常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

朝の3,000歩

2024年09月15日 | 日記
起き抜けにみた東の空は美しいピンク色に染まっていた。朝のゴールデンタイムは短い。カメラを取りに部屋に戻ったわずかの時間にそのピンク色は消え去り普通の日の出前の空に変わっていた。外へ出てみると、雨の水たまりが道にできている。さっきまで雨が降っていたのだろう。雨上がりに吹く風が肌に心地いい。昨夜の睡眠が足りたせいか足が軽い。草むらのコスモスが美しい花をさかせ満開の萩の花がこぼれて道をピンクに染めている。今朝も朝飯前に3000歩を歩いた。家に帰ってハーブの鉢に水やり、仏壇に線香を焚き、切り花をさし変える。朝のひと仕事が済むと気持ちいい一日が始まる。

夕べ、ドアの外で虫の声を聞いた。ドアを開けて壁をみると、青い小さな虫が壁に止まって鳴いている。思わず写真に撮り検索したみた。出てきたのはマツムシ。草むらにいてはその姿は確認できないが白い壁の上で初めてその姿をとらえることができた。先日、生涯にわたって編集を研究した松岡正剛氏の訃報に接した。ネットで「千夜千冊」というサイトを設け、毎日読んだ本を多方面に子細に説きつくす大仕事だ。このサイトの読者になって、氏の読書量とそれをネットに書き連ねていく時間をどうやって生み出すのか、想像をこえるものがあった。著書『花鳥風月の科学』に「日本人と風」という一節がある。

「花鳥風月のなかでも、風は特別の地位を占めます。それは風が目に見えないからです。花や鳥や月は見えるものなのに、風は見えません。そこでほかの動きや流れに風を感じることになる。たとえば風流人がお茶を飲むのは「いま竹藪に風が通りましたな」というようなことを言うために、ただそれだけのために、そのお茶を飲むわけです。」
この千夜千冊も大部の本になって出版された。また、昔読んだサイトを開いて氏の謦咳に接してみたい。
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経年劣化

2024年09月14日 | 日記
ここへ来て身の回りのさまざまものが劣化迎えている。テレビの画像と音声がフリーズして止まってしまう。5秒ほどで回復するのだが、その頻度が年々頻繁になってきた。買って10年も経つので、人に聞いてみるとデジタルのテレビは10年ほどしかもたないないのだという。洗面所の水の流れが悪くなった。下にあるS字パイプを外してみた。長年たまったゴミがS字の前のパイプに黒くこびりついて流れを悪くしている。パイプの流れをよくする薬品を使用しても改善しない。プラスチックの素材が劣化して、触ると粉になって崩れるように破損した。まるで自分の体内の血流と血管を見せられるような気持ちだ。やむを得ず業者に依頼してこのパイプをそっくり交換してもらう。今までの水流が嘘のように音を立てて流れ落ちる。テレビはジャパネットに依頼して最新の4k液晶テレビに買い替えた。こちらは下取りありで、交換したテレビは持ち帰ってくれる。訪問して30分たらずで交換になった。

最近のテレビ番組はあまり見るべきものがない。新らしいテレビには、インターネット経由のプライムビデオ、ネットフリックス、ユーチューブ、フールーなどのコンテンツが見られる。アマゾンで買い物しているので、送料が無料になるプレミアム会員になっている。会員はプレミアムビデオが無料で見られる特典がついているので色々な映画が見られる。手始めに「ゴジラ」第1作を見た。映画は昭和25年ごろの時代設定である。ビキニ環礁での核実験の結果、突然変異したゴジラが巨大な怪獣となって暴れまわる。戦後の焼け野原になって東京の映像も再現されている。昔、夢中になってみた映画が、新しいテレビで映し出されることの不思議な因縁のようなものを感じる。

今日は久しぶりの雨。秋らしい気温になった。萩の花が満開だ。散歩道に垂れ下がるように咲いている。この花の咲き具合で、秋は次第に深まっていく。

萩咲きぬ簾を垂れて住む人に 水原秋桜子


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秋の花

2024年09月11日 | 日記
残暑が厳しい。残暑というより真夏が9月になってもそのまま居座っている感じだ。昨日34℃、今日あ昨日より暑く感じる。それでも散歩道には秋の花が咲いている。秋の七草である萩の花が咲き、葛の花は咲き出して2週間もなる気がする。シュウメイギクのシオン、それから雑草にうもれるようにしてワレモコウが咲いていた。去年は同じ場所に咲くのでは探してみたが消えてしまったようであったが懐かしい花に出会えてうれしかった。

