友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

気持ちのズレ

2011年11月19日 17時13分38秒 | Weblog

 「ねぇ、机の上にあった私の大事なメモ、知らない?」「何それ?知らないよ」「机の上にあったものよ。捨てたでしょう」「だから知らないって」「いつもそうなんだから。何でもすぐ捨ててしまう。捨てる時はちゃんと言ってよ!」「だから、知らないって」「人のものは平気で捨てるんじゃない。本当に大事なものだったんだから」「あのさ、何もしてないからね」「うそ、この前も試供品でもらってきたものも捨ててしまったじゃあない」「そんな使わないものばかり貯めておいてもしょうがないだろう」「それはあなたの勝手でしょう。私のものには触らないで!」「ああ、分かりました。一切さわりません」。こんな夫婦のやり取りを聞いた。

 

 ボジョレー・ヌーボーの日、妻は里から送られてきたワインを空けようと夫を待っていたが、やはりその日も遅かった。中間管理職ともなれば、上司のご機嫌を取らなければならないし部下の面倒も見なければならない。会社人間で仕事が大好きな夫のことだから仕方がないと半分は諦めているが、もう半分でちょっとくらい私のこともかまって欲しいと思っている。絵に描いたような美男美女もだんだん年を重ね、このまま干からびてしまうのではないかという不安を時々感じるようになった。いつまでも胸がドキドキするような気持ちでいたい。それなのに、机の上に置かれた小包を見て夫は言う。「それ何?」「ボジョレー・ヌーボーで母が送ってきたの」「しゃれたことをするね」「今晩はもう遅いから、明日飲む?」「ごめん、明日も遅くなる」。そんな夫婦のやり取りも聞いた。

 

 娘さんは同期の女性社員初の管理職に抜擢された。それを母親に報告すると、「おめでとう。よく頑張ったわね」ではなく、「そうなの?忙しくなるわね」というものだった。父は大学を卒業しているが、母は高卒だった。父方の親族は大学卒ぞろいだったことも母には引け目になっていたようで、娘に「大学だけは出て、経済的に自立しなさい」が口癖だった。娘は母の期待に応え続けて来たが、30歳を過ぎる頃から母は出世よりも結婚を意識しているところが窺えた。「私が30歳の時には、もう2人の子どもの母親になっていたのよ」と不図もらすことがある。親族が集まる席で、「結婚はまだ?」と言う人には「時代が違うから。あの子は好きなように生きていくわよ」と話すのにどこか寂しそうだ。こんなことが今日の新聞に載っていた。

 

 2歳の孫娘がやってきた。母親が美容院に行きたくて迎えに行ったのだが、孫娘は母親から離れたくない。そこで雨が降っていたので「カサをさして行こうか」と誘った。雨降りに小さなレインコートを着て、小さなカサをさし、小さな長靴で歩くことが楽しいのだ。ピチャピチャと水溜りの中へわざわざ入っていくが、私はただそれを喜んで見ている。孫娘は得意になって、もうすっかり母親のことを忘れている。そんなものかと思っていたら、我が家の部屋の前に来たら、「ママは?」と言う。「後から来るよ」と答えるが、もう観念したのか、我が家のベルを押す方に関心は移っていた。

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座り込んでタバコを吸い、止めてと叫んでいる

2011年11月18日 19時35分41秒 | Weblog

 夕方5時過ぎ、もうすっかり暗くなっていた。コピーをするためにコンビニへ行った。中学生らしい女の子がふたりいた。車で来た中年の男に、「ねえ、タバコ買ってくれん」と大柄の方の女の子が声をかけた。中年の男は何か言って店に入っていった。「タバコは吸わんのだと」と女の子はもうひとりの女の子に言った。「チェッ」と舌打ちする。私も続いて店に入ったが、女の子から声はかからなかった。コピーをしながら外の様子を見ていると、女の子の他に、やはり中学生と思われる男の子が4人、小学生ではないかと思われる男の子が2人いた。店の横の照明が届かないところでじゃれ合っている。小柄な方の女の子は可愛い子だが、この子はタバコを吸っていた。自販機でタバコを買ってもらおうとしていたのだ。

 

