっとひとりの人間になれるのです。」

 斎藤さんの文章からは「なるほど」と思い、田嶋さんの文章は「女らしさ」を求める制度としての文化が、これ以外にも様々な抑圧を生んでいるという事実にもあてはまると思いました。
 雑誌『エトセトラ』はVOL.1が「特集:コンビニからエロ本がなくなる日」、次号予告が「特集:私の、私による、私のための身体」というもので、自らを「フェミマガジン」と自称している雑誌です。マッチョな世界観が戦争を生み、平和な世界の実現を妨害している現実を考えると、こうした雑誌の誕生は歓迎されるべきでしょう。今後、『エトセトラ』が大きな成功を収めるのを望んでやみません。

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雑誌『エトセトラ vo.2 Fall / Winter 2019 特集 We ❤ 田嶋陽子!』その1

2019-11-27 06:23:00 | ノンジャンル
 11月10日に刊行された、雑誌『エトセトラ vo.2 Fall / Winter 2019 特集 We ❤ 田嶋陽子! 山内マリコ・柚木麻子・責任編集』を読みました。その中から、田嶋さんの著書『愛という名の支配』に関する斎藤美奈子さんの書評と、田嶋さんが『愛という名の支配』の中で書いた文章の一部をこちらに転載させていただきたいと思います。

 まず斎藤さんの「空気を読まない彼女の直球ド真ん中な「愛情」論」と題された文章です。
「気鋭の英文学者にして、テレビのバラエティ番組でズケズケものをいう異色のフェミニスト。80年代は上野千鶴子や小倉千加子らスター級のフェミニストが何人も登場した時代だったけれど、田嶋陽子のインパクトはとりわけ大きかった。彼女はけっして空気を読まない。相手にどう突っ込まれてもひるまない。あうんの呼吸で話が通じるホームではなく、わからず屋の巣窟であるアウェイでいつも勝負する。
『愛という名の支配』はそんな田嶋陽子らしさが炸裂した初期の代表作である。講演をそのまま文字化したような、ユーモラスかつざっくばらんな語り口。だが二十数年ぶりに読み直して、おおー! と思った。驚くべきわかりやすさ。そのうえ、いま読んでもまるで古びていない。ってことはしかし、30年近くたっても日本はさして変わってないってこと!?
 性差別はどこから来て、個人の精神にどう影響し、男女関係をどう歪めるか。この本で彼女が読者に投げかけているのは、そんな本質的な問いである。
〈私の場合、親の愛というのは、“いじめ”と紙一重だった〉というシビアな告白から話は始まる。子どもの頃、いちばん怖いのは母だった。〈いくら勉強ができたって、人に好かれるようなかわいい子でないと、お嫁のもらい手がなくなるからね〉と母はいった。だが母もまた、その母(著者の祖母)を恨んでいた。〈結婚することでしか女は生かされない。女は飼い殺しにされている。自分の人生を自分で選べない。選択権がない。自己決定権はない、ということなんですね〉
 そもそも女は「女の国」から「男の国」に連れてこられ、ガレー船の船底に閉じ込められたドレイと同じだ、というのが彼女の持論だ。甲板の上にいるのは男たち。女は妊娠と出産に束縛されて逃亡の機会を失い、肉体的には活動に不向きな衣服と窮屈な靴に、精神的には「女らしさ」という社会規範に縛られて、ますます身動きがとれなくなった。それでも安心できない男たちは〈植民地支配の鉄則の一つ、「分割して統治せよ」で、主人一人にドレイ一人、男一人に女一人を割りあてたのです〉。何を隠そう、それが奴隷制度だ、と。そしてさらにキツイ一発。〈恋愛結婚ができたからよけいに困ったことになった〉。〈恋愛して結婚すれば、女は愛の名のもとに尽くすだけですから、男社会にとってこんな得なことはないわけです〉
 母と娘の関係も、結婚制度も、流行のファッションも、男の快楽に寄与するセックスも、気持ちいいくらいに一刀両断。ことに「愛」に対する彼女の評価は厳しくて、〈女たちが年がら年中、「愛! 愛!」と男の愛ばかり求めるようになったのは、原点にドレイ状況におかれている女の現実があるからだと思います〉と容赦がない。〈ドレイ状況にある女は、甲板の上の主人の愛と温情がなければ、食べものひとつろくにもらえない〉。だから女は〈相手の言うことはなんでもきいて、逆らわずに、「ハイ、ハイ」と従ったほうが無難で安全だと、体験からも知るようになります〉
 二十一世紀の今日、表面上、女性をめぐる状況はかなり変わった。結婚しない女性も増えたし、結婚しても働き続ける女性も増えた。しかし、「愛」にまつわる右のような状況を否定できる人がどのくらいいるだろうか。
 そう、「愛」はおそろしいのである。ぼーっとしてると、絡めとられるぞっ。
 この種のストレートな言説は、そういえば近年、減った気がする。過激すぎると読者が引く、敵が増える。フェミニストもフェミニズム本も、なにかと「忖度」しながら世間とつきあってきたせいかしらね。けれど田嶋陽子は空気を読まない。だからこそ、それは読者の心にダイレクトに響く。若いときに(若くなくても)この本を読んだかどうかで人生は変わる。目の前の霧が晴れるような感覚をあなたは味わうだろう。」

