友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

芸能人らも「#検察庁法改正法案に抗議します」に賛同する

2020年05月11日 17時59分50秒 | Weblog

 車を近くの自動車修理工場へ持って行った。コロナ騒ぎで閑散としているかと思ったら、車検の人などで混み合っている。道路もいつも通りの車両が往き来している。新型コロナウイルス禍で街に人は少なくなったとテレビは報じていたが、それでもいつも通りに働かなくてはならない人が大勢いるのだ。

 学校は相変わらず静かだが、テレワーク授業に向けて先生たちは毎日通勤して来ている。テレビ画面を通しての勉強なんか出来るのかと思うのは私が年寄りだからで、子どもたちはラインを使って既にやり取りしているから出来ないことはないようだ。世の中は変わっていく。働き方も価値観も変わっていく。

 変わらないものは何だろう。いや、変わらないものは無い。親子の関係も男女の愛も、そのあり様は変わってきたし、変わっていくだろう。時代は必ず新しいものを創ってきた。今はそういう時代なのだろう。コンピューターの頭脳は経験値の集積だから、新たなものは創り出せない。人がロボットを助けなくては、期待したようには動かない。

 「新型コロナウイルス禍の時に、家でじっとしていられない人たち」をマスコミは叩くけれど、何か寂しい気がしてしまう。もっと暗い気持ちにさせてくれたのは、芸能人らが「#検察庁法改正案に抗議します」に賛同を表明すると、「法案の中身も知らないくせに」とか、「黒幕に踊らされているのだろう」とか、批判する書き込みが現れたことだ。

 アメリカでは俳優や歌手が政治的な発言をしている。やっと日本も自由に意見表明出来るようになったと拍手するところなのに、上から目線でバカにしている。もし、法案に賛成ならその理由を書けばいい。私は民主主義の基本は三権分立と思うので、法案には反対だ。権力が集中しないと思い切った政策が実行できないというが、どんなに手間がかかっても、それで大きな損害が生まれても、みんなの意見が反映される方がいい。

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母は高校1年の夏に亡くなった

2020年05月10日 17時06分14秒 | Weblog

 母は私が高校1年の夏に亡くなった。中学3年の頃から、具合が悪いようだった。材木屋の倉庫を改造したかなり広い部屋を教室にして、洋裁や編み物を昼と夜に教えていた。仕立てを頼まれて、洋服や和服の縫物もしていた。休んでいた時がなかった。

 疲労から病気になったのかと思っていた。私の高校入学に合わせて、父は日当たりの良い一軒家を借りたが、それは母を休ませるためだった。けれど、母の具合は良くならなかった。やがて名古屋の日赤病院に入院し、手術を受けることになった。

 病名は胃癌だった。手術を受ければ回復するのかと思ったが、日毎に痩せていった。ふっくらとした顔だったのに、小さな顔になり、最後の頃は骨と皮だけ身体になっていた。夏休みは病院へ見舞いに通った。

 いよいよ最期という頃に、母の母であるおばあさんが見舞いに来て、「親のワシよりも先に逝くのは親不孝だよ」と泣いて呼び掛けていた。母は姉に、妹のことを「頼むね」と何度も言っていた。妹は中学2年になっていたのに、その時のことを話しても、「覚えていない」と言う。

 母の手作りの服を着て、学校へ行っていたことも、「覚えがない」と言う。どこにも居場所が無くて、嫌な時期だったのか、自分の記憶から消し去ってしまっている。随分可愛がってもらったのにと私は思うけれど、本人には楽しい思い出が無いのだろう。

 母が病室で息を引き取り、家に連れて帰ることになった時、ベッドから私が抱きかかえて降ろした。啄木の歌に「たわむれに母を背負ひてそのあまり軽さに泣きて三歩あゆまず」がある。私は力んで持ち上げたつもりだったが、余りの軽さにビックリした。そして、病室に戻った時、先ほどまで寝ていたベッドは白いシーツしかなく、涙が溢れて止まらなかった。