 コンビニには高校生か大学生くらいの女の子がふたりいるだけだ。万引きされても追いかけることも出来ないのではないか。店の外に出て、「君は何歳だ。18歳以下はタバコは吸えないから補導の対象になる」と注意すべきかと思った。それよりも店の女の子に、「警察に電話しなさい」と言うべきかと迷った。「余分なことはしないの!」と叱られそうだが、でも、この子たちも本当は誰かに注意してもらいたいのではないだろうか。大人の不合理で権威主義的な発言には反発しても、自分たちのことを心配してくれる人が要ることが大事なのではないか。子どもの頃の悪戯はいい気になって拡大してしまうものだ。大人の一言がきっかけとなり、収束することもあるだろう。

 

 そんなことを思い巡らしながらコピーを終えて、店を出る頃には彼らの姿はなかった。今日は暖かいから、店の外でたむろしていられるけれど、これから寒さが厳しくなるとああいう連中はどこへ行くのだろう。夏の間は、隣の小学校の運動場から、午前零時を過ぎてもふざけ合う声がしていた。学校の先生たちは朝早く出勤して、校庭に落ちているタバコの吸殻を拾わなければならないと聞いた。避妊具が落ちていることもあると言う。再び学校崩壊の時代がやってきている。全国統一学力テストに不参加だった犬山市が、市長が変わり教育長を代えて参加となった。これで全国の自治体が参加することなり、「学力差」が話題になってきた。大阪市の市長選挙では学力向上を目指して学校長の権限強化が謳われている。しかし、学力とはいったい何を指すのか。選挙では単にテストの結果、その数値しか問題にされていない。

 

 学校毎のテスト結果を上げるために、できない子どもを引き上げるのは時間と忍耐と工夫が要るが、できる子どもたちを引き上げる方が効率がいいことを先生たちは知っている。学校が荒れた時代に学んだ子どもたちが今、親になっている。急がし過ぎて子どもにかまっていられなかった世代、不景気で余裕を失った世代、親たちの価値観、社会の流れが子どもたちを追い込んでいる。それはいつの時代でもあったことなのだろうけれど、今はテンポが速いように思う。子どもはいつも、大人に反抗的だ。そして子どもはいつも、大人が決めた常識からはみ出すことに快感を持っている。これ見よがしに、座り込んでタバコを吸い、誰か止めてよと叫んでいるのだろう。

 

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世界は広いが身近になった

2011年11月17日 19時46分06秒 | Weblog

 今日はボジョレー・ヌーヴォーの解禁日。私はワイン好きでもワイン通ではないので、出来上がったばかりのワインがどうしてこんなに話題になるのか分からない。私が本当に美味しいボジョレー・ヌーヴォーを知らないということかも知れない。いつだったか、我が家でみんなが集まって酒盛りをした時、私は富士山麓の水で作ったという地酒を出した。その時、日本酒の通の人が「これはお土産用で、残念ながらいい日本酒ではない」と言われた。どれを飲んでもそんなに大きな違いが分からなかった私は、彼から日本酒なるものの講釈をしっかり聞かされた。ところが、酒盛りの席のことなのですっかり忘れてしまった。

 

 スペインに行った時、マドリードで自由時間があったので、普通の市民がどのくらいのワインを飲んでいるのか知りたくて、スーパーマーケットに出掛けた。もっとも平均的なワインが日本円で7百円か8百円くらいだったので、ワインとソーセージ、ハム、パン、果物を買ってホテルの部屋でいただいた。今は通販のワインを毎月6本届けてもらっているけれど、値段としては同じくらいのものだ。値段がお手ごろなら味もそんなものかと思う。滅多にはないけれど、偶然美味しいワインの時があり、そんな時はラッキーと思ってしまう。いつも我が家に集まってくる家族の中に、子どもが大学院生の家庭がある。その大学院生の子がワインバーを開いていて、チリワインを差し入れてくれたので飲んだが、これは美味しかった。チリのワインはフランス人が作っているもので、味はボルドーに近いと聞いた。

 

 ブータンの若い国王と王妃が日本を訪れている。王妃が銀座三越で買い物をされた後、ユニクロにも出掛けられ、流行のヒート下着を買われたとテレビが報じていた。人がどこへ行き、何を買おうと要らぬことなのに、王妃ともなるとこんなことまで報道されて気の毒である。ブータンは世界で一番幸せな国だと言う。国民がそう思っているのだから確かだ。隣のネパールはインド人系の顔立ちなのに、ブータンは東名アジア系の顔立ちである。タイやカンボジア、ベトナムの人は日本人とよく似た顔をしているが、ブータンも日本人にそっくりだそうだ。だからではないと思うけれど、『ブータンの民話と伝説』(白水社 今枝由郎・小出喜代子訳)を読むと、私たちが知っている日本の民話や伝説にそっくりである。