(明日へ続きます……)

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ハワード・ホークス監督『僕は戦争花嫁』&『虎鮫(タイガーシャーク)』&『人生模様』

2019-11-26 06:25:00 | ノンジャンル
 渋谷のシネマヴェーラで、ハワード・ホークス監督の1949年作品『僕は戦争花嫁』を観ました。フランスの将校ケーリー・グラントが最後の任務としてドイツへレンズの製作者を呼びに行くことになるのですが、その際同行を命じられたアメリカ軍の女性将校アン・シェリダンとの珍道中と相成り、その結果、二人は結婚することを決意します。しかし結婚の初夜、アン・シェリダンに帰国命令が発令され、ケーリー・グラントはアメリカ軍人の「花嫁」としてアメリカに渡ろうとします。以下、山田宏一さんが「ハワード・ホークス映画読本」に乗せた文章から転載させていただくと、「ケーリー・グラントが「LADIES」というドアのプレートの文字を陸軍労働局とかそういった部署の略称だと思いこんでイニシャルの誤解に一所懸命になっていると……という冒頭のばかばかしさからホークス的男女逆転喜劇なのだが、馬の尻尾をかつらのように付け毛というか添え髪にして女装させられたケーリー・グラントがハイヒールをはいて、ストッキングのずれを直すために屈みこむと、それを見た水兵たちが口笛を吹くに至って、ナンセンスもここにきわまれりといった倒錯的なジョークが炸裂する。」

 またやはり渋谷のシネマヴェーラで、ハワード・ホークス監督の1932年作品『虎鮫(タイガーシャーク)』も観ました。ジェームズ・キャグニーとならぶギャング映画の大スターだったエドワード・G・ロビンソンを主役にした海洋アクションで、鮫に片手を食いちぎられて鉤爪の義手を付けた強面のロビンソンの片耳にイヤリングのようなコイン状のピースを付けさせ、両足も鮫に食われ、死んでいく愛に見放された素朴なあらくれ男を演じさせる━━『バーバリ・コースト』のように。そんな映画でした。(以上、山田宏一さんの『ハワード・ホークス映画読本』から一部を転載させていただき、改変させていただきました。)

 またやはり渋谷のシネマヴェーラで、1952年作品『人生模様』も観ました。O・ヘンリーの5つの短篇からなるオムニバス映画で、冬を刑務所で越すため警官に捕まるように次々と罪を重ねるもなかなか警官に捕まらず、最後に夜の教会に行き、そこで「気持ちを入れ替えて、ちゃんと仕事をしよう」と思い立ったところを警官に捕まり、浮浪罪で3ヵ月の有罪になってしまう男(チャールズ・ロートン)を描いたヘンリー・コスター監督の『警官と賛美歌』。幼馴染の強盗殺人で追われている男(リチャード・ウィドマーク)が事件現場に落としていったペンで、それが彼の仕業だと分かる刑事。しかし刑事は以前賭博にはまっていた時に空手形を書き、そのとき男から借金をして、それをまだ返していないので自分を逮捕できないとうそぶく男。刑事は必至にお金を集めるものの、男は一切を返すかゼロかどちらかだと迫り、刑事はたまたま新聞紙に載っていた「情報提供者に1万ドル」という記事を読んで男を逮捕するに至る様子を描いた、ヘンリー・ハサウェイ監督の『クラリオン・コール新聞』。O・ヘンリーの短篇では一番有名だと思われる『最後の一葉』を撮ったジーン・ネグレスコの作品。そして、二人の詐欺師が新たな詐欺を働く資金を作るため、老保安官の10歳の男の子を誘拐するものの、ナイフを操り、インディアン遊びを二人に強要し、約束を裏切ると、夜に山の方から点々と餌を置いていくことでクマを寝ている二人の上に導き、ほんとに何をするか分からない危険な子どもにほとほと疲れ果てた二人は、「250ドル渡せば引き取っていい」という老保安官のところへ行き、お金を払うというハワード・ホークス監督の『赤い酋長の身代金』。そしてこれも有名な短篇ですが、若い夫婦がクリスマスプレゼントを買うのですが、夫は妻の美しい長い髪に映えるような美しいかんざしを、父からもらった金時計を売って買い、妻は夫の金時計を飾るプラチナ製の飾りを、自分の髪を切って、それで得た金で買うという話で、ホークスの短篇が断然面白いのはもう誰が見たってそうなのですが、私は『キリマンジャロの雪』や『慕情』で知られるヘンリー・キング監督の『賢者の贈り物』で、短髪になった自分の姿を鏡で見て驚き、何とか髪の毛にカールをかけて、「これでも好きでいてくれるかしら」と気を揉む妻(ジーン・クレイン)と、お互いの贈り物を知り、妻にやさしく対応する夫(ファーリー・グレンジャー、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』でおなじみの俳優さんです)を見て、涙が止まらなくなってしまいました。今後はヘンリー・キングの映画も観ていかねばと思った次第です。

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