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自然に働きかける経験は必ず役に立つ

2020年05月09日 17時18分20秒 | Weblog

 午前10時頃、カミさんの友だちがスナックエンドウを持って来てくれた。せっかく足を運んでくれたのだからとカミさんは、「バラを見ていって」と言い、ふたりでルーフバルコニーに出てあれこれと話していた。部屋に戻る頃を見計らって、私はコーヒーを持って行った。

 友だちは連れ合いを亡くされ、ひとりで暮らしているから、コロナ禍の今は人との出会いが少ないので、「気持ちが落ち込んでいた」と言う。人には他愛もないおしゃべりの時間が必要なのだ。この後、新婚でふたりとも休みの孫娘が、「昨日のシャンパンはどうだった?」と聞いてきた。

 昨年暮れのオーストラリアでの結婚式の時、ホテルで出された祝いのシャンパンをカバンに入れて、「重い、重い」と言いながら帰国したが、ふたりは飲めないのでジジババにプレゼントしてくれた。仙台の次女が帰って来た時にと思っていたが、コロナ禍で帰れなくなったので、「誕生日祝いに飲むことにしたよ」と伝えたからだ。

 カミさんが感想を話した後、「明日は母の日だけど、ママに何か送った?」と訊ねた。おっとりした孫娘は、「エッ、何もしていない」と答える。「ママだけじゃなくて、ダンナさんのお母さんもね」と言うと、「彼もしたことないんだって」とのんびりした返事。「結婚を機に、送ってあげたら、喜ばれると思うわよ」とバアバらしいアドバイスする。

 夕方に畑仕事をしている友だちが野菜を持って来てくれた。玄関先での立ち話になってしまったが、「畑には子ども連れもけっこう来ている」と言う。こんな時だから、子どもに野菜の作り方を教えるのは良い機会らしい。「子どもらも喜んでやっているよ」と話しが弾む。

 野菜を作ったり、花を育てたり、木材を鋸で切ったり、産業が発達する前の人間の営みを体験させることは大事だと思う。コロナ禍で経済は縮小するだろうから、農業や漁業、林業のような自然に働きかける経験は必ず役に立つだろう。

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疑問に答えてくれなかった

2020年05月08日 17時43分23秒 | Weblog

 昨夜の満月は、フラワームーンというそうだ。4月7日の満月が明るく大きく見えたのは、地球との距離が近かったからだが、1ヶ月経てもそんなに違わないくらい大きく見えた。カミさんはスマホの腕を上げたようで、写真を撮っては友だちと送り合っている。

 ラインとかフェイスブックとか、使いこなせている人は盛んにやり取りして情報交換しているが、パソコンすら上手く扱えない私はブログで充分満足している。しかし、以前は写真を掲載するのに、大きさを変えたりできたのに、昨年秋にパソコンが壊れてからは四苦八苦している。

 花粉症の時期は終わったというのに、このところ鼻水がポトポト零れてくる。午前中はクシャミも多い。自衛のために身体が反応しているのだが、ティッシュが瞬く間に無くなってしまう。カミさんに、「クシャミする時は、よそを向いて」と怒られている。

 『高校生のための経済学入門』は読み終えた。目新しいものは何もなかった。需要と供給とか、市場メカニズムとか、高校の社会で習った内容のおさらいだった。アダム・スミスの「見えざる手」から何も進歩していないようだ。

 筆者は東大を卒業した経済企画庁の官僚だった人だから、政府の役割を強調し、「現実の政府の働きを具体的に検討し、悪いところを改善するしかありません」と結論付ける。私が知りたかった経済の仕組みを解きほぐすことにはならなかった。

 そもそも人はなぜ「お金を欲しがる」のだろう。なぜ、「儲け」ようとするのだろう。国家が経済を管理する社会主義経済は破綻したが、なぜ成功しなかったのだろう。私の疑問に答えてくれる入門書ではなかった。今日はカミさんの誕生日だが、外食は出来ないので何を作ろうか。