 

 ブータンに行ったことのある人は、日本の田舎に来たような気がしたと話していた。どこかでつながるものがあるのかも知れない。世界は広いけれどとても身近になってしまった。

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何とかなるさと思っている

2011年11月16日 18時44分20秒 | Weblog

 朝晩めっきり寒くなってきた。カレンダーを見ていたら今年の残りは40日程しかない。何だか時の流れがやたらと速い気がする。朝からルーフバルコニーで、ひとり黙々と鉢の土の入れ替え作業をする。咲き終わって茎を切り取った鉢をひっくり返し、潜んでいるミミズを取り出し、古い根を取り除く。赤玉土も使えそうなものは取っておき、そうでないものはスコップで砕いておく。そうしてきれいになった古土にバーク堆肥と乾燥牛糞を混ぜて、チューリップの土つくりをしている。以前は乾燥鶏糞も混ぜていたが値上がりで止めてしまった。

 

 こんなに丹念にやらなくても、そこそこでいいのにと思いながら、膝が痛くて立てなくなってしまうのに、ついついしゃがみこんで長い時間を費やしてしまう。そんな時は妄想の世界にいる。小学校の運動場から子どもたちの声が聞こえてくる。小学校の時の私はどんな子どもだったのだろう。私自身はおとなしくて目立たない子と思っていたけれど、同級生はどんな風に見ていたのだろう。還暦を迎えた時、この町で同じ干支の人たちが集まる会が催され、以来毎年開かれている。昨年の会で、私は代表幹事に選出されてしまったけれど、あれで本当に良かったのかなと思う。

 

 この町で生まれ育った人たちは、小学校も中学校も同じだから、みんなが親しく「チャン」とか「クン」と呼び合っているが、そういう子どもの頃を知る人はひとりもいない。中学の同窓会も活発に行われていると聞く。同じ年の生まれだからというだけで、集まって、酒を飲み、おしゃべりし、カラオケで歌う、そんなことに意味があるのだろうかと疑問だった。それが、ミミズを捕まえたり、赤玉土をより分けたり、そんな作業をしていたら、みんながしたいというのだから理屈は要らないと思えてきた。面白いのかどうか分からないけれど、面白くないのであれば面白くすればいいと思った。

 

 何かを作り出すほどの気力も体力もなくなっても、あるものをあるがまま受け入れるくらいの力はあるだろう。中学校や小学校の同級生が「こっちで出てくれたらみんなで応援できたのに」と首長選挙の後のクラス会で言ってくれた。同じ学年であったというだけで、人々の結束力はずいぶん強い。地元の強さは身に染みるほど分かった。しかし、もうすんだことだ。故郷で立候補するつもりならもっと前から周到に準備しただろう。けれども、そういう選挙でないものを夢見たのだから仕方ない。

 

 一日中、土をより分けていて、私はこういうことが好きなのだと思った。人前で話したり、提案したり、リードしたり、そういうことが自分の天性と思っていたけれど、本当の私はただ黙々と土を分ける仕事が合っているのかも知れない。結局、今日は1歩も家の外に出なかった。同じ姿勢を続けていると、その時は忘れているのだが、次の動作へ移ろうとしても膝が痛くて動けない。何とかしなくてはいけないぞと思いながら、まだ何とかなるさと思っている自分がいる。

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人はいつも待っている

2011年11月15日 19時33分31秒 | Weblog

 長女一家が我が家からすぐ近くに住んでいると聞かされた友だちは、「それはいいわね。いつでもご飯食べさせてって言えるじゃーないの」と長女に話しかけた。すると長女は「そんなことした怒られちゃいます」と言う。確かにカミさんは厳しい人だから「どうして?」とか、「どういうことなの?」とか、聞くだろう。あるいは「前もって言ってくれなければ準備ができない」と言い切るかも知れない。それはカミさんが完全主義というか、中途半端を嫌う性格だからだけれど、本当にはいつも来て欲しいと思っているような気がする。

 

 だから、カミさんは野田首相のような「参加ではなく協議に入る」と言う言い方が嫌いだ。きっと大阪市に住んでいたなら、「橋下徹市長候補の方がはっきりしていていい」と言うかも知れない。けれども橋下さんの教育改革には「教育のことが全然分かっていない」と批判的だったので、投票することはないだろう。誰もが納得するような一般的な政策では、大阪人はついていかないと言う人もいるけれど、小泉旋風のような劇場型の選挙のやり方が果たしてまだ受け入れられるのかは疑問だ。

