今日から10月に入る。私の部屋の真西に見えていた夕日は、かなり南から鈴鹿の山に入っていく。人の世も移ろいやすいけれど、太陽のように正確に何かを刻んでいるのだろうか。大阪市長の橋下さんの「慰安婦問題」の発言以来、この言葉を聞かなかったけれど、先日、ある講演会で「慰安婦問題なんて、韓国の言いがかりだ」という発言があった。また、この人は「軍部の暴走を抑えられるのは東條しかいないと天皇が指名された。しかし、抑えられなかった。天皇の戦争責任を言う人がいるが、おかしなことだ。戦争は国民が煽ったのだ」とも語った。
さらに、「ポツダム宣言も現憲法も、アメリカによる押し付けだ」と私見を述べた。私はふっと、何十年も前のことを思い出した。私が高校生か中学生の頃のことだ。確か同級生の中に、「現憲法はアメリカによって押し付けられたものだ」と、いや、「憲法は占領軍に押し付けられたものだ」と言っていた人がいた。その時の私は、戦争に負けたことがよほど悔しいのだろう、お父さんは戦死だったのかも知れない、そんな風に受け止めていた。父親や親族を戦争で亡くしたという子はいたから。
それでも私は、憲法はアメリカの独立宣言、フランス革命の人権宣言の精神を受け継ぐ画期的な憲法と思った。たとえ押し付けられたものでも、憲法のどこが悪いのかと、多分高校生の時なら論戦を挑んでいたと思う。この頃は押し付けられたという言葉は耳にしただけで嫌悪していた。「生徒手帳は学校の憲法だから守れ」と先生たちは言う。「誰がどこで決めたのですか。生徒が決めたものでもないのに、なぜ守らなければいけないのですか」と先生に食って掛かっていた。だから、押し付けられたという言葉には条件反射のように反対だったが、憲法を読んだ時は、これは人類が求めてきた理想に近いと思った。
橋下さんも先の講師も、戦争には慰安婦は付きものだと言いたいようだ。問題なのは慰安婦をなくした方がよいと考えるのか、存続させればよいと思っているのか、である。人権という観点で見れば無くすべきであろう。そもそも戦争を絶対悪と捉えるのか、正義の戦いもあると考えるのか、この辺りが議論の出発点なのかも知れない。