友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

夏祭りで酒類の販売禁止だって?

2015年06月19日 17時49分38秒 | Weblog

 今晩は夏祭りの屋台の場所を決める抽選会が行なわれる。今年は参加団体が減るだろうと見ていたがそうでもないようだ。昨年の夏祭りで、中学生が事故を起こし、調べてみたら屋台でビールを買って飲んだことが分かった。それで警察が酒類の販売を禁止するように求めたと言う。もし警察が本当にそんなことを言ったとしたら、それは権限を逸脱している。「そういう事件がありましたので注意してください」と言ったことを受けて、酒類の販売禁止を決めてしまうのが日本人らしいところだ。

 夏祭りは前の町長が「市民が主体で」という発想から、「テキ屋ではなく市民自らが販売して祭りを盛り上げて欲しい」「売り値は自由に決め、売上げは団体の活動費に」ということだった。それまでは低迷していた夏祭りに人々が大勢集まるようになり、屋台を行なう団体も増えたからますます相乗効果が生まれ、祭りの土台がしっかり出来てきた。祭りは市民から名乗り出た実行委員会が行っているので、酒類の販売禁止も実行委員会で決めたものだろうが、その経緯を聞いてみたい。

 夏祭りを知らせる市の広報6月号に、「今年からアルコール類の販売はできなくなりました」とあった。禁止する目的も理由の説明もない。まるで安保関連法案の審議と似ている。国民の代表が国会で決めるという発想と同じで、市民の代表の実行委員会が決めたから従いなさいということのようだ。けれど私は、実行委員会の側に、屋台を受け持つ団体に一度集まってもらいどうしようかと考える機会を設けなかったのかと思う。

 「市民が主体ですから」と、実行委員会を組織するけれど、実行委員会が行政の下請け機関のような役割しか果たしていなければ、「市民が主体」とは言えないだろう。行政は何事もなくという考えが強いから、問題が起こらないことが最大の目標になってしまう。けれど、「市民が主体」の実行委員会は「市民が祭りを盛り上げ、市民の一体感を作り出す」ことに最大の関心を払うべきだと思う。

 今晩の抽選会で、実行委員会がどのような説明をするのか楽しみだ。

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何が幸せなのか?

2015年06月18日 17時38分38秒 | Weblog

 近頃、よく見えているのか、いないのかもよく分からない。眼科に行っても医者は「もう少し様子をみましょう」と言う。格別悪いという訳ではないようだ。親指の付け根の痛みはかなり治まったけれど、指は変形したままだ。腹や胸に痛みがある時もあるが、だからどうなるという程の痛みにはならない。両親よりもかなり長生きしているが、私より14歳年上の姉は施設で暮らしているが元気だ。

 いったい何が幸せなのだろう。選挙権が18歳以上となるけれど、そんなこととは関係なく子どもの貧困は増えている。私たちが18歳だった頃、大学への進学率はどのくらいだったのだろうか。中学のクラスで大学へ進学したのは5分の1くらいだから、20%ということになるが、今はそんな数ではないだろう。大学にいくことが生活の安定と繁栄につながるというので、かなりの進学率になっているはずだ。

 大学に入ってもそれで絶対幸せになれるとは限らないが、大学にいけなかった者は経済的に恵まれないことは確かだろう。この負の連鎖が先進国で起きているという。人によって能力に差があるのは仕方ないが、そのために得る報酬をそんなに大きな差にしないといけないのだろうか。やる気がある者が引っ張っていくのは当然で、そのためには額が大きいほどやる気になるとよく言われるけれど、本当にそうなのだろうか。

 社会に適応できない子どもいる。生まれながらに傷害のある子だっているし、ある日突然、難病になることもあれば、事故に巻き込まれることだってある。人類全体が稼ぎ出したお金から何%とかをプールして、みんなのために使う。これが福祉で、実際に税を取り立てているけれど、なのになぜ貧困はなくならないのだろう。なぜ憎しみや怒りばかりが増殖してしまうのだろう。

 愛し合うことは困難なことなのか。いったい、私は何が幸せと考えているのか。考えているからダメなのか。もっと感じること、もっと感覚的になることかも知れない。美しいものを見て、触って、嗅いで、捉えるものなのかも知れない。もうすぐ、誕生日ゴルフに行った人たちが帰って来る。そして反省会が始まる。

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酒鬼薔薇聖斗の手記を読んでみたい

2015年06月17日 19時20分24秒 | Weblog

 77歳の知り合いの女性を殺害した疑いで逮捕された名古屋大学の女子学生が家裁に送られた。逮捕された後、高校時代に友人に劇物を飲ませたり、女性の殺害後に帰郷した時、知り合いの家だと思って放火したり、考えられないような事件を犯していたことも分かった。女子学生は「子どもの頃から人を殺してみたかった」とか、「焼死体を見たかった」と話している。

