常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

霞城公園

2020年03月10日 | 日記
昨日の山形は20℃を超える陽気、冬のセーターでは汗をかくような気温だ。直射日光を受ける車内は、クーラーが欲しくなるほど室温が上がっている。この陽気に誘われて散歩の足を霞城公園まで延ばした。東大手門の前の道路に車を停め、石垣の上の土手の道を一周した。空は晴れ上がり、白い雲がのんびりと浮かんでいる。門の作りは太い柱と白い壁、所々に石垣が見える。好天のなか、城内を散策する人も多いようだ。土手を歩く人は私と同じ高齢者が多く見られた。このコースを歩くのは実に数十年ぶりである。バイクで通勤していたころ、転倒して骨折、この公園の近くに入院した。ギブスを外して足馴らしにこの道を歩いた。それ以来である。
公園の中に第11代城主・最上義光公の乗馬姿の銅像が建っている。先日、義光記念館で、手にしている指揮棒の説明を聞いてきた。実物のレプリカであったが鉄製の四角な棒で、持つとずっしりと重い。これを振りかざして、敵を目がけるのであれば、先陣を切る武将には、その決意を迫ってくる重さであると感じた。指揮棒が示す方角は、この城をめざして行軍を続ける敵将直江兼続軍の在処である。

狐越街道を中心に繰り広げられて出羽合戦は、関ケ原合戦の出羽戦で、石田軍についた直江は、徳川につく最上義光を攻略すべく攻め寄せてきた。だが、関ケ原での合戦が予想を超えて早く決着したため、出羽の合戦が決着する前に、東軍勝利の知らせが届き、直江軍は撤退となった。殿で指揮を執る直江は、追手の最上軍に鉄砲で応戦しながらの激しい攻防となった。鉄砲組を二段に揃え、発泡準備の出来た組と発泡を終えた組を巧みに組み替え、追撃の軍を容易に寄せ付けることはなかった。
土手を南に進むと、当時の合戦の跡も消え、早咲きの梅がのどかに咲いていた。写真を撮っていると、歩いていた人がもう一週間も前から咲いている、と教えたくれた。土手方東の方に目をやると、堀の水がなくなっている。聞けば、冬の間、水抜きをしたとのことであった。魚は水のある方で生きている、とのことであった。日当たりのよいところでは、桜の蕾が膨らんで、先端に紅いものが見えるような気がする。この分では、関東並に3月中の開花もあるかも知れない。それほどに春を思わせる陽気
であった。
日ごろ目にする機会のない西門に来た。ここまで来ると、堀の水は満々と湛えられている。この辺りまで来ても、土手の上を歩く人の姿は絶えることがない。ジーンズ姿の運動部の高校生が、コーチの合図にしたがって走っている。犬を連れて歩く家族連れの人たちもいる。
目を濠へ移すと、カモの群れが気持ちよさそうに泳いでいる。堀の向こう岸で、釣り竿を手に、魚信を待つ人の姿が三々五々見えている。会社勤めのころ、釣り好きの上司から、釣りの手ほどきを受けたのもこの濠であった。歩いて10分ほどのところに職場があったので、会社が終わって日が沈む前のひととき、釣りを楽しんだ。
北の土手には、歴史を感じさせる巨木が枝を広げ、その先を濠の方へと伸ばしている。中に大きな窪のある大木もあった。おそらく城がまだ、実際に使われていた頃からこの木はあったのであろう。同じ道を、城に仕える家臣たちが散策していたのであろうか。コースを一周して、歩数計は8000を示していた。まだ、一日の目標に届かない。しかし、春の陽気に、背には汗が出ているのが分かる。
コメント
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