天保2年1月6日午後4時頃、僧良寛は新潟の長岡国上村の木村家の草庵で息を引き取った。享年74歳、老衰のためと言っていい。臨終の場所には仏弟子の遍澄法師、貞信尼が身辺の世話にあたり、弟の由之も家から草庵に通った。その様子は弟の日記『八重菊』に綴られている。瀬戸内寂聴の小説『手毬』には、創作を加えて、臨終の様子が生々しく描かれている。
死の二日前、逓信尼は由之と交代でお伽をしていた。
「お心にかかることはございませんか、御心持はいかがでしょうか」と申しあげた。良寛さまは薄目をあけて、まっ直ぐ私の目を捕らえ、「死にとうない」とつぶやかれた。聞き違いかと、一瞬目を大きくしたが、その私の表情をご覧になって、うっすらと微笑され、「死にとうない」ともっとはっきりいわれた。「こんなにやさしい人たちに囲まれているのだもの、この娑婆にながらえたい気がする」
もはや薬も食事も自ら断たれているようなので、私も覚悟を決めていった。
「御時世は」良寛さまは半分眠ったようなうつらうつらとした声で、
「散る桜、残る桜も散る桜」とつぶやかれ、そのままひきこまれるようにすとんと眠りに入られた。
葬儀は与板の徳昌寺大機禅師によって盛大に行われた。会葬者285人、お斎に使われ白米は一石六斗と伝わっているから、新潟の小さな村の葬儀としてはいかに大きなものであったことが知られる。知人に形見の歌と乞われて詠んだ歌
かたみとて何かのこさむ春は花
山ほととぎす秋はもみぢば
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