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あなたとの偶然の出会いは、私には必然だった

2020年05月07日 17時18分26秒 | Weblog

 五月晴れの空だが、秋の青空とはどこか違う。風が強くてバラの枝が大きく揺れている。私は部屋の中から、吹き荒れるルーフバルコニーを眺めながら後悔の念に駆られた。「天空の花園」を作ろうと、春にはチューリップを、夏から秋にかけてはサルビアを育ててきた。

 それだけでは飽き足らず、バラやアジサイ、ツバキやキンモクセイ、ミカンやディーゴ、その他にも花の咲く樹木を鉢植えで育ててきた。けれど、強風に煽られて悲鳴を上げている草木を見ると、申し訳なくなる。

 自分の満足のために、花たちにこんな残酷な目に遇わせてしまい、なんという勝手なことをしてしまったのかと思う。自己嫌悪から少しずつ鉢を減らしてきたが、目の前にあるこれらの花たちを思い切って処分できないでいることも確かだ。

 ジャスミンが風に揺られている。ジャスミンはフィリピンの国花で、花言葉は「永遠の愛」、漢字では「茉莉(マリ)」と書く。小説家・村山由佳さんの作品『天使の柩』の主人公の名前だ。フィリピン人の母は幼い茉莉を残して家を出て行ってしまった。

 息子を溺愛する祖母は嫁を憎み、いびり出したのだ。14歳の孫娘にも「いやらしい身体をして、お前には母親と同じ売女の血が流れている」と言い続けてきた。嫁に逃げられ父親は、娘の部屋にカギをかけてしまう異常な家族の中で、茉莉は絶望的に生きるしかなかった。

 村山さんは作品のなかで、「不幸なんてものは、こっちがどんなに準備してたって、それとは関係なく降りかかるもの」と言わせている。「個人と個人の出会いこそが人生において最大の可能性であり、希望である」(本書の解説)。あなたとの偶然の出会いは、私には必然だったのだ。

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日常と日常を超えるもの

2020年05月06日 18時09分01秒 | Weblog

 雷が鳴っている。けたたましい救急車の警報が近づいて来て、マンションの前で止まった。雨のせいなのか、今日はとても静かだと思っていたが、変わらない日常があった。朝、テレビを観て、本を読んで、昼食をとって昼寝し、起きてまた本を読み、夕方になってパソコンに向かう毎日だ。

 晩飯の時は必ず酒を飲むから、テレビを観て、後は風呂に入って寝るだけ。同じことの繰り返しだが、それ以上に望むことは何もない。飲んでからは何かを考えることはしたくない、と言うよりも出来ないから、カミさんが見ているテレビ番組を仕方なく見ている。

 『東大王』というクイズ番組を見ていたら、正解が多かった。「東大の入試が、こういうクイズだったら合格していたのに」と言うと、カミさんに「あなたのはただの雑学です」と叱られた。本質的で体系的な勉強は苦手だったが、どうでもいいことは意外に知っていたが、確かにそれでは合格は出来なかった。

 瀬戸内寂聴さんの『おだやかな部屋』と『高校生のための経済学入門』を、読み飽きたら取り替えていたら、『高校生の』の半分もいかないうちに『おだやかな部屋』が終わってしまった。瀬戸内さんの作品には経済学の視点はない。そればかりか、いったいどこで働いているのかも定かではない。

 女がどうして家庭のある男に惹かれているのか、そもそも惹かれているのだろうか、そんな自問を綴った小説だ。男が作家の井上荒野さんの父・井上光晴さんであることは、荒野さんの小説『あちらにいる鬼』の男とピタリと一致するから間違いない。

 友だちは「寂聴さんの作品は読まない」と言ったが、それは彼女が清廉で潔白を好むからだ。男から男へどうしようもなく好きになっていく女を受け入れられないのだ。瀬戸内さんの作品を読んで、描写がとてもうまいと思った。だから、「いったい何?」と思いながら、文章に引きずり込まれてしまった。

