常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

2017年04月18日 | 百人一首


百人一首の最後を飾るのは順徳天皇である。後鳥羽院の第三皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒そうと承久の乱を起こしたが、失敗に終わり、乱後二人は佐渡へ配流の身となった。順徳院には「野辺のむかし物語」があり、そのなかにすみれの話が出てくる。

「昔、ある人道に行きまどひ、広野に日をくらして、草の中にて鳥の卵を拾ひぬ。これを袖に入れ、草の枕を引き結び、その野にて臥しぬ。夢に拾ひつる卵は前世の子なり、この野に埋むべしよし見て、夢さめぬ。夢のごとくやがて埋ぬ。そのあした見るに、葉ひとつある草に紫の花咲きぬ。いまのすみれ、これなり。」

前世になした子が鳥の卵になり、やがて菫に化生する、という伝承ははかなく哀れである。かつて、子を亡くした母たちが、野の菫を見るとき、この言い伝えに涙を流しながら、いつくしんだ。平家一門の子として育った順徳院は、鎌倉の源氏政権に烈しい敵意を抱いた。

百敷のふるき軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり  順徳院

軒端のしのぶはしのぶ草、別の呼びかたにわすれな草がある。
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一枝の桜

2017年04月13日 | 百人一首


ほぼ毎日通っている日帰り温泉の玄関に、大きな素焼きの瓶が置かれ季節の花が枝ごと投げ入れるように飾られる。花芽のついた枝であるので、室内の温度でたちまち花が開く。いつも、季節に先駆けて花が楽しめる。今週はソメイヨシノの桜が、満開である。常連の入浴客が、家の庭にある枝を持って来てくれる。その一枝を貰い受けて花瓶に挿すと、一晩で玄関先が花盛りになった。

平安時代の一条天皇の御代、宮中へ旧都の奈良から一枝の八重桜を携え、天皇のお目に入れたいと使いの人が来た。その使いの知らせを受けて、重役の人々が対応した。ときめく藤原道長、中宮彰子、紫式部などの女房などきら星のような面々が居合わせた。紫式部が、「この取次の役は、新参の伊勢大輔が」と指名すると、道長は「花を受け取るときには、ただ受け取るのでなく、その花を題に歌を詠むのだよ」と大輔に言った。そこで大輔は、

古への奈良の都の八重桜けふ九重にのほひぬるかな 伊勢大輔

九重とは宮中のことである。八重、九重を重ねた当意即妙の機智に、使いはもとより、天皇も中宮も重役の面々も驚き、称賛の声が上がった。女房の宮仕えには、このような歌の技量も要求された。紫式部のように物語を書き、清少納言のような読み物、そして歌詠みの上手、中宮の日常の暮らしへのきめ細かな気配り。いわば、中宮のブレーンとして、中宮の脇をかため、その面目を保つために一役を買っていたのである。
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清少納言

2017年03月06日 | 百人一首


清少納言が心を許し、冗談を言い合うような仲であった公達に藤原行成という人がいる。平安時代の能書家で、野道風、藤原佐理と並んで三蹟の一人に数えられた。また政治家としても、道長の側近として仕え、活躍した。清少納言が一条院の中宮定子の局に仕えていたころ、行成が遊びに来て夜更けまで、もの語りを楽しんだ。話の内容は、教養のある二人であったから、中国の故事や詩の話に及んだであろう。二人が恋仲だという説もあるが、そのあたりは触れる必要もない。時間を忘れて話している内に、行成は宮中の物忌みに籠らねばと言って、あたふたと帰っていった。

その翌朝早く、行成が清少納言に手紙を書く。「夕べは楽しい話で、夜を徹して話をしたかったのに、鶏の鳴き声に急かされて残念です。」と手蹟もあざやかに書き送ってきた。それを見た清少納言は、「まだ夜中でしたよ。そんなときに鳴くのは孟嘗君の鶏ですか」と返事をしたためた。清少納言が中国の故事に詳しいところ見せたところだ。秦の国で囚われの身になった孟嘗君が函谷関まで逃げてきたが、鶏が鳴くまで門は開けないと言われているところ、従者の一人が鶏の鳴きまねをすると、関所の鶏が一斉に鳴きだして脱出に成功した、というのがその故事である。