 

 TPPだとか経済協力だとか、あるいは逆に国際競争だとか、世界は大変な曲がり角に来ていると思う。そこで各国の首脳たちがこぞって「国益を優先する」と口に出す。大統領なり首相なり、国民から選挙で選ばれた人たちだから、国益優先を口にしなければ、国民の支持を失うことになるからだが、本当にそんなことでいいのかと思ってしまう。お互いに国益を優先させれば、どうなるのか、強い国が弱い国を従わせることになるだろう。国益をぶつけ合って、それでは埒があかないことを知り、お互いが生き抜ける妥協点を見つけ出して欲しいと思う。

 

 「オレが、オレが」では何も解決しない。先が見えにくい時代だから、強い個性の独裁者のような人物にぐんぐんと引っ張って欲しいと思いがちだけれど、それは危険な傾向だと思う。直接民主主義のように大勢の人間が一堂に会して、物事を決めていくのは時間ばかりかかって意味がないように見えるけれど、そのことに慣れてくればきっとうまくいく。ヨーロッパの財政危機だって、資本主義社会の民主政治が生み出したものだから、みんなで解決する以外に道はない。借金を繰り返して先送りしてもまた新たな矛盾が生まれるだけだ。

 

 人間がもっと素直になれたなら、この曲がり角も乗り越えられるのではないだろうか。「今度の休みに遊びに行くね」と言われて、また「どうして?」と言ってしまうかも知れないが、本当は来て欲しいと願っているはずだ。孫娘たちが可愛くて仕方ないし、子どもたちを愛しているし、そのダンナたちも好きで気に入っているのに、素直にそれを表せない。でも心の中ではみんなが来てくれることを願っている。人は手紙や、今ならメールかも知れないが、来訪や、何よりも愛を待っている。

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子連れで学会、よくやるねぇ

2011年11月14日 19時17分07秒 | Weblog

 中日ドラゴンズがソフトバンクの本拠地、福岡で2連勝した。その第1戦目のピッチャーはソフトバンクが和田投手だったのに対して、中日はチェン投手だった。誰もが当然ここは吉見投手だろうと思うところだが、これが落合監督の采配なのだろう。見事に延長戦にもつれ込み、中日がホームランで勝った。第2戦で吉見投手が登壇し、相手の杉内投手との投げ合いになった。この試合も延長戦となり、中日が連勝した。ソフトバンクの打撃は、ここでヒットが出ればという時に押さえ込まれたのに対して、中日は逆だった。プロ野球だから相手を研究した結果なのだろうけれど、私には「運」としか思えなかった。野球通の人から聞くと、「運」を呼ぶのも練習の成果ということらしい。

 

 明日から第3戦が名古屋ドームで行われる。どういう結果になるのか、楽しみである。ここまで書いて、私は第1戦も第2戦も試合を観戦していたわけではなく、テレビニュースで見ただけで知ったようなことを綴ってしまった。よく知らないことを知ったように書くのは私の悪い癖である。これは癖ではないが、やはり年齢から来ていると思うのが、膝の痛みだ。先日の講演会の帰りに、私の肩をたたく人がいる。振り返ると古い友人だった。一緒に話しながら帰ってきたのだが、階段のところで彼は手すりを使って降りるので、「どうしたの?膝が悪いの?」と聞いた。彼は私のひとつ年下である。「膝を悪くして、リハビリに通っているけれど、立ったり座ったり、階段がつらい」と言う。「同じ。やっぱり年には勝てないね」と別れた。

 

 私もこの夏の井戸掘り以来、右の膝が痛くてつらい。左足が曲がらないので、どうしても右足に負担がかかるのだろう。長く同じ姿勢をしていると次の動作に移ることができない。野球選手やゴルフ選手は毎日がトレーニングで身体を鍛えているのに、私は何もしない。生まれ持った身体的な能力は高いと自負していたが、やはり年には勝てない。プロのスポーツ選手も怪我や故障に泣くというが、身体を使う仕事だからなおさらだろう。プロ選手には使い過ぎることから生まれる故障が多いとも聞く。そんなことから程々がいいと勝手に思ってきたけれど、こうして自分の身体にガタが来ると、少しは身体を鍛えなくてはいけないと思うようになる。