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安倍首相の記者会見

2020年05月05日 17時28分34秒 | Weblog

 

 ジャスミンの花が咲き、風が吹くと部屋の中まで甘い香りが漂ってくる。ジャスミンの周りにはアジサイの鉢を置いているが、私はこの時期のアジサイの葉が好きだ。生き生きとして若々しく活気に満ちている。花が咲きしばらくすると、日焼けしたのか赤くなる葉が出てくる。今はとても美しい。

 昨日、安倍首相の記者会見をテレビで観た。緊急事態宣言を31日まで延長する内容だったが、なぜか長々とした説明だった。14日をめどに専門家の意見を聞いて検討するとあった。目途を「もくと」と読むのは官僚用語のようだが、それはどうでもいいことで、何をどうしたいのか、どう考えているのか、さっぱり分からなかった。

 「責任を痛感」「お詫び申し上げたい」などと言われても、そんなことより、どうして感染拡大が収まらないのかが知りたいし、コロナの影響で収入のなくなった人や少なくなっている人に対する救援策を具体的に言って欲しい。「専門家の判断を仰ぐ」は当然のこととしても、だから何?どうするのかが明らかでない。

 その専門家会議は感染の広がりを長期的に防ぐため、「新しい生活様式」を上げているが、何が新しいのかさっぱり分からない。人との間隔は2mとか、体温を毎日測定するとか、マスクの着用と手洗いとか、「3密」の回避とか、既にみんなが取り組んでいることばかりで、ぜんぜん新しいことではない。

 テレビは今日も、海岸に人が多く出ているとか、スーパーで買い物する人が多いとか、公園で遊ぶ家族の姿を映している。なぜ、自粛している光景を映像で伝えないのか。違反者探しのような報道は止めて、こんな風に自粛生活していると取り上げて欲しいと思う。日本人は「右に倣え」と学習してきたから、効果は大きいはずだ。

 ツツジは真っ盛りなのに、子どもたちの元気な声が聞こえてこない。今日は「子どもの日」なのに。また、写真がおかしい。どうしたらよいのだろう。

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同級生新聞

2020年05月04日 17時20分14秒 | Weblog

 2年後に古希を迎える卒業生から手紙が来た。新型コロナウイルスのおかげで、孫のお守りで結構時間は潰せるが、土日やGWは時間を持て余しているので、「何かやること創らなきゃと思い」、同級生新聞をやり始めたと見本が同封されていた。

 いや、これは凄い。デザイン科卒なのだから出来て当たり前と思うかも知れないが、新聞を作るには記事が要るし、写真やレイアウトも大切な要素である。一度に全員は無理でも、出来るだけ多くの同級生に登場してもらわなければならないし、思わず笑ってしまう記事も必要だろう。

 そうか、あの子たちも2年後には古希か、そう思うとますます当時が懐かしくなった。団地にいた時、それから今の家に越して来てからも、よく我が家に遊びに来てくれた。同封された見本を見ると、一見しただけでは分からないほどみんな歳を取っている。

 あの子たちが15歳の時に出会い、もちろん卒業してからもクラス会をやってくれていたので、それなりの年齢の積み重ねを見てきたはずなのに、どうしても高校生の頃の顔を思い描いてしまう。ロックバンドが盛んで、バンドを組んでいた連中もいた。まだ、ロックギターの演奏は続けているのだろうか。

 溌溂と飛び回っていたあの子たちも、今は孫もお守りや親の介護で忙しいようだ。みんな苦労している。教師の私が極楽トンボでは申し訳ないが、年月の積み重ねがみんなを私よりもたくましい年寄りに育てたのだろう。そういえば、「今、自分史を書いている」と言っていた子もいた。当然パソコンで仕上げていると思ったら、「手書きで」と答えるので驚いた。