行成も負けていない。その手紙にさらに返書した。「ここは唐の国ではありませんよ。函谷関ではなく、逢坂の関ですよ。あなたと逢うために出るのに、関守も厳しくありません。」と意味深長な手紙。そこで詠んだ清少納言の歌が、百人一首に収められている。

夜をこめて鳥の空音をはかるとも 夜に逢坂の関はゆるさじ 清少納言

ニセの鶏の声でだまそうとしても、そうたやすくは逢うことを許しはしませんよ。この歌を読み解くためには、これだけの故事の知識を必要とするが、宮中でこんな軽妙なやりとりを楽しんでいたのが、貴族たちである。ここから、恋が芽生え、男女の仲が生まれるだろうことは、容易に想像できる。ただ、教養をひけらかす清少納言を、「したり顔」だと厳しく非難したのは、『源氏物語』を書いた紫式部である。
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酉年

2017年01月04日 | 百人一首


4日、朝方の雨が雪になった。気温が高いので積もりそうもない。蔵王などのスキー場では、少雪で困っているらしい。雪になると、餌を探せないのかベランダにヒヨドリがやってくる。手摺にとまってプランターのなかに餌がないか探している様子である。今朝食べるリンゴの一片をプランターに置く。お正月の雪を見ると、阿部次郎ではないが、子どものころの正月だ。戦後、どこの家でもカルタ取りで遊ぶのが流行った。

カルタを5枚ほど持つ攻め方と、10枚の中央、残りの20枚が守り方の3名づつが向かい合って取りかたをするチームプレーなどで、同じ年ごろ同志が6人集まらなければできないので、正月の格好な遊びであった。戦後、正月なのにろくな食べ物もないなかで、ぼた餅などを振舞った。出てくる言葉は、「砂糖屋の前を通りすぎたみたいな餡子だけど」。しかし、あのひもじい時代に、こんな遊びがあったことは、いい思い出である。私は子どものころ祖母に抱かれて寝たが、寝る前に聞かせてもらったのは、百人一首の作者の物語であった。

明治の学校にも行っていない祖母は、百人一首を諳んじていて、阿倍仲麻呂が遣唐使で唐の国に渡った話など、70年経った今なお記憶している。干支の酉年に因んで、百人一首のなかに鳥を詠みこんだ歌が、何首あるか見てみた。すると全部で5首。

3 あし引の山鳥の尾のしだりをのながながし夜をひとりかもねむ 柿本人麻呂

6 かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける 中納言家持

62 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 清少納言

78 淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜寝ざめぬ須磨の関守 源 兼昌

81 ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただ有明の月ぞのこれる 後徳大寺左大臣

6番の鵲は、天の川に住む鳥。天帝がこの鳥命じて天の川に橋をかけさせたという。その他の歌については、昔のカルタ取りを思い出しながら、じっくりと味わって欲しい。
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小倉山の紅葉

2016年11月11日 | 百人一首


雪の到来で、紅葉の見ごろは一気に過ぎ去ろうとしている。京都の方の見ごろはこれからであろうが、小倉山(嵯峨の二尊院の裏山)の紅葉があまりにみごとなので、宇多上皇が息子の醍醐天皇にも見せたいものだと、仰せになった。そこで上皇の紅葉狩りに供奉していた藤原忠平が詠んだ歌が、百人一首の第26番である。

小倉山峯のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ 貞信公

写真は山形もみじ公園のカエデの紅葉であるが、この紅葉を見ながら京都嵯峨の紅葉を想像してみた。百人一首を選んだ藤原定家もまた小倉山に住んでいた。小倉山のもみぢを詠んだ歌を、百人一首に入れておきたかったに違いない。それほど、嵯峨の紅葉は美しかったであろう。歌中の「みゆき」であるが、御幸は上皇に、行幸は天皇に用いられるのが習わしであった。ここでは漢字をあてれば行幸ということになる。
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