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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

幻想を抱いた私が愚かだった

2013年03月20日 19時16分50秒 | Weblog

 データファイルが開けないまま、今日も終わろうとしている。この頃見る夢は、ウーン困ったと焦っているものが多い。どんなストーリーだったか思い出せないが、結論はどうしようかと焦っている。人生の終末を迎えながらまだ何を焦るようなことがあるのだろう。自分で出来なければ他人に頼めばいいし、失敗したならゴメンナサイと謝ればいい。肩肘張ってみたところでどうってことは無い。そんな風に思えるようになったのは、気力が無くなったのか、歳を取った者の知恵なのか。

 開き直りのようにも思えるけれど、そういうことってあると思う時がある。私が大学に入ったのは昭和38年で、まだ60年安保の残骸がそこかしこに残っていた。残骸という言い方は失礼なのかも知れないが、実際に60年安保闘争に参加した人たちの「思い出」のようなものが漂っていた。それを敏感に感じる人と感じない人がいたし、感じる人の中には受け止めることを拒否する人もいた。それまでのわずか18年か19年の歩みの中で、人の関心は築かれていたのだ。

 名古屋の高校生は安保闘争デモに参加していたが、私はテレビと新聞でしか知らなかった。私の高校の先輩たちも名古屋や東京まで出かけていたのかも知れないが、そんな話が交わされていたのかさえ知らなかった。知らなかったことを私は自分の負い目のように感じていた。人生についてあるいは愛について、大いに語り合う、高校生活を夢に見ていた私は予備校化した高校に幻滅を抱いた。成績も振るわなかった。「挫折」だった。大学に入って、古本屋で最初に買った本は『革命の挫折』というものだった。

 60年安保の体験者たちが振りまく挫折感はすうーと私に入ってきた。それで吉本隆明の『芸術的抵抗と挫折』は、題名を見ただけで衝動的に買ってしまった。しかも最初に書かれていたのは、「マチウ書試論」というものだった。私は中学の時からキリスト教に憧れながら信仰に至らなかったので、とても興味深く、挫折から解放されることを夢見た。マチウがマタイで、ジェジュがイエスのことであることまでは分かったけれど、よく分からない文章だった。これは私の頭が悪いためだと思っていた。その後も、吉本の本は何冊か書名に惹かれて買ったけれど、やっぱりよく分からないままだった。

 私より2歳年下の呉智英さん著の『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、なるほどと納得できた。難解な文章だったことで、周りが吉本を凄い思想家だと祭り上げてしまったと指摘する。吉本の原理への追及は歳を重ねた晩年になると色あせてきたし、反原発運動を「猿になるのか」と言った時は驚いた。生きていること事態を「幻想」というなら、それはそれでいい。幻想を抱いた私の方が愚かなのだから。

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データファイルは開けません

2013年03月19日 18時04分23秒 | Weblog

 暖かな春の日差しが溢れている。小学校のグランドで子どもたちの歓声が上がる。友だち同士で写真を取り合ったり、お母さんやお父さんも加わって写真に納まったり、グループの形が変わっている。今日は小学校の卒業式だ。この辺りの学校は、卒業式の日はこれから入学する中学校の制服を着て式典に参加する。だからマンションから見ていても、中にはこの辺りでは見られない制服の子もいる。いつからこうした卒業式になったのだろう。

 中学校の制服を着るのは、見せつけるためでは決してないはずだが、「あの子はどこどこの学校へ行くのよ」と分かってしまい、お母さんたちの羨望とか驚喜の対象になっている。それでも多くの子どもたちはそんなことには関心もなく、大声でグランドを走り回り、ふざけあっている。まもなく競争社会へ送り込まれるわけだが、今はそんなことを感じていない。春の陽気はいかにも暖かく、子どもたちの前途はいかにも恵まれた気配だ。