 今日の中日新聞にこんな記事が載っていた。「『好きな男の子ができたら手をつなぎたい?』『ううん、殺したい』(略)逮捕されて間もないころ女子学生は捜査員との雑談でこう答えたという。自分の意見をよどみなく告げるような口調。迷いを少しも感じさせず、余罪についても『高校生のころ、同級生に毒を盛った』『放火したこともある』と自分で告白した」。

 父親は見慣れない薬品をネットで購入する娘の行為を不審に思い地元の警察署に相談に行っているし、「小学生の頃から人の死に興味を持つようになった」と捜査員から聞いた母親は、「そういう雰囲気を感じていた」と話している。両親にしてみれば、「あの子はちょっと変わっているけれど、でも、まさか人を殺めるなんて‥」ということだろう。

 人は思いもよらない面を持っている。けれども成長するうちに「普通」になっていく。それを人は理性と呼ぶけれど、本当は損得で計っていると大学生になったころ議論した。教育が果たす役割が大きいのも、共通の「普通」を作り出せるからだとも言い合った。それでもはみ出してしまう人がいる。高等教育を受けた者でありながら、「普通」になり切れない。

 初めて川端康成の『眠れる美女』を読んだ時、エロ小説だと思った。自分が主人公の歳を越えると見方が変わった。男は誰でも美しい女性の裸が見たい、美しい手足にそっと触ってみたい、普遍的な欲望だと理解できる。今、神戸連続殺人事件の『酒鬼薔薇聖斗』が書いた手記が出版され、世論を二分している。

 私自身はその手記『絶歌』を読んでみたいと思っている。19歳の女子大生もきっと読みたいと思っているだろう。彼女がこれを読んで、どういう感想を持つのかも知りたい。人間が隠してきた深い淵を見たいと思う。

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実力阻止とコルセット

2015年06月16日 18時56分31秒 | Weblog

 衆議院厚生労働委員会で労働者派遣法の改正案の採決を行なおうとした委員長に対して、民主党の議員が実力で阻止行動に出た。怒号、もみ合い、渡辺委員長がメモを読み上げようとすると取り囲んだ民主党議員がこれを奪おうする様子がテレビニュースで何度も流された。そして、翌日だったと思うけれど、委員長は首をコルセットで固定して現れ、民主党議員の卑劣な行動を非難した。

 その時、ケイタイ電話が無くなったと言っていたが、今日、盗難事件として告訴した。「身体を張って阻止するぞ」と民主党議員は誓い、作戦まで立てていたという。絶対に阻止しなくてはならない法案だとしても、暴力で行なうことは許されない。安倍内閣が安保関連法案を提案できるのも自民・公明の議員が圧倒的多数で、絶対に乗り切れるからだ。この法案がいかに悪法であるかを明らかにして、次の選挙で法案を改正するのが議会制民主主義である。

 少数派はどうしたらいいのか。多数派になるしかない。そのためには有権者を獲得しなくてはならない。民主党議員のやり方では、ますます支持者を減らすだろう。首にコルセットをつけて現れた委員長の姿を見て、これで民主党はさらに凋落すると思った。もちろんこの姿は演出なのかも知れないが、そこまでさせてしまった自らの愚かさに気が付かないようならもう救いようが無い。

 ケイタイの盗難も胡散臭いと思うけれど、もし、民主党議員が持ち出したなら重大な犯罪行為だ。これも民主党を陥れる計略であるなら、そんな計略に嵌められる程度の民主党議員だったということである。政治の世界は誠に恐ろしい。私も最初の選挙の時、本人が意識的だったかどうか分からないが、応援者の間に亀裂が起きるような行為があり、それを見抜くことが出来なかった自分の甘さを痛感したが、これも相手組織の意図的な作戦だったのかも知れない。

 理想を言えば笑われるかも知れないが、政治はどこまでも論議で決めていく、そういう世界にしなければならない。そのためには政党が党内でしっかり論議するクセをつけるべきだろう。論議も出来ない政党は解散した方がいい。

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日曜の夜はテレビ

2015年06月15日 18時00分54秒 | Weblog

 日曜日は午後7時から11時まで、ずぅーとNHKテレビを見ている。20歳の孫娘が大好きな井上真央さんが主人公の『花燃ゆ』は、孫娘に申し訳ないけれど面白くない。井上さん演じる女性が主役なのに、まるで脇役でしかない。男優たちは皆、声を張り上げ怒鳴ってばかりいる。NHKテレビがこれほどテロリスト集団を賛美するのも、「外国に攻められたら」と盛んに口にするのも、今国会で審議中の安保関連法案と関係ある気がする。

