挨拶文の冒頭で、ある女性が「主人は」と書いていた。すると、「公にする文書なので、主人ではなく夫の誰それがと書いた方がいい」と学校の先生だった人が指摘する。男女平等の社会でありながら、夫婦の一方が主人となると片方は従者になってしまうということだ。夫婦は共に助け合って家庭を営んでいるのだから、当然そこには主従の関係はない。だから「主人」などと呼ぶ必要ない。私の友人や知人も進歩的な考えの人は、名前を呼ぶかあるいは「つれあい」という言い方をしている。私は家では名前で呼んでいる。人前で紹介する時は「カミさんです」と言う。ブログで書く時もカミさんと表現している。神さまに近い人と思っているからだ。
そのカミさんが「気分が悪い」と寝てしまった。一昨日は仕事に出かけ、昨日はゴルフに出かけ、ハードスケジュールに追われているから疲れが溜まっているのだろう。「頭が痛いとか、どこか具合悪いというわけではなく、何となく気分が悪い」と言うのだ。私の体調不良が感染したわけではないのにと思っていると、「更年期障害かしら」と言う。えっ、更年期障害ってもっと若い人がなるものだろう。昨日だって、高校2年の孫娘が晩飯を食べに来るというので、私が料理を作ったから、格別負担をかけているわけではないと思うけれど、ゴルフでよい結果が出なかったことが響いているのだろうか。このところ、いつも朝が早かったので、やはり肉体的な疲労が蓄積されているのだろう。
ふたりだけの生活なのだから、寝たい時は寝てしまえばいい。誰に遠慮することもないし、迷惑になることもない。私も食べたいものをちょっと作り、昨日残したワインを飲んで、午後11時にはもう夢の中だ。そう思っていたら午後7時過ぎにカミさんがひょっこり起きてきた。晩飯の用意をして一緒に食べる。「寝たらスッキリした」と元気がいい。ひとりで飲むつもりのワインを半分取られてしまったけれど、元気でいるならそれもいいかと思う。ある人が私に「どうやって暮らしているんだ?」と聞く。カミさんの年金に頼って生活していると説明すると、「そうだろうな。あんたに金などないもんな」と平気で言う。私だって、年金はあるけれどカミさんがもらう年金に及ばないだけのことだ。
だから私としてはカミさんには感謝している。多分、世の中の主婦の皆さんが夫に感謝しているのと同じ気持ちだと思う。主婦の皆さんの多くは夫のことをたとえ「ご主人」と呼んでいたとしても、実生活では対等な立場を得ているのだろう。イヤそれ以上に支配している人もいるのかも知れない。言葉ではなく事実がどうなのかと思うけれど、言葉そのものが問題だと言えなくもない。今、若い夫婦は「主人」とは言わないし、「家内」とも言わない。言葉は大事だけれど、言葉に執着することもないような気もする。どういう関係をつくっていくかで、当然、言葉も変わっていくからだ。
そのカミさんが「気分が悪い」と寝てしまった。一昨日は仕事に出かけ、昨日はゴルフに出かけ、ハードスケジュールに追われているから疲れが溜まっているのだろう。「頭が痛いとか、どこか具合悪いというわけではなく、何となく気分が悪い」と言うのだ。私の体調不良が感染したわけではないのにと思っていると、「更年期障害かしら」と言う。えっ、更年期障害ってもっと若い人がなるものだろう。昨日だって、高校2年の孫娘が晩飯を食べに来るというので、私が料理を作ったから、格別負担をかけているわけではないと思うけれど、ゴルフでよい結果が出なかったことが響いているのだろうか。このところ、いつも朝が早かったので、やはり肉体的な疲労が蓄積されているのだろう。
ふたりだけの生活なのだから、寝たい時は寝てしまえばいい。誰に遠慮することもないし、迷惑になることもない。私も食べたいものをちょっと作り、昨日残したワインを飲んで、午後11時にはもう夢の中だ。そう思っていたら午後7時過ぎにカミさんがひょっこり起きてきた。晩飯の用意をして一緒に食べる。「寝たらスッキリした」と元気がいい。ひとりで飲むつもりのワインを半分取られてしまったけれど、元気でいるならそれもいいかと思う。ある人が私に「どうやって暮らしているんだ?」と聞く。カミさんの年金に頼って生活していると説明すると、「そうだろうな。あんたに金などないもんな」と平気で言う。私だって、年金はあるけれどカミさんがもらう年金に及ばないだけのことだ。
だから私としてはカミさんには感謝している。多分、世の中の主婦の皆さんが夫に感謝しているのと同じ気持ちだと思う。主婦の皆さんの多くは夫のことをたとえ「ご主人」と呼んでいたとしても、実生活では対等な立場を得ているのだろう。イヤそれ以上に支配している人もいるのかも知れない。言葉ではなく事実がどうなのかと思うけれど、言葉そのものが問題だと言えなくもない。今、若い夫婦は「主人」とは言わないし、「家内」とも言わない。言葉は大事だけれど、言葉に執着することもないような気もする。どういう関係をつくっていくかで、当然、言葉も変わっていくからだ。