今日からパソコンが新しくなった。容量が小さかったので、大きくしてもらおうと相談に行ったところ、「替えないとムリですね」と言われ、奮発してしまった。しかし、慣れは恐ろしいもので新しいパソコンは使いにくい。何をどうすればいいのかわからない。この文章も果たしてブログに載せられるのか不安を抱きながらやっている。高校2年の孫娘が先ほど来て、「ちょっとパソコン借りていい?」と言うから、「ああ、いいよ。新しくなったから使いにくいかも知れないよ」と答えたが、孫娘は私が心配することもなく、何かでつまずくということもなく、いとも簡単にやってのけてしまった。わからないのは私だけなのかとがっくりした。
昨日、演奏会の会場で私よりも10歳ほど若い女性に会った。彼女は小学校の先生をしていたのだが、退職して念願の音楽大学に再入学した。マリンバの演奏家として活躍してきたけれど、それは趣味で始めたものだったので、音楽を基礎から学びたいと大学に入ったのだ。「演奏科に社会人枠で入学した人で卒業した人はいないから注目されているのだけど、私も挫折しそう」と心配していた。「ソルフェージュなど若い人は出来るのに、出来ないのよね。やっぱり歳には勝てないとつくづく思ってしまった」と嘆いていた。確かに音感というものは小さい時からの訓練なのかも知れない。次女の同級生にどんな音も聞き分けられる子がいた。彼女は今、ドイツのオペラ劇場で歌っている。
昨日の演奏会はグスタフ・マラーの『交響曲第2番ハ短調』だった。午後6時45分に始まり、休憩もないまま2時間ほど演奏が続いた。マラーの交響曲は凄いとは聴いていたけれど、実際に聴くのは初めてだった。我が家はクラシックファンというよりも歌謡曲ファンで、父親が始めて蓄音機を買ってきた時、聴かせてくれたのは美空ひばりだった。母親と一緒に聴きに行ったコンサートは一度しかないけれど、田端義夫だったと思う。私がクラシックを聴いたのは中学の時だ。音楽の授業で作曲家の名前は覚えても作曲されたものを聴かせてくれるような授業はなかった。たまたま私は放送部に入り、放送劇を校内放送で行う計画を立てていた。そこで台本を探し、バックに流す曲を選んだ。放送室にはたくさんのレコードが置いてあったので、それを片端から聴いていった。私とクラシックとの出会いである。
好きな女の子を放送部に無理やり入部させたので、放送劇はその子と作り上げたいという下心からだった。その子が全くやる気がなかったから、結局ドラマは完成しなかったが、私はクラシックの曲と曲名を覚えることには役に立った。バッバは同じ旋律を繰り返し、穏やかな気持ちで聴くことが出来るが、ベートーベンは音楽に思想を持ち込み「聴かせる」ことを目指した。音楽のことなど全くわからないのに、そんな風に勝手に作曲家を評価していた。ワーグナーやマラーは中学生が行うドラマには使いにくいと思ったのか、部室に置いてなったのか、聴いた覚えがない。
マラーを演奏会で聴いて、これは西洋音楽の集大成のような曲だと思った。神を求めて彷徨うような、荒々しい大地を突き進み、小川の水のせせらぎや風のよそぎがあり、そうかと思うといよいよ神と巡り合ったような喜びが荘厳で神々しい、そんなイメージが湧き上がってくる。オーケストラにソプラノやアルトの独唱、そして合唱を組み入れ、打楽器が存在を示す壮大な曲であった。