 ビジョンがないし、戦術もない。あるのはやたら出てくる、「志があるのか」ばかりだ。もうすぐ久坂玄瑞は「禁門の変」で死ぬから、これからどう展開していくのかと思う。『花燃ゆ』はハラハラドキドキしないが、この後のNHKBS『奇皇后』は同じ長編でも、韓国の歴史ドラマはかなり面白い。時代は14世紀で、中国・元朝の皇帝の皇后となった高麗女性の物語だ。今の北朝鮮も美人が多い地域らしいが、その当時の高麗は元と密接な関係にあった。

 主人公は高麗から元宮廷に差し出された女性だけれど、実際に勤勉で中国の歴史書にも通じていたようだ。権謀術策が渦巻く宮廷の中で、最後に皇后にまで登り詰め、我が子は元朝(北元)の皇帝となる。そんな波乱万丈の生涯だけれど、男と女の愛情、女同士あるいは男同士の憎悪など、大きなスケールの中で展開していく。権力を欲しいままにしていた宰相が奇皇后の仲間によって殺される時、「民の心は移ろうもの」と言い残すのも意味深い。

 このドラマの後は日本のホームドラマ『ボクの妻と結婚してください』。題名が変わっていたので初回を観てしまい、馬鹿馬鹿しいと言いながら昨夜の最終回まで観てしまった。テレビ局でお笑いものを手掛けてきた男がガンと宣告され、その死ぬまでをお笑い風に描いたものだ。お笑いだから最後は、「いや、誤診でした」とどんでん返しかと思ったが、意外に真面目に最後らしく普通に逝ってしまい、途中で眠くなってしまった。

 妻を愛した男がテーマらしいけれど、自分が死んでも妻を束縛するトンデモナイ男である。連れ合いのどちらかが逝けば、その先は残された者が決めることで、余計なお世話なのに、嫁にもらってよと画策するところがお笑いなのだが、これって抗議が来なかったのだろうか。まさか美談なって思ったのだろうか。

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辻井さんの子育て10原則

2015年06月14日 17時58分38秒 | Weblog

 地上30メートルの我が家のルーフバルコニーを夏模様に変えた。デイゴの赤い花、サルビアの赤い花が目立つ。暑い夏だからこそ真っ赤な花が似合うと思う。それでも、どこかに涼しげな青い花が欲しい。そう思って、今年はキキョウを植えてみた。多年草というからうまくいけば来年も楽しめるはずだ。けれども難敵は風で、大方の植物が強風のために枯れてしまう。

 「諦めない」と昨日、辻井いつ子さんは言っていた。親は誰もが我が子に期待する。しかし、よく考えれば、何を期待しているのだろう。出世して、金持ちになって、立派な人になって、「親を楽にさせてくれ」ということなのだろうか。私の母は、兄が祖父の養子になり家業を次ぐことになったためか、「お前だけが頼りだからね」とよく言った。両親の面倒は自分がみる覚悟が生まれたけれど、プレッシャーになっていたことも事実だ。

 いつ子さんは「伸行も私も調子にのるタイプ」と言う。「なんとかなるわよ、やってみればいいじゃーないの」と楽天的だ。ダンナが「リトルリーグで活躍したからって、プロにはなれない」と現実を直視し、「将来を考えれば、ピアノよりも資格を取る方が人生に有利」と言うけれど、「悲観するより前向きに」と夢を追ったと言う。こういうポジティブな母親だったから、天才ピアニスト・辻井伸行が誕生したのだろう。

 いつ子さんの子育ての10原則を書き出してみる。1)子どもの可能性を信じる。2)観察し、才能のタネを発見する。3)始めるのに「早すぎる」はない。4)思いっきりほめる、抱きしめる。5)ネガティブな言葉は使わない。6)ファン第1号になる。7)ひらめいたらすぐ行動。8)本物に触れさせる。9)いい先生を見つける。10)明るく楽しく、あきらめない。もうすぐ6歳になる孫娘と1歳になった孫娘を、親たちがこんな風に育てて欲しいと思う。

 昨日の講演会に一緒に行ってくれる予定だったお母さんもきっと子どもたちを伸び伸びと育てたいと思っていたことだろう。いつ子さんは講演の中で、出会いの大切さをあげていたけれど、人生は誰に出会うか、である。出会った人に感謝、感謝。