 私は朝からずっとパソコンとにらめっこである。先回まではスムーズに出来た宛名ラベルの印刷が出来ない。毎回、ワードのツールから差し込み印刷を使っているのに、なぜ出来ないのだろう。先回と違うとすれば、追加名簿があったので、これを打ち込んで上書き保存した点だけである。と、いつもそう思うけれど、実は時々印刷できなくて悪戦苦闘に陥る時がある。それでもこれまでは何かしらやっているうちに、「あれっ出来た」とうまくいっていた。

 「その手順を控えておけばいいのでは」と指摘されるまでもなく、そうしているが、それなのに出来ないのである。パソコンがうまく出来ないのは、ほとんど手順にある。順番を間違えるとコンピュータは考え込んでしまうのだ。それと厄介なのはデータの保存の仕方にある。自分では正しく保存したはずなのに、その形式では表示が出来ない時がある。同じマイクロソフトなのにワードとエクセルの互換がよくない場合もある。

 今回のラベル印刷も、エクセルのデータをワードで開こうとしても「データファイルは開けません」という。コンピュータに詳しい人に聞いても、「ワードとエクセルはうまくいかない」と言う。3歳の孫娘は『iPad』を器用に扱えるけれど、私はまったく出来ない。電話が出来て、メールが出来て、写真が撮れれば充分なので、『iPad』が欲しいとは思わない。いやむしろ、分からないことが増えることが嫌なのかも知れない。

 その3歳の孫娘が私のケイタイに指を置いて、「うごかないねー」と不思議そうに言う。彼女が大きくなった時は、どんな社会になっているのだろう。

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原点を探す

2013年03月18日 18時43分53秒 | Weblog

 アルゼンチンの枢機卿が新ローマ法王に選出された。南米から法王が選ばれるのは始めてのことらしい。世界で12億人と言われているカトリック信者の分布を見ると、南北アメリカが5億2千万人、次にヨーロッパが2億8千万人、続いてアジアが1億7千万人、アフリカが1億3千万人とある。南北アメリカやアジアそれにアフリカは、いずれもヨーロッパの植民地であったことが信者の多い理由だ。スペインからイスラム教徒を追い出したが、依然として中東はイスラム勢力下にあったから、金銀や香辛料などを求めて大航海時代が始まった。

 ポルトガルに先を越されたスペインは西へと向かい、南北アメリカを圧倒的な武力で制覇した。南北アメリカがほとんどがスペイン語であるのに、ブラジルだけがポルトガル語である。この植民地支配の分割調停を務めたのはローマ・カトリック教会だった。今、世界で最もカトリック信者の多い国がブラジルというのも歴史の皮肉かも知れない。ところがそのブラジルのカトリック信者が年々減りつつあるそうだ。カトリックに代わってプロテスタントが伸びているのが原因だが、これはもっと皮肉的かも知れない。

 1970年代だったと思うけれど、世界で学生たちがバリケード闘争を展開していた頃だった。南米では貧困の住民たちを救う「解放の神学」というカトリックの司祭たちがいた。教会で祈るだけでなく、実際に貧困から救うために実践すべきだという運動だった。私の友だちも「世界で最も過激な宗教」と呼び、カトリック信者になった。宗教は絶えず、原点へ帰ろうとする。その動きがなければ飛躍もないのだ。イスラム原理主義がイスラム教徒に支持されるのも、イスラムの原点を見直そうとするからだろう。

 キリスト教のプロテスタントも原理主義であった。カトリック教会が独占していた聖書を信仰の原点にしたが、それは印刷技術が可能にした。それまでは司祭がラテン語で読む聖書をありがたく聞くだけであった。各地の言葉で聖書が印刷され、キリストの言葉の意味を考える。これは信仰の現実化と言っていいと思う。仏教もたくさんの宗派が生まれたけれど、その契機は常に原点復帰だった。聖書も仏典も論語も、キリストが釈迦が孔子が、「こう言われた」と弟子やその弟子から聞いた人々が、かなりの年月を経てからまとめたものだ。

