友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

口論の結果

2007年05月02日 22時48分28秒 | Weblog
 「いつも余分なことばかりする」とカミさんは言う。
 先日も夜の11時半を回っているのに、台所の洗い物が片付いていないことが気になり、仕舞おうとして、逆にカミさんが買い込んできたどんぶり鉢を割ってしまった。ガチャーンと凄まじい音はするし、食器は粉々になるし、全く「また余分なこと」をしでかしてしまった。

 子どもたちが小学生か中学生の頃、食器を誰が片付けるかでもめた。何時だったか、カミさんが長女に「お茶碗を洗いなさい」と言った。長女はご機嫌が悪かったのか「いつやらないと言った」とムッとして言い返した。そこに割って入らなくても良いものを、私は「ママは自分ではすぐにしたことがないのに、人にだけは請求するんだから」と茶々を入れた。カミさんは怒りを露わにして「あなたはいつもそうやってイヤミを言い、自分ではチャンとお手本を見せているつもりでしょうが、ご自分のやっていることがどういうことか、全くわかっていないのよ」と言った。私は沈黙した。「そうよ、あなたはいつも自分の言い分が通らないと黙ってやり過ごそうとする」とカミさんは追い討ちをかける。

 口論になる時はたいていカミさんが正論の時だ。私は無理やりヘリクツを作り上げるからますます分が悪くなり、結局沈黙せざるを得ない。子どもの育て方ではよく対立した。私は「自由にのびのびとやらせればいい」と言ってきた。カミさんは「もちろん自由にのびのび育って欲しいわよ。のびのび育つことと常識をわきまえないこととは違うでしょう」と主張する。カミさんに「あなたが勉強なんかしなくてもいいなんて言うから、子どもたちは本当に勉強しないわよ。それでは困るのは、あなたではなく、あの子たちなのよ」と言われれば、そのとおりなのだ。

 「夫婦の意見が違うのが子どもには一番よくない」とカミさんは言う。「そんなことはない。父親と母親の意見の違いを子どもたちも認め、そのうちには自分たちの考えを持つようになるさ」「その前に、両親に対して信頼しなくなるわね」―――。どこまでも平行線が続く。確かに子どもたちは勉強家ではなかった。自分から「勉強しなくては」と思うようになって欲しいと思ったが、そうならないうちに学校を卒業してしまった。今になって長女は自分の専門の勉強に精を出している。勉強しようと思った時が今なら、これからすればよい。次女もまたタイで大きくなっている。いつだって人間はスタートできるのだ。

 私は相変わらず極楽トンボであり、カミさんは相変わらず堅実な現実主義者である。それでも近頃は、ゆったりと時を迎えることができる。やはり歳を重ねてきたせいだろう。年取ることも悪くないなと思えるようになった。
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