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辻井いつ子講演会

2015年06月13日 21時57分15秒 | Weblog

 小牧市まなび創造館で行なわれた、辻井いつ子さんの講演に行ってきた。辻井さんは全盲のピアニスト・辻井伸行さんのお母さん。初めての妊娠にウキウキしていたと言う。マタニティスイミングにも通い、出産に備えた。夫は産婦人科の医師だから心配することは何もなかった。初めて授乳させた時、どうしてこの子は目をつむったままなのだろうと異変に気が付いた。

 どう向き合えばいいのか、全盲の子を育てるマニュアルはどこにもない。障害のある人の本を貪るように読むしかなかった。そんな時、全盲ながら社会貢献している福沢美和さんを知り、カセットテープに思いを吹き込んで送った。家に遊びに行き、どう育てたらよいのかアドバイスが欲しいと話す。すると、福沢さんは「難しく考えないで。普通に育てればいいのよ」。これにはビックリしたと言う。

 普通の子と同じように、散歩したり走ったり水遊びしたり、それでいいのだ。どこへでも連れて行った。1歳になる頃、CDで音楽を聞かせるとすごく喜んだ。遊びで、日本の童謡なども聞かせた。ピアノの先生に家に来てもらい、ピアノで遊んでもらった。5歳の時、海の好きな伸行君を連れてサイパンへ行った。たまたま入ったショッピングセンターで、ピアノの自動演奏が流されていた。伸行君は「自分も弾きたい」と言う。

 お母さんは店の人にお願いした。自動演奏が切られ、ピアノに向かわせてくれた。そこで伸行君はリチャードクレイダーマンの『渚のアデリーヌ』を弾いた。館内にいた客が続々とステージの周りに集まってくる。演奏が終ると大きな拍手が沸きあがり、ハグする人、キスする人、「ブラボー」と叫ぶ人もいた。ピアノを弾いただけで、こんなにもたくさんの人々に喜んでもらえた。ここが原点だったように思うといつ子さんは言う。

 いつ子さんは子どもの時、ピアノで挫折した。ピアノが弾けないから、褒めることしか出来なかった。子どもはみんな可能性を持っているが、それは誰も分からない。分からないのに、ダメとかムリとか、親の方から子どもの可能性を潰していないだろうか。子どもは親に無条件で褒めてもらいたいのだ。頑張った70点なら充分だ。上から目線で言ってはダメ。やりたいことをやらせてあげる、それが親に出来ることといつ子さんは言う。その通りだと思う。

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救急車

2015年06月12日 19時02分04秒 | Weblog

 姉の見舞いに出かける日だったけれど、出かけることが出来なかった。出かける準備をしていた時、救急車がやって来た。近頃、マンションに救急車がよく来る。見ていると、私が出入りしている玄関の前で止まった。また、誰か高齢の人が運ばれていくのか、そう思いながら救急隊の動きを眺めていた。カミさんは胸騒ぎがしたのか、「ちょっと行ってくる」と飛び出していった。

 なかなか戻ってこないから、知り合いだったのだろう。しばらくすると戻ってきて、「すぐ、電話してあげて」と友だちの名前を言う。「あなたのケイタイにも登録してあるから、あなたから電話した方が説明も出来るよ」と答える。マンションで誕生日会をしている友だちで、心臓が悪いとは聞いていたけれど、まさか救急車で運ばれるとは私もカミさんも思っていなかった。

 「意識はあったけど‥」と言うが、カミさんはかなり動揺している。「一緒に救急車に乗っていった方がよかったかしら」と戻ってきてしまっているのに言う。ダンナの方に連絡できたが、言っているのを聞いていると支離滅裂だ。「今、救急車は出て行くところ。右の方へ行ったけど」。右とか左では聞いている友だちも分からないだろう。「右と言うと、北?」と私が聞くと、「そう、右」と言う。北なら市民病院だろうが、とにかくダンナの方からの連絡を待つより他ない。

 先日、カミさんがスーパーに買い物に行って、駐車場から出ようとしていると、信号も赤だったので男性が運転する車が止まってくれた。出ようとすると、そこへもう1台、高齢の男性が運転する車が来て、停車していた車にぶつかったそうだ。「自分のために止まってくれたのに、申し訳ないことをしてしまった」とカミさんは言う。

 私の追突事故といい、カミさんが目の前で見た事故といい、なぜか嫌なことが続いている。そう思っていたら、今度はカミさんが花屋の駐車場から出た後、右側を走行している。「オイオイ、右側だよ」と教えると、「あらっ」と自分でもビックリしている。高齢者の運転事故が多いのは、こういうことなのかと思う。友だちは幸いにも何事もなかった。月曜日にもう一度診察を受けると言う。