 だからこそ、「本当はこう言われたのではないか」と問う時が何度もやって来る。新ローマ法王は「自ら食事の支度をし、バスに乗って出かけるつつましい生活を大切にし、病気の人たちの身体を洗い、口づけをする温かな人柄」(朝日新聞)とある。「解放の神学」はローマ・カトリックから異端とされたけれど、その改革精神は受け継がれているのだろうか。

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情けは人のためならず

2013年03月17日 20時21分18秒 | Weblog

 自殺する人が3万人を割ったという。それでも毎年、3万人近い人が自ら命を絶っていることに大きな変りは無い。朝日新聞の土曜日版の『悩みのるつぼ』でも、18歳の女の子が「なぜ自殺はいけないのですか?」と訊ねていた。この女の子は、机に死ねと書かれたり、教科書を捨てられたり、デブは2倍面積を取るから学費も2倍払えなどとも言われていた。毎日、今日はどんないじめを受けるのかと胸をナイフでえぐられる日々だった。「死ぬ気になれば何だって出来る」と励まされても、死ぬ気になったら死ぬしか出来ないと打ち明けていた。

 回答者は評論家の岡田斗司夫さんで、結論から言えば、「あなたこそ問いに回答できる」とあった。岡田さんという回答者はいつもとても論理的で、先回も息子が「死にたい」と言うけれど、どうしましょうという母親の悩みに、「じゃーその時は、母さんも一緒に死んであげる」と言いなさいと回答していた。確かに息子は母親に止めてもらいたいだけで、母親の死まで願っているわけではないけれど、でも本当に心中になったらどうするつまりなのかと私は心配になった。

 今回の悩みについても、「私は死にたいと思った経験がありません」「でも、あなたは自殺したいと毎日思うような日々を生き抜きました。私よりも、ずっと突き詰めた言葉が出せるはずです。あなたにはその問いに答える権利がある。きっとあなたの言葉なら、私よりも多くの命を救える」と述べていた。実は私も自殺を考えたことがない。情けないことに、人を恨んで死んで欲しいと思ったことはあるが、自分で死にたいとは思わなかった。それだけ欲深いということなのかも知れないが、死は神が決めることだとの思いが強いこともある。

 たとえどんなに辛いことでも、生きていることは神が価値を認めているからで、価値がなくなればいつでもこの世を去らなくてはならない。他人の命を奪うことは許されないが、自分で自分にピリオドを打つことを私自身は非難しない。そうするのは神の意思かも知れないと思うからだ。神は誠に残酷で、善人だから助けるとか悪人だから罰することはない。全ては最後の審判にある。自分で考えたことが、全く神の意思にそぐわないことであれば、報いを受けることになるだろう。絶対である神の前では、人は全く小さなものでしかない。

 今日はカミさんの母親の妹のダンナの法要で出かけたけれど、お経は何度聞いても何を言っているのかさっぱり分からない。叔父さんは長く苦しむことなくこの世を去った。お人好しで世話好きな叔父さんには私も世話になった。人はよく「他人に甘えてはならない」と言うけれど、この歳になってみると、他人に甘えられるなら甘えればいいのではと思う。「情けは人のためならず」というけれど、助けられる人には助けてもらえばいいし、助けられるなら助けてあげればいい。

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まだ右肩上がりを目指すの?

2013年03月16日 18時55分51秒 | Weblog

 安倍首相がTPPへの交渉参加を決めた。どこの国も外国から金は稼ぎたいが、関税を撤廃して自国の産業を圧迫したくない。条件は皆同じように見えるけれど、国際条約はいつも強い国が有利に出来ている。幕末に結ばされた通商条約の不平等さを挽回することが、明治以降の政府の役割だった。そして条約の交渉は戦争へとつながった。小国とはいえ、列強に負けない精神で戦った日本だったけれど、結果は歴史が語っている。

