城の概要
標高 440m
城主 「三河国二葉松」では「仁木村篠平砦」の項があり、城主不知と記載されています。ネットでは、春日井与左衛門と伝えられるとのことです。
なお、地元の人の話では、「城ケ峰城」とも呼ばれているそうです。
仁木城跡概念図(「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅱ(西三河地区)参照」
登城記
仁木城へと山道を進んでいきますと、まず堀切にぶつかりました。堀切から腰曲輪に沿って切岸が見られました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/de/5611c69f42dadce876f3dec023e7b5cc.jpg)
堀切と切岸(南側から撮影)
主曲輪の周囲はぐるっと腰曲輪がありました。そして、腰曲輪と主曲輪の間は、浅い横堀が掘られていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ae/a4ce50cddd99cd4c38a076d91cd769d3.jpg)
主曲輪を取り巻く腰曲輪と横堀
主曲輪に上がりますと、土塁がありました。本来は主曲輪の周囲をぐるっと回っていたものと思われますが、北の方と、西の方に若干痕跡がありました。この土塁には石が点在しており、石積みであったことが想像されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/ed/faf53b55edd90eaa915396658fe0698a.jpg)
主曲輪北の土塁
また、腰曲輪の北と西に竪堀がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/ed/d32071900407239d09c7b1b152b54047.jpg)
腰曲輪北の竪堀
仁木城跡は、詳しいことは分かりませんが、単郭のお城で周りを腰曲輪が囲むという形でした。整備されていれば堀や土塁も立派によみがえると思いました。
また、ところどころに石積みの跡を思わせる石が散在していたことや、ネットで徳川家康によって改修されたとの記事もありましたので、近世の山城として位置づけられるかもしれません。
登城路なども含め、さらに整備されたらなあと思いました。
仁木城 終わり
標高 440m
城主 「三河国二葉松」では「仁木村篠平砦」の項があり、城主不知と記載されています。ネットでは、春日井与左衛門と伝えられるとのことです。
なお、地元の人の話では、「城ケ峰城」とも呼ばれているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/19/26870e448fb436f3717a91b4b99f637f.jpg)
仁木城跡概念図(「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅱ(西三河地区)参照」
登城記
仁木城へと山道を進んでいきますと、まず堀切にぶつかりました。堀切から腰曲輪に沿って切岸が見られました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/de/5611c69f42dadce876f3dec023e7b5cc.jpg)
堀切と切岸(南側から撮影)
主曲輪の周囲はぐるっと腰曲輪がありました。そして、腰曲輪と主曲輪の間は、浅い横堀が掘られていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ae/a4ce50cddd99cd4c38a076d91cd769d3.jpg)
主曲輪を取り巻く腰曲輪と横堀
主曲輪に上がりますと、土塁がありました。本来は主曲輪の周囲をぐるっと回っていたものと思われますが、北の方と、西の方に若干痕跡がありました。この土塁には石が点在しており、石積みであったことが想像されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/ed/faf53b55edd90eaa915396658fe0698a.jpg)
主曲輪北の土塁
また、腰曲輪の北と西に竪堀がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/ed/d32071900407239d09c7b1b152b54047.jpg)
腰曲輪北の竪堀
仁木城跡は、詳しいことは分かりませんが、単郭のお城で周りを腰曲輪が囲むという形でした。整備されていれば堀や土塁も立派によみがえると思いました。
また、ところどころに石積みの跡を思わせる石が散在していたことや、ネットで徳川家康によって改修されたとの記事もありましたので、近世の山城として位置づけられるかもしれません。
登城路なども含め、さらに整備されたらなあと思いました。
仁木城 終わり