 

 長女が東京で行われた学会に2歳の孫娘を連れて出掛け、名古屋へ帰ってきたので迎えに来て欲しいと言う。2歳の子を連れて学会?と思ったが、今では多くの学会が保育所を備えているそうだ。特に看護の関係は子育て中の女性が多いから当たり前になっていると言う。「学会はいいけれど、移動は大変」と長女は話す。幼児を抱えて、旅行カバンとベビーカーを持って歩くなど想像しただけでも私には出来ない。母親とはなんと凄いパワーの持ち主であるかと感心する。エスカレーターやエレベーターがあれば何とかなるが、どこにあるか、駅などは表示があるけれど、建物や建物に通じる施設など表示がないところもあり、その上り下りは必死の覚悟が要ると言う。

 

 長女の頑張りに比べたら、膝が痛いだのと言ってはいられない。明日は関市まで井戸掘りに出掛けるが、石が多い地形らしい。「幸運」を祈りたい。

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一度は行ってみたい止揚学園

2011年11月13日 18時55分45秒 | Weblog

 市ボランティア連絡協議会の講演会に行って来た。講師は止揚学園の福井達雨園長さん。演題は「やさしい心をもっていますか」であった。ボランティア団体の皆さんが大勢参加されていた。市の民生委員をはじめ、昨年はボランティア協議会から2班に分かれて、止揚学園へ見学に出掛けているそうだ。私はたまたま知り合いに「いい話だからぜひ聞いて」と言われ、演題に興味が湧いて聞きに行ったのだが、楽しかったばかりかいろいろ考えることも多かった。

 

 福井さんは私よりちょうど一回り上の79歳。父親は朝鮮人で帰化して日本人の母親と結婚した。けれども子どもの頃は「朝鮮人の子」と馬鹿にされ、「遊んだらダメ」と言われていて友だちが一人もいなかったそうだ。「人には2つの要素がある。存在することと、所属すること。この2つがあって初めて実存する」と言う。生まれているだけで所属できなければ人として認められない。「入れて」と言っても同じものしか入れてはくれない。大人になって障害のある人に出会った。この人たちは同じ日本人なのに「所属」していない。この時、差別が普通の人たちの中にあることを知ったと言う。

 

 障害のある人はとても感性が豊かだ。ある女性が「私は毎日、花に水をあげている。花はいのちやで」と言った。何のことだろうと思ったが、花が美しいのはいのちがあるから、クリスチャンの福井さんは神様のおかげと思った。その話を大学の講演会で話したが、「ウソは言わないで欲しい」と抗議を受けた。福井さんは話す。神を信じるか否かは人それぞれ、学生たちは感情はあるが感性がない。障害のある人は障害ゆえに純真な目で見ている、感じている。だから「花はいのちやで」という言葉が出てくる。感性はとても大事だと言う。

 

 福井さんは母親が死に際に会って話した2つのことを大切に思っている。1つは「見えないものを大事にすること」、もう1つは「えらい人よりも立派な人になること」。高校生だった福井さんはその時はよく分からなかったそうだ。大きくなるにつれて母親が残した言葉が良く分かると言う。見えないもの、思いやりとか優しさとか、そういう目に見えないものこそ大事なものなのだ。人はとかくえらい人が立派な人に見えるが、本当に立派な人は見えないところでも努めている人のことだと。

 

 優しい心を出すと時々しんどくなる。でも、どんなに愛していても、どんなに優しい心を持っていても、行動が伴わなければダメだ。思っているだけでは何も実現されない。今、世の中はとても難しくなっている。強い人はどんどん強くなっているが、弱い人は自分では強くなれない。けれど、弱いことは素敵だと言う。弱い人は何かを奪ったり、いじめたり、することはない。愛こそ、優しい心こそがいきいきと生きる源泉であると話す。

 

 「笑顔のないボランティアはありません」と福井さん。滋賀県東近江市にある止揚学園は年間3千人の見学者があるという。一度行ってみたいなと思った。

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NHK火曜夜10時

2011年11月12日 18時48分45秒 | Weblog

 新聞広告や電車の吊り広告に週刊誌の見出しが出ている。「週刊現代」と「週刊ポスト」が原発を巡って対立していることを広告の見出しで知った。週刊誌の広告はずらりと見出しが並べてあるから、読まなくても中身が分かる。私は喫茶店で週刊誌を読むことはあっても、買ってまで読まないし、喫茶店もそれほど行かないので、結局見出しだけ見て週刊誌を読んだ気になっている。