 国益を守ることが外交であるから、いかにして不平等を最小限に抑えるかにある。けれど、不平等であることに変わりはない。どこの国も儲けようと必死だ。そのために、外国には金を出させるが、自国は金を出さないで済むようにと考えている。日本は自動車などの産業では負けないらしいが、農業では負けそうだという。差し引きでプラスになるなら、交渉に参加すべきだと積極派は言い、それでは外国資本に乗っ取られることになると消極派は危惧する。

 中国の全人代で、新首相が決まった。李克強さんは57歳、北京大学で経済博士号を取得した共産主義青年団のエリートだという。全国最年少の43歳で河南省の党書記に就任し、経済振興で評価を得て上り詰めてきた。貧しい農村の生まれだが、最難関の北京大学法学部に入学し、在学中に英語の専門書の翻訳を行なうなど、同級生からは「異常なほど勉強していた」と言われる秀才らしい。歴代の首相は理工系であったのに、経済の専門家を首相に据えたのはやはり中国のお国事情だろう。

 中国は目覚しい経済発展を遂げ、世界第2位の経済大国となったけれど、一人っ子政策の影響で労働人口は頭打ちだから、これからは高齢化となることは必至だ。役人の腐敗や広がる貧富の格差、金持ちとなった人たちは既得権益を守るために画策するだろう、さらに環境汚染など、問題は山積みである。経済学博士の李首相は「内需を拡大し、効率よく成長のアクセルを踏むため、農村からさらに多くの労働者を都市に移住させる」と唱える(朝日新聞)。これは資本主義の初期段階の政策である。

 安倍首相も李首相も、それぞれに自国の利益を追求しているわけだが、どうやら方向としては同じである。日本は収入の20倍もの借金をして右肩上がりの経済を目指し、中国はさらに多くの労働者(消費者)を作り出して経済振興を図ろうとしている。そんな国が本当に豊かな国なのだろうかと、年寄りの私は思ってしまう。

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人生はまさにこれから

2013年03月15日 19時29分29秒 | Weblog

 外に出たら、日差しが強く暖かだった。車に乗ったら、車内はまるで夏のように暑かった。家の中に居た時はまるで冬のように寒かった。「寒い」のはどうしてなのだろう。そう思って体温を測ってみると、やはり35.8度しかない。身体を動かすことがないと、自然に体温は下がるようだ。それならと、役所に提出する書類を持って出かけた。せっかく出てきたのだからと、孫娘がアルバイトをしているスーパーに立ち寄ってみた。

 孫娘はここのタコ焼き屋で働いている。初めてのアルバイトだ。ガラス張りの向こうで、せっせと手を動かして、タコ焼きを作っている姿が見える。見る限りではなかなか手際よく働いているようだ。昨日まで、春スキーに行っていたからか、それともタコ焼きの暑さのせいか、顔を真っ赤にして器用に千枚通しを動かし、次々とタコ焼きを丸めている。私たちがガラス張りに近づくと、「いらっしゃいませ」と声を上げて、ビックリした表情をした。

 同僚の先輩らしい女性に、「おばあちゃんとおじいちゃんです」と説明している。タイ焼きとタコ焼きを注文し、出来上がるまで孫娘のタコ焼きづくりを見ていた。孫娘の方は、私たちが見ていることが気になるのか、何となくぎこちなくなってしまった。ちょっと悪いことをしてしまったと思い、出来上がったタイ焼きとタコ焼きを受け取ると、「じゃー、頑張ってください」と声をかけて帰って来た。

 5時過ぎ、今日の勤務を終えた孫娘が、「疲れた」と言いながら我が家に立ち寄った。「疲れた。もう、タコ焼き屋のバイトはしない」と悲鳴を上げている。立ちっぱなしの仕事なので「疲れる」と言うのだ。「あのねえ、仕事で楽なものはないよ」と教えるが、働いたことの無い孫娘には理解できないようだ。孫娘の友だちの中には、高校生になった時からアルバイトをしている子もいて、楽に働けて時給がいい話を聞いているので、「もっと、楽にお金が入る仕事がしたい」などと言う。

