友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『紫式部・与謝野晶子 二人からのメッセージ』

2013年10月26日 18時31分14秒 | Weblog

 北名古屋市女性の会主催の講演会が20日に、市民ホールであった。講演したのは愛知淑徳大学講師で、「ジェンダー論」「男性学」「女性学」を教えてみえる中島美幸先生。演題は『紫式部・与謝野晶子 二人からのメッセージ』であった。偶然だが、私たちの大和塾も来月16日に、多治見市文化会館主宰の「劇場版日本一受けたい文学講座」で人気の勝典子さんを迎えて『千年を生きる女』と題して、紫式部のメッセージを読み解く講座を開催する。日本女性の生き方を捉え直して、その先進性を確かめようとするのだろうか、そう思って私は中島先生の講演に興味を持った。

 中島先生の話は面白かった。古代日本では女性が男性よりも下という考えはない。紫式部が生きていた時代は、藤原氏の全盛期で、紫式部は道長の長女、彰子に仕えた。それは結婚して2年で夫を亡くし、娘がいる紫式部が才能のある女性であったので、娘の役に立つと道長が考えたからだろうと中島先生は言う。平安貴族は母系社会で、一夫一妻多妾性であった。つまり恋愛はかなり自由だった。男は女のもとに夜に通うが、すぐに結ばれるわけではなく、歌を作ってやり取りしなければならない。それも3日間、通い詰めてようやく部屋に入ることができたと言う。

 けれども、正式な文書は漢字でこれは男が使い、女はひらがなしか使えない「文字の使用に性差別が刻印される世界史的にも稀な状況」であった。ひらがなという自由な表現手段を得たことで、紫式部のような女性を生む「歴史の皮肉」となった。武家時代になると女性の物書きは現れなかった。明治になって、樋口一葉や与謝野晶子が現れるが、明治民法が示すように、日本の歴史の中でも女性の地位は最も低かった。母親には親権がなく、夫の許可なしに経済行為は出来なかった。夫の不貞は不問にされたのに、妻は姦通罪で罰せられた。女性は子を生む道具でしかなく、「良妻賢母」であることのみが求められた。

 与謝野晶子は鉄幹の3人目の妻であったが、13人の子を産んでいる。紫式部を働く女性の先駆者と見ている晶子は、「教育を受けた若い女性が職業に就く新しい風潮を祝福する」と述べている。また、「私が母となったことは決して絶対的ではなかった」、「私は母性ばかりで生きていない」と言う。さらに「一人称」で生きること表現することこそが大事とも説いている。中島先生は講演の最後で、日本の女性の地位が世界的には低いことや、少子化・経済成長に触れ、「今、与謝野晶子が生きていたら、どう思い、どう表現しただろう」と結んだ。

 私は、与謝野晶子は優れた先進的な女性だと思う。晶子の歌には惹かれる。本音で考え、本音を言う。そうすれば人間はもっと素直になれる。そういう社会を目指すべきだろう。少子化や経済成長は問題の芯ではない。11月16日の大和塾の講演会『千年を生きる女』が楽しみになった。

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