 70歳近くなれば、人は皆、それぞれの輝き方があるようだ。同級生新聞の出来上がりが待ち遠しい。

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いやに暗い国であるが、選択したのは私たちである

2020年05月03日 17時27分29秒 | Weblog

 大きく膨らんできたバラの蕾を見て回る。新しい芽の成長を邪魔している葉や黒点病になっている葉を取り除いてやる。夢中でやっていたらバラのとげで手を切った。「勝手に余分なことをするな」ということかも知れないが、これらの古い葉は、自分では懸命に葉を広げているつもりでも、新しい葉を阻害していることを知らない。

 今日は「憲法記念日」。中日新聞のトップに、国際政治学者の三浦瑠麗さんへのインタビュー記事が載っていた。三浦さんは私の長女より10歳年下だが、最近、テレビでよく見る。三浦さんは「『早く緊急事態宣言を』と求めたのは国民の側だった。太平洋戦争の時と同じ構図」と指摘する。「不安を感じている人々は、確たる方向を示して果敢な決断をする政治家を求める」からと。

 「感染症の流行期や戦争時は、誰もが新しい情報を求めて流言飛語に飛び付きやすくなる。政府にとっては、監視や独裁の強化しやすい局面と言える」と警告し、「自分たちの手で、権力の暴走に歯止めをかける制限を取り外そうとしているようにも映る」と言う。私も同感だ。異常なまでの他人批判はその土壌だろう。

 昨日の朝日新聞に掲載された、日本大学の蟻川恒正教授の『憲法を考える』はとても面白かった。タイトルは「脱法厭わね権力中枢 従う『配下』も共犯 法秩序ほとんど壊滅」とあり、『はだかの王様』に似た話で始まる。けれど、さる国の政治を取り仕切る最高責任者は、「法でできないことになっていることも、法を変更することもなく、できるようにします」とそそのかす詐欺師とグルなのだ。

 最高責任者の座に7年半も居座り、法の番人である検察や歴代の政府の法解釈を踏襲して来た内閣法制局を、人事で忠実な「配下」にしてしまった。法解釈を閣議で決める荒業すら行った。さて、「さる国」がどこか、分からない人はいないだろう。さる国の野党は揚げ足取りばかりで、問題の本質を追及できない。いやに暗い国であるが、選択したのは私たちである。

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年寄りの戯言なのか?

2020年05月02日 17時53分12秒 | Weblog

 冬物の下着では我慢できない暑さになった。バラの蕾は大きく膨らみ、もうすぐ真っ盛りを迎えるだろう。ジャスミンも明日には花を開き、甘い香りを放つかも知れない。我が家のルーフバルコニーは確実に初夏に向かっている。

 けれど、世の中は新型コロナウイルス禍でなぜか刺々しい。ニュースなど見なければ憂鬱な気分になることはないのだろうが、家に居ればテレビを観ない訳にはいかない。自粛のお願いを受け入れないパチンコ店、「店に入るな」と怒鳴る男は客や店員を写そうとして揉める。

 静かな駅舎と人出のある下町の商店街、観光地の駐車場は閉鎖され、道路に駐車の列が出来ていた。不安は恐怖を呼び、他者への攻撃がひどくなっている。子どもたちは無邪気に公園で遊んでいるが、それも受け入れられない大人がいる。

 「母からしつこく、『消えろ、消え失せろ』と大声で言われ、物を投げつけられた。これって虐待ですか?」と、子どもが相談している記事があった。夫とは1日のわずかな時間しか接点がなかったのに、今はズーと一緒にいるのでイライラするという投書もあった。お互い様なのに、どうしても相手に「非」を見てしまう。

 みんながイライラして攻撃的になっている。私は何時だって逝くつもりでいるからいいが、若い人たちはこれからも生きていかなくてはならない。感染しないか、生活していけるのか、いったい何時までこんな生活が続くのか、不安なことばかりでイライラが募るのも無理はない。

 どうしたらよいのか、名案は浮かばないが、ひょっとするとこれは大きな転機なのかも知れない。事態をしっかり受け止め、自分はどう生きるのか、考えるチャンスなのかも知れない。年寄りの戯言なのか?

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