 私がしたアルバイトで一番辛かったのは、デパートのお歳暮売り場で、鴨の味噌漬けを担当した時だ。朝から閉店まで売り場にいたが全く売れなかった。「いかがですか?」と声をかけても見向きもされなかった。説明することも無く、ただ立っているだけというのは本当に辛かった。昼過ぎになると睡魔が襲ってきて、眠ってはイカンと身体を動かすのに必死だった。売り場には他に人はなく、贈答品が売れるか否かは私ひとりにかかっていたので、何とか売りたかった。

 人からお金を貰うということは決して楽ではないことを、孫娘も知るようになるだろう。しかしまた、働いて自分が役に立つことの喜びも知るようになるだろう。人生はまさにこれからなのだから。

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今日はホワイトディーだった

2013年03月14日 19時43分42秒 | Weblog

 バレンタインディーの前になるとお菓子屋さんは大忙しである。しかし、そのお返しの日であるホワイトディーがこれほど混雑しているとは知らなかった。名演の帰り道、今日はホワイトディーなので、ちょっと有名な洋菓子店に行って、お茶とケーキにしようと立ち寄った。普段ならそれほど駐車していないのに、店の前は車でいっぱいである。喫茶と販売が別になっていて、チョコやクッキーを売る方は若い人でごった返している。既に予約をしてある人もいるが、そうでない人はショーウィンドウを覗いて、注文用紙に書き込んでいる。

 サラリーマン風の男性は、かなりの数のお菓子を買い込んでいた。これだけの人が並ぶということは、たとえ義理であっても女性からチョコを貰っているということである。バレンタインディーもかなり定着したと思うけれど、そのお返しも当然、それだけ定着したということだ。日本の男性は生真面目だなと思う。私たちが子育てをしていた頃は、随分ブランド品が流行していた記憶だけれど、今の子育て世代は「子どもはすぐに大きくなるから安いもので充分」と合理的だ。そんな世代の男性たちも、チョコのお返しはキチンと果たそうとするのだ。

 時代と共に、考え方が違ってくるのは当然だろう。今日の名演は、俳優座の『樫の木坂の四姉妹』だった。東日本大震災を意識して、長崎の原爆被災者の物語を持ってきたのだろうと想像できた。しかし、席は真中辺りだったのに三姉妹の声が聞き取りにくかったし、舞台が単調でかなりの人が眠っていた。やはり芝居はまず声がよく通ること、そしてテンポのよい展開だと思う。そのための脚本や演出はもちろん大事な要素だろう。初めの幕開きが、三姉妹の会話から始まるのはその工夫のひとつなのだろうけれど、逆効果だったと私には感じられた。

 物語は原爆の被災者である三姉妹のそれぞれの生き方を通して、原爆や災害が一瞬にして人生を変えてしまう悲しみや苦悩、立ち向かって生きてきた人の強さや弱さを見せてくれる。原爆投下前の幸せな一家の様子、被爆後はそれぞれが思いを秘して生きてきた。死を直前に、互いの心の内を知るという結末だった。被災者を何万人というように絡げているわけではないが、そこには一人ひとりそれぞれの人生があると言いたいことはよく分かる。

 歴史に名を残さない人々の方がはるかに多い。そういう人たちが歴史を支えてきたことは事実だ。バレンタインにチョコを贈る人、ホワイトディーにお返しを贈る人、好きと伝えられない人、いろんな人がいるけれど、それぞれが幸せであって欲しいと思う。ローマ法王が決まったけれど、神様、願わくば全ての人に祝福を授けてください。

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元気?また会いたいねえ

2013年03月13日 18時08分13秒 | Weblog

 雨が降ってきた。午前中は暖かく、私はルーフバルコニーに出て、植木鉢を見て回った。チューリップが大きくなってきた。今日は昼から雨降りになると予報されていたから、水やりはしなかった。だから、雨が降って欲しいと思っていた。午後4時に外を見た時は、雨降りの音もなかったが、今はシトシトと音が聞こえる。春の雨は一雨毎に暖かくなるというけれど、今年は雨が降るたびに寒さが戻るような気がする。