 

 いつだったか、最近のことなのだが、「週刊新潮」の広告見出しの中に、「『濡れ場』と『DV』過激路線を突っ走るNHK新ドラマ」とあった。ああ、火曜日の夜10時からのあのドラマのことかと納得した。この時間帯のドラマは結構面白い。男と女、親子兄弟、家庭、その愛憎と人の関係に執拗に迫っている。私が見たのは『セカンドバージン』からだったけれど、ベッドシーンは見せないと言われていたNHKもここまでやるのかと思った。

 

 今、放映されているドラマ『カレ、夫、男友達』は、江國香織さんの小説『思いわずらうことなく愉しく生きよ』を脚本にしたもの。結婚した長女、自由奔放に生きる次女、男に関心のない三女の3姉妹を描いている。長女はDVの夫と別れることも出来ずに暮らしている。次女は同棲している男に結婚しようと言われ、「どうして?このままでいいじゃーない」と言い、男は部屋を出て行く。三女は高校生の時、バージンをホームレスに与え、「10人の男と寝たけど、違いがわからない」と言う。

 

 DVの場面は寒気がするくらい恐い。こんな男となぜ暮らしているのかと思うが、「愛し合ってはいないけれど、求め合っている」らしい。男が女をいじめるのはどうしてなのか分からないが、そういう男がいることは確かだ。屈折した内面の表れなのかも知れないが、女はどうして別れる選択をしないのだろう。名古屋市営住宅で中学生の男の子が、母親の愛人に殴り殺された事件があったけれど、この男は仕事もしていないのに女は手を切ることが出来なかった。その結果、自分の子どもを殺された。いったい、なぜ別れられなかったのだろう。

 

 次女は今風であるけれど、三女は生物学の研究者のようだから特殊なのかも知れない。これからどんな風にドラマが展開されていくのだろう。この火曜日は、このドラマに続いて午後10時55分から『ビターシュガー』というドラマもある。続けて見ると混乱しそうなので一応録画している。こちらは同じ高校の同級生で、30代後半の3人の女性たちのドラマだ。原作は大島真寿美さんとあった。女性たちによる「女の生き方」は男たちよりも辛らつで先を行っているのかも知れない。

 

 東大を退官した社会学者の上野千鶴子さんが「昔付き合っていた男は、お前といると気取らなくていいと言っていた。愚痴は聞くし、飲ませる、食べさせる、とっても都合のいい女だったわよ」と話していた。これは別の「何でも言い合えるのっていいよな」という男女の話だが、女が働くようになり、仕事の愚痴や職場の悪口ばかり言うので、男は「そういうことは言わない方がいいよ」といさめた。女は「愚痴はあなたにしか言えないのに、どうして聞いてくれないの」と別れていった。

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世界はひとつになっていく

2011年11月11日 22時21分21秒 | Weblog

 野田首相はTPPへの参加交渉に向けて関係国との協議に入ると表明した。与党内で参加反対の急先鋒であった山田前農水大臣は「ホッとした。交渉への参加表明ではなく、事前協議の表明に留まった」と語っていた。明らかにTPPへの参加を表明したようなものだと私には思えたけれど、聞く立場によって大きく差があるようだ。

 

 世界はひとつになっていくのだろうし、それは当然なことだと私は思っている。国際的な会議の様子を見ても、ほとんどの男は背広を着ている。どんなに暑い国の人も、どんなに寒い国の人も、皆一様に同じ格好をしている。それが普通なのだろう、それが自然というものなのだろう。地球の流れはどう見てもひとつになろうとしている。

 

 それはアメリカを中心とした世界編成だと言う人もいるけれど、アメリカ自身も第2次世界大戦後のような力が無くなっている。対立していたソ連が崩壊し、世界が資本主義で統一されたにもかかわらず、その中心にいたアメリカは力を失くしている。それを挽回しようとすればするほど、アメリカは深みにはまっていく気配だ。

 

 NHKテレビの朝の連続ドラマは、3姉妹のファッションデザイナーを生んだ母親が主人公だが、さすがに難波っ子らしく威勢がいい。彼女は洋服を作って欲しいと言う芸子が喜ぶ洋服を作ったのに、「お金はいらん」と言ってしまう。父親から「お前は商売人ではない」ときつく怒られるけれど、私には彼女は真からの商売人だと映った。

