「神は存在するのか?」と問われれば、「する」と答えるだろう。「神はなぜ、悪や苦しみを除かないのか?」と問われれば、「それは神の意思だから」と答える。「神が私たちの罪をなぜ許さないのか?」と問われれば、「私たちが罪深いから」と答える。「神は救う者と罰する者を差別するのか?」と問われれば、「神は寛大でも、私たちの存在はさまざまだから」と答える。そんな問答をまとめた冊子をいただいたが、答えの部分はあくまでも私の勝手な解釈である。
度々言い訳するけれど、私はキリスト教に心惹かれ、中学1年から高校3年までの6年間、教会に通っていた。信仰はそれぞれの人の心の中にあるので、今の私は神が存在するとは思わないけれど、存在してもいいとは思っている。神が存在するのに、どうしてこの世は不条理なのだと言う人もいるけれど、人の世はそもそも不条理なのだと思えば別に疑問はない。神がそのように造られたと考えてもいいけれど、不条理にせよ、神がそのように創造されたにせよ、それらは全て人が考えたことでしかない。神の絶対的な存在に対して、人は比べたり出来るような存在ではない。そう思えば、全てのことが私には合点いく。
聖路加病院の日野原重明医師はこの10月で100歳になったが、まだ現役の医師として働いている。日野原医師は「110歳まで生きる」と言っていた。傍目で見ると、そんなに長生きしなくてもいいのではないかと思ってしまう。頭はかなり前に突き出るように落ちているし、歩き方も左足が内側へと曲がってしまう。それでもとても100歳の人とは思えないくらい、頭の働きはいいし溌剌としている。人が何歳まで生きるかなどということは他人が言うことではない。それこそ神が決められることだ。日野原医師の妻は認知症でしかも肺が悪いようだ。日野原さんは「静子、静子」と妻の名前を呼ぶけが反応はない。生きていることが気の毒な状態だと思うけれど、日野原さん自身には大切なことなのだ。
延命治療は本人が苦しいだけではないのかという議論がある。医師である日野原さんも痛みや苦しみを取り除いてあげることが医師の仕事と考えているようだけれど、自分の妻には1ヶ月でも長く一緒にいたいと言う。人は誰もそんなものなのかも知れない。理性で考えられることと現実の感情とはやはり隔たりがあるのだろう。NHKスペシャルの日野原さんは医師としての使命と、夫であることとで大きな違いがあるけれど、本人はこの矛盾を超越しているようだった。番組に出てきた末期の患者さんはふたりとも亡くなってしまう。それは悲しいことだろうけれど、全うしたことの充実に満たされていた。
人の生涯は誰でもが、どんな形にせよ結局は充実していると私は思っている。もっと恐れ多い言い方をすれば、神は全ての人の生涯を豊かで充実したものであれと願っているのだ。どう受け止めるかはそれぞれの人の問題であろう。神はきっと私たちを愛し、哀れんでくれているだろう。余りにも人は罪深いのだから。
度々言い訳するけれど、私はキリスト教に心惹かれ、中学1年から高校3年までの6年間、教会に通っていた。信仰はそれぞれの人の心の中にあるので、今の私は神が存在するとは思わないけれど、存在してもいいとは思っている。神が存在するのに、どうしてこの世は不条理なのだと言う人もいるけれど、人の世はそもそも不条理なのだと思えば別に疑問はない。神がそのように造られたと考えてもいいけれど、不条理にせよ、神がそのように創造されたにせよ、それらは全て人が考えたことでしかない。神の絶対的な存在に対して、人は比べたり出来るような存在ではない。そう思えば、全てのことが私には合点いく。
聖路加病院の日野原重明医師はこの10月で100歳になったが、まだ現役の医師として働いている。日野原医師は「110歳まで生きる」と言っていた。傍目で見ると、そんなに長生きしなくてもいいのではないかと思ってしまう。頭はかなり前に突き出るように落ちているし、歩き方も左足が内側へと曲がってしまう。それでもとても100歳の人とは思えないくらい、頭の働きはいいし溌剌としている。人が何歳まで生きるかなどということは他人が言うことではない。それこそ神が決められることだ。日野原医師の妻は認知症でしかも肺が悪いようだ。日野原さんは「静子、静子」と妻の名前を呼ぶけが反応はない。生きていることが気の毒な状態だと思うけれど、日野原さん自身には大切なことなのだ。
延命治療は本人が苦しいだけではないのかという議論がある。医師である日野原さんも痛みや苦しみを取り除いてあげることが医師の仕事と考えているようだけれど、自分の妻には1ヶ月でも長く一緒にいたいと言う。人は誰もそんなものなのかも知れない。理性で考えられることと現実の感情とはやはり隔たりがあるのだろう。NHKスペシャルの日野原さんは医師としての使命と、夫であることとで大きな違いがあるけれど、本人はこの矛盾を超越しているようだった。番組に出てきた末期の患者さんはふたりとも亡くなってしまう。それは悲しいことだろうけれど、全うしたことの充実に満たされていた。
人の生涯は誰でもが、どんな形にせよ結局は充実していると私は思っている。もっと恐れ多い言い方をすれば、神は全ての人の生涯を豊かで充実したものであれと願っているのだ。どう受け止めるかはそれぞれの人の問題であろう。神はきっと私たちを愛し、哀れんでくれているだろう。余りにも人は罪深いのだから。