ところで、『源氏物語』に、源氏の死後二人の若宮が登場する。一人は薫る中将で、この人の体臭がすばらしい芳香で、どこにいてもすぐに知られてしまうので出かけるのもままならなかった。この人に対抗意識を燃やすのは匂宮である。薫のような体臭はないので、着物に香を焚きしめたり、庭で愛でる花も香りに関するものであった。「すべての人が老いを忘れるといわれる菊や、衰えていく藤袴、見栄えのしない吾木香など香りのあるものは、すっかり見る影もなく霜枯れになるころまでお見捨てにならない」といった風でワレモコウは吾木香の漢字で出てくる。藤袴の根が、乾燥させて着物に挟んで虫よけと香りをつけるのに利用したが、ワレモコウにはそんな香りがあるわけではない。地味な花に目をつけ、名に香が入っているため、これを愛ずることで気を引こうとしたのかもしれない。

高温障害が心配された秋の味覚、シャインマスカット。立派にできたののが店頭にならんだ。子どもや孫たちに少しづつ送った。十分の甘く、秋の味覚が堪能できた。田の稲も、穂を垂れて収穫を待つばかりになっている。一日も早く、暑い秋が去って欲しい。
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一汁一菜

2024年09月07日 | 日記
今日、24節季の白露。散歩道の草むらに露が降りるようになった。虫の音が秋を感じさせるが、朝焼けのなかに萩の花がたくさん咲いていた。萩の花は万葉の時代から日本人に愛されてきた花だ。山上憶良に秋の七草を詠んだ歌がある。

萩の花尾花葛花なでしこの花
 をみなえしまた藤袴朝顔の花 憶良

朝の気温は20℃ほどで歩くには一番心地よい。家事で妻を手伝うようになった一日の時間が一段と早く過ぎるように感じる。昨日、本屋で土井善晴の『一汁一菜でよいと至るまで』というエッセイを買った。料理家がさまざまな料理を極めた後にたどり着いた境地が一汁一菜であった。それは高齢になって活動量が減るとやむを得ず行きつく境地でもある。汁は味噌汁をさす。何を入れても美味しい味噌汁は具だくさんの栄養も補給できる魔法の汁だ。土井は相撲部屋のちゃんこ鍋をこの汁に入れている。あの大きな身体をも支えるのが一汁である。毎日の食事に手間をかけずにできる究極の家庭料理である。

菜はと言えば漬物である。糠みその漬物。冬の白菜漬け。どれも我が家で何十年も食べているものだ。土井善晴の言葉。「一汁一菜を用意すれば、食事づくりのノルマは完了です。一汁一菜を続ければ、体調がよくなり、健康になります。おかずをプラスするのは、自分の心に、時間に、お金に、余裕があるときでよいのです。」妻にあまり手間をかけさせたくないと考えればこの言葉は福音である。
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秋を歩く

2024年09月04日 | 日記
朝がめっきり涼しくなった。久しぶりの秋晴れの空のなかに立つ木の姿も美しい。蝉はいつのまにか鳴くのを止め虫の声が主役になっている。散歩道の田では稲穂が頭を垂れている。今年の米は豊作らしい。果物はどうか。気候の変動が農作物に強く影響する。昨日生協の売り場を覗いたら5年産の県産米5㌔袋が売り場いっぱいに積まれていた。米がないという、日本人全体の不安が世のなかを大きく動かす。微妙なバランスで成り立っている需給はみんなの不安で一気に売り場の棚を空にする。売り場に米が並ぶのを見て、「ない時はカップ麺や外食でしのいでいました」と語るお母さんがいた。

米が無いと聞いて人々は過去を思い出す。戦後の食糧のない時代が頭に浮かび、近年の不作ではタイ米がスーパー並んだことを思い出す。同時に、大災害が来て米が作れなくなる日本を思い浮かべる。だが、過去や将来をいくら考えても問題が解決するわけではない。不安になって買いだめが多かったのが不足の理由。このひと時を代用食でやり過ごす知恵を持てば米はまたスーパーの棚に並ぶ。心理学者アドラーの言葉。

楽観的であれ。過去を悔やむのではなく、
未来を不安視するのでもなく、
いま現在の「ここ」だけを見るのだ。
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