「長い道 苦しい道 険しい道 いろんな道があるけれど それはみんな 幸せへの道しるべ」。葬式でいただいた栞にこんな言葉が書かれていた。生きている時は気が付かなかったけれど、生きている時は不満や愚痴が多かったけれど、生きている時は人の優しさばかり欲しがっていたけれど、それは幸せのための一歩だった。カミさんの弟が「いろんなことはあった。けれど、最後はみんなで送ってやろう」と言った。
カミさんの妹のダンナの葬儀は家族葬で行なわれた。立派な葬儀だった。喪主を務めた妹の息子の挨拶は気持ちがしっかり籠もっていた。参列者への感謝と父親を見守ってくれた人たちへのお礼を涙しそうになるのを堪えて、きちんと述べていた。私の長女と同じ歳なので、幼い時からよく知っているが、小学校を卒業する頃から会う機会が少なくなり、社会人になってからは滅多に会うこともなかったので、年齢からすれば当然なのだろうが、立派になったと感心した。
「立派な葬儀だったね」とねぎらうと、「父親に孝行らしいことはしてこなかったので、最後だけは息子としてきちんと送り出してあげたかった」と言う。若い頃の父親に本当によく似ている。父親が息子を「ジャニーズ系なんです」と自慢するくらい可愛い子だったけれど、すっかり大人の男になっていた。亡くなった人への思い、生きている人への配慮、全てに完璧だった。父親も自分が亡くなった時のために、骨をどうするか、息子に伝えてあった。
私はどうしようか。火葬場の職員の人に、「収骨されない人はいますか?」と聞いてみた。「ええ、そういう方はみえますよ。増えていますね。そういう方には前もって言っていただくようにしています」と教えてくれた。墓を持たない人が多くなったことや、宗教上の理由などで採骨しないそうだ。ならば私もそうしてもらいたい。私の身体が焼かれた時点でもう私はこの世に存在しない。たとえ骨の一片でもこの世に残しておきたくない。
葬儀は無宗教でやって欲しい。どんな風にやるかは残された者の権利だから、口出しは出来ないが、参列者から一言ずつ言葉をいただく、そういう葬儀はどうだろう。「お別れの会」と名付けて、みんなで会食というのもいい。私が好きだったものをみんなで食べるというのはいいと思う。出来ることなら音楽でも流して、クラシックもいいけれどホークソングもいい、やっぱり花は飾って欲しい。えーと、それから‥、もう少しプランを練ってみよう。