 長い間、そう言ってもわずか1週間ほどのことなのだが、連絡が無いのでどうしたのだろうと心配していた。寒かったり暑いほどだったりの気候が続いたので、体調不良を起こしていたらしい。そんなことくらいなら安心だ。おかしなことに、歳を取ると自分のことよりも人のことが気になる。気にしてみたところで、どうにもならないことは分かっているのに妙なものだ。先輩の言い草ではないが、「なるようにしかならん」けれど、それでも自分に出来ることはないかと思ったりもする。

 福島から避難してきた人の話を聞き、カンパはしたけれど、そんなことでは何も解決はしない。私が首相になって、原発を廃止しても、廃炉にするまでは何十年とかかるし、廃炉が出来たからこれで全て解決したのかと言えば、やはりそうではないだろう。北朝鮮が「休戦協定を白紙に戻す」と宣言しているが、金正恩第1書記がこれを撤回すれば問題は解決するかと言えば、やはりそうではない。北朝鮮と韓国の問題は、アメリカの世界戦略上に生まれた問題だから。

 『レ・ミゼラブル』で、市長になったジャン・バルジャンがどんなに善政を行なったとしても、ひとりの貧しい工場労働者さえ救うことは出来なかったし、仮に彼女を救うことが出来ても、それで解決したのかと言えば、やはりそうではないだろう。パリで王政に反対していた青年たちが、銃で政権を奪い取ったとしても、それだけでは解決にならない。そう、人間社会は自分たちが作り上げてきた社会なのに、自分たちで解決できないもどかしさを抱えている。

 誰が悪いというわけではないのだろう。人間の中にはズルイ奴もいるけれど、「話せばわかる」はずだ。世界を変えるとか、社会を変えるとか、そんなことは出来なくても、「元気?また会いたいねえ」とメールを送ることくらいは出来る。一人ひとりがささやかな幸せを実現出来るなら、それでよいのかも知れない。「大いに飲んで、食べて、おしゃべりをして、生きていることの素晴しさ、仲間がいることの喜びを、みんなで味合いましょう」と『桜の宴』の呼びかけに書いた。

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あれから2年

2013年03月12日 18時30分55秒 | Weblog

 東日本大震災から2年、昨日はどこのテレビ局も「大震災を風化させることなく、次の世代の人々に伝えていこう」と呼びかけていた。今朝の各新聞も多くのページを使って、震災2年目を取り上げていた。「くどすぎる」とぼやいていた人もいたけれど、何でも水に流してしまう日本人には、これくらいくどいことが必要なのかも知れない。死者・行方不明者および震災関連死と認められた人を合わせると2万853人にのぼるのだから。

 阪神淡路大震災の時は、凄い揺れだった。3・11はそれに近い揺れだったけれど、やや小さく感じた。そのため、はるかに離れている東北沖での地震とは思わなかった。でも、しっかりとその時のことは覚えている。大津波と原発事故が無ければ、いや原発事故だけでも無ければ、これほど大きな複合災害にはならなかっただろう。人は一度大きな災害に見舞われると、2度と被災を受けないようにと対策を立てる。大津波の被災地である三陸海岸では、見上げるほどに高い防潮堤が何百キロに渡って造る計画である。巨大なコンクリート壁に囲まれた生活となると言う。

 大災害を忘れてはならないし、災害を防止する対策は必要だろうけれど、ここまで極端な対策を本当にしなくてはならないのだろうか。念には念を入れて、入れすぎることは無いのかも知れないが、堤防は最小限でいい、被害に遭っても行政に責任を求めない。そういう生き方だってあってもいいのではないかと思う。アメリカへ旅行した時、ロッキー山脈で水も電気も無い暮らしをしている人がいたけれど、周囲を高いコンクリート塀で囲まれていては、息が詰まるのではないかと思ってしまう。