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アジサイとクチナシ

2015年06月11日 16時57分03秒 | Weblog

 友だちが、ひとりはクチナシを、もうひとりはアジサイを持って来てくれた。アジサイは白い小さな花がマリのような形のもので、余り見かけない品種だ。いただいていながら申し訳ないことに、やっぱりアジサイはブルーが一番とまた思ってしまった。今日のようにシトシトと降る雨には、青紫色のアジサイが似合っている。控えめだけれど、どこか凛として。

 アジサイは育てやすいのか、各家に植えられている。庭中がアジサイで満開という家もあった。余り陽が当たらない場所の方が鮮やかなのはどうしてなのだろう。我が家のルーフバルコニーのアジサイは、赤い色のものはよく咲いたけれど、ブルーのものはまだ咲かないばかりか花芽のないものまである。青紫色のアジサイを挿し木で増やしたいのに上手くいかない。

 クチナシは甘い匂いがする。小学校の庭にもあった。高校はクチナシの生垣で囲まれていた。文芸部の機関誌の題名は『くちなし』だった。大人になって、俳優の渡哲也が歌った『くちなしの花』を聞いた時、高校の生垣のクチナシを思い出した。「くちなしの白い花 お前のような花だった」。中学・高校と6年間、好きだった女の子のことのようだった。お姉さんが市長夫人になったくらいだから、それなりの家柄だと思う。

 3年生の冬に振られた時は「えっ、どうして」とよく分からなかった。やがて我が家は倒産し、やはり結ばれない家柄だったのだと思うようになった。中学の時の彼女は、お茶目で騒がしくちょっとヘンな女の子だった。くちなしのように色が白く痩せて小柄だった。高校生の彼女を狙っていた男子が結構いた。目がパチッとして、女生徒の中でも目立っていた。私が高校の教師になった時、偶然入った喫茶店で出会ったことがあった。連れと一緒だったが、中学・高校と同じだった男で、彼女が選んだ結婚相手だった。

 『くちなしの花』の歌詞とは逆に、幸せな人生を歩いたことだろう。知立神社の「花しょうぶ祭り」に合わせて、草木染の作品を展示していたがどうしているのかな。

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人間ほど恐いものはない

2015年06月10日 19時03分23秒 | Weblog

 愛知県刈谷市で悲惨な事件があった。刈谷は私が生まれ育った街、事件のあった逢妻川で泳いだこともある。私の子どもの頃は、逢妻川をドロ川と呼び、堤防を隔てた西側の境川を砂川と呼んでいた。逢妻川は黒く濁っていて水深が3から4メーター、川底は黒いドロで気持ち悪かった。これに対して境川の水深は30から40センチほどしかなく、水はキレイで川底は砂、シジミが獲れた。水遊びなら境川へ、泳ぐなら逢妻川だったけれど、逢妻川で泳ぐ者は余りいなかった。

 あの頃は貸しボート屋があって、夏の夕方はボートに乗る若い男女が結構いた。私も中学生の時、男友だちの何人かで出かけて行って、ボートで競争したこともある。川の先はすぐ衣浦湾で、引き潮の時は戻れなくなるから、よく知る人は川上の方へと漕いでいった。小学校5年の時のストライキ騒動の時も、この逢妻川の堤防を北へ向かって逃げた。高校生の時、夏の夜にこの堤防から見た光景が余りに美しく幻想的だったので、あなたは自分の美しさに気が付かないけれど、私はあなたがどんなに美しいか知っているという詩を文芸部の機関誌に載せたこともある。

 それにしても、川崎市の事件もそうだけれど、どうして子どもたちは暴力に走るのだろう。何人かが居合わせていながら、「もういいだろう」とか「やめよう」と言わなかったのか。いったん走り出すと、みんなが一番早い者についていこうとする。連合赤軍事件もオウム真理教事件も内ゲバ事件も、凶暴になればなるほど我が身を守るためにエスカレートしてしまう。人間ほど恐い動物はいないと言うが、本当にそう思う。

 今日の中日新聞の「読書かいわい」の欄に、『人びとはなぜ満州に渡ったのか』と『女たちの満州』が取り上げられていた。「日露戦争で満州に流された民族の血(領土・権益)をムダにするな」「日本の生命線を守れ」という主張が、国民を「大陸戦略の一環である開拓事業に動員し」「大陸の花嫁は国策のもとに強行されたが、自ら新天地を求めた面もある」という。この時もいったん走り出したらエスカレートする一方だった。自分を保つには勇気がいるが、流されないための自分になりたい。

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