 

 今日の放送では、ダンスホールで働く女性からイブニングドレスの注文を受けるが、女が「あんたはあほか。ダンスホールで働いている女は男を適当に喜ばせているだけだ」と言うのを受けて、「そんな女の洋服を作る気は無い」と依頼を断ってしまう。「あんたがダンスの玄人なら、私は洋裁の玄人なのだ」という自負が崩れてしまったからだ。

 

 どんなに高い報酬をもらったとしても、それは自分の目指すものとは違うという訳である。私は商売の基本は「損して得取れ」だと思っている。目先のことばかり考えている人は結局は大成しない。「情けは人のためならず」というのは、ちょっと自分の利益ばかりを考えているようで嫌だけけれど、人の世はお互い様でなければ決してうまくいかないのだ。

 

 自分だけがいい目に合うことなど決してない。みんながそれぞれにいい目に合わなければ世の中は楽しくない。「プライド」と「思いやり」が存在するのは人間の社会だけの特質なのだ。世界はまだしばらくは「自国の国益」を優先するだろうけれど、それではみんながうまく生きていくことが出来ないと気付くだろう。そして徐々に、世界はひとつに向かっていくと思う。

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心も科学もコントロールできない

2011年11月10日 21時46分36秒 | Weblog

 お、おー、揺れた。横に揺れたわけではないが、上下に強く動いた。午後7時前、愛知県西部で地震が発生した。震度3というから強い地震ではなかったけれど、これが前触れなら、次は大きいのが来るぞと思った。しかし一度揺れただけで収まった。

 

 夕方に孫娘がやって来て、「地震雲を見たから、地震が来るよ」と言っていた時は、いい加減なことを言っていると思っていた。孫娘は「明日は11月11日、地震が来たらどうしよう」と本気で悩んでいた。3月11日の次は11月11日か、そんな物語のような話があるわけがない。「ああ、そうなると、11月11日の11時11分ということか」と冗談でかわしていた。

 

 しかし、驚いた。TPPに参加するか否か、今日、はっきり表明すると言っていた野田首相だったけれど、先ほどのニュースで結論は明日に延ばすことになった。意見が合わなければ別れればいいのに、数としてはまとまっていたいというのはどういう神経なのだろう。国の将来を考えて結論を出すのに、どうして自分の結論に自信が持てないのだろう。

 

 震災からの復興支援を何よりも優先して行わなくてはならない。これに異議を唱える人はいないだろう。けれど、何からやる、どこがやる、いくらでやる、そうなってくると途端に怪しくなってくる。どこまでも利権だ。そればかりか、ボランティアで出掛けた人から、援助なれしてしまった子どもたちは「何をくれる?」と言い、「お金がいい」と言った話を聞いた。一部にでもそういうことがあるとみんながそうなのかと思えてしまうから恐い。

 

 それは子どもの話だったけれど、大人たちも同じようなものだという話もある。避難所でごろごろしていれば、食べることには困らないので、出て行かない人がいるとか、そんな非難めいた話をいくつか聞いた。働く場所がない、働けない事情のある人もいるのだから、一律にずるいとか怠けているとか言わない方がいいと思う。実際の状況も分からずに、見ただけであるいは話を聞いただけで軽々しく言うべきではないだろう。

 

 けれども福島原発から20キロか30キロか、あるいは本当はもっと広い範囲なのかも知れないが、原子力委員会の見解では原発を廃炉にするまでに30年かかるというから、この地域の人たちにとっては暮らしていけないと宣告されたようなものだろう。これはもう醜聞や非難の応酬の域を超えている。

 

 だからもう、脱原発以外に選択はない。原子力発電事業にかかわってきた会社や従業員の方には申し訳ないけれど、原発から撤退してもらいたい。そう思っていたけれど、それは素人の考えることだった。先日、原発の設計に当たっていたという技術者の話を聞いて驚いた。原発建設がなくなっても会社は少しも困らないと言う。会社はすでに、こういう事態に備えて廃炉にする技術を確保していると。

 

 廃炉というのは原子炉を壊していくことなのだろうけれど、しかし、それで生まれる放射線を帯びた資材や核燃料の処理方法はまだ確立されていない。作ったものを最後にどう処理するか、それが考えられないままに、爆弾よりも大きな破壊力に注目して、原子力に手を入れてしまったのだ。人は、人の心も、人が作り出した科学も、コントロールできない。

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