友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

10年刻みで転換している

2016年09月26日 17時40分51秒 | Weblog

 大和塾の最後の市民講座を終えて、腑抜けになっている。この日のために細かく立案し、当日は現場で指揮をしてくれた私の友だちは、終わった日の夜、「どういう訳かなかなか眠れなかった。こんなこと初めて」と言っていた。そう言えば私もこの夜は寝つきが悪かった。それは暑さのせいだと思っていたが、彼女の言葉を聞いて興奮していたんだと気付いた。別に緊張はなかったのに、10年間50回の重みがどっと押し寄せてきたのだろう。

 私の人生はほぼ10年刻みで転換している。小学校5年生の時、クラスの男子が「ストライキだ」と言って学校を抜け出した。大人になって思えば、担任の女教師への憧れの気持ちが困らせる行動になったものだが、この事件が私を大きくしてくれた。消極的で手が上げられなかった私が生まれ変わった。自分で勉強もするようになり、表に立つように性格を変えていった。

 20歳の時、家が潰れた。両親は既に高校生の時に亡くなり兄の家族と暮らしていたが、兄が事業に失敗し材木屋は他人に渡った。私は大学の先生の家で書生となり、先生の子どもを教え運転手を勤めた。大学を卒業し高校の教員となったが、31歳の時、組合運動の中で知り合ったセクトの仲間と見られ、鉄パイプで滅多打ちにあった。教員を辞め、叔父がやっていた日本料理店を手伝い、店を継ぐつもりだったが叔父が亡くなり、職が決まらない状態が続いた。

 41歳の時、地域新聞を発行する。それからの10年間は充実した日々だった。しかし、自分の甘さから会社を私が育てた後輩の女性に譲って辞めた。首長選挙に突然立候補し、接戦だったが当選出来なかった。国会議員の秘書も務めたが、もう一度首長選挙を戦うため議員になった。そして62歳、市長選挙に立候補して敗れた。これで終わりだったのに、幸いなことに声をかけてくれる人がいて、市民のための勉強会である市民講座を発足させることになった。

 72歳までよく生きてきた。「また、次に何かするんでしょう」と言ってくださるが、次はないと思っている。ただ、今は虚しい。それは事実だけれど仕方ない。

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