 震災を契機に家族の絆が強まった人もいれば、家庭が崩壊してしまったという人もいる。原発のある福島県では、除染が行なわれているけれど、だからもう安全だとは誰も思っていない。原発の解体作業中に、さらに多くの放射線が放出される危険性もある。また、除染で出たゴミや解体で出たゴミ、原発の汚染水は処分も出来ずに山積みされている。持って行く場所がなければ、原発の地で一緒に埋め立てるしかないと思うけれど、そうすれば永久に「死の区域」となってしまうだろう。沖縄と同じように、なぜ東北が負うことになるのかと東北の人は納得しないだろう。

 一生懸命に生きているのに不幸がやってきたり、優しくて心配りが行き届いた人なのに心配事が絶えなかったり、健康そのものだった人が突然に病に襲われたり、人の世は誠に不条理だ。しかしまあ、それこそが人の世であるならば、そこで生き抜く以外ない。新聞を見ても、テレビを観ても、笑顔がとってもいい人がたくさんいる。いい笑顔の人に出会えば、心も豊かになれる。

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いいね。こんな話が出来るのは

2013年03月11日 19時26分57秒 | Weblog

 4月の大和塾の市民講座は、尊厳死協会の方に講演していただくことになった。塾生の皆さんは「死ぬ時は死ぬ時ですよ」と元気な人が多く、「いろいろ考えたけれど、結局は分からない。死ぬまで自分らしく生きるしかないと思う」。「死ぬことを恐れるのは、まだやりたいことがあるから。やりたいことをやっているうちは死ぬことなど考えていられない」。「年寄りは病気を探してしまっている。胃が痛いのは胃ガンじゃーないか。元気が出ないのは精神の病では。そんな風に病気のせいにしたがる」。

 その時、塾生のひとりが「困った時の話題にいいよ」と、川柳を披露してくれた。「起きたけど 寝るまで特に 用もなし」。「湯加減を しょっちゅう聞くな 俺は無事」。「妻旅行 俺入院 猫ホテル」。「手をつなぐ 昔はデート 今介護」。「目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ」。「立ち上がり 用事を忘れて また座る」。「延命は 不要と書いて 医者通い」。まだまだ、面白いものがあったけれど、どうも寂しい。それでもどれも皆さん覚えがあるのか、笑いが絶えなかった。恋の川柳もあった。「老いの恋 惚(ほ)れるも惚(ぼ)けるも 同じ文字」。「恋いかなと 思ってみたら 不整脈」。

 彼はボランティア活動をしているけれど、そんな時にこれらの川柳を2つ3つ取り上げると、みんなで大笑いになるからといつも手帳に忍ばせているそうだ。死に方を考えてみても仕方ない。せいぜい病院で死ぬか家で死ぬかくらいの違いしかない。終末医療については、延命治療は要らないと担当医と家族に伝えておけばそれでいいだろう。後は葬儀の仕方だけれど、希望があれば、文章にして家族に残しておくのが一番よいだろう。何もしなくていいと言っておいても、家族は世間体を考えるかも知れない。直筆のものがあれば説得力になるはずだ。

 「そんな先の話よりも、世界がどこに向かおうとしているのか、日本がどうなっているのか、今の話をしようよ」ということになって、昭和史を調べ直しているという塾生の話へと跳んだ。尖閣諸島にしても、北方領土にしても、アメリカは紛争となる地域を残しておくことで、アメリカの安全を保つ戦略があったと指摘する。友好とか同盟とか言ってみても、そこには各国の国益があり、その限りの関係でしかない。それは国家が存在する限り免れない。国会でのやり取りも、国益をいかにして確保するかに終始している。

 そんなこんなで盛り上がってきたところで、時間が来てしまった。「いいね。こんな話が出来る場は滅多に無いから、やっぱり長生きしそうだね」とまた、みんなで笑った。

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