今朝の朝日新聞に、アメリカの元新聞記者へのインタビュー記事があった。アメリカでは新聞社が減っていて、20年前には全米で6万人いた新聞記者が今では4万人しかいないと言う。アメリカには日本のような全国紙というものは存在しない。合衆国が誕生した時から自治意識が強く、地域によって法律さえ違っている国である。ローカル新聞こそが地域の情報源であり、人々が知る社会評論の器なのだ。新聞の仕組みはどこも同じで、新聞広告と購買に頼っている。日本のような宅配ではないようなので、好きな新聞しか買わないことになる。
アメリカの景気の後退は新聞広告に大きく影響したようで、「広告収入はこの5年で半減した」そうだ。「新聞社はページ数を減らし、記者の賃金を下げ、記者の数を減らした」けれど、経営は改善されず、休刊や廃刊に追い込まれた。その結果、何が起きたかを米連邦通信委員会からの委託を受けて元記者は調べた。「取材空白域」が生まれ、公務員の不祥事、裁判所の仕事のたるみ、投票率の低下といった現象が起きていると指摘する。日本の場合と違って、ローカル新聞が果たしてきた役割を如実に物語っている。
新聞は社会悪と戦う機関という意識がアメリカでは強い。社会悪への目は、不正や不公平ばかりでなく、教育や環境、医療や福祉など幅広い。「問題を取り上げる点でテレビは周知させることは巧みだけれど、自前ではあまり掘り下げない」が、新聞記者はコツコツと掘り下げると彼は言う。「この市の決算と議事録に不正がないか洗ってみよう」と思い立つのは新聞記者くらいで、「自治体の動きを監視し、住民に伝える仕事はだれも自費ではやれません」とも言う。
実際にカリフォルニア州の小さな都市では、市の行政官(事務方のトップの人)が自分の年収をオバマ大統領の2倍にしてしまった。しかも市議会の承認も得ている。それは市幹部や市議をも抱きこみ互いに富を得てきたからだ。この市に記者はいない。情報も公開されなかったので、市民の誰も気付かなかった。情報の公開が徹底されていればと思うけれど、巧妙に操作されていたなら、市民が目を向けることは出来ないかも知れない。新聞記者なら絶対に出来るかといえば、絶対とはいえなくても経験とカンが働く可能性は高い。
新聞販売店の店主が「新聞はなくなるだろうか」と以前、心配していた。新聞社も先を見越してペーパーでない電子新聞づくりに手をかけている。電子新聞になれば、今の宅配制度は不要になるから販売店はいらなくなる。チラシは形を変えるだろう。すでに地域では購読料のいらないフリーペーパーという新聞よりも冊子形式のものが増えている。情報はより求められるが、その手法は変わっていくのだろう。
新聞が何よりも好きな私としては、何とか新聞に生き残ってもらいたいと思うけれど、そのためには新聞の個性が大切になるのではないだろうかと思っている。つまり新聞によって主張が異なり、その主張に共感する人が新聞を支える形になることだと思う。民主主義が育つためには情報の提供は絶対条件であるが、情報が公だけにしかないことになれば、議論の幅は狭くなる。だからこそ新聞の活躍する場面は大きいと思う。ガンバレ!新聞!